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2016年7月23日 (土)

鳥越俊太郎に鳥越神社を参拝する資格なし

七月十九日、鳥越俊太郎は、浅草の鳥越神社にて必勝の祈願を行った。鳥越は参拝した時に「鳥越神社というのがあるということは知っていたんですが、今回初めて来ました。宮司さんに『鳥越の俊太郎〜』と名を呼ばれて、感動しました」と語ったといふ。

 

鳥越神社の御祭神は、日本武尊である。日本武尊は、申し上げるまでもなく、景行天皇の第二皇子であらせられ、第十四代・仲哀天皇の御父君であらせられる。

 

日本武尊が東夷征討の途次、今日、鳥越神社が鎮座する地にしばらく留まられ、当地の悪者を退治されたので、土地の人々は日本武尊の御徳を慕って、白鳥明神として祀ったのが鳥越神社の淵源であると承る。

 

日本武尊は、御年十六歳にして父君・景行天皇から征西事業を任され、九州・中国地方の平定に尽力され、さらに東国の平定へ向かはれ、東夷の反乱を水火の難を冒して平定を達成される。ご幼少から武芸に秀で、怪力無双であられたと承る。

 

日本国民は、日本武尊を武の神としてお慕ひ申上げ、全国各地に日本武尊の御神霊をお祀りする神社が鎮座してゐる。

 

日本武尊が能煩野(のぼの・今日の三重県鈴鹿郡)で病となられ薨じられる時、

 

「孃子(をとめ)の 床の辺()に 吾()が置きし つるぎの大刀(たち) その大刀はや」   

 

 といふ歌を詠まれた。「乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ」といふほどの意である。本朝最古の辞世歌といはれる。

 

 日本武尊は、御東征の帰途、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)のもとに、叔母君であった倭姫命から授けられた草薙の剣を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市)で急病になられた時の御歌である。「乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ」といふほどの意である。 

 

守護霊が宿る神剣を美夜受姫に預けたために、急病となられたことを嘆かれた御歌である。ご自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。慎みの欠如・傲慢さから素手でも勝てると思ひ、剣を妻のもとに預けて出発したのが間違ひのもとといふ物語がこの御歌の背景にある。その草薙の剣を美夜受姫は永く祀られる。その神社が熱田神宮である。

 

この御歌は美夜受姫への愛と武の心が渾然一體となってゐる。英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた日本武尊の辞世の歌にふさはしいロマンと勇者の世界が歌はれてゐる。恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和してゐる。

 

この物語は、戦ひにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性であり、日本武士道の本源である事を語ってゐる。即ち、この御歌はまさに「剣魂歌心」の歌である。武士道は、決して中世に生まれた精神ではない。神代からの道統である。

 

人間が命懸けになった時、素晴らしい歌が生まれる。それは明治維新の志士たちが大事を実行するに当たって決意を込めた歌を詠んだことや、大東亜戦争の時、特攻隊員が和歌に自分の最後の思ひを託して死地に赴いて行ったことを見ればわかる。詩歌は「命懸け」の精神と行動の美的表現なのである。

 

村上一郎氏は、文学及び詩歌を定義して「詩的な言語表現をもってする人間の生き死にの道の表現である」(『明治維新の精神過程』)と語ってゐる。人間の「生き死にの道」の表現を言語で行ふことは、言語の価値を最高に生かすことである。

 

日本武尊のこの御歌について、萩原朔太郎氏は、「ホーマー的ヒロイックな叙事詩(英雄詩)の情操と、ハイネ的スヰートな叙情詩(恋愛詩)の詩操と、二つの對蹠的な詩情が、一つに結合融和して現はれてゐる。そしてこの一つの精神こそ、所謂『戰にも強く戀に持つ良い』天孫大和民族の原質的な民族性で、奈良朝以後に於ける日本武士道の本源となってゐる。」(朔太郎遺稿)と論じ、保田與重郎氏は、「武人としてのその名顕な日本武尊の辞世にむしろ耐へがたい至情を味ふのである。わが神典期の最後の第一人者、この薄命の武人、光栄の詩人に於ては、完全に神典の自然な神人同一意識と、古典の血統意識とが混沌してゐた」(戴冠詩人の御一人者)と論じてゐる。                      

 

日本武尊は、わが國の武人の典型であられると共に、わが國の詩人の典型であらせられた。戦闘的恬澹・捨身無我の精神は後世の武士に強く生かされる。まさしく「剣魂歌心」がわが國の伝統なのである。

 

わが國の武士は太刀を「力と勇気と名誉と忠誠の表徴」として尊んだ。そればかりでなく太刀は神聖なものとして尊ばれた。太刀を御神体とする神社も数多くある。

 

