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2016年9月21日 (水)

大御心にまつろひ奉ることが日本國民の道義心の根幹

天皇國日本存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と國民の「尊皇精神」である。神聖君主・日本天皇の大御心に「清らけき心」「明けき心」で随順したてまつることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の基礎である。私心なく天皇にお仕へする心がもっとも大切である。それは、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

 

日本人の倫理的道義的理想は、「捨身無我」である。和辻哲郎氏は、「『清き心』の伝統は、尊皇の道の一つの顕著な特徴として、この後の倫理思想の潮流の中に力強く生きている。…清さの価値は『私』を去ること、特に私的利害の放擲に認められる。しかるに私的利害は己の生の利害であるから、…自己を空しゅうすることにほかならない。それは生命に根ざす価値ではなくして、生命を請えた価値である。…日本武尊は典型的な英雄として描かれているが、領土とか富とかはおよそこの尊と関係のないものである。」(『尊皇思想とその伝統』)と論じている。

 

三島由紀夫氏の市ヶ谷台上の義挙における『檄文』に、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。」と示されている。今日の日本は清明心を忘却してゐるのである。

 

わが國道義精神の基本は「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」である。それは「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来からのわが國の尊皇精神である。わが國の道義精神の中核は、日本國の祭祀主として神聖なる御存在であられる天皇に對し奉り清らけく明らけく仕へまつる心=清明心である。

 

村岡典嗣氏は「まごゝろといひ、大和心といふものには、一味もののはれと通ずるところがある。而してこれまた、現人神にます天皇を對象とすることに於いて、重なる存在をはじめに有した丹き心本来の性格であった。……正統記に、儒教的の有徳王君主の思想を少なくとも絶對的に否定しつべき積極的主張の十分でなかったことを、感ぜざるを得ざらしめる。これは國學者の立場からせば、所謂漢意を去りえなかったのである。天皇は天皇にまします故に貴く、善悪の論を離れて絶對に尊びまつるべしといふのは、合理主義以上のまた以外の至情である。丹き心の根柢にはこの情味がある。この事は、國學をまって、始めて明瞭なる自覺を以て發揮せられたところである。されば親房以後近世の日本的儒學者の間に於いては、就中、山鹿素行の如き、頗る日本精神の主張に於いて、一層の進歩を示したとはいへども、未だこの點國學ほど純粋ではなかった憾みがある。而してこは、國學の古典學を有しなかった爲である。」(『日本思想氏研究第四』)と論じてゐる。

 

わが國における「尊皇精神」「忠義」とは、現御神日本天皇に對する絶對的な仰慕の心・戀闕の心をいふのである。一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることが最高の道義なのである。それを「清明心」といふのである。

 

「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

 

天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「然(しか)あらば、汝(みまし)が心の清く明きは何を以ちて知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

 

和辻哲郎氏は、「心は総じて善即利福を欲するが、その欲し方にウルワシサとキタナサとがある。それを古代人は重視し、この区別を表すのに善悪の文字を持ちいた、…天照大御神がスサノオノ尊の『不善心』を問題としたのは、『欲奪国之志』(国を奪わんと欲するの志)を推測したからである。…ヨキ心もまた利福を欲するがゆえにヨシと言われるのではなくして、他者の利福、全体性の利福を欲するがゆえにヨシとせられるのである。」「他者から見ても透明でなく、当人においても暗鬱な心境を、古代人はクラキ心、キタナキ心として把捉したのである。かかる心境と反対に、私心を没して全体に帰依するとき、人は何の隠すところもなく人々と融け合い、…朗らかな、明るい、きしみのない透き徹った心境に住することができる。これを古代人はキヨキ心、アカキ心として把捉したのである。」(日本倫理思想史)と論じている。

 

日本人の倫理道徳の根本は、「清明心」「正直」「まこと」「無私」にある。そして、祭り主日本天皇は、「清明心」「無私」の體現者であらせられる。

 

また、また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。

 

日本國民は古来、「清けく明けく」(清明心)を最高の価値として来たのである。清々しく明るい日本民族精神は、天皇の神聖性を讃嘆し、その大御心に従ひ奉る精神なのである。

 

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするやうになればその君主を廃する」といふ思想である。日本の尊皇精神は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」といふ至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。「あかき心」とは「無私の心」である。

 

しかして無私の心をもっとも體現しておられるお方が、祭り主・日本天皇であらせられるのである。なぜなら「まつり」とは、神に対して私を無くしてまつろひたてまつる行事であるからである。日本傳統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)といふことである。そして祭祀によって神と人とが合一する。祭祀主日本天皇の「無私の大御心」「神聖性」が日本國民の道義の規範なのである。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で實現されるお方であり道義精神の最高の實践者であらせられるのである。

 

人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。日本國の生命・歴史・傳統・文化・道義の體現者たる天皇の大御心・御意志にまつろふ(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」は、「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来のわが國の尊皇精神である。

 

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