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2016年7月 9日 (土)

「忠孝一本の國民精神」を命懸けで表白した吉田松陰の辞世歌

安政六年十月二十日、死罪に処せられることを察知した松陰は、故郷の父叔兄に宛てた手紙において、「平生学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。」と書き、

 

「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」

 

といふ歌を記した。あふれるばかりの思いとはりつめた精神が五・七・五・七・七といふ定型に凝縮されてゐる。かかる思いは和歌によってしか表現され得ないであろう。この松陰の歌こそ、「忠孝一本の國民精神」を命懸けで表白した歌である。

 

徳富蘇峰はこの歌について「死するに際して、第一彼れの念頭に上りし者は、その父母にてありしなり。…かくの如き人にしてかくの如き事を作す、不思議なる忠臣を孝子の門に求るの語、吾人実にその真なるを疑う能ず」(『吉田松陰』)と論じている。

 

そして、吉田松陰は判決が下る直前の安政六年十月二十五日から二十六日にかけて『留魂録』を書きあげた。その冒頭に、

 

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」

 

という歌を記した。

 

末尾には、

 

「心なることの種々かき置ぬ思のこせることなかりけり」

「呼たしの声まつ外に今の世に待へき事のなかりける哉」

「討れたる吾をあわれと見む人は君をあかめて夷払へよ」

「愚なるわれをも友とめつ人はわかとも友とめてよ人々」

「七たひも生かへりつゝ夷をそ攘はむこゝろ吾忘れめや」

 

の辞世の和歌を記した。

 

「討れたる」の歌は文字通り命を懸けた尊皇攘夷の志の表白である。日本の國家的危機を救ふ根本原理は、実に「尊皇攘夷」である。

 

十月二十七日朝、死罪の判決を受けた松陰は、

「吾 今 為 國 死 死 不 負 君 親 悠 悠 天 地 事 観 照 在 明 神」(吾今國の為に死す 死して君親に負かず 悠悠たり天地の事 観照明神に在り)

といふ辞世の漢詩を遺した。

 

明治元年(一八六八)九月、明治天皇御東行に供奉した松陰門下の木戸孝允は、その日記九月二十一日の項に、「(注・安政六年)六月中旬深川に至り、松陰師の江戸拘引せらるを聞き、歎驚及ばず。同秋続きて江戸に至る。而し間日なく終に幕府の為殺戮を受く。窃に其の首体を奪ひて骨原(こつがはら)に葬る。其の後若林に改装し、又甲子(元治元年)の変(注・第一次長州戦争)、幕の毀つところとなる。此の間の事言ふに忍びざるなり。余今日生存して未曽有の盛事に遭遇し、鳳輦に扈陪して関左(注・南を向けば東は左であるところから関東のことをいふ)に入り、而して諸同志に見る可からず。悲歎こもごも到る。…往時を追憾し、涕雨の如し」

と記した。

 

明治維新断行後、明治天皇に供奉して東京に来た木戸孝允は、吉田松陰が処刑された当時の事、そして第一次長州戦争の時、世田谷若林の長州藩の土地に埋葬された松陰の墓まで毀損されたことを思ひ出しているのである。

 

維新の先駆者たる吉田松陰の志は門下生達に強烈に引き継がれ大きく花開き、徳川幕府は打倒され、維新が成就した。現代においても、明治維新を目指して戦った志士たちの悲しい志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切である。

 

内憂外患交々至るといった状況にある今日こそ、吉田松陰の如く、日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂を奮ひ立たさなければならない時である。

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