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2016年7月 1日 (金)

『美の祝典―江戸絵画の華やぎ』展を参観して

本日参観した『美の祝典―江戸絵画の華やぎ』展は、出光興産の創業者・出光佐三氏が収集した「出光コレクション」を公開する趣旨のもとに開館した出光美術館の名品を展示した展覧会である。

平安朝の『伴大納言絵巻』、桃山時代の『南蛮屏風』『祇園祭礼図屏風』、江戸時代の『洛中洛外図屏風』『江戸名所図屏風』、喜多川歌麿の『更衣美人図』、葛飾北斎の『春秋二美人図』、酒井抱一の『風神雷神図屏風』『八橋図屏風』『紅白梅図屏風』などの江戸期の琳派の絵画、尾形光琳の『蹴鞠布袋図』などが展示されていた。

『伴大納言絵巻』は、伴大納言に関わる「応天門の変」を題材にした絵巻物である。大伴氏の末裔である伴大納言(伴善男)が代理の枢要な門である応天門に放火したとの罪で伊豆の国に流刑になった事件が描かれている。紅蓮の炎に包まれる応天門、そして火災の様子を見ている庶民たち、伴大納言が身柄を拘束された時に家人が嘆き悲しむ姿が実にリアルに描かれている。一人一人の表情も個性豊かに描写されており、面白い。絵巻物は、巻子本と同じように、巻物を広げていくと物語が展開し流れていく構成になっている。こういう美術作品は外国にはないのではなかろうか。

 

「応天門の変」は、藤原氏による大伴氏排除の謀略ではないとかと言われている。大伴氏は神代以来の血筋を誇る名族である。始祖は、天孫降臨の際、先導のお役目を担った天忍日命である。また、神武天皇の御東征の先鋒を務め、神武天皇御即位の際には宮門の警衛を務めた道臣命も大伴氏の先祖である。

 

「大伴」は「大きな伴造」という意味で、天皇に武門の棟梁として天皇にお仕えし、臣下としては最高の家柄である。そして,『萬葉集』の編者とされる大伴家持、その父の大伴旅人は、大伴氏の棟梁である。しかし、大化の改新以後、力を増してきた藤原氏によって圧迫されるようになった。「応天門の変」はその総決算と言えるのではないか。

 

『江戸名所図屏風』は、繁盛する江戸の町と庶民の姿、そして上野寛永寺、不忍池、湯島天神、神田明神、愛宕山、増上寺、日本橋、京橋、新橋など東京に住む者にとってとても親しい建物や橋が描かれている。特に、上野寛永寺、不忍池、湯島天神は私にとってまことに身近である。不忍池に舞い降りた鳥が小さく描かれているが、これはペリカンであるという。

『洛中洛外図屏風』は、江戸時代の作品であるためか、德川氏の京都における本拠地であった二条城が大きく描かれていた。取り壊された豊国社が描かれているのが不思議であった。それだけ上方において豊太閤は人気があったのであろう。

 

酒井抱一の『風神雷神図屏風』『八橋図屏風』『紅白梅図屏風』はまことに美しい絵画であり、特に『紅白梅図屏風』は生命力にあふれていた。抱一は近年大きな人気を集めている若冲と並ぶ画家であろう。酒井抱一は、姫路藩主・酒井忠以の弟として生まれた。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)である。大給松平家の屋敷は、私が育った家の前の坂(これを大給坂と言う)を上がったところにあった。その屋敷は、私の幼少の頃は、大平正芳氏が住んでいた。江戸時代は画家という言葉は勿論無く、「絵師」と呼ばれ、身分的にはそう高くはなかったようであるが、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家の子息が「絵師」になったというのはなかなか面白い事実である。

大伴氏と大伴家持に関する拙論を掲載する。

 

大伴家持の新年を寿ぐ歌

 

新年を寿ぐ代表的な「やまと歌」は大伴家持の次の歌である。

 

 三年春正月、因幡國の廳(まつりごとどころ)に、国郡の司等に饗(あ へ)を賜へる宴の歌一首

 