日本武尊が「床の辺()に 吾()が置きし つるぎの大刀(たち)」と 歌ってをられるやうに、古来太刀は床の間に置かれた。太刀に対する侮辱はその太刀の持ち主に対する侮辱とされた。

 

刀鍛冶は単なる工人ではなく、神聖なる職に従事するものであった。刀鍛冶は斎戒沐浴して工を始めた。太刀を作ることは神聖な宗教的行事とされた。

 

太刀(タチ)の語源は、「断()ち」であり、「顕()ち・現()ち」である。罪穢を断つと共に、罪穢を断った後に善き事を顕現せしめるといふ言霊である。罪穢を祓ひ清めた後、神威を発動せしめる意である。太刀によって邪悪を滅ぼし、穢れを清め、本来の清らかさを顕現せしめるのである。

 

太刀は「幾振り」と数へられるやうに、魂ふり(人の魂をふるい立たせ活力を与へ霊力を増殖させる行事)のための呪具でもあった。日本の剣は人の命を絶つための道具ではなく、人の命を生かす道具なのである。まさに「活人剣」なのである。

 

太刀・剣には魂が籠ってゐると信じられてきたといふことは、太刀を授受することによって精神的・魂的な信頼関係が成立することを意味する。敗者から勝者へ太刀が奉られるのは、恭順の意を表する象徴的行事である。小野田寛郎氏がそれを行ったことは多くの人が記憶してゐるところである。

 

小野田氏がルパング島で発見された後、当時のフィリッピンのマルコス大統領に軍刀を差し出した。軍人の魂であるところの軍刀を差し出すといふことは恭順の意を表するといふことである。小野田氏は昭和の御代において武人の伝統を継承した。

 

日本武尊は、国に対して、上御一人に対し、そして父母・妻・子供と言った家族に対して「捨身無我」になって尽くすことが愛の極致であることを身を以て示された方である。

 

「すめらみくにのもののふはいかなることをかつとむべき、ただ身に持てるまごころを君と親とに尽くすまで」という歌がある。「まことをつくす」ことが捨身無我なのであらう。日本人は、「無私の精神」「無我」と言ふことを大切にしてきた。これが日本精神である。

 

西欧において理性的存在者たる自我を拡張し、或いは自我を実現することを根本と考へるのとは対照的に、わが國では『私』を去り『我』を無にすることを大切にしてゐる。天皇陛下は、日本民族の長い歴史の中で、清明心の根源、無我の体現者、日本人の『道』の中心者として君臨されてきた。これは、日本人だけでなく、全人類のかけがへのない宝である。

 

日本武尊が御生涯をかけて体現された「捨身無我」「剣魂歌心」「もののふの道」といふ日本伝統精神を否定してゐるのが「現行占領憲法」なのである。外国流・西洋流の個人主義・自我思想に満ちてゐる『現行憲法』は、闘争と破壊と分裂を招き、精神的・思想的に日本を劣化させ、堕落させてきた「悪の根源」なのである。

 

大野健雄氏(元宮内庁総務課長)はその著書『天皇のまつり』において、「本来日本語は美しいもので、『私は』『私に』などギスギスした一人称の字句を、いちいち用いなくとも自然に意の通ずるところに特徴がある。この憲法(註・現行憲法)の前文を見ると、『われらとわれらの子孫』から始まって『われら』だけでもこの短い文の中に七つもある。これが翻訳臭である」と論じてゐる。

 

「武」を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳としされ、「平和と民主主義」を謳歌してゐる今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発してゐる。魂の腐敗と國家の欺瞞は、軍國主義國家であったといはれる戦前の日本にはあり得なかったやうな、人命軽視といふ言葉すら空しくなる残虐なる事件が日常茶飯事になった現代社會を現出させた。 

 

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴へられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまひ、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 

 さらに三島氏は『檄文』において「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」と訴へてゐる。

 

今日の日本国も「ますらをの精神」「武士の心」「やまと魂」「捨身無我の心」を保持した人が第一線に立つべきであ。そういう時に来ている。

 

『現行占領憲法』擁護・戦後日本の似非平和主義擁護のために都知事選に立候補したなどと言ふ鳥越俊太郎が、「捨身無我」「剣魂歌心」「もののふの道」を体現される日本武尊をお祀りする鳥越神社に参拝し、戦勝を祈願するなどいふことは、文字通り、茶番劇である。

 

鳥越は鳥越神社の御存在すら知らなかった。ましていはんや、鳥越神社の御祭神が日本武尊であること名で知る由も無かったであろう。「神は非礼を受けたまはず」といふ言葉がある。鳥越俊太郎などといふ「現行占領憲」擁護論者、戦後平和主義擁護論者に鳥越神社に参拝する資格は毛筋の横幅ほども無かったのである。

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