« 千駄木庵日乗八月二十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月二十三日 »

2016年8月23日 (火)

戦勝国によって押し付けられた占領憲法の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない

 西洋の成文法というものは、一定の地域で共同生活を営む人間同士が信頼することができなくなり、文章で色々な決め事を書いておかなければならない状況になってから作られるようになったのであろう。

 

 要するに西洋の成文法とは共同生活を営む人間同士の契約文書である。ということは、人間同士が本当に信頼し合って生きていく世の中であれば成文法などは本来不必要だとも言える。極論すれば成文法は人間性悪説に立脚していると言っても過言ではない。

 

 西洋の成文憲法の淵源とされる『マグナカルタ』(一二一五年、イギリスの封建諸侯が國王ジョンに迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。國王の専制から國民の権利・自由を守るための典拠としてイギリスの立憲制の支柱とされる)は、専制君主と國民との間の不信感に発して作られた契約文書にほかならない。ここから憲法は権力の制限規範だという考え方が生まれた。

 

 天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家・信仰共同體である日本國には成文法は本来不必要なのである。

 

 しかし、現実には明治以来、近代國家が建設され、國家権力機構も巨大化し、西洋文化・文明も輸入されてきたため、國民が政治に参与し、且つ権力の圧迫から國民の自由を守るためにも、成文憲法が必要であるということが常識となっている。つまり、近代以後西洋法思想が日本に入ってきて、日本にも欧米諸國と同じような成文憲法が必要であるということになった。そこで制定されたのが『大日本帝國憲法』である。

 

 明治天皇は『大日本帝國憲法及び皇室典範制定の御告文』(明治二十二年二月十一日)に、「茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス。惟フニ此レ皆 皇祖 皇宗ノ後裔ニ貽(のこ)シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス」と示されている。「洪範」とは天下を統治する大法という意味、「紹述」とは先人の事業や精神を受け継いで、それにしたがって行なう意味である。

 

 『大日本帝國憲法』と『皇室典範』は、天照大神の御命令によって高天原より瑞穂の國に天降られた天孫邇邇藝命以来御歴代の天皇の日本國御統治の大法を実行することを記した成文法なのである。

 

 成文法がどうしても必要であるとすれば、、日本國の成文憲法は、人間同士の不信ではなく、信頼という日本の麗しい精神伝統に立脚した成文憲法でなければならない。天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家という日本國の道統が成文憲法の条文にも正しく表現されなくてはならないのである。

 

 國體(國柄)は、憲法に基づいて確立されるのではない。一國の國體(國柄)に基づいて憲法の國體に関する条項が成文化されなければならない。天皇國日本の國體は、成文憲法が制定される以前からずっと続いてきたのであり、憲法に規定されることによって合法性が与えられたのではない。

 

 成文憲法は國の基本法であるけれども、「憲法にこう書かれているから、皇室はこうあらねばならない」とか「天皇はこういうことをされてはならない」と主張するのは本末転倒なのである。日本國の憲法は天皇の國家統治の道統に即して制定されなければならないのである。「憲法があって國家がある」のではなく、「國家があって憲法がある」のである。

 

 また、成文憲法というものは、あくまでも國家の権力機構やその権限を文章に規定したものなのである。日本國の國體とか伝統とかは憲法に規定されるものではない。

 

 したがって、成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。

 

 憲法や政治権力は、その権限を越えて、共同體國家の精神伝統及び國民の精神生活、道徳生活、文化創造活動などに介入したり制限を加えたりしてはならない。特に成文法によって、天皇皇室を規制し奉ってはならない。成文憲法や政治権力は、日本國の道統に立脚し、その道統を正しく実際の國家において実現するための役割を果たすべきなのである。

 

 繰り返し言うが、日本國の憲法は、天皇中心の日本國體(國柄)に基づいて制定されなければならない。

 

 そもそも日本國という國家は、単なる権力機構・政治的支配機関ではない。もっと大らかにして神聖なる存在であり、精神的・道義的・信仰的・文化的存在である。人と人とが精神的に結合した共同體である。日本國はその生成の過程を見れば明らかな通り、天皇を祭祀主とする信仰共同體である。日本國は革命とか開拓によって人為的に造られた國ではなく、神が生みたもうた國であるという神話と信仰が古来から今日まで信じられて来ている。

 

 國家を単なる権力機関として見ると、天皇の神聖性・国家の道義性を否定し、日本國の文化も、伝統信仰も、文化も、道義も、全て権力機関としての國家の下に置かれ、その支配を受けなければならなくなる。そして権力機関としての國家のみが前面に出て、それが國民と対立し、やがて國家の中で権力と國民の闘争が日常化する。現代日本は、まさにそうした状況に置かれつつある。

 

 西洋法思想がその理念となり、國家を権力機関としてとらえた現行憲法がある限り、國家は美しく良きものであり、人間はその國の國民として生きることによって幸福を得るということが不可能になるのである。

 

 今日においてさらに重大な問題は、神聖君主・日本國天皇が、成文憲法しかも戦勝国によって押し付けられた占領憲法の制約下に置かれるようになっていることである。こうしたことは天皇の眞姿を隠蔽するのみならず國體破壊の導火線である。

 

本日、内閣法制局などは、生前御譲位を将来にわたって可能にするためには「憲法改正が必要」と指摘し、これは「占領憲法」第1条で「天皇の地位は国民の総意に基づく」と定めていて、天皇のご意思で譲位されることはこれに抵触するという理由だというニュースが流れた。

 

繰り返し言う。成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。戦勝国によって押し付けられた占領憲法の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。 天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。

 

 

 

|

« 千駄木庵日乗八月二十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月二十三日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/64097823

この記事へのトラックバック一覧です: 戦勝国によって押し付けられた占領憲法の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない:

« 千駄木庵日乗八月二十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月二十三日 »