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2016年9月29日 (木)

『國家』について考える

 現代日本は國家意識が希薄になっているといわれる。「國家は悪であり人間を束縛するものであり侵略戦争を起こすものである。だからいずれは無くなってしまった方がいいし、現在でもなるべく國家の力は押さえた方がいいし、國家のいうことは聞かない方がいい」という極端な國家論を持つ人がいるが蔓延している。

 

 「忠君愛國などという思想は過去の遺物であり、侵略戦争を再び起こす危険がある」などと主張する人もいる。そして共同體や國家・民族のことを度外視し利己心ばかりを満足させる人間が増えてきている。政治腐敗・教育荒廃・犯罪の増加の原因はここにあると思われる。

 

 我々が限り無く愛する日本國とはいかなる國であるのだろうか。「國家」という言葉は漢語であるが、やまとことばには「國(クニ)」という言葉がある。この「國」という言葉は「懐かしい故郷」という意味で用いられる場合がある。「あなたクニはどこですか?」という時は、故郷という意味である。英語でいうとCounryである。ところが「クニに税金を取られる」という時のクニは、行政機構・権力組織のことである。英語でいうとStateである。

 

 「母國」とか「祖國」とかいう言葉で表現される一定の広がりを持った土地の上に自然に生まれた共同體が、我々の愛する國である。その基本は夫婦であり子であり孫である。すなわち「家」である。國と家は一體である。ゆえに「國家」という言葉が生まれたのではなかろうか。

 

 國家を否定し、皇室を否定し、「國旗日の丸」や「國歌君が代」も認めず、愛國心を嫌う人々は、「國家」を権力機構としてのみとらえているのである。

 

 現實に我々が愛する國とはやはり「懐かしい故郷」としての國であり、権力機構としての國家ではない。税務署や警察署を懐かしく思い愛着を抱き何回も行きたいと思っている人は、そこに長年勤めている人は別として、そんなに多くはないだろう。ただ、そういう権力機構としての國家を排斥し否定することはできない。我々の生活にとって必要不可欠である。

 

 しかし、権力機構としての國家を否定し一切協力しないとすることは或いは可能かもしれない。例えば「権力が好き勝手なことをしている國に税金なんか納めない」と主張し、それを實行することは可能である。(勿論それによって権力機構から制裁を加えられるだろうが…)しかし、自分が今「父祖の國」「母國」と表現されるところの「共同生活を営む國」に生まれ育ち生きている事實は否定できない。

 

 國家を単に人間の自由を束縛する権力機構・統制組織とのみとらえ、これを否定することは正しくない。

 

 國家を否定し、國家を破壊する運動を展開してきたのが共産主義革命運動である。これは、マルクスの「我々が國家を持つのは資本主義においてのみである」「國家は少数者による多数者に對する支配と搾取の體制」「國家は人間疎外の装置」という思想による。これは國家というものを権力機構・支配統制組織としてのみとらえた考え方である。

 

 しかし、共産主義國家こそ、多数者による少数者の搾取が行われ、人間疎外の装置として國民を圧迫し苦しめてきたことは、旧ソ連・共産支那・北朝鮮を見れば明らかである。

 

 権力無き社會の實現を目指して戦った共産主義勢力は、その結果として強大にして残虐無比な権力國家を作りあげた。また、共産主義社會の實現を目指し反國家闘争を繰り返してきた日本國内の共産主義勢力は、恐るべき闘争を繰り返し互いに殺し合ってきた。

 

社民党や共産党を見て明らかな通り、國家否定を目的とする左翼革命勢力こそ、権力國家の建設を目指し、および外國の権力國家からの侵略に協力してきたのである。反國家・國家破壊の思想と行動は、人類に惨禍しかもたらさなかったと言っていい。

 

 「人は人間関係においてのみ初めて人であり得る」と言われている。人間は孤立と孤独との中では生活することはできない。必ず人と人との共同生活の中でこそ生きていくことができる。

 

