« 千駄木庵日乗六月二十五日 | トップページ | 「第六十三回日本の心を學ぶ會」のお知らせ »

2016年6月26日 (日)

 明治維新と徳川慶喜

 徳川第十五代将軍・徳川慶喜は天保八年(一八三七)九月二十九日、水戸藩九代目藩主・徳川斉昭の七男として、江戸小石川の水戸藩邸に生まれた。母は有栖川宮織仁親王の王女、登美宮吉子女王である。水戸藩は、二代藩主・光圀以来、国史の振興につとめ、尊皇精神をその伝統として来た。とりわけ光圀は、三十五万石の所領のうち、八万石を国史振興即ち『大日本史』編纂の費用に充てたといわれる。

 

 しかし、徳川慶喜は徳川幕府打倒の武力戦であった戊辰戦争において、賊軍の総大将の汚名を蒙った。しかし慶喜は決して天皇に背くつもりもなかったし、背いたわけでもなかった。慶喜の父・徳川斉昭は、井伊直弼が勅許を得ずして開国した非を糾弾したことにより、「安政の大獄」において蟄居させられた。また、斉昭が藩主になった当時の水戸藩には、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎など天下に鳴り響く尊皇攘夷の学者がいた。長州の吉田松蔭もはるか水戸にまで来て教えを乞うたほどである。

 

 さらに、勅許を得ずして屈辱的な開国を行うという暴挙を行い、それに抗議した多くの志士たちを弾圧した井伊直弼を、桜田門外において討ち取ったのは、徳川斉昭を慕う水戸脱藩浪士たちであった。これが、幕末期の尊皇攘夷運動の発火点となったのである。その徳川斉昭の実子たる慶喜が、天皇に背くなどということはあり得ないことであった。

 

 徳川慶喜は、慶應二年(一八六六)十二月五日、征夷大将軍・内大臣に補任された。時に三十歳であった。ところが、攘夷の意志は極めて強く持っておられたけれども、「公武一和・公武合体」即ち「徳川幕府を存続させた上で、公家と武家とが協力して国難に当たるべし」と思し召されていた孝明天皇が、同年十二月二十五日に、御年・三十六歳で崩御された。そして、翌慶應三年(一八六七)睦仁親王(明治天皇)が御年十六歳で践祚された。これにより、朝廷内に徳川幕府を打倒して国難を打開せんとする勢力即ち倒幕派が勢力を強めた。

 

 こうした状況下にあって、徳川慶喜は、倒幕勢力の力を弱めるために、政体の根本的改革を断行しなければならないと痛感した。それが「大政奉還」である。この「大政奉還」は、土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白によるものである。そしてその建白書は、この年の六月に長崎から京都へ向かう航海の途中、坂本龍馬が後藤象二郎(二人とも土佐藩士)に授けた有名な『船中八策』(新政府綱領八策)を手直ししたものである。

 

 その内容は、「一、天下の大政を議する全権は朝廷にあり。乃我皇国の制度法則、一切万機、必ず京都の議政所より出づべし。一、議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至る迄、正明純良の士を撰挙すべし」などと書かれてあった。

 

そして、征夷大将軍が自発的に政権を朝廷に奉還し、徳川将軍は諸侯と同列に下り、合議を尽くすため新設する列藩会議の議長を慶喜が務める、というものであった。土佐藩としては、徳川家の政権参与の維持を図っている幕府側と倒幕を目指す薩摩・長州との妥協を計ったのである。

 

 そして、同年、十月十三日、京都にいた五十四藩の重臣を京都二条城に召集し、意見を聞いた上で、同十四日「大政奉還」の上書を奉呈し、翌十五日勅許された。慶喜は将軍職辞職も願い出たが、これは許されなかった。 

 

 徳川一族の者としてそして徳川将軍家を相続した者として徳川慶喜に徳川家の国政参与を何とか存続せしめようとする意志があったことは確かである。しかし、彼が皇室・天皇を蔑ろにする意志は毛頭無かったこともまた確かである。

 

