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2016年10月31日 (月)

沖縄における反基地闘争、反自衛隊闘争はまさに共産支那の軍事侵略に手を貸す行為である

 

共産支那=中華人民共和国は、アジア、否。世界最大の軍国主義国家であり、侵略国家であり、独裁国家である。

 

中国共産党の軍事委員会が共産支那軍の最高指揮権を握っている。日本で言えば、自民党の中に軍事委員会という組織があり、その主席は必ず自民党総裁が兼任し、自衛隊の最高指揮権を持っているという事だ。日本ではとても考えられない体制である。そして、これまでチベット・東トルキスタン・ベトナム・モンゴルなどを侵略してきた国、そして今日アジア全域において軍事的覇権を確立しようとしている国が共産支那なのである。『中華人民共和国』=共産支那こそ、正真正銘の軍国主義国家であり、侵略国家なのである。

 

北京・上海・広州など支那の各都市は、その都市の共産党委員会と市政府そして公安局が一つの建物にある。東京で言えば、自民党東京都連と東京都庁と警視庁が一つの建物にあるということだ。そして自民党東京都連会長が、都庁、警視庁の独裁的指揮権を握っているということだ。これを一党独裁という。

 

偏向マスコミ・亡国政治勢力は、こうした実態を知っているくせに、絶対に共産支那を批判しない。そして、わが國政府の防衛力整備を非難している。そして最近は、祖国防衛にとって重要な沖縄において、支那を利する反自衛隊闘争・反基地闘争が繰り広げられている。

 

蔡英文政権成立後、共産支那の台湾への軍事的・経済的・政治的圧力が強まっている。台湾が共産支那に併呑されたら、わが國の国家安全上重大な事態となる危険がある。

 

ただし、「中華人民共和国」がこのまま発展し続けるかというと、それは疑問である。経済的政治的に行き詰まり、瓦解すると見る人がいる。しかし、その過程で暴発し、台湾やわが國への軍事侵攻を行う危険もある。

 

ともかく尖閣諸島のみならず沖縄県への共産支那の軍事的攻勢、侵略策謀を徹底的に粉砕しなければならない。さらに、共産支那による台湾併呑を阻止しなければならない。そのためには、まず以てわが国内に巣食う親共産支那勢力を排除しなければならない。沖縄における日本共産党をはじめとする反基地闘争、反自衛隊闘争はまさに共産支那の軍事侵略に手を貸す行為である。

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千駄木庵日乗十月三十日

午前は、諸雑務。

午後一時より、谷中の上聖寺にて、『憂国烈士之碑追善供養の儀』執行。多くの同志・活動家が参集した。

この後、施設に赴き、母に付き添う。母は楽しそうに話していた。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2016年10月30日 (日)

いわゆる「差別語」について

売り言葉に買い言葉で思わず口走った「土人」という言葉が差別語なら、「白人」「黒人」は差別語ではないのだろうか。終戦直後、米兵の犯罪を報道する時、占領軍の報道規制により、白人兵を「色の白い大男」、黒人兵を「色の黒い大男」と書かなければならなかったことを思い出す。日本が支那の事を支那と呼ぶのを「差別だ」などと言うのもおかしい。「東シナ海」「南シナ海」という言葉は何ら問題無く使われているではないか。「支那」と言う言葉はもともと支那で使われていた言葉である。また、「チャイナ」を日本語で支那と言うのである。

 

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2016年10月29日 (土)

『第三回国民のコンサートー日本歌曲の夕べー』鑑賞記

一昨日鑑賞した一般財団法人東京藝術財団主催『第三回国民のコンサートー日本歌曲の夕べー』で、深見東州氏が歌った日本歌曲で特に感動した歌について記したい。

 

北原白秋作詞『この道』

「この道はいつか来た道

ああ そうだよ

 お母さまと馬車で行ったよ」

 

加藤省吾作詞『みかんの花咲く丘』 

「何時か来た丘 母さんと

一緒に眺めた あの島よ

今日もひとりで 見ていると

やさしい母さん 思われる」

 

この二曲を聞いて、母のことを思って胸迫るものがあった。母は今、高齢者の福祉施設で生活している。今年九十七歳である。若き日の母、と言うよりも、ほんの十年くらい前、母と一緒の上野寛永寺にお参りに行った帰り、母と一緒に鴬谷駅への道を歩いたことが思い出された。その後もその道を歩くことがあるが、歩くたびに元気だった母を思い出す。

 

高野辰之作詞

「秋の夕日に照る山もみじ

濃いも薄いも数ある中に

松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は

山のふもとの裾模樣(すそもよう)

 

溪(たに)の流に散り浮くもみじ

波にゆられて はなれて寄って

赤や黄色の色さまざまに

水の上にも織る錦(にしき)」

 

日本の歌曲には自然の美しさを題材にしたものがとても多い。この歌はその代表的な作品である。この歌を聞いていてすぐに思い出したのは、在原業平朝臣が詠んだ

 

「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」

(川面に紅葉が流れていますが)神代でさえこのようなことは聞いたことがありません。竜田川に流れる水を鮮やかな紅の色に染めあげるということは、というほどの意)

 

という歌である。この歌は、『百人一首』と『古今和歌集』に収められている。「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたる絵を描けりけるを題にてよめる」との「詞書」がある。

 

 

【ちはやぶる】神に掛かる枕詞。【竜田川】生駒山から発っし竜田山のほとりを流れ大和川に入る川。紅葉の名所で大和の「歌枕」。【からくれなゐ】唐の国から渡来した深紅色の染料。【くくる】絞り染めにすること。主語は「竜田川」で、擬人法。

 

屏風絵に描かれた真っ赤な紅葉が浮かぶ竜田川を、真紅の絞り模様の絹地をさらした様に見立てて詠んだ歌である。自然美と人工美を華麗に調和統一している。赤く揚げた鶏肉料理を「竜田揚げ」と言うのはこの歌から来ている。

 

「ちはやぶる 神代」という歌い出しも印象を強くする機智に富む。小生が二松学舎大學で『新古今和歌集』の講義を受け、さらに『まひるの会』という短歌結社でご指導をいただいた窪田章一郎先生はこの歌について、「業平は超現実的な不思議なことが多かった神代を時間的に空想している。…大きな規模と、繊細な美の表現は、二条后の御所を装飾する屏風の歌にふさわしかったのである」と評釈している。(『和歌鑑賞辞典」)

 

在原業平は、天長二年(八二五)―元慶四年(八八〇)。平城天皇の皇孫。行平の弟。兄たちと共に臣籍に降下し、在原姓を賜る。美男の誉れ高く『伊勢物語』の主人公のモデルである。歌と恋に生きた男性である。官歴は近衛将監、蔵人などを経て、従四位右近衛中将。

 

土井晩翠作詞『荒城の月』は、生前御厚誼をいただき、よくコンサートにも行った田谷力三氏がよく歌った歌である。

 

「天上影は替らねど

栄枯は移る世の姿

写さんとてか今もなお

嗚呼(ああ)荒城の夜半の月」

 

という四番の歌詞が好きである。

 

高野辰之作詞『ふるさと』は、三番の

 

「志(こころざし)をはたして

いつの日にか帰らん

山は青き故郷

水は清き故郷」

 

という歌詞が好きである。私は今生活している千駄木が故郷なので、故郷には毎日帰っているというか、毎日生活しているので、この実感はないけれども、青雲の志を抱いて故郷を出て、別の所で生活している青年の真情を良く表現していると思う。私の父は徳島から上京してきた人なので、この歌を歌ったり聞いたりすると、父の事が偲ばれる。

 

里見義訳詩『埴生の宿』は、

 

「埴生の宿も わが宿

 玉のよそい うらやまじ

 のどかなりや 春のそら

花はあるじ 鳥は友

おお わが宿よ 

たのしとも たのもしや

 

ふみよむ窓も わが窓

 瑠璃の床も うらやまじ

 きよらなりや 秋の夜半

 月はあるじ むしは友

おお わが窓よ

 たのしとも たのもしや」

 

という歌詞である。

 

深見東州氏は、「この歌には、人間の本質、世界観が歌われている」と語っておられた。あらために読んでみて、なるほどその通りと思った。経済的物質的な栄華よりも、自然の美しさ、自然のやさしさを尊ぶべしという,人として大切にしたい心が歌われている。

 

竹山道雄氏の作品で、映画や舞台になった『ビルマの竪琴』では、この「埴生の宿」が感動的な場面で歌われる。タイの国境付近の村で、日本の小部隊が何千というイギリス軍に囲まれた時、日本軍兵士が『埴生の宿』を日本語で歌うと、それを聴いたイギリス兵が英語で合唱するのである。この歌で心を通い合わせた日英両軍は、戦闘を止めたという物語である。私が大好きだった新国劇でも上演した。島田正吾が主人公の水島上等兵の役を演じた。最後の場面で、僧侶となりビルマに残る水島上等兵が、故国に帰る戦友たちに向かい『さよならー』と呼び掛けるシーンに感動した思い出がある。

 

「埴生(はにゅう)」とは、「粘土性の土の雅語的表現」で、「埴生の宿」とは「土で塗った、みすぼらしい家」のことという。

 

このコンサートでは、最後に舞台の正面に国旗『日の丸』が掲げられ、国歌『君が代』を全員で斉唱する。コンサートの最後に国歌が斉唱するのは深見氏のこのコンサートだけではないであろうか。まさに「国民のコンサート」である。

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千駄木庵日乗十月二十九日

午前は、諸雑務。

午後三時半より、池之端の東天紅にて、『青年思想研究会・先憂を偲ぶ会』開催。緒方孝明議長が挨拶。阿形充規・犬塚博英両氏、そして、小生が挨拶。丸川仁氏音頭で献杯を行い、盛宴に移った。最後に近藤勢一氏が謝辞を述べ、終了した。

2810

挨拶する緒方議長

帰宅後は資料の整理、原稿執筆など。

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西村眞悟氏の正論

西村眞悟氏の正論を紹介いたします。(西村眞悟の時事通信より)

 

天皇はGHQ憲法の枠外におられる

平成281018日(火)

 残念無念だが、この度の有識者会議は、GHQ憲法の枠内にある。
 では、その「憲法」とは何か。それは第一章第一条
 「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
 この地位は主権の存する国民の総意に基づく」
 従って、
 昨日の首相官邸での有識者会議の初会合の後、
 座長の今井敬氏曰く、
 「憲法上、天皇の地位は国民の総意に基づくとされていることを踏まえると、
 この問題のとりまとめには国民の理解が不可欠だ」
 これで、いいのか。

 そこで、尋ねる。
 その第一条は、
 ウソであり虚構ではないのか、と。
 昭和二十二年のGHQ憲法施行前に、天皇の地位に関して、何か国民投票でもしたのか。
 本年の伊勢志摩サミットで、
 主催国の安倍総理はG7首脳を何処に誘(いざな)った。
 それは、天照大神を祀る伊勢神宮ではなかったか。
 彼は、我が国の独善的な妄想・虚構の地にG7首脳を誘ったのであろうか。
 
 伊勢神宮に祀られる天照大神は、天皇の祖である。
 即ち、天皇の地位は、
 遙か太古に発せられた天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づき、
 以後、百二十五代にわたって祖霊を継承され今上陛下に至っている。
 このような天皇を戴く国家は、サミット参加国はおろか、世界にない。
 つまり、日本は万邦無比である(山鹿素行)。
 よって、安倍総理は、
 日本が日本となったこの天皇の祖霊の地に各国首脳を案内したのだった。

 ところで、
 憲法第一条は、何時、誰が書いたのであろうか。
 昭和二十一年二月の九日間の内のある日、
 我が国の歴史と伝統に無知なGHQのアメリカ人スタッフが書いたのである。
 これだけで、分かろうというものだ。
 悠久の彼方から伝わる天皇の地位を、
 外国人が昭和二十一年二月に書いた文書の枠内に嵌め込もうとするなど、
 無礼千万、滑稽千万である。
 屋久島の縄文杉を、狭い庭の盆栽の鉢に入れようとするよりも滑稽である。

 しかし、次の有識者会議のメンバーと安倍内閣は、
 本質から外れた鉢に入れようとするのではないか。
 今井 敬(経団連名誉会長)、御厨 貴(政治学)、木幡純子(行政法)、
 清家 篤(労働経済学)、宮崎 緑(国際政治学)、山内昌之(歴史学)
 これは一体、何というメンバーなのか。
 山内氏だけが歴史の専門で、あとは鉄業界の企業家と
 学校で政治学、行政法、労働経済を教えている人らだけで、
 宗教家、なにより神道家が皆無とは。
 そして、京大名誉教授の中西輝政氏を敬遠してメンバーに入れなかったことが、
 なにより雄弁に安倍内閣の意図と有識者会議のレベルを示している。
 安倍総理が有識者会議の初会合の挨拶で、
 「国家の基本に関わる極めて重要な事柄」
 と発言した割には極めてお粗末である。
 羊頭を掲げて狗肉を売る類だ。
 つまり、このメンバーは、天皇の主要なお仕事が、
 憲法六条と七条の、大臣の認証とかの「国事行為」であるという前提での「有識者」に過ぎない。
 しかし、天皇の最大の任務はこのような政務ではなく
 祭祀をみずから執り行うこと、
 即ち神事、祈り、である。
 このこと、
 次の「お言葉」を拝しても分からないのであろうか。
 「私はこれまで天皇の務めとして、
 何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、
 同時に事にあたりては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、
 思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。」
 順徳天皇(八十四代)、「禁秘抄」
 「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。朝夕敬神の叡慮、懈怠なし」

 昭和天皇御製
 「わが庭の宮居にまつる神々に世の平らぎを祈る朝々」

 そして、天皇陛下は、「お言葉」で、
 「国事行為を行うと共に」、
 「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、
 更に日々新たになる日本と世界の中にあって、
 日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、
 人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。」
 と言われている。

 その上で、天皇陛下は、
 「次第に進む身体の衰えを考慮する時、
 これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、
 難しくなるのではないかと案じています」
 との懸念を表明された。

 ここにおいて、陛下が言われる、
 「これまでのように全身全霊をもって果たしていく象徴の務め」
 が明らかになる。
 それは、「天皇として国民の安寧と幸せを祈ること」、である。

 以上の通り、この度の事態は、
 GHQのアメリカ人が書いた「日本国憲法」の想定していない射程外のことである。
 従って、今為すべきことは、「GHQの憲法条文」をひねくり回すことではなく、
 歴史家と国学者と神道界が総力を挙げて、
 謹んで天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づく我が国の皇位継承の歴史を探究し、
 そのなかに皇室の在り方を見いだすことではないだろうか。

 

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皇室の尊厳性をお護りする体制も法律も整備されていない

 日本國存立の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず國家の危機である。

 

  大東亜戦争の敗北後、占領軍によって行われたいわゆる「民主化」そしてその後続けられた左翼革命勢力による國家破壊策謀は、今日の日本の國を亡國への道を歩ましめている。その最大のものが、「天皇の尊厳性の破壊」という策謀である。

 

天皇を中心とした日本國の國柄を破壊せんとする勢力は、天皇及び皇室への國民の篤い尊崇の心を破壊し、皇室の尊厳性・神聖性を失わしめるために巧妙にして陰湿な画策を益々活発化させている。

 

「週刊新潮」「週刊文春」などの週刊誌が、皇室の御事について色々書いている。こうした記事は、いかなる意図によって書かれるのであろうか。真に皇室のご安泰とご隆昌を願って書いているのであろうか。私にはそうは思えない。やはり購読部数の増加を目的としていると思う。つまり営利のためにご皇室についてあることないこと書き立てているのだと思う。

 

文藝春秋社、新潮社は、わが国を代表する出版社である。この二社は全体として、その論調というか、編集方針・出版方針は、わが国の出版社の中では、良識的でありまともであると思う。しかるに、週刊誌にこうした記事を載せるということは本当に困ったことである。

 

亡國勢力による皇室批判、というよりも皇室への罵詈讒謗・悪口雑言の根絶に最大の努力をしなければならないのは政府及び宮内庁である。ところがその宮内庁はその役目を十分に果たしていない。というよりも、戦前の宮内省と比較すると今日の宮内庁の権限は大幅に縮小されているし、皇室の尊厳性をお護りする法律も整備されていないので、果たせる状況にないのである。

 

今日、藩屏(注・皇室を守る垣根。皇室を守護する存在)が不在だと言われている。天皇・皇室を反國體勢力から守るだけでなく、皇室を利用し奉ろうとする政治家からもお守りする役目を果たすのが真の藩屏であると思う。

他の官庁のトップを退職した元官僚の宮内庁長官は、政治権力者と対等にものを言える立場ではない。中曾根内閣の後藤田正晴官房長官と富田朝彦宮内庁長官の関係はその典型であったと思う。こうしたことが、皇室の政治利用が行われる原因である。天皇陛下の側近が政治家に顎で使われるようでは、皇室を政治権力からお護りする事は出来ない。

戦前は、「元老」「重臣」が、輔弼の臣として天皇をお助けし、内大臣、宮内大臣、宮中顧問官もいた。また枢密院もあった。戦前の宮内大臣は、伊藤博文・田中光顕・牧野伸顕など総理と同格あるいはそれ以上の人物が就任した。これらの人々は総理と同格あるいはそれ以上の人々で、政治家に顎で使われるなどということはなかった。だからこそ、皇室の藩屏の役目を果たすことができた。

つまり戦前は、天皇・皇室をお護りし輔弼する態勢がしっかりと整えられていたので、天皇・皇室が、政治権力者によって利用されるなどということはまずなかったのである。

 

