« 千駄木庵日乗九月二十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗九月二十三日 »

2016年9月23日 (金)

「皇位」とは、『天津日嗣の高御座』である。普通一般の國家の國家元首・最高権力者の「地位」とはまったく次元を異にする。「皇位継承」「御譲位」についてはこの事の大前提にしなければならない

 

三潴信吾先生は、その著『日本憲法要論』において、「世界中で、成文憲法が先に出来て、然る後に国家が成立した國は一つも無い。国家生活の根本事実が出現し、これと同時に、またはその後の時点に於て、憲法典が制定される。」「日本においては明治二十三年十一月二十九日の大日本帝国憲法施行の日まで、成文憲法は無かったが、何人も、その故を以て、それまで日本国家が成立して居なかったと見ることは出来ない」と論じておられる。

 

さらに『皇室典範』について三潴信吾先生は、「(現行の・註)皇室典範は…宮務法としてではなく、憲法の下に従属する政務法の一つとして新『皇室典範』が『皇室経済方』の如き法律と共に制定された…皇位継承の事項が法律事項となり、例へば商法の会社法などとも同列に置かれたことは大問題である。皇位継承の事項を、…一般法律の改正手続、即ち、単純多数決(過半数)を以て改変できる事となってゐる。即ち、皇位に関する事項を単なる政治問題として国会の論議に委ねてしまったのである」(同書)と論じておられる。

 

中川八洋氏は、「傳統や慣習は”法“であるから、法律の上位にあって、この”法”に背理する法律についてはそれを無効にすることができる。英國のE・コーク卿が理論化した”法の支配”とは、このような、『傳統・慣習・先例・過去の判例、その他のコモン・ローは、國王の勅令に対しても、國會で採択された法律に対しても、優位する憲法原理』のことである。…日本も、英國と同じく、この古来より先蹤の積み重ね──古法──を”法” としてきた。これをしばしば”古格”とか”旧慣”とも称し、この”旧慣の尊重”の重要性を説き、西洋の法律をやたらに模倣する、当時の同僚や部下の法律家を諌めた」「皇室典範もまた、天皇の意志や恣意で改変されることの無いように、その改正権をもつ皇族會議を主宰する天皇に対して、”上位の法゛、天皇は皇室典範に対して”下位の機関゛」という、法思想のルールの遵守を天皇に奏請したのである。」(『皇統断絶』) と論じてゐる。

 

「國王といへども法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想であるといふ。かかる法思想は、「王の権威と権力は神によって与へられた」とする西洋の立憲君主國家の考へ方であって、わが國には通用しないし、通用させてはならない。

 

小室直樹氏は、「『大日本帝國憲法』第三条に、『天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス』とある。伊藤博文は、これを説明して、『天皇を、誰も非難したり批判したりすることはできない』(『天皇は指斥言義(しせきげんぎ)の外に在()るものとす』(『憲法義解』)といっている。すなわち、政府も、裁判所も、一般國民も、天皇のいかなる責任をも追及することはできない。もちろん、法的責任を追及することはできない。天皇は、法の上にある。)(『天皇恐るべし』)と論じてゐる。

 

天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の國體は祭政一致である。天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の法である。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる『のりごと』である。法(のり)は宣(のり)である。天皇の上に「法」があるのではなく、天皇の宣命(おほせごと・大御心)が法なのである。そもそもコモン・ロー(common law)とは、大陸法系と区別された英米法系に属する法制のことであり、特にイギリス普通法裁判所の判例法として歴史的に発達してきた一般國内法のことであるといふ。日本と英國とは國體・歴史・傳統・風俗・習慣が異なるのであるから、英國の法思想をそのまま日本に取り入れることは出来ない。

 

天皇が祭りを執行され、神の御心をお知りになり、臣下は天皇がお知りになった神の御心に基づきそれを實現するために實際の政治を行ふといふのが、わが國の古来からの「まつりごと」のあり方である。これが「しろしめす」といふ天皇統治の實相である。これを「祭政一致」といふ。古来、我が國では法律・命令はすべて「のり」といふ語で表されてゐて、「のりと」と法律・命令とは根本は同じものである。

 

歴代天皇は、神のご意志をよくお知りになって神のご意志を實現させることを使命とされる。日本天皇が、神を祭る時にうかがった神の意志を告げることを『ノル(告る・宣る)』といふ。「ノル」は名詞にすると「ノリ」であり、「法」を「ノリ」といふのは、祭り主たる天皇が「告る・宣る」ことがすなはち法となるからである。

 

祭政一致のわが國の傳統においては、天皇の仰せごとは即ち神のご意志であり、民が守らなければならない「法」なのである。天皇の上に「法」があるなどといふことは絶対にあり得ないしあってはならない。