 三島由紀夫氏は「私は(國家には・注)統治的國家と祭祀的國家とあると考えて、近代政治學の考えるネーションというのは統治的國家だけれども、この統治的國家のために死ぬということは僕はむずかしいと思う…もう一つネーションというものは、祭祀的な國家というものが本源的にあって、これは管理機能あるいは統治機能と全然関係がないものだ。ここにネーションというものの根拠を求めなければ、私は将来守ることはできないのだという考えを持っている。…ラショナル(合理的・注)な機能を統治國家が代表して、イラショナル(非合理的・注)なイロジカル(非論理的・注)機能をこの祭祀國家が代表している。…この二つのイロジカルな國家とロジカルな國家が表裏一體になることがぼくの考えるいい國家なんです」(村上一郎氏との對談『尚武の心と憤怒の抒情』)と語っている。

 

 そもそも権力無き國家などというものは幻想である。二・三人の共同生活ですら、リーダーが必要であり、そこには小さいながらも権力が発生する。いわんや何百万・何千万という人間によって形成される共同體は権力機構や成文法なくして機能しない。    

 

 そうした権力國家を、天皇中心の祭祀國家の理想に近づく努力をし続けることが、闘争戦争絶え間無き現實社會を改善する方途である。言い換えると、古代からの道義國家・人倫國家・祭祀國家としての日本への回帰し、それをネーションとしての国家の根底に置くことこそが、對立闘争を繰り返す人間が、より平和により豊かにより自由により道義的に生きる共同體を建設する方途であると考える。

 

 我々の愛する國家とは権力機構としての國家ではない。三島氏の言う「祭祀國家」である。否定しても否定し切れないところの「父祖の國」「母國」「共同體」である。

 

祭祀とは、己を無にして神に全てを捧げる行事である。日本民族は祭祀を行うことによって、神のみ心のままの清らかで明るい人倫生活を営んできたのである。天皇を祭祀主と仰ぎ、海という大自然をめぐらし、緑濃き山と清らかな河とを有する國、農耕を営み、優れた文化傳統を持つ國が「祖國日本」である。

 

 その本源的な國家としての祭祀國家の上に、多くの人々の共同生活を保つために成文法と権力機構が必要になる。祭祀共同體・信仰共同體の上に権力機構が乗っかっているのである。これを國家(英語で言うとNation)と言う。

 

 三潴信吾氏は、「今日の『國家』の内容としては、Counryといふ、血の通った暖かい一心同體の生活體と、これを統治する政治組織(State)との両要素が包含されてゐると云ふことができる」(日本憲法要論)と論じている。先に引用した三島由紀夫氏の國家論と一致する。

 

 人間一人一人は現象的には不完全な存在であるのだから、人間が集合して形作られる國家が絶對的に善であることはない。しかし一方、國家は絶對的に悪であるということもない。人間一人一人が人格の向上を目指し、人倫に基づいた生活をしようと努力するように、國家もまた、人倫國家・道義國家になることをめざす。それは、神聖なる信仰共同體・祭祀國家としての國家への回帰によって實現する。

 

 成文法と権力機構が、正しく機能し運営されるためには、本源的な祭祀國家・信仰共同體の精神を常に顧みなければならない。神の前に自己を無にする行事である祭祀の精神を根底に置いて、法と権力が執行されなければならない。わが國で、政治を「マツリゴト」と言ったのはまことに故あることである。

 

 この麗しき國日本は、村落共同體から出発して、次第にその範囲を広め、日本という國家を形成した。その本質は、地縁・血縁によって結ばれただけでなく、稲作生活から生まれた祭祀を基本とする傳統信仰によって結合している共同體である。その信仰共同體の祭り主が天皇(すめらみこと)なのである。故に日本という國とはいかなる國であるかと問われれば、「天皇中心の信仰共同體である」と答えるのが正しいのである。

 

 我々日本人が理想とする國家とは、麗しい天皇中心の信仰共同體とこれを統治する政治機構が包含され一體となったものである。國家に對する愛が薄れ共同體意識が無くなりつつある現代において、このことを正しく認識することは非常に重要であり最大の課題であると言える。

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