戦前の宮内省は大宝律令以来の歴史と伝統を有し、宮中・府中の別が確立され、時の政府から独立した存在であった。

 

宮内省には,宮内大臣のもと、大臣官房・侍従職・式部職・宗秩寮・諸陵寮・図書寮・侍医寮・大膳寮・内蔵寮・内匠寮・主馬寮・総務局・警衛局のほか,外局として内大臣府・掌典職・皇后宮職・東宮職・皇太后宮職・帝室会計審査局・御歌所・帝室博物館・正倉院管理署・帝室林野局・学習院・女子学習院・李王職があり,地方機関として京都地方事務所が置かれていた。

 

戦後、占領軍は、皇室制度の弱体化を進めた。その顕著な例が、宮内省の宮内庁への格下げである。「現行占領憲法」のもと、内閣総理大臣の所轄の機関となった。これに伴って職員も大幅に削減され,六千人以上の職員がいた職員も千人程度になった。さらに、元老、重臣、内大臣、宮内大臣、宮中顧問官、枢密院、近衛師団。侍従武官、などはすべて廃止された。

 

戦後体制からの脱却は、憲法・教育・国防のみならず、皇室制度においてこそ実現されなければならない。宮内庁の省への昇格と、機能と権限の強化が望まれる。そして戦前のように、宮中・府中の別が確立されなければならない。宮内大臣には、総理経験者と同等以上の人が就任すべきである。また、元老、重臣、内大臣、宮内大臣、宮中顧問官、枢密院、近衛師団、侍従武官なども復活すべきである。皇室の権威を本来の姿にお戻しすることが何よりも大切である。 戦後体制打倒は、國體に関わる重大事であり、喫緊の課題なのである。

 

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千駄木庵日乗十月二十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、上野にて、永年の同志二氏と懇談。意見交換。

帰宅後は、資料の整理、書状執筆。

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2016年10月28日 (金)

「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない

宮沢俊義氏(故人・憲法学者、東大教授)はその著『憲法略説』(昭和十七年。岩波書店)で「大日本帝国は萬世一系の天皇永遠にこれを統治し給ふ。これわが肇国以来の統治体制の根本原理である」「国家固有・不変な統治体制原理は国家成立と共に存するのであり、成文法の規定を俟ってはじめて存するのではない」「憲法第一條等の規定はすでに存するわが国家の根本原理を宣言したもので、創設的意味をもつものではない。…國體の原理は帝国憲法または皇室典範によって基礎づけられてゐるのではなく、反対に帝国憲法または皇室典範が、従ってまたわが国法の全体がそれによって基礎づけられてゐると考ふべきである」「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要しない。皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。臣民の公議に付すべきにあらず。それは帝国議会の参与が許されぬことを意味する。ここで帝国議会の参与が排斥される理由について、『憲法義解』はその憲法第七四條の註において『皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。而して君民相關かるの権義に非ざればなり』といひ、さらに皇室典範第六二條の中において『皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり』といってゐる。」と論じてゐる。

 

戦後、『皇室典範』が『憲法』の下位法になり、皇位継承といふ皇室の重大事が権力機構である国会で決められしてまふやうになったのは國體隠蔽である。戦後、占領軍におもねって変節した宮沢氏も終戦前においてはそのようなことを論じてゐたのである。

 

皇室の事柄を政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家を、政体が國體を規制する事となる。これは國體破壊であると言っても言い過ぎではない。

 

三潴信吾先生は、その著『日本憲法要論』において、「世界中で、成文憲法が先に出来て、然る後に国家が成立した國は一つも無い。国家生活の根本事実が出現し、これと同時に、またはその後の時点に於て、憲法典が制定される。」「日本においては明治二十三年十一月二十九日の大日本帝国憲法施行の日まで、成文憲法は無かったが、何人も、その故を以て、それまで日本国家が成立して居なかったと見ることは出来ない」と論じておられる。さらに皇室典範について、「(現行の・註)皇室典範は…宮務法としてではなく、憲法の下に従属する政務法の一つとして新『皇室典範』が『皇室経済方』の如き法律と共に制定された…皇位継承の事項が法律事項となり、例へば商法の会社法などとも同列に置かれたことは大問題である。皇位継承の事項を、…一般法律の改正手続、即ち、単純多数決(過半数)を以て改変できる事となってゐる。即ち、皇位に関する事項を単なる政治問題として国会の論議に委ねてしまったのである。」と論じてをられる。

 

「皇位継承」「『皇室典範』改定」は、日本國家を體現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治問題とは全く性格を異にする。また、皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。

 

ゆゑに権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などといふ議論は全く間違ってゐる。日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の體現者であらせられる天皇の御意志の第一にすべきである。

 

明治の『皇室典範』は、明治天皇が裁定され、制定された。即ち勅定である。議會や政府が定めたのではない。皇室に関はることは、なべて大御心に俟つべきである。一切は大御心のまにまにが、臣下國民のあるべき姿勢である。

 

國體の上に成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。したがって、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の国柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣()べられた事が最高の「法」である。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。「詔勅」は神の御意志なのである。

 

「皇位」は「天津日嗣の高御座」と申し上げる。これは、「高天原にゐます天照大御神の靈統を繼承される御方の座される高い御位」といふほどの意である。まさに神聖不可侵の「御位」なのである。その神聖なる御位=「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない。あくまでも天つ神の御意志・神代以来の傳統に基くべきである。そして神の御意志・肇國以来の傳統の體現者は、上御一人日本天皇であらせられる。天つ神の地上におけるご代理=現御神であらせられ、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。これが一番大切である。いかなる権力者であらうとも、いかなる立場の者であらうとも、臣下が議論して決めるべきではない。

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千駄木庵日乗十月二十七日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

午後六時半より、初台の新国立劇場にて、一般財団法人東京藝術財団主催『第三回国民のコンサートー日本歌曲の夕べー』開催。深見東州氏が、日本歌曲を熱唱。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年10月26日 (水)

『日本の名誉と国益を守る緊急提言の集い』における登壇者の発言

七月八日に開催された『日本の名誉と国益を守る緊急提言の集い』における登壇者の発言は次の通り。

加瀬英明氏「二日後の参院選は憲法違反。アメリカが現行憲法を押し付けた時、二十四人が七日間で書き上げた。『これを呑まないと、天皇の安全を保障することはできない』と強要。これは悪質な強要。六十九年間後生大事に抱いて来たのは情けない。アメリカの草案は一院制だった。日本側が二院制にして欲しいと懇願。アメリカの草案をそのまま翻訳したので、第七条第四項には『天皇国事行為』について『国会議員の総選挙の施行を公示すること』とある。国会議員は総選挙によって選ばれるということ。だから参議院議員選挙が行われるのは憲法違反となる。押し付け憲法である大きな証し。迷走し続けてきたのが日本。世界の中で、日本はどこの国よりも核武装する必要と権利がある。『日本は無条件降伏した』と書かないと教科書検定に通らない。今年は、岸信介生誕百二十年。不平等条約であった日米安保を対等の条約に近づけようとした。憲法改正の道筋をつけたかった。吉田茂は憲法に手を付けなかった。吉田ドクトリンの呪縛を解くべし」。

鈴木信行氏「名誉・国益・憲法・主権を語るのが国政選挙。しかしそれを正面から語る人はあまりいない。拉致事件こそ最大の国家主権侵害。これを語らない人は政治家としての資格なし。専守防衛という手枷足枷を前線の自衛隊にかけているのは政権の無責任。大使館の前に慰安婦像が建てられているのは日本の名誉がすたる。政治家には国家主権と国益を守る責務がある。『日本第一』をスローガンに掲げて進むべし。自立独立を目指し、核武装を進める。戦後日本は被害の歴史。北方領土・竹島・海底資源が取られている」。

宮崎正弘氏「世界で起きているのはトランプ現象。世界情勢は地殻変動を起こしている。トランプの言っていることは殆ど矛盾しているが、イギリスに伝播した。『蓮』の付く人は田中真紀子以来のバカ。アメリカは変化している。イタリア・スペインがEUから出る可能性あり。イギリスでもスペインでも分離独立が起きないとは限らない。ソ連も分裂した。中国も七つに分裂する可能性あり。『日本は核武装してもいい』とトランプは言っている。これで日本は覚醒する」。

杉田水脈氏「慰安婦問題で国連に行って活動した。西村眞悟先生に勝ってもらいたい。日本の技術力は世界一。韓国や中国は日本と同じような技術力を持っていないので日本を貶めるプロパガンダをやっている。日本製品の不買運動をする。『日本の電化製品、自動車が売れなくなると日本経済は委縮する』と有権者に言わないと、慰安婦問題を分かってくれない。有権者に伝わらない。日本は海外に金をばらまいている。中国の植林に百億も出している。中國韓国へのご機嫌伺いの政治家は駄目」。

西村眞悟氏「近頃の若者はまんざらでもない。大阪で開催された『高校生未来会議』で私が『参政権は国を守ることと不可分一体と心得よ。祖国が危機に直面した時には戦え』と主張したらを高校生が一番評価した。東シナ海・南シナ海はわが国の生命線。断乎として守る。シーレーンを断固として守る。伊勢皇大神宮の内宮に各国首脳が集った。世界への文明的発信。日本の根源の姿を世界首脳に見せた。安倍総理の功績。公明党は加憲であり改憲ではない。無効が危機を克服する。改正では間に合わない。『大日本帝国憲法』を改正したのが『日本国憲法』。『大日本帝国憲法』の改正規定によって改正すべし。『日本国憲法』の『(天皇の地位は・注)主権の存する日本国民の総意に基く』という規定は嘘。天皇の御地位は天照大神の御神勅による。『日本国憲法』の『前文』には歯の浮くような理窟が書かれている。『日本国憲法』を制定したのは日本人ではない。『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とあるが、これほどの嘘があろうか。また人権規定こそ子供の教育を駄目にした。家のことを考えるな、親兄弟のためにつくすな、親の面倒を見るな、というのが今の憲法の人権規定。無効論が必要。超法規的措置をとるべし。安倍晋三の『晋』は高杉晋作の『晋』。自衛隊のミサイル基地を魚釣島に配備すべし。敵機が侵入して来たらためらうことなく撃墜すべし。大公共事業は軍備増強と教育。軍備増強は経済を活性化させる」。

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千駄木庵日乗十月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。楽しそうにしていたので安心する。

帰宅後は、原稿執筆。

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四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十八年十一月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十八年十一月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十八年十一月号(平成二十七年十月二十日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

絶對尊皇精神について

絶對尊皇精神は太古以来の傳統である

 

楠正成・本居宣長・竹内式部の絶對尊皇精神

 

日本國存立の基本は、現御神日本天皇の御稜威と日本國民の尊皇精神である

 

現御神日本天皇の「大御心」「勅命」(みことのり)が絶對にして最高の法である

 

一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることがわが國における最高の道義

 

捨身無我の絶對尊皇精神が日本人の道義精神の極地である

 

千駄木庵日乗

川村純彦氏(川村純彦研究所代表・元海将補) ロシアは今も最新のミサイル潜水艦をオホーツク海に入れてある。對アメリカ、對中國防衛のためである。ロシアがこの戦略を捨てない限り北方領土返還はない」

 

トーマス・ピートライ氏(元米國連邦下院議員、共和党・ウィスコンシン州選出)「普通のアメリカ國民には苛立ちはあっても日本の重要性を理解している。日本との関係に満足している」

 

デニス・ハーテル氏(元米國連邦下院議員、民主党・ミシガン州選出)「トランプの抬頭は、アメリカの政治の劣化。トランプには外交アドバイザーがいない。嘘と歪曲で固めたスピーチをしている」

 

黒田勝弘産経新聞ソウル駐在客員論説委員「韓國が困った状況になると日韓関係は良くなる。日本と喧嘩している暇はなくなる。今の韓國はそういう状況」

 

この頃詠みし歌

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2016年10月25日 (火)

天照大御神の御心である「清明心」が日本民族の外来文化・文明包摂の精神

太古以来の日本民族の精神的特性は、「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」である。

 

中村元氏は「日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。」(『日本人の思惟方法』)と論じてゐる。

 

「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」とは、中村氏のいふ「与へられてゐる環境・条件をそのまま肯定する思惟方法」とかなり近いものがあると思ふ。

 

「与へられてゐる環境を素直に肯定する思惟方法」が、天地自然を人間と対立する存在ととらへず、天地自然を神としてまつり拝ろがむ信仰生活を生んだと思はれる。それは日本の天地自然が麗しく温和であり人間に大いなる恵みを与へる存在である事による。麗しく豊かな自然に恵まれた日本民族は、現世を肯定し、明るい太陽の下で生きてきた。日本民族は本来明るく大らかな民族である。

 

明治天皇御製

 

あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな

 

「清明心」をうたひあげられた御製と拝する。大らかな広々とした心が「清明心」である。私心をまじえず眞澄のやうに清らかな心、それが日本人の本来の心である。

 

「清明心」は、佛教思想の影響が強まった中世になる「正直」といふ言葉になった。『早雲寺殿二十一カ条』(室町後期の武将北条早雲の教訓書)に「こころを直にやはらかに持ち、正直憲法にして…あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持、持仏冥慮にもかなふと見えたり」と記されてゐる。

「正直の心」は、ありのままなる心・素直な心である。つまり清明心の中世的における表現である。

 

日本民族は、「もののあはれ」といふ美感覚を持ってゐる。「あはれ」とはうれしいにつけ、楽しいにつけ、悲しいにつけて、心の底から自然に出てくる感動のことばである。

 

「もののあはれ」とは、物事にふれてひき起こされる感動である。知的興味とは違った何かに深く感動することのできる感じやすい心のことである。自然・人生の諸相にふれてひき出される素直なる感動の心である。理論・理屈ではない。「清明心」「正直の心」を美感覚の世界における表現が「もののあはれ」といへる。

 

本居宣長に次のやうな歌がある。

 

事しあればうれしかなしと時々にうごく心ぞ人のまごゝろ

 

この宣長の歌について、村岡典嗣氏は「この眞心こそは、やがて古神道に於ける清明(あか)き心、中世神道における正直の觀念の發展せるものに外ならない。彼(註・宣長)が一切の偽善や作為をあくまでも斥け、その見地から儒教を攻撃したのもこの立場からである。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

宣長にはまた次のやうに歌がある。

 

眞心をつゝみかくしてかざらひていつはりするは漢(から)のならはし

 

宣長のいふ「からごころ」は、日本人本来の素直なる心・清明心・もののあはれとは正反対に位置するといふことである。

 

先人は「正直」「清明心」といふに本人の中核精神が「三種の神器」の一つである「鏡」に象徴されると信じた。

 

北畠親房は、『神皇正統記』で「鏡は一物をたくはず私の心をなくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがって感應するを徳とす。是正直の本源なり」と説いてゐる。

 

「清明心」は、鏡の心であり、太陽の心であり、天照大御神の御心である。この精神が、「主体性」を喪失せずに「無私」の態度で一切を包容摂取するといふ矛盾と思へるやうなことを為し得て来た原因であると思ふ。

 

「鏡」は、天照大御神の『神勅』に「吾が児、この寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るが如くすべし」と示されてゐる通り、天照大御神の御霊代(れいだい・みたましろ)である。

 

また、仲哀天皇が筑紫に進軍された時、筑紫の県主・五十迹手(いとて)が『三種の神器』の意義を天皇に奏上した言葉に「白銅鏡の如くにして、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」(『日本書紀』「仲哀天皇紀」)とあるやうに、鏡のやうに明らかに山川海原を統治されるお方が、天照大御神の「生みの御子」であられせられる日本天皇なのである。

 

「鏡」は天照大御神の広大無辺の御慈愛と曇りなき御心を表象する。天照大御神は、素盞鳴尊が悪い行為をされても、それを良く解釈された。それが太陽の明るく大いなる生命=天照大御神の御神徳である。見直し聞き直して、相手を生かされるのが天照大御神の御心である。それがまさに、日本民族の外来文化・文明包摂の心である。

 

阪本健一氏は、「天照大御神の御神徳は、弟神素盞鳴尊に対する思いやり、見直し、聞き直しの御寛容であり、下からすれば人の児の母胎に宿るが如き、何の不安もなき、絶対帰依の本尊である。」(『明治維新と神道』)と論じてゐる。

 

わが国外来文化・文明を大らかに受容したのは、我が國の建国の過程が外国の侵略即ち異民族間の武力闘争によるのはなく、祭祀的統一であったことによる。しかもその祭祀的統一とは、前述した通り、天地自然を神と拝ろがむきはめて平和的な信仰を「核」としてゐる。大國主命は、須佐之男命の御子孫であらせられ、須佐之男命は天照大御神の弟君であらせられる。

 

日本民族は天地自然を神として拝ろがみ祭ってきた。ゆゑに日本の神々は素盞鳴尊のやうに時に猛威をふるはれることはあっても、一神教の神のやうに「妬み」「裁き」の神ではない。

 

日本民族の包容性は、母胎が生命を摂取し包容するがごとく柔軟であり寛容である。しかしそれは柔軟であり寛容であると共に自身も強靭な生命力を有してゐないと不可能である。天照大御神の「聖胎」はすべてを包摂し聖化する。

 

それと関連させて申せば、皇位継承・皇室典範改定に関する議論で「種」とか「畑」といふことを論ずる人がゐるが、女性天皇が御子を胎内に宿されることを、馬や牛と同じやうに論じることに身の毛のよだつのを覚へる。天皇は、天照大御神の生みの御子であらせられ現御神=天照大御神と同一の神格を有せられる神聖なるご存在であらせられる。