                     

 

新しき 年の始の 初春の 今日ふる雪の いや重()け吉事(よごと)                    

 

                    

 

 大伴家持が四十二歳の時の賀歌(お祝いの歌)で、『萬葉集』最後の歌である。天平宝字三年(七五九)の正月(太陽暦では二月二日)、因幡の國(鳥取県東部)の國廳(行政を扱う役所)で、因幡守(今日の県知事)であった家持が、恒例により郡長などの部下に正月の宴を与へた時に詠んだ歌。

 

 「いや重け吉事」の「重け」はあとからあとから絶える事なく続くこと。「新しい年のはじめの初春の今日降る雪の積もるやうに良きことが積もれよ」といふほどの意。

 

 元旦に雪が降るのは瑞兆で、その年は豊作であるといはれてゐた。しんしんと雪が降り積もるやうにめでたきことも重なれよといふ願望を歌った。雪の降る眼前の光景を見て歌った平明で清潔で堂々たる『萬葉集』の掉尾を飾るに最も相応しい名歌である。

 

 家持と同族であった大伴古慈悲とか大伴古麻呂という人たちは、称徳天皇の寵を得て専横をきはめてゐた藤原仲麻呂打倒の動きに関ってみんな粛清されてしまった。そして直接クーデター計画に関はらなかった家持も因幡國に左遷されたのである。

 

 さういふ状況下にあっても、家持は、年の初めにかういふめでたい歌を詠んだ。「言事不二」といふ言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。聖書にも「言葉は神なりき。よろずものこれによりて成る」と書かれてゐる。家持が、「いや重け吉事」と歌ったのは、めでたい言葉を発することによって吉事が本当に事実として実現すると信じたのである。

 

 そして、『萬葉集』の最後の歌にこれを収め、一大歌集の締めくくりにした。国が混乱し、世の有様は悲痛であり慟哭すべきものであっても、また自分の一族が危機に瀕してゐても、否、だからこそ、天皇国日本の国の伝統を愛し讃へ、日本の国の永遠の栄えと安泰を祈る心の表白である。

 

 また、『萬葉集』編者(家持自身かもしれない)は、祝言性豊かなこの歌を全巻の最後に置き、『萬葉集』を萬世の後まで伝へやうとする志を込めたと思はれる。我々は『萬葉集』という名称に、無限の力と祈りとを実感するのである。

 

 ともかくこの歌は、わが国の数多い和歌の中でもとりわけて尊くも意義深い歌である。

 

 家持は後に、都に戻り、参議兼東宮大夫、東北鎮撫の総帥持節征東将軍などを歴任し、延暦四年(七八五)、六十四歳でこの世を去ってゐる。

 

大伴家持は奈良時代の『萬葉集』の代表的歌人。旅人の子。奈良朝末期の人。地方、中央の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。歌は繊細、優美を基調とし、すぐれた技巧と抒情性を示し、萬葉末期を代表。『萬葉集』中、歌数が最も多く、その編者といはれる。養老二年(七一八)~延暦四年(七八五)。 

 

家持は藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。さうした生涯にあって、神ながらの精神・日本の傳統精神を守らうとし、私権を以て世を覆はむとする者たちに対して悲憤して止まなかった。 

 

大伴氏は、遠祖・天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫・邇邇藝命御降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。古代の中央豪族。大和朝廷の草創期に来目部・佐伯部などの集団を統宰して朝廷に仕へ、「大連」となり軍事力を担った有力な氏族である。壬申の乱には大海人皇子方に属した。御行・安麻呂・旅人は大納言に昇進した。

 

武門の名門たる大伴氏が『萬葉集』と深い関はりがあるのは、言を向けることが平定であったといふ古代信仰による。「言」とは言霊の力である。物部の「もの」の力である。

 

天平感宝元年(七四九)五月十二日、大伴家持は越中の國守の館で『陸奥の國より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌』(四〇九四)を詠んだ。

 

