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2016年8月21日 (日)

國體・憲法・国民主権論

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 

 日本では古来主権という言葉はなく、天皇の御権能を「知らす」ないし「治らす」と申し上げた。言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。『大日本帝国憲法』ではこれを統治権という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説が、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達し、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然だ。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたという。いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本天皇の国家統治の傳統、日本國體とは全く異なる概念であり法律用語である。

 

 西洋流の国家観によれば、君主主権と国民主権とは相対立するもので両立し得ない観念である。君主と人民との闘争に終始した西洋の歴史からすれば、これは当然のことと言えよう。西洋の国法学説は、この観点に立って展開されてきたのである。

 

 西洋の国法学説でいう主権とは、近代中央集権国家がフランスに初めて成立する過程において国王の権力の伸長を国内外に主張し、絶対王政を正当化するための理論的武器となったものである。それは「朕は国家なり」という言葉でも明らかな如く、国王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、国民は国王に信者の如く絶対服従するものとされ、国王と国民とは二極の対立概念として理解されているのである。

 西洋の国民主権論は、もっとも徹底した「反君主制」の理論として確立されたのである。そしてかかる反君主制の思想が、敗戦後戦勝国によって憲法の中に盛り込まれたのである。

 

 日本国は欧米の国家のような契約国家ではなく、信仰共同体であり、祭祀国家である。西洋の主権概念は、日本国体とは絶対に相容れない。なぜなら日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって祭祀共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。天皇と国民とを、氷炭相容れない対立関係と見るのは、西洋流の考え方に立っており、日本の伝統とは相容れない。

 

 我々がここで確認しておきたいことは、国民主権は決して人類普遍の原理ではないということである。前述したように、国民主権という考え方は国王・皇帝と国民が対立し抗争した歴史を持つ西洋諸国の考え方である。十七世紀のヨーロッパにおける国王と人民との争いの中で、ルソーが理論化した考え方が国民主権であるといわれている。国王の権力の淵源は国民の委託にあるのだから国民に主権があり、国民の意向に反する君主は何時でも打倒できるという考えである。

 

 主権という言葉は西洋の国法学の影響により、国家における最高の政治権力と一般に解せられており、権力至上主義の臭みが濃厚である。「帝国憲法」における天皇の統治権も権力中心の立場において理解する憲法学者がいたし、今日においても存在する。しかしこれは、わが国の歴史と伝統に合致しない。

 

 日本の法学者は、大なり小なり西洋の学説の影響を受けているが、主権とか統治権という言葉が古来無かった日本としては、学者が西洋の学理をそのまま取り入れてしまったことが、今日の憲法論議において混乱を招いてる原因である。

 

 日本天皇の統治の伝統は、祭祀であり、祈りである。そして公平無私、慈悲であり徳であった。権力ではなかった。日本國體の特質はこれである。

 

 日本は建国以来天皇を中心として全国民が統合され、同じ運命、同じ使命を担う祭祀共同体・信仰共同体として生成発展してきたこと。天皇と国民との関係は、天皇の権力支配によって成り立っているのではなくて、君民一体、君民一如の歴史的、精神的、信仰的つながりを不可欠の内容としている。

 

 「現行占領憲法」における国民主権は西洋的意味で用いられており、日本国体の道統と相反するものである。

 

 美濃部達吉氏はその著『憲法概論』において、国民主権を定義して、主権は国家意思を構成する最高の源泉であり、その源泉を国民とすると「国民主権」となり、この源泉を天皇とすると「天皇主権」となる、と論じている。しかし、日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ憲法に規定するというのは、國體破壊・伝統無視につながる。

 

 「国民」とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統の知恵が法の根本規範を与える。

 

「現行憲法」における「国民」とは今日ただ今実際に生存する人々のみのことである。そういう意味の「国民」は伝統精神に同調することもあれば、それから逸脱することもあり得る存在である。そのような国民は民主主義にあっては「多数参加に基づく多数決」という形で、政治的決定を行う。しかしそれは誤りを犯すこともありうるのである。

 

 また「主権」につていも、「なにものにも制限されることのない最高権力」であり、歴史のうちに蓄積されていく根本規範そのものにあるという考え方がある。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ない国民が主権を持つというのは独裁政治・専制政治・衆愚政治への危険が伴う。不完全なものである国民は、不完全な政治制度帆選択することがある。

 

今日ただ今実際に生存している人々という意味における「国民」に主権が存するとする「現行憲法」は、「多数参加に基づく多数決」として民主主義方式が「多数者の専制」という名の衆愚政治、あるいは国民が選んだ個人あるいは集団による専制政治へ堕ちていく危険がある。

 

 天皇の地位が、「国民の総意に基づく」とすると、天皇の地位は現在における多数派の国民の意志に基づき、国民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位はいかようにでも左右できるという見解が成り立つ。今日の憲法学者の多数はこの見解に立っている。

 

 一国の憲法はそれを構成する民族の伝統的規範意識を踏まえたものであることが不可欠の条件であるとされている。欧米の古い憲法が生きた憲法として欧米においては効力を持っているのに対し、欧米の憲法を真似て制定した新興国の憲法が画餅化しているのはこのためである。

 

 「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制されて制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しない。

 

欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という国家体制を押しつけることは、日本の國體を破壊する。日本国は天皇国である。日本国の国柄に合致した憲法を回復すべきである。

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