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千駄木庵日乗十月二十五日

午前は、諸雑務。

 

午後十二時半より、大手町のパレスホテル東京にて、「東京国際大學 第5回 国際シンポジウム」開催。倉田信靖東京国際大学理事長・學長が主催者挨拶。
高村正彦氏(衆議院議員)基調講演。ジョセフ・ナイ 氏(ハーバード大学教授)、ヴァリ・ナッサー 氏(ジョンズ・ホプキンス大学教授)、岡本行夫 氏(外交評論家)が講演。この後、パネルディスカッションが行われた。

 

ホテルにはSPが沢山来ていた。フィリッピンのドゥテルテ大統領が、日本在住フィリピン人との交流行事のためにこのホテルに来るようだった。

 

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆。

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『現行占領憲法』の「天皇条項」について

『現行占領憲法』第一条には「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本國民の総意に基く」と書かれてゐる。

 

「日本國及び日本國民統合の象徴」といふ規定の意味はきはめて限定的である。「象徴」といふ言葉は、天皇の空間的統一性・統合性をある程度表現してはゐるが、天皇の歴史的傳統性・時間的連続性は全く表現されてゐない。言ひ換へると、「象徴」といふ表現は、日本天皇は何ゆゑ國家國民を統合される御存在であるのかといふ意義が示されてゐない。

 

天皇は、日本國及び日本國民の歴史と傳統、そして日本國民の過去・現在・将来にわたる傳統的な普遍意思を体現される存在である。天皇が日本國の統治者・君主として仰がれてきたといふ事實と、天皇が日本國の歴史と傳統そして國民の普遍意志の体現者である事實とは、不可分の関係にある。

 

『現行憲法』の「天皇は象徴である」といふ規定は、この不可分の関係を無視し、あはせて日本傳統信仰の最高祭祀主としての天皇の地位と権能を否定してゐる。「天皇の御地位」は果たして何を根拠としてゐるのかが全く示されてゐない。

 

つまり、「日本國及び日本國民統合の象徴」といふ言葉には、『萬葉集』柿本人麻呂の長歌の「やすみしし わが大君」(四方八方をたいらけくやすらけく統治される)といふことはある程度表現されてゐるが、「高照らす 日の皇子(みこ)」(天照大神の生みの御子)といふことは表現されてゐないのである。

 

『現行占領憲法』は経過的暫定の制度として、いはゆる「天皇制」を承認し、やがてはこれが廃止をせんとした戦勝國の意図を反映したものだから、かかる規定になったのでらう。

 

三島由紀夫氏は、天皇のご本質について「天皇は、われわれの歴史的連続性、文化的統一性、民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴」(『反革命宣言』)「われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すもの」(『反革命宣言補註』)「國と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇」(『文化防衛論』)と論じてゐる。

 

天皇が、日本國及び日本國民を統合される御存在であるのは、天皇が歴史的傳統性・時間的連続性を継承され体現される御存在であるからである。『現行占領憲法』第一条の規定は、天皇の歴史的連続性・傳統性を否定し、天皇の尊厳性を隠蔽してゐる。「日本國の象徴」「日本國民統合の象徴」といふ規定は、天皇のご本質の半面しか表現してゐないのである。

 

『現行占領憲法』は最も大切な大日本帝國憲法の第一条から第三条までの成文化された國體法を抹消した。『占領憲法』は、『大日本帝國憲法』には無かった「國民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 

そして、日本の國體に全く合致しない「國民主権論」といふ西洋の悪しき普遍主義に毒されてゐる。西洋成文憲法というのは、専制支配者であったイギリスのジョン國王とそれに対立する貴族との間で結ばれた契約である『マグナカルタ』が起源である。そして「國民主権論」は、専制國王ブルボン王朝を打倒したフランス革命から発した思想である。

 

日本國においては神と國と民とがその根源において一体なのである。そして神と國と民とを精神的に統合し一体化する御存在が天照大神の生みの御子であり、君主であり、祭り主であらせられる日本天皇なのである。

 

ところがキリスト教の神話においては神が最初に創造したものが人間であるとされてゐる。「創造する」といふことは創造者と被創造者との間は絶対的に隔絶しているといふことである。しかも神によって創造された人間は原罪を背負ふ。神と隔絶し原罪を背負った罪人である人間同士が契約を結び、かつその罪人である人間の中で武力・権力が優越してゐる者が君主となって國を治めるといふのである。

 

故に、國家は人工的な存在であり本来罪を背負ってゐる。また本来罪人である國民同士の信頼関係は希薄である。君主も國民を力で強制することによって國家を治めるのである。このキリスト教の國家観・人間観が西洋國家法思想・法思想の根幹となってゐる。

 

だから国家と国民、君主と国民は契約を結ばねばならない。その契約書、言ひ換へると「権力の制限規範」が「憲法」といふことになるのである。『現行占領憲法』かかる思想が基盤になってゐるのである。

 

日本天皇の御本質そして日本國の本質とは全く異なる西洋から発した思想を基本原理としてゐるのが『現行憲法』なのである。國民主権・主権在民論は、祭祀主日本天皇を君主と仰ぐ君民一体のわが國體を隠蔽する規定である。一日も早く『現行占領憲法』の無効を確認し、日本國體に則った正しき憲法を回復すべきである。

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千駄木庵日乗十月二十四日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2016年10月24日 (月)

祖国愛と日本国家

 

愛國心・祖國愛は、枯渇することなく脈脈と民族の魂と共に傳えられる。自國を愛する心が絶えてなくなってしまふなどといふことはあり得ない。そしてそれは、國家民族に危機が迫ると、激烈に燃え上がる。外國からの圧力・干渉を排して國家の独立を維持せんとする意志・精神・及び運動は、運命共同體意識と言い換えても良いと思う。これは、國家民族の危機の時に澎湃として沸き起こってくるごく自然な感情である。危険だとか排外主義だとか言って否定すべきではない。

 

愛國心・祖國愛は、歴史意識・傳統信仰と深く結びついてゐる。というよりも不離一體である。自己の意識の中に民族の歴史を蘇らせることによって、愛國心・祖國愛が形成される。

 

國家的危機に際會した時、それを撥ね退けんとしてその國民がその國の歴史意識・傳統精神を根底に置いて運命共同體意識を結集し、勃興する精神と行動が愛國心・祖國愛である。

 

民族の傳統と歴史を國民一人一人の精神の中で甦らせ、自己の倫理観・道義感の基本に置くことによって民族の主體性が形成される。わが國の愛國心・祖國愛は、わが國伝統精神・道義観念と一体であらねばならにない。そして、わが國の伝統精神の体現者が、上御一人日本天皇であらせられる。「尊皇愛国」の精神が日本人の倫理観念の基本である。

 

筧泰彦氏は次のように論じている。「英語のネイションといふ語は元ラテン語のntioの複数形であるntionesに由来してゐます。それは『生まれたもの』を意味してゐますが、しかし西欧ではそうしたネイションはステイト(State)とは別物であります。ステイトは『国家』と訳されていますが、これは権力団体であります。これは全く人為的に作り上げたものにすぎません。日本国家はさうした人為を基にしたものではなく自然に生れ出たものであます。日本の国家は、同一の血縁とその意識が土台になってゐますが、家や氏族といふ様な狭い血縁のみの共同体ではなく、同一の土地や、同一の言語、同一の風俗習慣など、特に歴史的・文化的伝統を一つにする人々の一体であります。さうした大生命の具現たる國の上に、それに基づいて権力的・統一的な組織たるステイトが構築されている国家で、大生命を具現している国家なのであります。現在の歴史世界が始まって以来、その自然の一大生命を枯らすことなく保持して来ました。」(『日本語と日本人の発想』)と。

 

三島由紀夫氏は次のように論じている。「私は統治的国家と祭祀的国家とあると考えて、近代政治学の考えるネーションというのは統治的国家だけれども、この統治的国家のために死ぬということはぼくはむずかしいと思う…もう一つネーションというものは祭祀的な国家というものが本源的にあって、これは管理的機能あるいは統治機能と全然関係がないものだ。ここにネーションというものの根拠を求めなければ、私は将来守ることはできないのだという考えを持っている。それと文化、これはごく簡単に考えればラショナル(注・合理的、理性的)な機能を統治国家が代表して、イラショナル(注・非理性的、非合理的)なイロジカル(注・非論理的)な機能はこの祭祀国家が代表している。ほくの考えるよき国家というのは、この二つのイロジカルな国家とロジカル(注・論理的)な国家が表裏一体になることがぼくの考えるいい国なんですよ。…天皇でなければだめなんです。どうしても祭祀国家の大神官いがいなくちゃならんですね。」(村上一郎氏との対談『尚武の心と憤怒の抒情』所収)と。

 

この二つの文章には、「ステイト」「ネイション」といふ言葉についての捉え方に違いがある。しかし、日本国の「祭祀共同体としての国家」と「権力機構としての国家」との関係が論じられてゐる。

 

『大日本帝国憲法』は第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という条文は、祭祀国家・自然に生まれ出た国家としての日本のことが書かれている。第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という条文は、筧氏の言う「権力団体としての国家」、三島氏の言う「統治国家」における天皇の権能が書かれている。『大日本帝国憲法』第一條の「統治ス」とは、権力行為ではなく、三島氏の言う大神官即ち祭祀国家日本の祭祀主としての御権能のことである。

 

祭祀共同体としての国家は國體であり、権力機構としての国家は政体であると理解して良いと思われる。『大日本帝国憲法』は、國體と政体を正しく分けて、第一條から三條は「國體」が書かれ、第條以下は「政体」が書かれている。

 

麗しき國日本は、村落共同體から出発して、次第にその範囲を広め、日本という國家を形成した。その本質は、地縁・血縁によって結ばれただけでなく、稲作生活から生まれた祭祀を基本とする傳統信仰によって結合している共同體である。その信仰共同體の祭り主が天皇(すめらみこと)なのである。故に日本という國とはいかなる國であるかと問われれば、「天皇中心の信仰共同體である」と答えるのが正しいのである。

 

我々日本人が理想とする國家とは、麗しい天皇中心の信仰共同體とこれを統治する政治機構が包含され一體となったものである。    

 

國家が、暴力装置・支配と被支配との関係の機関的存在であるとして扱われ、國家に對する愛が薄れ共同體意識が無くなりつつある現代において、このことを正しく認識することは非常に重要であり最大の課題である。

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2016年10月23日 (日)

千駄木庵日乗十月二十三日

朝は、諸雑務。

この後、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には、明日お届けできると思います。

この後、今日行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京シビックセンターにて、『第六十七回日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が、「天皇国日本の本質と祖国愛」と題して講演。活発な質疑応答、討論が行われた。

帰宅後は、原稿執筆。

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日本國家・日本傳統文化は、人類の理想の日本における顕現である

 麗しき國日本は、村落共同體から出発して、次第にその範囲を広め、日本という國家を形成した。その本質は、地縁・血縁によって結ばれただけでなく、稲作生活から生まれた祭祀を基本とする傳統信仰によって結合している共同體である。その信仰共同體の祭り主が天皇(すめらみこと)なのである。故に日本という國とはいかなる國であるかと問われれば、「天皇中心の信仰共同體である」と答えるのが正しいのである。

 

 我々日本人が理想とする國家とは、麗しい天皇中心の信仰共同體とこれを統治する政治機構が包含され一體となったものである。    

 

 國家が、暴力装置・支配と被支配との関係の機関的存在であるとして扱われ、國家に對する愛が薄れ共同體意識が無くなりつつある現代において、このことを正しく認識することは非常に重要であり最大の課題であると言える。

 

 今日、グローバリズムという言葉があるように國家とか民族を軽視あるいは否定する傾向が現れている。しかし、世界・地球・人類に共通して存在する思想・精神は、それぞれの國家・民族固有の思想・精神として発現する。言語一つとって見てもしかりである。世界共通語などというものは本来存在しない。各民族・各國にそれぞれ特有な言語すなわち國語がある。英語が世界で通用している便利な言葉だからといって、英語だけに世界の言語が統一されることはあり得ない。

 

 一定の共同體を形成する人々に共有される言語、生活様式、倫理観を総称して「文化」というのであり、固有の文化を共有する人々のことを「民族」と言うのである。

 

 言葉は文化そのものである。國家・民族は共通の言語(國語)を使う者によって成立する。各國各民族の國語を基礎とし言葉と一體である文化は、各民族・各國家特有のものとして創造され継承されてきている。各民族・各國家の固有の文化を否定することは、世界の文化・地球の文化全體を否定することになる。

 

 和辻哲郎氏は、「人倫の實現は、個人がいきなり抽象的な人類の立場に立つことによって、なされ得るものではない。それは個人がいきなり人類語を話そうとするようなものである。人倫は常に一定の形態を持つ共同體において、すなわち家族とか民族とかの形態において、實現される。」(近代歴史哲學の先駆者)「絶對精神がただそれぞれの特殊な民族精神としてのみ働くということ、すなわち特殊的形態において己を現わすのではない普遍的精神というごときものは抽象的思想に過ぎぬ。…真の絶對者はあらゆる特殊相對をも己とするものでなくてはならない。…生ける主體的全體性が特殊的民族的となることなしに活動したことは、かつて一度もなかったし、またあり得ぬであろう。」(続日本精神史研究)と論じている。     

                        

 人間は、民族とか國家とかを離れて存在するものではない。必ず何処かの民族に属し何処かの國の國民である。抽象的な世界人類というものは存在し得ない。血統・風土・地域性・言語・歴史・傳統・文化というものを離れた人間などというものは存在し得ないからである。

 

 日本國家・日本傳統文化は、人類の理想の日本における顕現なのである。天皇國家日本の真姿顕現こそが世界的理想國家・真の自由なる國家の建設である。日本國に日本民族として生を享けた誇りと喜びを回復しなければならない。       

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千駄木庵日乗十月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、明日の講演の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』発送準備など。

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2016年10月22日 (土)

「第六十七回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

下記の会合が開かれます。

ご出席をお待ち申し上げます。

 

四宮正貴拝

        〇

 

第六十七回日本の心を学ぶ会

 

「愛国運動と愛国心を考える」

 

最近、自らを保守主義者・愛国者であるという自覚を持つ人が増えているようです。

書店には、日本を賛美する書籍や、それとは逆に中国・韓国を批判する書籍が溢れております。

街頭では運動が活発化しており、毎週のようにデモや街宣が行われております。

一方、こうした運動への批判もまた活発化しております。これらの運動が排外主義であり、人種差別の扇動であるという批判です。その批判の高まりは、「ヘイトスピーチ規制法」として結実し、デモや集会への規制という形で全国に拡大しております。

わが国を侵略せんとする外国勢力、わが国内において反日運動を繰り広げる者どもに対して厳しい糾弾を行うのは当然です。しかし、そういう運動は、単なる外国人差別の扇動や排外主義ではありません。

国家の独立と尊厳を守り、日本国家の永遠の隆昌と繁栄を実現することこそが保守運動・愛国運動の目的と言えるでしょう。

そしてその根底にあるのは祖国愛であり、尊皇精神であります。

そこで、今回の勉強会では、保守運動・愛国運動の意義と目的、そして運動の原点である祖国愛、さらには、国家とは何か、民族とは何か、ということについて、あらためて考えてみたいと思います。

 

(今回の勉強会は最終日曜日ではありません。日時をお間違えないようご注意ください)

 

【日時】平成二十八年十月二十三日 午後六時

 

【場 所】文京区民シビックセンター 三階会議室A

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

 

「天皇国日本の本質と祖国愛」

 

講師 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395 

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2016年10月21日 (金)

會津藩の悲劇と尊皇精神

日の御子の 御影仰ぎて 若桜 散りてののちも 春を知るらむ

 

飯沼貞吉

 

白虎隊(會津藩校日新館の生徒)自刃は戊辰戦争における悲劇である。自刃の地・會津飯盛山には、白虎隊士・十九人の墓がある。隊士の墓の近くに、この歌が刻まれた歌碑が建てられてゐる。

 

この歌は、白虎隊士の中でただ一人命を取り留めた飯沼貞吉が、大正十三年(一九二四)に、当時皇太子であられた昭和天皇が白虎隊士の墓を親拜されたことに感激して詠んだ歌。

 

「白虎隊士の墓を親拝された日の御子(皇太子殿下)のお姿を仰いで、まだ若桜だった白虎隊士は、桜の花が散る如く散華した後であっても、やっと春を知ったであらう」といふ意。

 

飯沼貞吉は、嘉永七年(一八五四)三月二十五日に生まれた。會津戦争の時、白虎隊士となった貞吉は、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが、死にきれずにいたところを、救出された。維新後は、逓信省通信技師となり、日清戦争に陸軍大尉として従軍(大本営付技術部総督)。昭和六年(一九三一)二月十二日、七十七歳で亡くなった。

 

飯沼貞吉は、昭和三年(一九二八)、旧會津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄氏の長女・節子姫が、昭和天皇の弟君・秩父宮雍仁親王殿下とご結婚されたことを奉祝して次の歌を詠んでゐる。

 

「祝 節子姫

よろこびを かはすことばに どよむらん  いいもり山の苔の下にも」

(ご結婚の喜びを交はす言葉が響いてゐるであらう。白虎隊士が眠る飯盛山の苔の下にも)といふ意。

 

