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2016年10月 6日 (木)

欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という思想は、日本の國體を破壊する

 日本國體は、「一君万民・君民一体」である。天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体であるということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が國體に合致しない。

 

 「現行憲法」を国会で審議した時、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした曲学阿世の憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張し、今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されている。今日の多くの「憲法改正試案」もこの考え方に沿っている。

 

そして、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、先の今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。この規定が被治者である個々の国民が主権者であるかのごとき誤解を与えている。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。旧ソ連も共産支那も北朝鮮も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか個人専制恐怖政治が行わている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。「帝国憲法」ではこれを統治権という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

 

 国民主権ということが国民一人一人が主権者だとすれば、日本には一億二千万人に主権者がいることになり、国家の意思はばらばらで、あたかも精神分裂症患者のようなもので、国家としての体をなさない。

 

 西洋流の国家観によれば、君主主権と国民主権とは相対立するもので両立し得ない観念である。君主と人民との闘争に終始した西洋の歴史からすれば、これは当然のことと言えよう。西洋の国法学説は、この観点に立って展開されてきたのである。

 

 西洋の国法学説でいう主権とは、近代中央集権国家がフランスに初めて成立する過程において国王の権力の伸長を国内外に主張し、絶対王政を正当化するための理論的武器となったものである。それは「朕は国家なり」という言葉でも明らかな如く、国王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、国民は国王に信者の如く絶対服従するものとされ、国王と国民とは二極の対立概念として理解されているのである。

 

 西洋の国民主権論は、もっとも徹底した「反君主制」の理論として確立されたのである。そしてかかる反君主制の思想が、敗戦後戦勝国によって憲法の中に盛り込まれたのである。まさに國體破壊である。

 

 こういう史的・思想的背景を持つ西洋の主権概念は、日本国体とは絶対に相容れない。なぜなら日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって民族共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。天皇主権と国民主権を、氷炭相容れない対立関係と見るのは、西洋流の考え方に立っており、日本の伝統とは相容れない。

 

 我々がここで確認しておきたいことは、国民主権は決して人類普遍の原理ではないということである。前述したように、国民主権という考え方は国王・皇帝と国民が対立し抗争した歴史を持つ西洋諸国の考え方である。十七世紀のヨーロッパにおける国王と人民との争いの中で、ルソーが理論化した考え方が国民主権であるといわれている。国王の権力の淵源は国民の委託にあるのだから国民に主権があり、国民の意向に反する君主は何時でも打倒できるという考えである。

 

 主権という言葉は西洋の国法学の影響により、国家における最高の政治権力と一般に解せられており、権力至上主義の臭みが濃厚である。しかしこれは、わが国の歴史と伝統に全く相容れない。

 

 日本国は欧米の国家のような契約国家ではなく、信仰共同体であり、民族共同体である。日本天皇の統治の伝統は、神聖なる御存在であらせれる日本天皇の仁慈の大御心である。決して権力ではなかった。

 

日本國體の特質は次の二点に要約されよう。

 (一)、日本は建国以来天皇を中心として全国民が統合され、同じ運命、同じ使命を担う民族共同体・信仰共同体として生成発展してきたこと。

 (二)、天皇と国民との関係は、天皇の権力支配によって成り立っているのではなくて、君民一体、君民一如、一君万民の歴史的、精神的、倫理的つながりを不可欠の内容としていること。

 

 「現行憲法」や各種の憲法改正試案における国民主権は西洋的意味で用いられており、日本国体の道統と相反するものである。

 

 美濃部達吉氏はその著『憲法概論』において、国民主権を定義して、主権は国家意思を構成する最高の源泉であり、その源泉を国民とすると「国民主権」となり、この源泉を天皇とすると「天皇主権」となる、と論じている。しかし、日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ第一章に置くというのは、国体破壊・伝統無視につながる。

 

 「国民」とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統精神が法に根本規範を与える。即ち日本國體の基盤の上に成文憲法が成立するのである。

 

 「主権」は「なにものにも制限されることのない最高権力」であり、歴史のうちに蓄積されていく根本規範そのものにある、という考え方がある。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ない国民が主権を持つというのは衆愚政治への危険が伴う。

 

 伝統を貫き根本規範を完全に具現している人々という意味における「国民」ではなく、今日ただ今実際に生存している人々という意味における「国民」に主権が存するとする「現行憲法」や各種の憲法改正試案は、「多数参加にに基づく多数決」として民主主義方式が「多数者の専制」という名の衆愚政治へ堕ちていく危険に対して無警戒でありすぎる。

 

 天皇の御地位が、「国民の総意に基づく」とすると、天皇の御地位は現在における多数派の国民の意志に基づき、国民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位はいかようにでも左右できるという見解が成り立つ。

 

 憲法上の「国民」とは、「過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべて、そして日本の伝統精神の継承者としての国民」、「日本の伝統を貫いて存在し日本国家における根本規範を完全に具現しているものとしての国民」と定義し、現在生きている国民の多数派が日本の天皇中心の国体及び伝統精神を軽々しく踏みにじることないようにすべきである。

 一国の憲法はそれを構成する民族の伝統的規範意識を踏まえたものであることが不可欠の条件であるとされている。欧米の古い憲法が生きた憲法として欧米においては効力を持っているのに対し、欧米の憲法を真似て制定した新興国の憲法が画餅化しているのはこのためである。

 

 「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制され、制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しないし、通用させてはならない。

 

 日本國體は、天皇を永遠にして神聖不可侵の君主と仰ぎ一君万民・君民一体である。欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という思想は、日本の國體を破壊する。日本国の國體を正しく宣明した正統憲法を回復すべきである。

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