 

三潴信吾氏は、「我が御歴代の天皇の下における一切の認定法は、天照大御神と一体たり給ふ 天皇の大御心の発現であって、神定即人定と云ふべきもので、ここにわが國法の神聖性の根拠があり、従って又、そこに日本民族の尊皇遵法の根拠があるのである。」(『日本憲法要論』)と論じてゐる。

 

「天皇は『憲法』『皇室典範』よりも下位にある機関」などといふ説はまったくわが國體と相容れない。第一、現御神日本天皇断じて「機関」ではあらせられない。天皇國日本の「法」の尊厳性は、「天皇の仰せごと」といふところにある。天皇國日本においては憲法を含め全ての「法」の正統性は、天皇の神聖権威によるのである。天皇の正統性は憲法によるのではない。現御神日本天皇以上の権威は日本には存在しない。「皇位継承」など皇室に関することは、國家の権力機構である立法府・行政府で決めるべきではなく、最終的には、天皇陛下の大御心に遵ふべきである。

 

「皇位継承」「『皇室典範』改定」は、日本國家を體現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治問題とは全く性格を異にする。また、皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。

 

ゆゑに、権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などといふ議論は全く間違ってゐる。日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の體現者であらせられる天皇の御意志を体してて決められるべきである。

 

『憲法の國體条項』『皇室典範』は、天皇國日本といふかけがへのない信仰共同體・祭祀國家の存亡に関はる。また、日本天皇の「皇位」は、他國の「王位」、元首の「地位」とは全くその本質を異にする。天皇・皇室の根幹に関はる事柄は、権力機関で議論し決定すべきではない。

 

「皇位」は、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體日本の國體に関する神聖なる事柄であり、世俗の権力問題ではない。即ち決して『現行憲法』のいふ「政治権力作用としての國政」ではない。占領軍に押し付けられた『占領憲法』などに拘束されて、天皇の大御心を無視するなどといふことは許されない。

 

國體の上に成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。したがって、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の国柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣()べられた事が最高の「法」と考へられた。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。「詔勅」は神の御意志なのである。

 

天皇陛下は、日本傳統精神の體現者であらせられる。信仰共同體日本・祭祀國家日本の根本に関することは、天皇の大御心に随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基本である。天皇は祭祀主であらせられ、権力者ではない。天皇の大御心に随順することは、権力者に絶対服従するのとは全く異なる。

 

「皇位」は「天津日嗣の高御座」と申し上げる。これは、「高天原にゐます天照大御神の靈統を繼承される御方の座される高い御位」といふほどの意である。まさに神聖不可侵の「御位」なのである。その神聖なる御位=「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない。あくまでも天つ神の御意志・神代以来の傳統に基くべきである。そして神の御意志・肇國以来の傳統の體現者は、上御一人日本天皇であらせられる。天つ神の地上におけるご代理=現御神であらせられ、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。これが一番大切である。いかなる権力者であらうとも、いかなる立場の者であらうとも、臣下が議論して決めるべきではない。

 

旧『皇室典範』は、明治天皇が裁定され、制定された。即ち勅定である。議會や政府が定めたのではない。皇室に関はることは、なべて大御心に俟つべきである。一切は大御心のまにまにが、臣下國民のあるべき姿勢である。

 

天皇のご意向を無視して決定することは、政體が國體を規制し、権力が権威を規制し、「俗」が「聖」を規制することになる。これは文字通り國體破壊である。

 

今の政治家が『皇室典範』を改定すること自體、不敬不遜の極みといふべきである。何回も繰り返すが、「天津日嗣の高御座の繼承」といふ神聖不可侵の事柄を、上御一人の御意志をうかがふこともせず、政争が繰り返される権力機構たる議會で決めるのは、間違ってゐる。

 

日本國の生命・歴史・傳統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志にまつらふことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」といふことである。

 

 現御神信仰の公的表現は、『宣命詔勅』に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く…」と示されてゐる。 

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられる。その大君に對し奉り、臣下國民は赤き心直き心で仕へまつるのが日本國民の道である。そして上御一人の大御心は『おほみことのり』即ち詔勅・大御歌・公的御行動によって示されるのである。

|

« 千駄木庵日乗九月二十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗九月二十三日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/64242548

この記事へのトラックバック一覧です: 「皇位」とは、『天津日嗣の高御座』である。普通一般の國家の國家元首・最高権力者の「地位」とはまったく次元を異にする。「皇位継承」「御譲位」についてはこの事の大前提にしなければならない:

« 千駄木庵日乗九月二十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗九月二十三日 »