「朝敵」の汚名を蒙った松平容保の孫であられる節子姫が、皇室に嫁がれたことを白虎隊士の御霊も心の底から喜んでゐるであらうといふ歌である。

 

妃殿下は、貞明皇后の御名「節子(さだこ)」との同字を遠慮し、「伊勢」と「會津」から一字づつ取り「勢津子」に改めたと承る。

 

飯沼貞吉のこの二首の歌はどちらも、戊辰戦争によって會津藩が蒙った「賊軍」「朝敵」の汚名が晴れた喜びの心を美しく歌ってゐる。

 

秩父宮雍仁親王殿下・勢津子妃殿下御成婚の時は、會津の人々は「朝敵の汚名が晴れた」と提灯行列をして歓喜した。

 

會津藩最後の藩主松平容保は、幕末期に京都守護職に任じられ、朝廷の御守護と皇都の治安維持の大任を仰せつかった。孝明天皇の御意志は、「公武一和」(朝廷と幕府が相和し國難に当たること)であった。

 

文久三年(一八六三)に起きた「八月十八日の政変(急進的尊皇攘夷論者の公家及び諸藩士たちによる討幕計画が失敗した事件)」が沈静した後、孝明天皇は、京都守護職・松平容保に、

 

「堂上以下暴論を疎(つら)ね、不正の処置増長につき痛心耐へ難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し憂患掃攘朕が存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右壱箱を遣はすものなり」

との御宸翰と

「たやすからざる世に、武士の忠誠のこゝろをよろこびてよめる

 

 和(やは)らぐもたけき心も相生のまつの落ち葉のあらず栄へむ

 

 武士(もののふ)と心あはしていはほをもつらぬきてまし世々のおもひで」

 

との御製を賜った。

 

松平容保は討幕を呼号する薩摩長州土佐などの志士たちを厳しく取り締まった。このことが深い恨みを買ひ、戊辰戦争において、會津藩が恭順の意を表した後も、新政府軍に攻撃され、會津若松城は落城し、松平容保は、各地流謫の難に遭ふ。

 

容保はこの御宸翰と御製を収めた筒を、明治二十六年(一八九三)五十九歳で亡くなるまで、首に懸けて離すことはなかったといふ。

 

明治維新といふ大変革の歴史の流れにおける悲劇と言ふほかはない。松平容保は、孝明天皇の深い御信任を得てゐた。ところが、薩長など維新を推進した側から見ると、松平容保による新撰組などを用いた徹底弾圧は許し難い出来事だった。

 

しかし、一君萬民・萬民和楽の國體であるわが日本は、何時までも、一部地域に「朝敵」「逆賊」の汚名を着せたままにすることはなかった。昭和天皇の白虎隊士の墓御親拝、秩父宮同妃両殿下御成婚はそれを象徴してゐる。そのことを喜んだ飯沼貞吉の歌も會津人の「尊皇精神」を象徴してゐる。

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千駄木庵日乗十月二十一日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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萬葉古代史研究會のお知らせ

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 十一月九日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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日本国は「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一された

 日本国の統一は、分立してゐた地方の共同体勢力がともどもに日の大神=天照大御神の権威を承認することによって成就した。日の大神の御子である「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一したのである。日本各地から太陽神祭祀の象徴である鏡が数多く発見されてゐる。

 

太陽神=天照大御神をお祭する祭り主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理・神聖なる御存在=現御神として仰がれるやうになった。信仰共同体・日本国の〈生きた全体性〉は天照大御神とその地上的御顕現であらせられる現御神日本天皇によって体現される。

 

古代日本における日本国の統合は、軍事力が全く使用されなかったといふことはなかったとしても、基本的には祭祀的統合・結合が基本であった。古代日本の地方共同体が稲作生活を基本として交流し、共同を確かめ、稲作生活に必要不可欠な太陽を神と仰ぐ信仰を共通の信仰としたのである。そして天照大御神を最高神と仰ぐ共同体・日本国として統一された。それが天皇国日本の成り立ちである。

 

日本は米作り・稲作文化を基本とする國である。「天孫降臨神話」に示されてゐる通り、日本国の君主・統治者たる天皇のご使命は、瑞穂を盛んに稔らせることである。太古において稲作文化は、九州から本州へと急速に広がったといはれる。稲作文化を営むことによって、わが日本民族は共通の意識・文化・言語・倫理観・信仰をはぐくんでいった。日本民族は遊牧・牧畜・狩猟を生活の基本とする民族とは基本的に異なるのである。

 

稲作生活は、一人では営むことができない。共同作業である田植へ・刈り取りを中心としてゐる。共同体の形成なくして稲作生活は営めない。祭祀を基本とする共同体が形成されたのである。

 

稲作生活はまた、規則正しい四季の変化に則って作業を行ふ周期的繰り返しの生活である。故に、自然の影響が大きい。そこで穏やかなる自然環境を願ふために、自然を神として崇め、神を祭り神に祈ったのである。

 

南九州に置ける稲作生活を基本とする祭祀的統一体が西に進み、大和を中心とする祭祀的統一体に発展した歴史を物語ったのが、神武天皇の御東征であるとされる。

 

伊勢の神宮に奉斎されてゐる神鏡が、崇神天皇の御代に皇居からお出ましになり、大和笠縫の地に奉斎され、ついで垂仁天皇の御代に伊勢に奉斎されたと傳へられてゐるが、この事は、天照大神が皇室の御祖先神であらせられると共に、日本民族全体の祖先神・御親神であらせられることを示したと思はれる。

 

『記紀』の神話は、かうした神聖なる宗教的統一が行はれた日本国生成の物語が語られてゐる。

 

柳田國男氏は、「皇祖が始めてこの葦原中つ國に御入りなされたときには、既に國土にはある文化に到達した住民が居た。邑に君あり村に長ありといふのは有名な言葉で、彼等は各々その傳統の祭りを續けて居たと思はれる。それが幸ひなことには、互ひに相扞格(かんかく。お互ひに相手を受け容れないこと・註)するやうな信仰ではなかったのである。天朝はそれを公認し又崇敬なされて、いはゆる天神と地祇との間に何の差等をも立てられなかったこと、是が國の敬神の本義であり、國民も又範をそこに求めて、互ひに他の氏ゝの神祭を尊重したことは、國初以来の一大方針であったらう…それが互ひに隣を爲し、知り親しむことの深きを加ふると共に、少しづゝ外なる神々の力を認めるやうになりかけて居たといふことが、欽明天皇の十三年、新たに有力なる海外の一種の神(仏教の事・註)を迎へ入れんとした機縁を爲したかと思はれる。」(『氏神と氏子』)と論じてゐる。

 

これはきはめて重要な論述である。日本国は各地方の共同体・村落の祭祀を廃絶し滅ぼして宗教的統一を達成したのではなく、各地方の共同体・村落の祭祀が統合され平和的に包容されて日本国といふ天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体国家が生まれたのである。

 

日本国は、外来の民族が先住民を侵略し滅亡させて建国されたのではない。それは大和朝廷の「信仰・祭祀」と出雲・三輪山・葛城山など数多くの地方共同体の「信仰・祭祀」との関係を見れば明らかである。

 

日本傳統信仰たる神社神道を一般の教団宗教と同一視して、「政教分離の原則」をあてはめることはまったく日本の傳統にそぐはないことなのである。全国津々浦々隅から隅まで神社があり、鎮守の神様が祀られてゐる。日本は神社国家と言って良い。

 

宗教的祭祀的権威による国家の統一とは、これを迎へる民にとっては、日の大神の来臨であり、豊饒と平和とをもたらす神の訪れであった。古代における天皇の各地巡幸と国見の行事はその継承であらう。

 

ともかく日の神を祭る祭祀共同体が我が国の起源であり本質である。権力・武力によって統一されたり建国された國ではないのであるから、欧米の諸国家とはその成り立ちが全く異なるのである。故に、欧米国家観によって我が國體を規定してはならない。

 

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千駄木庵日乗十月二十日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年10月20日 (木)

宗教について

宗教は、人類の苦悩を救い、安穏をもたらすことを使命としているはずです。これまでの人類の歴史において、宗教は多くの人々に希望を与え、平和をもたらしたことは事実であります。 しかしその一方で、宗教が原因となった対立・闘争も激しく行われて来ました。そしてそれは今日においてもより激しさを増しています。一神教同士の対立は言うに及ばず、インドとパキスタンの対立はヒンズー教徒いう多神教とイスラム教という一神教の闘争です。佛教も、おとなしいとは言えません。近世初頭には一向一揆というのがありました。最近では、オウム真理教は仏教系の宗教でした。創価学会は、敵対者・離反者に対してすさまじい攻撃を繰り返しています。

 

これまで、宗教戦争で死んだ人々の数は計り知れないものがあると思います。宗教というものは、愛と赦しを説きますが、反面、呪詛や迫害も行うのです。宗教の怖さというもの、悪魔的側面を、我々は充分認識していなければならないと思います。

 

私も、高校時代・大学時代に生長の家に所属して、活動をしていましたので、自分の信ずる宗教教団そしてその教祖を絶対視する精神構造・心理状態というものを経験しました。反対者に対する憎悪というか、反発心というものが非常に強くなるのです。特に同じ教団に所属していたにもかかわらず違う生き方をするようになった人への憎悪はより激しいものとなります。近親憎悪であり、裏切り者・背教者への憎悪です。愛を説き、慈悲を説く宗教教団が、全くその逆の憎悪・排撃の心を駆り立てるのです。生長の家は、創始者の孫で三代目を継いだ人が、教祖の教義を改竄し隠蔽し、そのことを批判する人々はたとえ兄弟姉妹と雖も教団から追放しました。

 

「灯台もと暗し」という言葉があります。灯台のすぐ下は光に照らされないので暗いという意味でしょう。「人のことばかりしていて、自分のことを省みない」「坊主の不信心」「医者の不養生」「論語讀みの論語知らず」と同じ意味で用いられる言葉です。生長の家の創始者谷口雅春師は、「七つの灯台の点燈者の神示」という神示を神から受けたとされている。その灯台は人類を救う光という意味が込められています。

 

ところが谷口雅春師の実の孫にして教団の三代目を継いだ谷口雅宣氏は、生長の家の教えの根本であり、その「七つの灯台の点燈者の神示」に示されている「天地一切のものと和解せよ」「汝の父母に感謝せよ」「汝の兄弟と和解せよ」ということが全く実践できないのです。三人の実の兄弟そしてその配偶者を教団から追い出し、裁判沙汰にまでなり、最近は、実の母親即ち谷口雅春師の一人娘の方まで、四国の次女のもとに去りました。

 

根本的教義を全く実践できない人が教団の後継者となっているのです。こうしたことを「灯台もと暗し」と言うのでしょう。一教団のことではありますが、かつては愛国運動を活発に繰り広げていた教団であり、小生がかつて熱心に活動していた教団であるのであえて書かせていただきました。

 

曽野綾子さんによると、その宗教が本ものかどうかを見分ける方法は、次の通りであると言っています。

 

「(一)教祖、指導者が質素な慎ましい祈りの生活をしているかどうか。

(二)自分が生き神さまだとか、仏の生まれ代わりだとか言わないかどうか。

(三)宗教の名を借りて金銭を集めることを強要しないかどうか。

(四)宗教団体の名で、選挙と政治を動かすような指令を出さないかどうか。

この四つが正しく守られていれば、それは恐らくまともな宗教であろう」(曽野綾子氏著『自分の顔、相手の顔』)

 

この四つの尺度を厳しくあてはめれば、今日の日本の新宗教・新新宗教の殆どは「本物の宗教」「まともな宗教」ではないということになりましょう。

 

戦前・戦後・そして現代にかけてわが国に一体何人の救世主・生き神・生き仏が出現した事でしょうか。そしてその多くの教祖たちは一般庶民と比較するとはるかに裕福な生活をしていました。全く選挙運動をしなかった教団は少ないし、強制的に金品を収奪する教団も多いと思います。

 

それでも、入信し、活動している人々がそれで満足し、幸福感を味わっているのなら、それでいいのかもしれません。しかし、曽野氏の言う四つの事が余りにも度が過ぎている宗教、国家社会に害毒を及ぼす宗教はやはり良くないと思います。

 

私は、信仰心・宗教心とは、敬神崇祖の心が基本であると思います。日本伝統信仰たる神道そして先祖伝来の宗教を信仰することが大切であると思います。具体的に言えば、地域の産土の神社と先祖代々の菩提寺に眠る祖霊への感謝・報恩の心が基本であると思います。その上で。多くの宗教者の説いてきたことを学び、生活に生かすべきであると思います。ある特定の教団の教義や教祖・指導者を絶対視することは危険でありますし、それが今日までの宗教戦争の根源にあるものだと思います。

 

 

 

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千駄木庵日乗十月十九日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』の発送準備。原稿執筆。

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2016年10月19日 (水)

現御神日本天皇の「大御心」「勅命」が絶対にして最高の法である

天皇陛下の「お言葉」を拝して、恐懼に堪へないのは、陛下が『現行憲法』の規定に対して深く軫念あそばされてゐることである。畏れ多いことながら、戦後、天皇陛下そして皇室は『現行憲法』のいはゆる「象徴天皇制」の制約下に置かれてきてゐる。

 

わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主であらせられる。祭祀國家日本の祭り主であられ、現御神であらせられる日本天皇、そして皇室は、「近代成文法」、況や戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約を受けることがあってはならない。

 

「近代成文憲法」は、西洋の法思想・國家観がその根底にある。「國王といへども法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想である。これは、「國家は権力機構である」「憲法は権力の制限規範である」「國王と人民は対立関係・支配被支配の関係にある」とする西洋の國家観・法思想に基づく考へ方であって、天皇を祭り主と仰ぐ祭祀國家たるわが國には通用しないし、通用させてはならない。

 

わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を國民に傳へる「のりごと」である。「法(のり)」は「宣(のり)」である。天皇の上に「法」があるのではなく、天皇の宣命(みことのり・おほせごと・大御心)が即ち「法」なのである。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅命」が絶対にして最高の法である。

 

また、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治問題ではない。即ち決して『現行憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や成文法によって、天皇を規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。

 

わが國においては、成文法があって國體が成立するのではない。國體の上に成文法が成立するのである。

 

天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。従って、今回の天皇陛下の「詔」「勅命」は、臣下國民が従ひ奉るべき絶対の「法」である。

 

安倍晋三内閣総理大臣をはじめわが國の政府・政治家はこの事を正しく認識し、陛下の大御心にこたへ奉るべきである。

 

繰り返し言ふ。成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇國日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇國日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。天皇の「詔」「勅命」「大御心」が最高最尊の「法」である。

 

 

「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

 

「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治問題ではない。即ち決して『現行憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や成文法によって、天皇を規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。

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千駄木庵日乗十月十八日

朝は、諸雑務。

午前十一時半より、日暮里のホテルラングウッドにて『呉竹会幹事会』開催。頭山興助会長が挨拶。報告、討論などが行われた。休憩の後、小生が「玄洋社及び来島恒喜氏』と題して講演。

この後、谷中霊園の来島恒喜氏の墓所に参拝。ご冥福を祈る。

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この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日のスピーチの準備、原稿執筆など。

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2016年10月18日 (火)

今こそ『大西郷の精神』に学ばなければならない

 「征韓論」という歴史用語は大きな誤解を生んでいる。明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の韓国・北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

 

 西郷隆盛は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

 

 西郷は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。西郷の主張及び目的は、「没落士族を『外征』によって救おうとした」などという侵略主義では断じてない。

 

 葦津珍彦先生は、「彼(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっいない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲したとき、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

 大久保利通や岩倉具視が、西郷らの対韓外交論に対して横車を押し反対したのは、西郷や江藤新平など(いわゆる留守政府)からの権力奪取のためである。岩倉・大久保にとって、彼らが洋行中に明治新政府が西郷・江藤らによって牛耳られてしまったことが我慢ならなかった。もし、「西郷遣韓」による韓國外交が成功したら、大久保らの出る幕は益々少なくなってしまう。だから西郷や江藤らの対韓外交政策に反対したのである。「内治優先」というのはあくまでも理由付けである。西郷らの主張を葬り去ることによって大久保らによる権力奪取を目指したのである。

 

 大久保利通は、西郷らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。やむを得ざることとはいいながら、大久保の主張も行動も矛盾だらけであり「見上げたもの」などでは全くない。

 

 また、西郷ほど内治についても功績のあった人はいない。西郷が筆頭参議を務めていた期間即ち大久保らの留守中に、封建身分制度の廃止・人権の確立・國民皆兵制・御親兵設置・廃藩置県などの諸改革が行われた。大久保らはこうしたことにも嫉妬したのである。西郷は保守反動では決してない。

 

 明治六年十月十五日、西郷の主張が閣議で大久保利通を含む満場一致で正式決定していたにもかかわらず、大久保と岩倉具視は謀略を用いてこれをひっくり返した。岩倉・大久保は、『五箇条の御誓文』に示されている「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の御精神を蹂躙したのである。西郷隆盛は道義的にも政治的にも法律的にも何ら責められるべきことはしていない。(この謀略の詳細については平泉澄先生著『首丘の人大西郷』参照)

 

 さらに大久保と岩倉は西郷が、天皇陛下に直訴・上奏することを恐れ、遮断の策を講じた。西郷隆盛は、天皇陛下に背き奉ったのでは断じてない。岩倉・大久保らの陰謀によって排除されたのである。そして、恩人西郷隆盛を裏切り大久保の手先となったのが川路利良である。

 

