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2016年9月 6日 (火)

わが國の傳統的な美感覚「もののあはれ」とは

 

 「あはれ」は、感動を表し、「あゝ」と「はれ」が結合した言葉。「あゝ」ともはれ」も感嘆した時に自然に発する言葉。「もののあはれ」は、のちにわが國の傳統的な美感覚となった。「もの」は、外界の事物。「あはれ」は、自分の感情。日本の文學精神の主流になった感性であり、自然・芸術・人生などの触発されて生ずるしみじみとした趣き・情感のことと定義される。「もののあはれ」といふ言葉が最初に登場したのは『土佐日記』の船出の悲しさを語ったところである。

 

 すぐれて見事なこと、めざましいことを見たりしたときに発する感動の言葉である「あっぱれ」は、「あはれ」の転であり、「あはれ」は悲しみの情感を表白するのみではない。悲哀に限らず嬉しいこと・楽しいことなど物事に感動した時に発する言葉が「あはれ」である。

 

「もののあはれ」を理屈で説明するのはなかなか難しい。日本人が持ってゐる独特の情感と言へる。本来的には、物事に驚嘆したり感動した時に発する「ああ、はれ」という言葉なのであるとされる。「天晴れ」にも通じる言葉である。天照大御神が天の岩戸からお出ましになる時、それを喜んで八百万の神々が発した言葉が「あはれ」であった。これは喜びの言葉である。        

 

 藤原俊成(『新古今和歌集』の代表的歌人)は、「恋せずば人は心もなかるべしもののあはれもこれよりぞ知る」(恋をしないのは人の心がないのと同じだ。もののあはれも恋をすることによって知る、といふ意)と詠んだ。

 

 近世の國學者・本居宣長はこの歌を解説して、「大方歌の道はあはれの一言に帰す。さればこの道の極意を尋ぬるにまたあはれの一言よりほかになし。伊勢物語も源氏物語もあらゆる物語もその本意を尋ぬればあはれの一言にてこれをおほふべし」と論じてゐる。

 

 宣長は「もののあはれ」は日本文芸の一番大事な基本精神であると説いた。宣長は、「よきことにまれ、あしきことにまれ、心の動きてああはれと思はるることがもののあはれ」と説いた。また宣長は「ことしあればうれしたのしと時々に動くこころぞ人のまごころ」(『玉鉾百首』)と詠んだ。

 

 『古今和歌集』の「序」は、「鬼神をもあはれと思はせるものが和歌である」と説いてゐる。「もののあはれを知る心」とは、外界の事物に対する自分の心の態度のことであり、それは自然の心である。それが日本文芸の原点であるといふことになる。

 

 自然な心の動きが大事なのであるが、ただそれを表白すればいいといふのではなく、その心をやや客観的に見て美しい調べにして表現しなければ芸術としての歌にはならない。自分の情念を客観視して調べに乗せて表現し他者に美しく傳へ他者をも感動させなければならない。それが和歌である。

 

 文芸とは深遠なる哲理や理論・教条を説くものではない。「もののあはれ」を訴へるものである。人間が物事に感動した思ひといふものを和歌や物語の形式で美しく表現するのが文芸である。

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