「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代」と日本国の肇国から歌ひ起こし、「大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負()ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みづ)く屍 山行ば 草生(むす)屍 大君の 邊()にこそ死なめ 顧みは 

 

せじと言立(ことだて) 丈夫(ますらを)の 清きその名を いにしへよ 今の現(をつづ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ大君の 御門(みかど)の守護(まもり) 吾をおきて また人はあらじと いや立て 思ひし増(まさ)る 大君の 御言の幸の 聞けば貴み」と歌った。

 

聖武天皇は、天平二十一年(七四九)四月一日に、東大寺に行幸され、わが国からはじめて黄金を出した喜びを橘諸兄に仏前に報告せしめ、この年の四月十四日を以て天平感宝と改元された。その時の『宣命』で、聖武天皇は特に大伴一族の大伴佐伯のことに触れられ、「大伴佐伯宿禰は常にもいふ如く天皇(すめら)が朝(みかど)守り仕へ奉ること顧みなき人等(ども)にあれば、汝(いまし)たちの祖(おや)どもの言ひ来らく、海行かばみづく屍、山行かば草むす屍、王(おおぎみ)のへにこそ死なめ、のどには(静かには、穏やかには)死なじ(「のどにはしなじ」で無駄死にはしないの意)と言ひ来る人等(ひとども)となも聞こしめす。」と称賛された。これに感激して、家持がこの『陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌』を詠んだのである。佐伯氏は、大伴氏の別家で、武力を以て朝廷に仕へた名族。大伴氏と祖を同じくする。

 

 「海ゆかば 水づく屍 山行かば草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」には、大伴一族の「いかなることがあらうとも、天皇の帰一し、天皇の御為に、天皇のおそばで死にたい」といふ戀闕心・勤皇精神が歌はれてゐる。大君のそばで倒れるのは武士(もののふ)たるものの当然の帰結としてゐる。

 

「み民われ・武人」たる者の心を言ひ尽くしてゐる。これは、大伴氏のならず、全国民的な殉忠の精神をうたひあげた言葉となってゐる。「大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」といふ精神は、下野の国の防人・火長今奉部與曾布(かちゃういままつりべのよそふ)「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」(四三七三・防人としての任務につく今日からは、最早我が身のことは一切顧みないで、ふつつかながら大君にお仕へ申し上げる兵士として私は出発致します)と同じで精神あり、もののふの心である。

 

現御神天皇への捨身無我の誠忠をあらわした精神であり、日本人としての偽りのないすがすがしい「まごころ」であり、清明心である。

 

「大君の 御門(みかど)の守護(まもり) 吾をおきて また人はあらじと いや立て 思ひし増(まさ)る」は、文字通り恋闕の心である。最も大切な日本精神・もののふの心である。もののふとしての自負心である。天皇の御信頼に臣としてこたへ奉る心の表白である。

 

保田與重郎氏は、「家持が陸奥國より黄金を出せる時の詔を賀してよんだ長歌のごときは、藤原氏の指導する文化精神に対する峻厳無比な抗議である彼はこの長歌の中で當時の指導精神を完全に無視して、堂々國初の精神を讃へ、一族に対して維新の史観とその人倫を教へたのである。」「この歌は盧舎那佛造營の讃歌に非ず、すべて國風の歴史と言葉をたゝへ、國ぶりの道とをしへを守ることに於て、この年の優諚(註・天皇の厚い仰せごと。天皇のめぐみ深いおことば)に奉行すべきことを、己と族に喩したものである。萬葉歌人は一人として東大寺に於ける數々の国家的祭典を歌ってゐないのである。」(『萬葉集の精神』)と論じてゐる。

 

萬葉時代とりわけ奈良の大佛造営の頃は、佛教が大きな力を持ってゐた。しかし、それにもかかはらず、伊勢の神宮をはじめとした日本の神々への尊崇の念は非常に篤いものがあった。日本人独自の伝統的美的精神を歌ひあげ国民精神の表白である『萬葉集』には佛教思想の影響はきはめて少ない。

 

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