 葦津珍彦先生は、「西郷及び西南戦争を戦った第二維新の戦闘者たちは、決して頑迷な復古主義者ではない。議會政治の実現を望んだ。西郷の対韓外交論が閣議で決定されたのに、大久保・岩倉が陰謀を用いてこれをひっくり返したことに抗議して、野に下ったのである。しかして『民選議院設立建白書』を提出したのも彼らである。」と論じておられる。

 

 韓國の近代史家の多くは、「西郷の征韓論は日本侵略主義の原点である」などと主張しているという。そうした歴史問題に関する韓國側の一方的な日本非難に手を貸すような論議が、日本人によって主張されていることは、まことに残念である。

 

 西南戦争の後に確立した西洋に学んで日本を近代化し独立を維持するという基本路線は全面的に否定されるべきではないが、日本の道統・皇道精神を隠蔽させてはならなかった。西洋に学ぶとはあくまでも良きところを取り入れるということであって、西洋になりきることではない。

 

 西南戦争の指揮官の一人で大久保利通の腹心であった当時の警視総監川路利良は、西洋視察からの帰國の船中で、「今の日本には何よりもまず内政を安定させて、藩体制から府県にかわったばかりの國内統一と安定を、完成させることが大事だ。そのためにも、その基盤となる警察組織を確立することが、何よりも必要なのだ。日本は今、西欧に誇れるようなものは何もないが、俺(おい)は警察だけは世界一流のものにしたいと思っている。きっとしてみせる」と言った。

 

 川路が本当に「西欧に誇れるものは何もない」と思っていたのだとすれば、日本の道統を無視した考え方であり、西郷隆盛の考え方とは全く逆である。

 

 『大西郷遺訓』には、「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、先づ我國の本體を立て、風教を張り、而して後、徐(しづ)かに彼の長所を斟酌すべし、然らずして猥りに彼に倣はゞ、國體は衰頽し、風教は萎靡して、匡救すべからざるに至るべし」と書かれている。

 

川路利良は一般大衆に対しては、民権というよりも撫育するという発想しか持てなかった。「警察は人民の養育者である。文明がまだ遅れている國の人民は、子は子でも最も幼い子供と看做さなければならない」という考え方を持っていた。

 

 これは人民蔑視思想である。しかもここでいう「文明」とは西洋覇道文明である。川路は漢学を重野安繹(やすつぐ)に学んだというが、いったい何を学んだのであろうか。

 

 『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現である。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

                     

 大西郷は、「國の凌辱せらるるに當りては、縱令國を以て斃るるとも、正道を踏み義を盡すは、政府の本務なり。」と言っている。この言葉こそ今日の我國政府が最も噛み締めなければならない言葉である。我國は現在、歴史問題・領土問題などで支那・韓国・北朝鮮からなめられ、国家の尊厳性を喪失している。

 

 大西郷は、「王を尊び民を憐れむは学問の本旨」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」と述べている。この言葉も今日の我國政治家が噛み締めなければならないと思う。

 

 我國の歴史上の人物の中で、最も敬愛されている人物の一人が西郷隆盛である。大西郷は明治維新の大功労者であり、且つ、維新後も権力に恋々とせず、第二維新運動の指導者として奮闘した。文字通り、内憂外患こもごも来るといった状況にある今こそ、我々日本人は、今こそ『大西郷の精神』に学ばなければならない。

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千駄木庵日乗十月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、明日の講演の準備。

夕刻、湯島にて、大先輩と懇談。

帰宅後は、明日の講義の準備、原稿執筆。

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2016年10月17日 (月)

天皇を祭祀主・君主と仰ぐ信仰共同體國家日本

 

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大御神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊ばれた。そして、古代日本人は太陽神・天照御神を最も尊貴なる神として崇めた。天照大御神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 天照大御神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる日本天皇は、天照御神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。祭り主たる天皇は、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者・君主として仰がれた。

 

 古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者でもないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであって、國民が作った成文法によって制限され、規制される存在ではない。

 

伊藤博文は、明治十五年の岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦国の体裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に国憲を定め国会を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや。」(『伊藤博文傳』中巻)と書いてゐる。

 

成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇國日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇國日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

 

 ともかく日の神を祭る祭祀共同体が我が国の起源であり本質である。権力・武力によって統一されたり建国された國ではないのであるから、欧米の諸国家とはその成り立ちが全く異なるのである。ゆゑに、欧米国家観によって我が國體を規定してはならない。

 

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千駄木庵日乗十月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備、資料の検索など。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理。

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2016年10月15日 (土)

『第四七回呉竹会アジアフォーラム』における渡辺利夫拓殖大学前総長による「憲法改正の志」と題する講演の内容

六月二十八日に開催された『第四七回呉竹会アジアフォーラム』における渡辺利夫拓殖大学前総長による「憲法改正の志」と題する講演の内容は次の通り。

「『安保関連法案』が成立した。大変限定的な集団的自衛権の行使であるが、ひとまず安心。自衛権とは、いかにして国を守るかの方法論。我々が議論すべきなのは何を守るかである。いかに守るかは後から出てくる

 

辞典に『憲法』を入力すると『コンスティチューション』と出てくる。憲法の本当の意味は国の体質、つまり國體である。この言葉はGHQによってタブーにされた。憲法の本義は國體である。人に人格があり、国には国柄がある。日本の國柄とは何か。二つのキーワードがある。①同質的②連続的。日本の國柄とは同質的であり、連続的である。日本は世界で稀に見る同質的。

 

日本は人種・言語・宗教が同質的。遺伝子分析の結果、古い時代から日本には同じ人種が住んでいたと言える。日本語の起源はよくわからない。日本以外の國で日本語がしゃべられた形跡はない。日本語は孤立言語と言う。縄文時代から文法の基本構造は変わっていない。

 

『萬葉集』には天皇から兵士たちの歌か収められている。現代と縄文時代・平安時代は響き合う。言語的にも同質的な珍しい国が日本。日本は多神教の世界。宮中の新嘗祭は米作の神事。日本人は米の中に神が宿っていると信じている。山川草木悉皆成仏。日本は精霊を信じている國。宗教が原因となって国が分断した歴史的事例は日本には皆無である。人種・言語・宗教から見た同質性が日本の國柄を示すキーワード。

 

従って日本の文明は連続的である。日本の歴史教育・歴史教科書は左派が握っている。三年前の式年遷宮には始まって以来の日本人が集まった。『日本の安泰を願う心で沢山の人々が集まった』という感想を神職が言っていた。西暦六九〇年の持統天皇の時代から式年遷宮は続けられている。これこそ連続性の証し。日本国の連続性を我々の目前に示してくれるのが式年遷宮。今上天皇は第一二五代の天皇であられる。日本の皇室は連続性を示している。日本国の憲法には日本國體が書き込まれなければいけない。

 

安倍政権は長期化の可能性が大きい。しかるに憲法改正の機運は高まっていない。憲法改正というと第九条だけが問題だということになる。世論が二分されている。人口減少・地方の衰退は大問題。家族が崩壊している。人口再生産所帯が消滅している。日本の文明の危機。夫婦と二人以上の子供から成る家族を標準所帯という。しかし、二〇〇六年以後これが単身所帯を下回っている。二〇三〇年に単身所帯が四〇%になる。配偶者と死別した人は男性より女性の方が多い。女性の方が長命。結婚しない人、結婚してもすぐ別れる人、結婚しても子供を持たない人がどんどん増えている。

 

ライフスタイルは個人の自由という考え方が定着。憲法の精神が定着すれば日本人は増えない。日本の人口はラディカルな形で消滅する。その根底にあるのが『憲法十三条』。共同体より個が大事という社会。十三条改正こそが国を守るために必要。このことに命を懸ける政治家がいない。『憲法十四条』の『両性の合意』のみによって作られた家族には共同体の基礎だという考えはない。日本文明の将来を考えるなら十三条と二十四条を改正すべきである。外敵と戦うことも大事だが、わが内なる敵とも戦うべきだ。この二つの条文が日本人をすれっからしにしている」。

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千駄木庵日乗十月十五日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理など。

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『鈴木其一 江戸琳派の旗手』展を参観して

 

十月十三日に参観した『鈴木其一 江戸琳派の旗手』展は、「鈴木其一(すずききいつ・1796~1858)は江戸時代後期に、江戸琳派の優美な画風を基盤にしながら、斬新で独創的な作品を描いた画家として近年大きな注目を集めています。その其一の画業の全容を捉え、豊穣な魅力を伝える初の大回顧展を開催します。戸時代初期の京都で俵屋宗達(たわらやそうたつ・17世紀前期に活躍)が創始した琳派は、尾形光琳(おがたこうりん・1658~1716)により、さまざまな流派が活躍した江戸時代絵画の中で最も華麗な装飾様式として確立されました。光琳が活躍した時期の約100年後に、江戸の地で琳派の再興を図ったのが酒井抱一(さかいほういつ・1761~1828)です。抱一は京都の琳派様式からさらに写実的で洗練された画風を描くようになり、その新様式はのちに、京都に対して「江戸琳派」と呼ばれています。そのような江戸琳派の祖・抱一の一番弟子が其一です。其一は寛政8年(1796)、江戸中橋に誕生しました。…文政11年(1828)、其一33歳の時に抱一が没して以降は、一門の中でも圧倒的な存在感を示し、その作風は次第に師風を超え、幕末期にかけて大きく変容を遂げます。とくに30代半ばから40代半ばにかけてはダイナミックな構成や明快な色彩を多用し、新たな其一様式が築かれました。さらに晩年にはより挑戦的で自由な作風を開き、近代を予告するような清新な作品も少なくありません。このように、抱一の実質的な後継者としての自負、光琳に連なる琳派画家としての誇り、さらに酒井家家臣という立場が上質で機智に富む画風を育み、多くの其一画が大名家や豪商の厚い支持を得ました。…其一は多くの弟子を育成して江戸琳派の存続に大きく貢献しており、近代まで続くその系譜も辿ります。まさに「江戸琳派の旗手」として目覚ましい活躍をみせた其一。広く知られた其一の名品や新出作品など、国内外からかつてない規模で作品が一堂に揃うこの展覧会は、江戸の画壇を豊かに彩った其一画の魅力とその展開を、存分に堪能していただける貴重な機会となります」(案内書)との趣旨で開催された。

 

 

 

風神雷神図襖 朝顔図屏風 夏秋渓流図屏風 藤花図 糸瓜朝顔図 月に葛図 暁桜・夜桜図 維摩図などを見る。

 

 

 

どれも色彩が美しい。大名や富豪の注文に応じて描かれた絵が多いようで、屋敷内に飾られるので言ってみれば豪華絢爛たる絵である。つまり、装飾性が強いということだが、その限界を超えた感動と驚きを与える作品が多い。

 

 

 

『琳派』というのは、桃山時代後期の俵屋宗達に始まり、尾形光琳、尾形乾山に引き継がれ、さらに江戸時代後期の酒井抱一、鈴木其一らによって江戸の地で広く行われるようになった美術の流れだという。その間約三百年の歴史がある。ただこの流れには厳密な師弟関係は無いという。彩色豊かで大きな作品が多い。「わびさび」の世界とは対極にあると思う。徳川三百年の泰平を象徴する美術と言っていいのだろうか。不思議なのは、同じような豪華絢爛な彩色と緻密な描写の作品をのこしている伊藤若冲は琳派には入らないらしい。どうしてなのか美術史の素人である私には分からない。

 

 

 

琳派は近代になって、下村観山・菱田春草・横山大観に影響を与えたと言われる。「朝顔図屏風」は六曲一双の大きな屏風に青色の朝顔の花と緑色の葉が無数に描かれている。とても装飾という言葉ではくくれないすごい迫力である。

 

 

 

余談であるが、鈴木其一はコレラで亡くなったという。幕末の安政五年にはコレラが流行し、多くの人々が亡くなった。 幕末の尊皇思想家にして漢詩人・梁川星厳は、安政の大獄で捕縛される三日前にコレラで逝去した。コレラの流行は相次ぐ異国船来航と関係し異国人がもたらした悪病であると信じられた。コレラの流行は政情不安、攘夷思想の高まりの原因の一つになったのかもしれない。

 

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天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある

日本国家の神話的起源思想の特色は、国家成立の三要素たる君主、国土、人民が、神霊的・血統的に一体であるところにある。即ち「皇祖神たる天照大神」と「国土」と「国民の祖たる八百万神」が、伊耶那岐命・伊耶那美命から生れでた「はらから」といふ精神にある。

 

『古事記』の「国生み神話」には次のやうに語られてゐる。伊耶那岐命は伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(註・かれ。だからの意)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

伊耶那岐命が「国土(くに)を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、国土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

 

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、国土の生成されたのである。太古の日本人は劫初から、国家意識が確立してゐたのである。世界の他の国よりも我が国は国家観念が強かったといへる。この場合の「国家」とは権力機構としての国家ではないことは言ふまでもない。

 

岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、国生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって国土が生成されたのである。国土ばかりではなく、日本国民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神の「むすび」よって生まれたのである。日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、岐美二神の「愛・むすび」によって国土が生まれたのである。日本といふ国家は、人の魂が結び合って生まれてきた生命体なのである。日本民族の農耕を中心とする伝統的生活のから培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命体が日本国なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本伝統信仰の祭祀主である天皇である。これが「祭祀国家」「信仰共同体」としての日本なのである。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といはれる通りである。つまり命が生まれることである。故に親から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)と言ひ、女の子を「むすめ」(生す女)と言ふのである。

 

「むすび」とは命と命が一体となり緊密に結合することである。米のご飯を固く結合させたものが「おむすび」である。そして日本伝統信仰ではその米のご飯には生命・魂が宿ってゐると信じてきた。

 

「庵を結ぶ」といふ言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集めこれらを結び合はせて作られた。結婚も男と女の結びである。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」と言ふ。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。日本の家庭も〈むすび〉によって成立しているのである。日本国土は、伊邪那岐命と伊邪那美命との「むすび」によって生成されたのである。

 

『古事記』にはさらに、「伊耶那伎大神…筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。…左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照大神」と語られてゐる。

 

皇祖神であらせられる天照大神は、伊耶那伎大神から生まれた神なのである。つまり、国土自然の神々、日本国の君主であらせられる天皇の祖先神たる天照大神も、日本国民の祖たる八百萬の神々と同じく伊耶那伎大神から生まれたのである。

 

日本神話では、神と、国・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、同じ神から生まれ、生命的・霊的に「はらから」の関係にあるのである。これが我が国太古からの国土観・人間観・自然観である。

 

ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地と人間を創造し支配するといふユダヤ神話と全く異なる。

 

この神話物語は、日本国においては、君主と国民と国とは対立関係にあるのではなく、同じ神から生まれた「はらから」の関係にあることを示してゐる。

 

村岡典嗣氏は、「(国家の神的起源思想の特色として・註)国家成立の三要素たる国土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百万神はもとより、大八洲の国土そのものまでも、同じ諾册二神から生れでたはらからであるとの考へである。吾人は太古の国家主義が実に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即国家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が国土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の国家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである。」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。

 

国家成立の三要素たる国土・君主・国民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある。天皇と国民と国土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを「君民一体の国柄」といふ。

 

神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。また、神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。わが国は、信仰的・祭祀的統一によって形成された国家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられるのである。

 

祭祀国家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本国の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。わが國體が万邦無比と言われる所以もここにある。

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千駄木庵日乗十月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、資料の整理。

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2016年10月14日 (金)

昭和天皇はご生涯をかけて國民の幸福と平和の実現を祈られた

昭和天皇は、崩御前年の昭和六十三年に、『全國戦没者追悼式 八月十五日』と題されて、

 

やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

 

と詠ませられた。

 

昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターからお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇は戦争責任をとって退位すべきであった」などと批判する輩は、「人間ではない」と小生は思ふ。

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である。」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

昭和天皇は、大東亜戦争に対する「政治的責任」「法律的責任」といふやうな次元ではなく、「日本國天皇としての責任」を深く自覚されておられた。

 

根本的には、昭和天皇はご自身のご意志で御位にとどまられてその責任を果たさうとされ、また事実は果たされたのである。

 

昭和天皇は、御自身の「退位問題」について、昭和二十年十月、当時の宮内次官・加藤進氏に、「この戦争によって祖先からの領土を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考へ、また退位も考へた。しかし、よくよく考へた末、この際は、全國を隈なく歩いて、國民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。わたくしとしてはなるべく早い時期に行ひたいと思ふ」と仰せになった。(加藤進氏『昭和天皇の御巡幸』・「聖帝 昭和天皇を仰ぐ」所収)

 

昭和天皇は、國民を鼓舞激励し、祖國の復興を成し遂げるために、昭和二十一年二月二十日より二十九年まで満八年半をかけて、行程三萬三千キロ、総日数百六十五日間の地方御巡幸を行はせられた。それは昭和天皇の「國見」であったと拝する。「國見」とは、國土と國民の祝福し、國土の豊饒と國民の幸福を祈る祭事である。昭和天皇は、敗戦によって疲弊した國土と國民の再生のための「祈りの旅」を行はせられたのである。

 

昭和天皇は、「戦災地視察」と題されて次のやうなお歌を詠ませられた。

 

戦のわざはひうけし國民をおもふ心にいでたちて来ぬ

 

わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ

 

國をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 

 鈴木正男氏は、「敗戦國の帝王が、その戦争によって我が子を亡くし、我が家を焼かれ、その上に飢餓線上をさ迷ふ國民を慰め励ます旅に出かけるなどと云ふことは、古今東西の歴史に絶無のことであった。アメリカをはじめとする連合軍は、恐らく天皇は國民から冷たく迎へられ、唾でもひっかけられるであらうと予想してゐた。ところが、事実は逆であった。國民は熱狂して天皇を奉迎し、涙を流して萬歳を連呼した。…天皇の激励によってストは中止され、石炭は増産され、米の供出は進み、敗残の焦土の上ではあったが、國民は祖國再建の明るい希望に燃えて立ち上がった。」(『昭和天皇のおほみうた』)と論じてをられる。

 

昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。そして昭和天皇が退位されずそのつとめを果たされたからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

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千駄木庵日乗十月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、赤坂の富士フィルムフォトサロン東京でで開催中の『不肖・宮嶋写真展「七〇年」』参観。久しぶりに「不肖・宮嶋」=宮嶋茂樹氏にお会いする。

この後、赤坂のサントリー美術館にて開催中の『鈴木其一・江戸琳派の旗手』参観。

帰宅後は、『政治文化情報』原稿執筆・脱稿送付。

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2016年10月12日 (水)

この頃詠みし歌

夜が更けて静かなりけるわが部屋に響くは筆の音のみにして

 

むきだしの情念を歌に詠むことを許させたまえ和歌の神様

 

思ひ出の山も川もなけれども千駄木の町はわれの故郷

 

道灌山も藍染川もありにけり都の眞中のわが故郷は

 

良き書物を熱心に讀むひと時はわが魂の充実の時(坪内隆彦氏著『GHQか恐れた崎門学』を讀みつつ)

 

貯金箱の五百円硬貨が多くなれば何かお金持ちになりたる心地す

 

好かぬ人と思へば相手も我のことを好かぬ奴ぞと思ひゐるらむ

 

末法末世世紀末などと言はれ来し地球も日本も未だ滅びず

 

母の手を握りて固き絆をば今日も確かめ別れ来にけり

 

母上と一緒に歌ふ懐メロは小唄勝太郎の「明日はお立ちか」

 

何時も会ひし老婦人はこの家を去りしといふ閉ざされしままの窓の悲しも

 

やうやくに雨止みし夜の雲の間()の片割月に心和めり

 

テロに斃れし人々の墓が並びゐる青山霊園を友と歩めり

 

大久保利通の巨大なる墓の傍らに斎藤茂吉のつつましき墓

 

遠き昔の伴天連の如き黒衣着てゆったりと話す老いし牧師は

 

老牧師と語らひし言葉「アブラハムの生まれ出でる先より我はあるなり」

可愛い乙女に誘はれて我も通ひたる西片町教会は今も健在

 

喫茶店で友人を待つ人の前に座しわれは一人で本を読みゐる

 

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千駄木庵日乗十月十二日

午前は、諸雑務。

午後一時半より、永田町の参議院議員会館にて、中山恭子参議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生がも大伴家持などの歌を講義。質疑応答。

終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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絶対尊皇精神の具現者・大楠公

大楠公・楠木正成こそ尊皇精神の体現者であられた。大楠公の絶対尊皇精神は、『太平記』『日本外史』などの史書によって後世に伝へられた。明治維新の志士たちも楠公精神を継承して維新を戦った。大楠公は絶対尊皇精神の具現者である。

 

 

 

日本の古典には「名文」と言はれるものが多数ある。『太平記』の次の一節は、その最たるものであろう。

 

「舎弟の正季に向て、そもそも最後の一念に依て、善悪の生(しゃう)を引くといへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替(かへ)て、この本懐を達せんと契て、兄弟共に刺違て、同枕(おなじまくら)に伏にけり。」

 

 

 

この文章には、楠公のそして日本民族の絶対尊皇精神、七生報国の精神が見事にうたひあげられてゐる。「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ正季の言葉は、後々の世まで深く人の心に感銘を与へ、人の心を動かした。歴史を動かしたと言っても過言ではない。

 

 

 

楠公兄弟は、「今度は浄土に生まれたい」「地獄には行きたくない」「後生はもっと善い処に生まれたい」などとは言はなかった。ただひたすら、「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ強烈に決意を吐露した。

 

 

 

「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生きとおして、君国に身を捧げるといふ捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

 

 

 

保田與重郎氏は、「『罪業深き悪念云々』といふのは、当時の仏教思想に基づく考へ方である。『太平記』の作者も、仏教観念の鼓吹を、この物語執筆の趣旨としたのだが、大楠公の品格をのべ行動と結末を語るに当っては、さういふ観念のものを全く棄て、超越してゐるのである。」「正季公がからから打笑ひ、七生尽忠の志を誓はれたのにたいし、大楠公が『よに嬉しげなる気色にて』これを諾ったといふ書きぶりは、まことにこの物語の作者の志のたけ高さ示すに十分であった。これこそすなほな民族感情の表現である。正季公がからからと打笑ったといふことは、当時の一般教養界を風靡した仏教信仰からくる穢土厭離の思想をその笑ひで吹きとばされたのである。」(『太平記と大楠公』・湊川神社社務所発行「大楠公」所収論文)と論じてゐる。

 

 

 

絶対尊皇精神といふ「素直な民族感情」は、仏教の宿命論、輪廻思想・厭離穢土思想を超越するのである。「七生報国」の精神は、仏教の輪廻転生思想・宿命論が我が国に入って来る以前から日本民族が抱いてゐた死生観より生まれた観念だからである。

 

 

 

「七生報国」の楠公精神は、後世においてきはめて大きな影響を与へた。明治維新で活躍した多くの志士は、殆ど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いてゐた。維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。明治維新の戦ひにおいて、楠公精神・七生報国の精神は志士たちによって継承され、且つ、実践された。楠公仰慕心、「七生報国」の精神の継承が、明治維新は成就の一大原動力であった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

 

 

歌人であり国学者でもあった橘曙覽は次の歌をのこした。

 

 

「湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり」

 

楠公の墓が荒廃してゐたのを嘆いた義公・水戸光圀が、元禄五年(一六九二)、佐々助三郎宗淳を湊川に派遣して石碑を建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と自筆で題した。その楠公のお墓に刻まれた文字を仰げば、子供といへども感激して墓前に屈んで「嗚呼」と唱へるであらうといふ意。

 

吉田松陰は、安政三年(一八五六)『七生説』を書いて、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、「楠公兄弟は、徒(たゞ)に七生のみにあらず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是より其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者は無ければ、則ち楠公の後復た楠公を生ずる者、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや」と論じた。

 

 

 

また、吉田松陰の『留魂録』には次の歌がある。

 

 

「七たびも生かえりつゝ夷をそ攘はんこゝろ吾忘れめや」

 

 

楠公の崇拝者として知られ『今楠公』といはれたといふ真木和泉守保臣は、天保十年、二十七歳の時、次の歌を詠んだ。

 

「すめる世も濁れる世にも湊川絶えぬ流れの水や汲ままし」

 

 

さらに、西郷隆盛は次のやうな漢詩をのこしてゐる。

 

「楠公題図(楠公の図に題す) 

 

奇策明籌不可謨(奇策の明籌、謨(はか)るべからず)、正勤王事是真儒(正に王事に勤る、是真儒) 懐君一子七生語(懐(おも)ふ、君が一子七生の語) 抱此忠魂今在無(この忠魂を抱くもの、今在りや無しや)」。

 

森田康之助氏は次のやうに論じてゐる。「先年の大戦の評価については本書のよくするところではない。鉄を熔かす暑熱にも耐え、肌も凍る寒気を凌ぎ、或は南溟に或は北漠に、興行の成否を問うこともなしに、名もなき国民の一人一人が、名も無いままに国運に殉じた痛ましいわが国史の跡である。この難に殉じた数多い人々の胸中には、楠公湊川の精神が生き生きと回顧され、脈々と息づいてはずである」(『楠木正成』)。

 

大東亜戦争において、楠公精神を生き貫き、名も無いままに国運に殉じた名も無き国民ののこした歌を掲げさせていただく。

 

 

 高田豊志氏(昭和二十年五月十三日、特攻戦死、享年十九歳)

 「七たびと誓ひて散りしわが友の心は咲かむ靖国の庭」

 

堀毛利衛氏(昭和二十年七月十八日、特攻戦死、享年二十三歳)

 「七度ぞ生れて御国を守らばや身は大空の花と散るとも」

 

 

 

竹野弁治氏(昭和二十年四月十二日、特攻戦死、享年十九歳)

 「七度も生れ変りて諸共に醜の御楯と我は征くなり」

 

 

 平川勉氏(昭和十九年七月五日、戦死、享年二十五歳)

 「君が代のしづめとはてし湊川その誠心ぞ神につながる」

 

山本卓美氏(昭和十九年十二月七日、特攻戦死、陸軍中尉)

 

「七たびも生れかはりて守らばやわが美しき大和島根を」

 

 

 

加賀和元氏(昭和二十二年四月二十八日、旧ソ連アングレン収容所にて逝去、享年二十六歳)

 「楠のふかきかをりを身にしめて七たび死なんすべらぎの辺に」

 

 

昭和二十年六月二十三日未明、沖縄第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将は、摩文仁の丘にて自刃された時、次の歌をのこされた。享年五十八歳であった。

 

「矢弾盡き 天地染めて 散るとても 魂がへり 魂がへりつつ 皇国護らむ」

 

 

 

これらの辞世はまさに楠公精神とまったく同じ精神、志、魂の表白である。

 

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千駄木庵日乗十月十一日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、明日の『萬葉集』講義の準備、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2016年10月11日 (火)

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。初めての方はテキストは無くても構いません。

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尊皇精神・勤皇精神の體現者が楠正成公である

尊皇精神とは、日本國の祭祀主であられ神聖なる君主であられる天皇への「かしこみの心」である。そしてそれは日本人の道義精神の根本である。 

 

尊皇精神・勤皇精神の體現者が楠正成公である。日本國民の「楠公崇拝」即ち楠正成を尊崇する心とは、楠公の絶対尊皇の精神と行動に共感する心である。

 

久保田収氏は、「『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして、…奮戦し…中興の糸口をつくったこと…七生報國の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志をうけつごうとする決意とを生み出したのである。…天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎…の學問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と傳えている…強斎は、このことばが『わが國士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである。」(『建武中興』)と論じてゐる。

 

足利高氏軍が兵を率いて九州から進攻して来た時、楠正成は、後醍醐天皇に「比叡山に行幸して頂き、正成も郷里の河内に馳せ下り、畿内の兵を以って淀の川尻をさし塞ぎ、物資の都への流入を断ち、敵を兵糧攻めにして苦しめ、その間に義貞と正成とで敵を挟撃すれば、必ず勝利を収めることができる」と献策した。

 

しかし、その献策は朝廷の容れるところとならなかった。『太平記』によると、正成は「討ち死にせよとの勅定ござむなれ。義を重し死を顧ぬは忠臣勇士の存る処也」と言って、五百余騎で兵庫に向ひ、見事に討ち死にした。

 

天皇は現御神であらせられ絶對的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶對にあってはならないし背き奉る事があってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違った御命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反對したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道である

 

『太平記』は、楠公を讃嘆して、「智仁勇の三徳を兼て死を善道に守り、功を天朝に播(ほどこす)事は、正成ほどの者は未だ有らず」と書いてゐる。また、足利高氏側近の武将が書いたとの説がある『梅松論』でさへ、「賢才武略の勇士ともかやうの者をや申べきとて、敵も味方もおしまぬ者ぞなかりけり」と楠公をほめてゐる。かかる楠公の絶対尊皇精神は、後世に大きな影響を与へた。

 

久保田収氏はさらに次のごとく論じてゐる。「明治維新のために活動した多くの志士は、ほとんど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いていた。…松陰は『七生説』を作って、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、『楠公兄弟、たゞに七たび生れるのみならず、初めより未だ死せざるなり』といい、『是より其の後、忠孝節義の人、楠公に見て興起せざるものなし。…』となし…人々のこころが楠公に帰一した時に、明治維新は成就したのである。」(『建武中興』)

 

高山彦九郎・有馬新七・真木和泉守保臣など維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

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千駄木庵日乗十月十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2016年10月10日 (月)

『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹

『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹

 

「詔書」は、やまと言葉で「みことのり」と申し上げる。「のり」の「のる」の名詞形であり、「天皇の御命令」をおごそかに宣言されるといふ意である。「詔勅・詔書」は、天皇国日本における最高の公文書である。

 

「渙発」とは、四方に水の散る如く広められるといふ意である。大君が四方に宣言されたお言葉が「みことのり」である。そしてその「のり」は「憲」「則」「矩」「規」「法」である。わが國における「法(のり)」の原義は、「天皇が宣せられた御命令」である。

 

『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹である。「天皇の大御心・みことのりを謹んで承る」が、天皇国日本の臣下国民のあるべき姿であり、道義精神の基本である。

 

「臣(をみ)」の語源は「忌み」である。「忌み」とは、心身を清浄に保ち、けがれを避け慎むことである。斎戒ともいふ。神への祭祀を執行する時、厳重なる「物忌み」をする。「大臣」とは「大忌み」であり、神事に奉仕する大事や役目を担ふ人といふ意である。日本国は「祭政一致」の国柄であり、宮廷の公の仕事は神への「まつりごと」なのである。

 

『神社本庁敬神生活綱領』には、「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」とある。神と天皇に仕える心即ち自分たちの生活そのものを神の心天皇陛下の大御心を実現していくという生活が、わが國の理想的な倫理観念である。

 

「みこともち」とは、神や天皇の御言葉・御命令を持しそれを地上において実現することである。それが日本民族の倫理精神の基本である。神の御命令で最も大事ものは『天壤無窮の御神勅』である。

 

『天壤無窮の御神勅』とは、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られる時に、天照大神から下された御命令(御神勅)である。

 

それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであらうことは、天地と共に永遠で窮まりないであらう、といふほどの意)と示されている。 さらに、「吾が高天原に所御(きこしめす)斎庭の穂(いなほ)を以ちて、また吾が兒(みこ)に御(まか)せまつるべし」(私の高天原に作っている神に捧げる稲を育てる田の稲穂を私の子に任せよう、といふほどの意)といふ御命令を下された。

 

この御命令を國民の立場から扶翼(神からの御命令を天皇が実行されることをおたすけすること)によって、日本國の永遠の隆昌をはかることが、我々日本國民の倫理の基本である。

 

現御神信仰の公的表現は、『宣命・詔勅』に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で体現されるお方である。日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。

 

天皇の「祭祀」そしてそれと一体のものとしての「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志に「まつろう」(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。 

 

日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

 

尊皇精神・勤皇精神が希薄になればなるほど、日本國民の道義心・倫理感が希薄になる。なぜなら、天皇は、日本國民の道義感・倫理感の鏡であるからである。今日の皇室への尊崇の念の希薄化と道義心の低下とは相関関係にあると考える。日本民族が尊皇精神を喪失した時、日本國は崩壊の危機に瀕するのである。

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「第六十七回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

テーマ「

愛国運動と愛国心を考える」

 

最近、自らを保守主義者・愛国者であるという自覚を持つ人が増えているようです。

書店には、日本を賛美する書籍や、それとは逆に中国・韓国を批判する書籍が溢れております。

街頭では運動が活発化しており、毎週のようにデモや街宣が行われております。

一方、こうした運動への批判もまた活発化しております。これらの運動が排外主義であり、人種差別の扇動であるという批判です。その批判の高まりは、「ヘイトスピーチ規制法」として結実し、デモや集会への規制という形で全国に拡大しております。

わが国を侵略せんとする外国勢力、わが国内において反日運動を繰り広げる者どもに対して厳しい糾弾を行うのは当然です。しかし、そういう運動は、単なる外国人差別の扇動や排外主義ではありません。

国家の独立と尊厳を守り、日本国家の永遠の隆昌と繁栄を実現することこそが保守運動・愛国運動の目的と言えるでしょう。

そしてその根底にあるのは祖国愛であり、尊皇精神であります。

そこで、今回の勉強会では、保守運動・愛国運動の意義と目的、そして運動の原点である祖国愛、さらには、国家とは何か、民族とは何か、ということについて、あらためて考えてみたいと思います。

 

(今回の勉強会は最終日曜日ではありません。日時をお間違えないようご注意ください)

 

【日時】平成二十八年十月二十三日 午後六時

 

【場 所】文京区民シビックセンター 三階会議室A

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

 

演題「天皇国日本の本質と祖国愛」

 

講師 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395 

            ○

この告知文は主催者が作成しました。

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千駄木庵日乗十月九日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、『伝統と革新』編集の仕事。。

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2016年10月 9日 (日)

國體破壊の深謀遠慮を粉砕せよ

日本國存立と安定の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。いかなる醜い政治権力闘争が行なわれていても、日本国が崩壊せず統一と安定が保たれているのは、皇室の御存在があるからである。

 

日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず國家の危機である。

 

近代の歴史を顧みても、西欧列強のわが国に対する侵略の危機をはねのけた明治維新の大変革は、天皇・皇室を君主と仰ぐ日本國體の明徴化という原理によって断行された。大東亜戦争敗北という亡国の危機も、先帝昭和天皇の無私の大御心によって打開することができ、戦後復興が成し遂げられた。

 

わが国は建国以来、天照大御神の生みの御子・現御神日本天皇を、祭祀主・君主として仰いできた。これが万邦無比のわが日本國體である。国民が、天皇及び皇室を限りなく尊崇し奉ることが、わが國の平和と安定の基礎である。

 

しかし、天皇国日本の國體を破壊あるいは隠蔽せんとする勢力が存在してきたこともまた事実である。天皇・皇室の敵対する者すなわち朝敵・国賊は昔から存在したけれども最終的には悉く天皇・皇室の御稜威に服し、平定された。

 

大東亜戦争の敗北後、占領軍によって行われたいわゆる「民主化」そしてその後続けられた左翼革命勢力、反皇室・反國體勢力による執拗な國家破壊策謀は、日本國を亡國への道を歩ましめる危険があった。しかしそれでも建国以来三千年の國體は破壊されることはなかった。常に世界の平和・国家の安泰・五穀の豊饒・國民の幸福を神に祈られる天皇・皇室に対する国民の尊崇の心は継承され続けてきた。今日、あからさまに『天皇制打倒』などと叫んでも誰も相手にしない。

 

それだけに、天皇を君主と仰ぐ日本國體を破壊せんとする策謀は最近きわめて巧妙になっている。天皇を中心とした國柄を破壊せんとする勢力は、天皇及び皇室への國民の尊崇の心を破壊する事を目的として、皇室の尊厳性・神聖性を破壊する巧妙にして陰湿な画策を続けている。

 

『朝日新聞』など左翼偏向マスコミの皇室報道のあり方は、そうした巧妙な『天皇制打倒運動』=國體破壊策謀である。皇室に対する敬語の簡略化または廃止はその顕著な例である。発行日を、暦を主にし元号を括弧の中に書くようにしたのは、『朝日新聞』が一番先である。『朝日新聞』は反皇室・反日本的姿勢の新聞と断じても何ら間違いではない。

 

『朝日新聞』などのマスコミが、皇室への敬語・尊敬語の使用を止めたのは、國民の皇室への尊崇の心を喪失せしめるための深謀遠慮である。「天皇皇后両陛下」「皇太子同妃両殿下」と書くべきなのに、「天皇ご夫妻」「皇太子ご夫妻」と書いている。ひどいのになると「天皇夫妻」と書いている(『週刊現代』など)。またマスコミ全般の皇室の尊厳性を損なう報道や論説は枚挙すればきりがない。

 

さらに皇室に対し奉り、「天皇御一家」とか「天皇家」と申し上げるのは慎むべきである。なぜなら、天照大神の後裔であらせられ、「姓氏」を持たれない皇室は普通一般の「何某家」ではないからである。

 

わが國は古来言葉を大切なものとして来た。『萬葉集』には「言霊の幸ふ國」「言霊のたすくる國」と歌われている。

 

言葉は単なる意志伝達手段ではない。文化そのものであり人間の生活そのものである。その言葉を乱すことによって日本國體を破壊せんとしているのが『朝日』などの亡國マスコミ・反日マスコミなのである。

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千駄木庵日乗十月八日

午前は、諸雑務。

 

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

 

この後、施設に赴き、母に付き添う。

 

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。平成国際大学名誉教授・高乗正臣氏が、「森三十郎教授の国体論」と題して報告。質疑応答・討論。

 

帰宅後は、原稿執筆など。

 

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2016年10月 8日 (土)

明治維新の精神と復古即革新の信仰

 徳川氏が独占してきた役職である「征夷大将軍」とは「夷」(えびす・えみし=日本に仇なすもの)を征討する大将軍という意味である。ところが幕府はペリーがやって来たら慌てふためいて、何もできない。そして、孝明天皇のお許しを得ないでアメリカと屈辱的な國交を結んでしまった。そこで、徳川氏は征夷大将軍の役目を果たすことができないという批判が巻き起こった。そして徳川幕府を倒して、天皇中心の國家を再生せしめた大変革が、明治維新である。

 

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 

 慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

 明治天皇は、さらに、

 

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 

 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

 と詠ませられている。    

 

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

 明治維新は、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。そして、明治維新の大事業の一環として紀元節が制定された。

 

 『日本書紀』には、「辛酉年(かのととりのとし)の春正月(はるむつき)の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)、天皇(すめらみこと)橿原宮(かしはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇の元年(はじめのとし)とす」と記されている。

 

 神武天皇即位の日が正月朔日(むつきついたち)であるのは、むつき(正月)の始めにおいて、神も天地も人も新生するという上古以来の日本人の信仰に基づく。そして、明治六年、この日を太陽暦に換算した二月十一日を『紀元節』とした。

 

 明治維新後に行われた紀元節の制定は、「神武創業への回帰」という根本精神・明治天皇の大御心の実現であると共に、危機的状況にあった祖國日本を再生せしめるための精神的基盤確立であったのである。近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

 

 今日の日本も、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある。この「天津日繼ぎの高御座」」(天津日嗣とも書く)とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所のことである。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」ということである。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるのである。

 

 平野孝國氏は「このツギの思想は、元来個人の肉体を超えて繼承される系譜と見てよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、『宮廷のツギは日を修飾して、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義で、口だてによって風誦せられたものである』という折口信夫説(古代研究・國文学篇)が、本義に近いものである」(大嘗祭の構造)と論じておられる。つまり、皇位の繼承は肉体的な血統と共に、「日の神の神靈」を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 さらに「高御座」について折口信夫氏は、「高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。…御即位式に昇られる高御座は、…天が下の神聖な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝(みかど)といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。…高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる」(大嘗祭の本義)と論じておられる。

 

 天皇が高御座に昇られることによって、天皇は天上の神と一体になられ、地上の國がそのまま天上の國となるのである。別の言葉でいえば、今が神代になり神代が今になるのである。日本伝統信仰においては、天と地とが隔絶した存在とはとらえていないのである。高天原を地上に持ち来たし、日本國を高天原のように清らかにして神聖なる理想國にすることが天皇の御使命である。

 

 今上天皇におかせられても、神代以来の伝統を繼承され、御即位の大礼において天津日繼ぎの高御座にお立ちになった。これは天の神の御代理(現御神)の御地位にお立ちになったということを意味するのである。「御即位の大礼」は、天照大神が皇孫邇邇藝命を天津日繼の高御座に即け給い、神器を授け給ひ、神勅を下し給ひしことを、新たに繰り返す行事である。

 

 このように、天皇の國家御統治の御精神は、常に、新たなる國家の生命の甦り、言い換えると國家の新生・再生を常に希求されているのである。しかもこの新生・再生は、それまでの伝統を断絶して行われるのではない。無限の過去から無限の未来にわたるまで、天皇による日本國の新生・再生、命の甦りは繰り返されるのである。ここに日本天皇の國家と統治そして日本國體の特質がある。

 

 我が國民は毎年毎年同じように春から始まって冬に終わる周期的な生活を営んでいる。四季の移り変わりが規則正しく周期的であるので、お祭りも、農漁業などのなりわいも、周期的に繰り返される行事が多い。春夏秋冬の一年の暦の一巡りで、冬が終わり元の春に戻り新たな出発が行われるのである。

 

 そして、我が國民は、暦の移り変わる時、即ち新たなる年を迎えた時に、生

活も万物も全て再び新生するという感覚を持つのである。

 

 日本民族は周期的に新生を繰り返すという生活感覚を自然に持っていた。歴代の天皇が、神武創業の精神=物事の初め・國家統治の理想(すなわち)に回帰することによって革新を断行するという維新の精神は、ここから発生してきた。

 

 だからこそ、維新は「復古即革新」といわれて来たのである。「復古」とは決して反動ではないし、単に時計の針を過去に戻すことではないし、回顧主義でもない。古きがゆえに良いというのではない。「復古即革新」とは、いにしえの理想の復興によって現在を新たならしめることである。  

 

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2016年10月 7日 (金)

千駄木庵日乗十月七日

午前は、諸雑務。

午後二時より、西荻窪にて、高乗正臣平成国際大学名誉教授にインタビュー。『伝統と革新』誌に掲載のためなり。

この後、高乗氏と懇談。

帰宅後は、原稿執筆の準備、『伝統と革新』編集の仕事。

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維新と和歌 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しよりよき状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。

 

 現状に満足し変化を望まないといふ意味での平穏な暮らしの中からは和歌は生まれない。命が枯渇し言靈が失われた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 

 維新変革には悲劇と挫折を伴う。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳いあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。維新とは懸命なる戦いであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都という大変革を背景として生まれた。

 

 在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗から生まれて来たと言える。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放っている。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦いであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、万人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このように國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されているのである。

 

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。

 

こうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌いあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されている。

 

 そして「萬葉の精神」は明治維新という大変革に大きな影響を及ぼした。明治維新も西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついていた。つまり、『萬葉集』の精神と楠公精神の謳歌である。

 

 江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新というのである。

 

 そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしえから伝えられた「五・七・五・七・七」という形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝だからである。 

 

 今日の日本もまた文字通り内憂外患交々来るといった状況である。こうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴える「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。現代日本において短歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

 

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千駄木庵日乗十月六日

午前は、諸雑務。

 

午後は、施設に赴き、母に付き添う。

 

午後四時、青山霊園の頭山満・峰尾御夫妻、頭山秀三氏の墓所に拝礼。呉竹会青年部の方々と共なり。

 

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頭山満翁ご夫妻墓所

頭山翁の墓所の近くには、犬養毅 牧野伸顕 入江爲守 濱口雄幸 井上準之助の各氏の墓所があった。近代日本において活躍された方々である。

 

午後五時より、廣瀬義道氏事務所にて、呉竹会青年部主催・「藤本尚則氏著『巨人頭山満翁』輪読会」開催。小生が講義。質疑応答。

 

終了後、出席者と懇談。談論風発。

 

帰宅後は、明日のインタビューの準備、原稿執筆など。

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2016年10月 6日 (木)

欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という思想は、日本の國體を破壊する

 日本國體は、「一君万民・君民一体」である。天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体であるということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が國體に合致しない。

 

 「現行憲法」を国会で審議した時、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした曲学阿世の憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張し、今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されている。今日の多くの「憲法改正試案」もこの考え方に沿っている。

 

そして、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、先の今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。この規定が被治者である個々の国民が主権者であるかのごとき誤解を与えている。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。旧ソ連も共産支那も北朝鮮も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか個人専制恐怖政治が行わている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。「帝国憲法」ではこれを統治権という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

 

 国民主権ということが国民一人一人が主権者だとすれば、日本には一億二千万人に主権者がいることになり、国家の意思はばらばらで、あたかも精神分裂症患者のようなもので、国家としての体をなさない。

 

 西洋流の国家観によれば、君主主権と国民主権とは相対立するもので両立し得ない観念である。君主と人民との闘争に終始した西洋の歴史からすれば、これは当然のことと言えよう。西洋の国法学説は、この観点に立って展開されてきたのである。

 

 西洋の国法学説でいう主権とは、近代中央集権国家がフランスに初めて成立する過程において国王の権力の伸長を国内外に主張し、絶対王政を正当化するための理論的武器となったものである。それは「朕は国家なり」という言葉でも明らかな如く、国王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、国民は国王に信者の如く絶対服従するものとされ、国王と国民とは二極の対立概念として理解されているのである。

 

 西洋の国民主権論は、もっとも徹底した「反君主制」の理論として確立されたのである。そしてかかる反君主制の思想が、敗戦後戦勝国によって憲法の中に盛り込まれたのである。まさに國體破壊である。

 

 こういう史的・思想的背景を持つ西洋の主権概念は、日本国体とは絶対に相容れない。なぜなら日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって民族共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。天皇主権と国民主権を、氷炭相容れない対立関係と見るのは、西洋流の考え方に立っており、日本の伝統とは相容れない。

 

 我々がここで確認しておきたいことは、国民主権は決して人類普遍の原理ではないということである。前述したように、国民主権という考え方は国王・皇帝と国民が対立し抗争した歴史を持つ西洋諸国の考え方である。十七世紀のヨーロッパにおける国王と人民との争いの中で、ルソーが理論化した考え方が国民主権であるといわれている。国王の権力の淵源は国民の委託にあるのだから国民に主権があり、国民の意向に反する君主は何時でも打倒できるという考えである。

 

 主権という言葉は西洋の国法学の影響により、国家における最高の政治権力と一般に解せられており、権力至上主義の臭みが濃厚である。しかしこれは、わが国の歴史と伝統に全く相容れない。

 

 日本国は欧米の国家のような契約国家ではなく、信仰共同体であり、民族共同体である。日本天皇の統治の伝統は、神聖なる御存在であらせれる日本天皇の仁慈の大御心である。決して権力ではなかった。

 

日本國體の特質は次の二点に要約されよう。

 (一)、日本は建国以来天皇を中心として全国民が統合され、同じ運命、同じ使命を担う民族共同体・信仰共同体として生成発展してきたこと。

 (二)、天皇と国民との関係は、天皇の権力支配によって成り立っているのではなくて、君民一体、君民一如、一君万民の歴史的、精神的、倫理的つながりを不可欠の内容としていること。

 

 「現行憲法」や各種の憲法改正試案における国民主権は西洋的意味で用いられており、日本国体の道統と相反するものである。

 

 美濃部達吉氏はその著『憲法概論』において、国民主権を定義して、主権は国家意思を構成する最高の源泉であり、その源泉を国民とすると「国民主権」となり、この源泉を天皇とすると「天皇主権」となる、と論じている。しかし、日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ第一章に置くというのは、国体破壊・伝統無視につながる。

 

 「国民」とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統精神が法に根本規範を与える。即ち日本國體の基盤の上に成文憲法が成立するのである。

 

 「主権」は「なにものにも制限されることのない最高権力」であり、歴史のうちに蓄積されていく根本規範そのものにある、という考え方がある。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ない国民が主権を持つというのは衆愚政治への危険が伴う。

 

 伝統を貫き根本規範を完全に具現している人々という意味における「国民」ではなく、今日ただ今実際に生存している人々という意味における「国民」に主権が存するとする「現行憲法」や各種の憲法改正試案は、「多数参加にに基づく多数決」として民主主義方式が「多数者の専制」という名の衆愚政治へ堕ちていく危険に対して無警戒でありすぎる。

 

 天皇の御地位が、「国民の総意に基づく」とすると、天皇の御地位は現在における多数派の国民の意志に基づき、国民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位はいかようにでも左右できるという見解が成り立つ。

 

 憲法上の「国民」とは、「過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべて、そして日本の伝統精神の継承者としての国民」、「日本の伝統を貫いて存在し日本国家における根本規範を完全に具現しているものとしての国民」と定義し、現在生きている国民の多数派が日本の天皇中心の国体及び伝統精神を軽々しく踏みにじることないようにすべきである。

 一国の憲法はそれを構成する民族の伝統的規範意識を踏まえたものであることが不可欠の条件であるとされている。欧米の古い憲法が生きた憲法として欧米においては効力を持っているのに対し、欧米の憲法を真似て制定した新興国の憲法が画餅化しているのはこのためである。

 

 「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制され、制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しないし、通用させてはならない。

 

 日本國體は、天皇を永遠にして神聖不可侵の君主と仰ぎ一君万民・君民一体である。欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という思想は、日本の國體を破壊する。日本国の國體を正しく宣明した正統憲法を回復すべきである。

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千駄木庵日乗十月六日

午前は、諸雑務。

午後は、明日の講義の準備。

この後、施設に赴き、母と過ごす。元気なり。有り難し。

帰宅後は、原稿執筆、明日のインタビューの準備など。

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2016年10月 5日 (水)

尊皇精神にいて

以下の事は何回か書いたことですが、あらためて書かせていただきます。近年、國體護持を主張人々による、皇室・皇族に対する「諫言・批判・苦言」が雑誌新聞などに発表されることが多くなった。

 

また本当に尊皇愛国の精神が篤い人も、あるいは尊皇精神が篤いからこそ、天皇皇后両陛下・皇太子殿下同妃殿下が「自分たちの抱く天皇・皇族の理想像」あるいは「天皇・皇族にはこうあっていただきたいという思い」と異なる御発言や御行動をされた時、批判の思いを抱くことがある。

 

しかし、天皇皇后両陛下をはじめ皇太子同妃両殿下などの皇族方の御行動・御発言に対し奉り、「諫言」と称して、雑誌新聞などで色々と批判し苦言を申し上げることは慎むべきである。

 

いかなる憂国の士・学識のある愛国者といえども、天皇・皇室に対し奉り、自分の考え方や、ものの見方や、思想・理論を、押し付ける資格はない。天皇・皇族のご意志ご行動が、自分たちの抱く理想像や自分たちの抱く國體観念と異なっているからと言って、天皇・皇族をあからさまに雑誌新聞などで批判するのは慎むべきである。

 

自分の意志や思想と一致する天皇・皇族を尊ぶことなら誰にでもできる。しかし、自分の意志や思想と異なる行動をされた天皇に対しても忠義を尽くし従い奉るのが真の尊皇であり勤皇である。そのことは、日本武尊の御事績・楠正成の事績を見ればあまりにも明らかである。

 

久保田収氏は、「楠正成が、わが国史上の英雄として崇拝されて来たのは、その絶対尊皇の精神と行動にある。『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。…天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎の学問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と伝えている。強斎は、このことばが『わが国士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである。」と論じている。(『建武中興』)

 

正成公の『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』という精神こそ、わが国の臣民のあるべき態度である。天皇を現御神と仰ぎ絶対の信を寄せることが日本の臣道である。尊皇精神とは、日本国の祭祀主として神聖なる君主であられる天皇へのかしこみの心である。

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇国の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びずと思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じている。

 

天皇は現御神であらせられ、皇太子殿下は日の御子であらせられる。絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇・皇太子の御心や御行動が、自分の考えや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下・皇太子殿下をあからさまに批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。楠正成が言われた如く「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」なのである。

 

天皇陛下・皇太子殿下が間違ったご命令を下されたりご行動をされているとたとえ思ったとしても、国民は勅命に反してはならず、まして御退位を願ったりしてはならない。どうしても従えない場合は自ら死を選ぶべきであるというのが、わが国の尊皇の道であり、勤皇の道であるということを本居宣長先生は教えているのである。

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皇室に関はる重大事は、神代以来のわが國の傳統を遵守しなければならない。

皇位継承・天皇の譲位は國家と皇室の重大な事柄である。権力機構としての國家ではなく、信仰共同体・祭祀國家日本の根本の問題である。権力機関たる行政府が決めるべきではない。

 

小生が最も恐れるのは、この問題で皇室を尊崇する人々・國體護持を念願する人々の主張が真っ二つとなり、激烈な論争が起こることである。基本的に、皇位継承・御譲位について、臣下があれこれ論議をすることに、私は違和感を覚へる。一切は大御心のままにが、國民の姿勢であるべきだと思ふ。

 

皇位継承など皇室に関はる重大事は、神代以来のわが國の傳統を遵守しなければならない。神代以来の傳統の継承者・体現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。

 

皇室論・皇位繼承論・天皇論の根本には、國家観・神観・天皇観がある。日本國は神の生みたまひし國であり、天皇は天照大御神の生みの御子でありたまひ、神は今も生きたまふ、といふ絶対の信が、わが國の傳統信仰である。皇室論・皇位繼承論・天皇論はこの信仰を根本にして論じるられるべきである。

 

天皇は、現御神即ち日の大神たる天照大御神の地上的御顕現であらせられる。歴代の天皇は、御一方御一方が、天照大御神の生みの御子として日本國を統治あそばされてきた。

 

天照大御神は、神として祭られると共に神を祭られる神である。天照大御神は女性神であらせられる。忌服屋(いみはたや)にましまして御自ら神衣を織りたまひ、また織女に織らせられた。また、殿の中で大嘗祭を行はせられた。

 

その意味で天照大御神は女性祭祀主であらせられる。地上における現御神日本天皇も神を祭るご存在であると共に、國民から現御神として仰がれるご存在である。持統天皇をはじめご歴代の女性天皇は祭祀を執行されてゐる。祭祀こそが天皇の最大最高のお役目である。女性天皇は、祭祀を執行出来ないとか執行してはならないといふ議論は歴史的事実に反するし誤りである。

 

保田與重郎氏は「徳川時代の儒者の間には、天照大神が女神にましましたことを否定し、男神であることを主張した者があった。これは儒教を主旨とした倫理観からさういふ理屈になるのであるが、天照皇太神が女神にましますことは疑ひないことで、我々の御遠祖たちは、さうした女神が高天原の中心として宇宙を御主宰あそばしたことを深く信じてゐたのである。たゞ大神には配する男神といふのがない、いはゞひとりがみであらせられた。この清浄な神秘からいへば、女神といふときの女を、男に對する女といふ、女に對する男といふ、いまの人の性を考へる形で考へてはものを間違ふもととなる。儒教の人たちが、ひとり神としての女神の意味を理解し難かったわけは、そこにあった」(『民族と文藝』・道成寺考)と論じている。

 

天皇は、現御神であり天照大御神の地上のおける御代理であらせられるのだから、保田氏のいふ通り、「男に對する女といふ、女に對する男といふ、いまの人の性を考へる形で考へ」てはならない。肉身においては女性であっても皇位を継承され天皇になられた以上、肉身としての男女を超えた御存在となられたのである。したがって、上御一人日本天皇・現御神日本天皇は、肉身としては生物學上の男あるいは女であられても、信仰上・神霊上は男女を超越した御存在であらせられる。

 

葦津珍彦氏は、「天照大神は、神話の神ではなくて、この神を古代の人間と思ふ者が多くなってきて、却って現代人に信じがたいものになって来た。至高至貴の女神一柱が、皇室の血縁の祖といふのはロジカルではない。アニミズムに戻るべきである。人間がこの世に生まれるのは、生理的には父母によって生まれるのであるが、その根底には神霊の働きがある。神霊によってすべてが生まれるとの信は、神道の根本である。人間が生まれるのは神霊によるし、人間の精神的祖は、その神であることを信じてゐる。後世でも、神話の神々を氏神とし、自分をその子孫であり、氏子とする信仰は生きてゐる。生理的には人間父母の子であるが、信仰的には神話の神を父母とし祖として生まれたとの信である。その信がなくては、日本の神道も神國思想も成立しない。皇祖天照大御神は、まさに信仰上の皇室の祖であり、神話の神であってたゞの生理的人間ではない。だから神宮はあっても、生理的人間没後の御陵がない。南九州には神武天皇以前の歴代皇統の御陵がある。…御陵は、生理的に地上に現はれられた皇統の祖として祭られたが、天照大御神は古代から高天原の皇祖神として祭られたのである。天照大御神に御生まれはあるが死はなく、今も生きておられる。」(『神國の民の心』)

 

人は、生理的には人間父母の子であるが、信仰的には神話の神を父母とし祖として生まれた。まして、上御一人たる天皇は、天照大御神の生みの御子であらせられる。その絶対の信が、天皇の神聖性の根拠であるし、天皇が日本國をしろしめす「おほきみ」であることの根拠である。

 

日本民族は、男性を日子(ヒコ)といひ、女性を日女(ヒメ)といふ。人は、信仰的には日の神の子であるといふ信仰がある。人は単なる肉体ではない。神の分靈である。まして、現御神日本天皇は人にして神であらせられるのである。したがって、現御神日本天皇を、生物學上の女系・男系として区別する事はできない。天皇としての御本質は、肉身が男性であられやうと女性であられやうと全く同じである。

 

「万世一系」とは、皇祖神への祭祀を行ふのは、天照大御神及び邇邇藝命の御子孫・生みの御子に限られるといふ思想による。高天原の祭り主は、女性神たる天照大御神であらせられる。皇極天皇・持統天皇などご歴代の女性天皇も祭祀を厳修せられた。祭祀國家・信仰共同体=日本國の祭祀主たるスメラミコトに女性がなられることには何の不思議もない。神武天皇以来の男系継承の伝統は守られるべきであるが、「女性天皇は、皇統断絶」などといふことはあり得ない。

 

皇祖天照大御神は、古代における偉大なる女性ではなく、神話の女性神であり、日の神の神霊である。邇邇藝命は、天照大御神の「生みの御子」であられ地上に降臨された天孫であられ肉身を持たれる御存在である。すなはち神にして人であり人にして神であられる。

 

「神」とは古代の偉人ではなく霊的実在であり、人間は神の分靈であるといふ信を基本に確立してゐなければ、葦津氏のいはれる通り、「日本の神道も神國思想も成立しない」と思ふ。

 

日本國體は、地上における天照大御神のご代理といふ靈的なご本質と、邇邇藝命以来の血統を、併せ有される天皇を、信仰共同体の核たる祭祀主として仰いでゐる。また、天照大御神は女性神であらせられるが、母神・祖母神としての慈愛と父神としての力をお持ちになる。現御神=天照大神の生みの御子たる天皇も同じである。

 

女性天皇・女性皇族が、軍の統率者たり得なかったといふ事はない。神功皇后・斉明天皇のご事績を拝すれば明らかである。天照大御神は、須佐之男命が高天原に上って来られた時には武装され雄叫びの声をあげられた。

 

そもそも女性天皇も、天皇が天照大御神の御委任により、日本國を統治あそばされる表象たる「三種の神器」を継承されたのである。「三首の神器」とは、鏡は祭祀、剣は軍事、玉は豊饒を表象するのである。女性天皇は「剣」は継承されなかったといふことはない。

 

天皇は、血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するが、信仰上は、先帝も今上天皇も天照大神の御神霊が体内に天降ってきておられ、全く同じ御資格なのである。御肉身が男性であらせられやうと女性であらせられやうとその御本質には全く変りはない。

 

現実に崩御された天皇の神霊は一旦天にお帰りになる。しかし天にお帰りになった神霊は再び新しい天皇の御身体に天降って来られるのである。ゆへに、天照大神の御神霊と一体の御存在であるといふことにおいては、天孫・邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も全く同一なのである。天皇を、「天照大神の御魂の入りかはらせたまふ王」と申し上げるのは以上のやうな信仰を表現してゐるのである。

 

神霊が天皇の御身体に天降り一体となるお祭りが、毎年行はれる新嘗祭なのである。そして、即位後初めて行われる新嘗祭を大嘗祭と申し上げるのである。

 

 たとへ天皇の肉身はお替はりになっても、天皇の御神霊=大御命(おほみいのち)は永遠に不滅なのである。新帝の御即位は、天皇の御神霊が新しき肉身をまとって復活されたといふことなのである。

 

歴代の天皇は即位される事によって天孫降臨を今繰り返されるのである。これは永遠の繰り返しである。これは日本人の暮らしの中から生まれてきた傳統であり國家観であり君主観である。

 

天照大神と天皇のご関係は、単に、天照大神が天皇の御祖先であり天皇は天照大神の御子孫であるといふ関係だけではなく、天照大神の神霊が天皇のお体に入り、天皇が天照大神の御意志(地上に稲を実らせること)を地上(豊葦原の瑞穂の國=日本)において実現するといふ関係である。

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千駄木庵日乗十月四日

午前は、諸雑務。

午後二時より麻布にて、上杉隆氏と懇談。意見交換。

午後五時より、青山にて、勉強会。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年10月 4日 (火)

明治維新は「一君万民・尊皇倒幕・尊皇攘夷」を基本精神とする大変革

梁川星厳は、尊皇攘夷思想の志士たちと交流を深め、鴨川のほとりの「鴨沂(おうき)小隠」と名付けられた梁川星厳の家には、佐久間象山・横井小楠・頼三樹三郎・梅田雲浜・吉田松陰・宮部鼎蔵が訪れた。また、反幕府の廷臣たちとも交流した。

 

梁川星厳は、「楠公精神」の継承者であった。次の詩をのこしてゐる。

 

「豹は死して皮を留む、豈偶然ならんや

湊川の遺蹟、水天に連なる

人生限り有り 、名は盡くるなし

楠氏の精忠万古に伝ふ」

(豹も死ねば立派な皮を遺す、決して偶然ではない。湊川の遺跡は水と天につながってゐる。人生には限りがあるが、名は尽きることはない。楠氏の忠誠は永遠に語り伝へられゐる、といふ意)

 

安政五年の井伊直弼の「違勅調印」に憤った越前、水戸、薩摩の尊皇の志士は、活発な反幕閣・井伊排撃運動を展開した。彼等は公卿と結び、朝廷の威光によって形成を挽回しようとした。その運動に京の都において協力した人物たちが、井伊派から「悪謀の四天王」と言はれた池内大学、梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星厳の四人であった。近衛忠熙、三条實萬などを動かして、水戸藩に密勅を下し、幕府の罪を責めるといふ方針のもとに一致協力した。

 

井伊直弼の配下、長野主膳は、水戸藩への降勅の実現に大きく貢献したのが梅田雲浜と梁川星厳であるとして、この二人を捕縛せんとした。雲浜は捕縛されたが、星厳は捕縛直前にコレラに罹り病死した。

 

江戸時代はたしかに二百数十年の「太平の世」が続いた。これは徳川氏の功績である。しかし、幕末期、欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。

 

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

 

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきてゐた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したといふ。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

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2016年10月 3日 (月)

千駄木庵日乗十月三日

午前は、諸雑務。

午後二時より、大手町にて、同志と懇談、意見交換。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

この後、谷中三崎坂にて、知人と懇談。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆など。

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大橋訥庵・梁川星厳の幕府批判と徳富蘇峰の正論

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の実質的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、国の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや。」(『文久元年九月政権恢復秘策』・徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神国日本を傷つけることもない。さうであれば大変な功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思わず、朝廷に対して慎み深くする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、国が辱めを受けることを世界に示し、日本国始まって以来無かったやうな傷を神国日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない、といふ意)と論じた。

 

これは、徳川幕府が、天皇・朝廷を物の数とも思はず、軽んじて来たのに、肝心要の外敵を征伐するといふ「征夷大将軍」の使命を果たすことができないといふ、まさに徳川幕府最大の罪を追及した激烈な文章である。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐる。

 

梁川星厳(江戸末期の漢詩人。梅田雲浜・吉田松陰などと交流があったため、「安政の大獄」で逮捕されるはずであったが、大獄の直前に逝去)は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「紀事

當年の祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、なんじ(徳川氏)の祖先(家康)の意気は、勢いを盛んにして、人を凌(しの)いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。 今日(こんにち、)外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

徳富蘇峰氏はこの詩を引用して、「(ペリー来航は・注)一面外国の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府は恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるには足らざることの不言の教訓を、実物をもって示した…(天皇は・注)現つ神の本面目に立ち還りここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った。…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般国民にも漸次これを会得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じでゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。

 

外交問題とくに国家民族の独立維持・国家防衛といふ国家の大事に自ら決定し、実行することができなくて、京都の朝廷にお伺いを立て、各藩諸侯らに諮問するに至って、徳川幕府は完全に幕府としての資格を失った。従って、この後の幕府はその存立及び権力行使の正統性を喪失したと言っても過言ではない。『安政の大獄』などの維新勢力弾圧は、全く正統性の無い権力による悪逆非道の暴挙であった。

 

今日の外患の危機も、日本国民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛国心を持つことによって打開できると確信する。

 

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千駄木庵日乗十月二日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。梁川星厳のことを書いています。

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2016年10月 2日 (日)

「一君萬民」の國體明徴化による國難の打開

ペリー来航より約五十年も前の文化元年(一八〇四)、長崎に来航したロシアのロザノフに対する幕府の対応に不満を抱いたロシアは、文化三年から翌年にかけて、わが國領の樺太を攻撃した。幕府は文化四年にこの事件の概要を朝廷に報告した。

 

今谷明氏はこの事を、「幕府自らの軍事力に自身を喪失した時、天皇の権威に依存するという体質があらわれた。…秀吉のいう『日本は神國』、家康のいう『日本は神國仏國』のごとく、外圧を意識したときの民族のアイデンティティーが神國思想としてもちだされる構造は、秀吉時代以来、一貫したものであった」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

 

さらに、阿片戦争で清國が敗れ、わが國にも外國船が頻繁に現はれるようになり、対外的危機が深刻化した弘化三年(一八四六)八月、この年の二月に御年十六歳で即位された孝明天皇は、海防の強化を命じた勅書を幕府に下されると共に、最近の対外情勢の報告を幕府に求められた。

 

藤田覚氏は、「朝廷は、幕府に対して対外情勢の報告を要求できる、幕府は朝廷に報告する義務があるという慣行は、文化四年を先例とし、弘化四年に確認され、この後頻繁に幕府は朝廷に報告するようになった」(『幕末の天皇』)と論じてゐる。

 

徳川幕府成立以来の「國政は一切徳川幕府に委任されてゐる。朝廷は政治に口出しさせない」といふ原則を幕府自身が踏み躙らざるを得なくなったのである。これが幕府の権威の大きな失墜であり、幕府瓦解の始まりであった。

 

孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日に石清水臨時祭を挙行され、異國船撃退を祈願された。

 

嘉永六年(一八五三)にペリーが来航した。孝明天皇は、御年二十三歳であらせられた。ペリーの軍艦は、江戸湾に侵入し、大砲をぶっぱなして示威行動を行った。わが國に開港を迫ったアメリカは、決してわが國に親愛の情を持ってゐたわけではなく、わが國を勢力下に置かうと企図してゐたのである。それはペリーが幕府に提出した『國書』を見れば明らかである。

 

鎖國といふ徳川氏政権掌握以来の基本政策を外國の脅迫によって修正することは、幕府の権威と正統性を失墜する危険があった。そこで幕府は、國民的合意を達成するために、ペリーの要求に如何に対応すべきかを朝廷・各大名そして陪臣(註・大名の臣)にまで広く諮問した。

 

この事実もまた、國家の大事を徳川幕府のみで打開できないといふ幕府の弱體化・権威の失墜を天下に示し、日本國は天皇中心國家であるといふ古代以来の國體を明らかする端緒となった。これが明治維新の原理たる「尊皇倒幕」「尊皇攘夷」の精神の生まれた根本原因である。

 

ペリー来航直後の小浜藩(今日の福井県西部地方)の布告には、「上御一人様より、下末々迄心を合せ此御國(注・日本國の事)を守り、昔より之れ無き恥を取り申さざる様に骨折候事第一の心得に候。去(さる)に依り、他國(註・他の藩の事)の御領地のと申差別なく、日本國中一家内同様の心得にて、萬々異國船参り無作法を致し候時は、上下男女の差別なく命を捨て此御國を守り候心得第一の勢にて候」とあった。

 

群雄割拠の幕藩体制を超克して、天皇中心の統一國家の真姿に回帰することによって外國の侵略から祖國を守るべしを論じてゐる。つまり、幕末の祖國の危機に際して、日本民族は自然に、日本國家・民族としての一体感・運命共同意識中心に古代からの國家の統一者である天皇を仰いだのである。國民の同胞意識・連帯感、そして外敵に抗するナショナリズムの中心には天皇がゐまさねばならなかったのである。明治維新後の近代日本における「一君萬民」の國體明徴化そして皇軍創設は、かかる精神に基づくのである。

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千駄木庵日乗十月一日

午前は、諸雑務。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。東京国際大学教授・村井友秀氏が「南シナ海の安全保障―暴走する中国をどう食い止めるか―」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆の準備、資料の整理など。

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