 「大政奉還」は、明治維新断行後の政体変革とは比較にならない不徹底なものであるが、それでも、「天下の大政を議する全権は朝廷にあり」と書かれてあるように、天皇中心帰一の我が国の本来的な國體を明確にしている。また、議会政治形態を志向している。この二点において、徳川幕藩体制の根本的変革であったことは間違いない。    

 

 ただ、今すぐ大政を朝廷に奉還するとは言っても、朝廷側にはこれを受け入れる態勢はなかった。慶應三年十一月十七日の朝廷より征夷大将軍及び諸侯に対して下された大政改革の諮問に「政権の儀、武家へ御委任以来数百年。朝廷に於て廃絶の旧典、即今行き届かせられ難き儀は十目の視る所に候。…」と書かれてある通りである。これがまた慶喜の狙い目だったという説もある。たとえ徳川氏が朝廷に「大政奉還」をしても、朝廷には実際の政治を司る能力がないのだから、自然に徳川将軍家・幕府が政治権力行使を継続する以外にないと踏んでいたという説である。実際に徳川慶喜は、側近の西周などに「大政奉還」後の具体的な政権構想を立てさせていたという。あるいはそうかも知れない。

 

 しかし、事態は徳川将軍家にとってそう甘いものではなかった。薩摩・長州そして岩倉具視等倒幕派の公家たちは、「何としても徳川幕藩体制を打倒せずんば非ず」という強固な意志を持っていた。   

 

 徳川慶喜が「大政奉還」の上書を朝廷に提出したその日(慶應三年十月十四日)に、倒幕の密勅が下されていた。この「密勅」は、「大政奉還」によって決行の名分が失われたが、薩長両藩は藩兵を京都に上らせた。

 

また、十一月十五日、坂本龍馬・中岡慎太郎が京都近江屋で刺客に襲われ、暗殺された。暗殺したのは、最近まで幕府方の見廻り組・佐々木只三郎だとされていたが、最近薩摩による暗殺という説もある。坂本龍馬は「大政奉還」の下敷きとなった「船中八策」を起草した人物であり、かつ、徳川慶喜を尊敬し、さらに徳川氏を討伐するという意見には組みしていなかった。そこで坂本が邪魔な存在となった薩摩藩が彼を暗殺したというのである。

 

 一方、大阪・京都に駐屯する徳川幕府方兵力は一万を超している。そして、倒幕を目指して色々と運動していた薩・長・土・芸諸藩は「何としても徳川幕府を討たずんば非ず」という強固な意志を持っていた。まさに我が日本は内戦開始直前の状況となったのである。

 

 そして、慶應三年十二月八日、薩摩・広島・尾張・越前の諸藩の兵が突然御所の宮門を固め、岩倉具志が衣冠束帯に威儀を正して参内し、明治天皇に聖断あらせられた「王政復古」の大号令を発せられたき旨を奏上した。

 

 その「王政復古」の大号令といわれる「王政復古御沙汰書」には、「徳川内府従前御委任大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然、聞こし召され候……王政復古、国威挽回の御基立ち為され度く候間、自今摂関・幕府等廃絶、……諸事神武創業の始に原(もと)づき、…至当の公議を竭(つく)し、……」「近年物価格別騰貴、如何ともすべからざる勢、富者は益(ますます)富を累(かさ)ね、貧者は益窘急(差し迫った状態になること)に至り候趣、畢竟(つまるところ)政令正からざるより致す所、民は王者の大宝、百事御一新の折柄、旁(かたがた)宸衷(天皇の御心)を悩ませられ候。……」と示されている。

 

 徳川幕藩体制を廃絶し、神武天皇以来の国家御統治の真姿を回復し、さらに公議を尽くして国政を運営すべきであると示されているのである。これは神武天皇建国の理想に立ち返ることによって国難を打開し国政を刷新するということである。復古即革新即ち維新である。また、国民を宝と思し召され民の苦しみを救いたいという日本天皇の大御心にそった政治を行うべしと宣言されている。ここに明治維新の基本精神が示されている。限り無く民を慈しむ御精神が天皇統治の基本である。

 

 またこの「王政復古御沙汰書」には、「百事御一新」という言葉がある。徳川幕藩体制を打倒し、国政を根本的に改革することを目指したからこのような言葉が使われたのである。明治維新は文字通り「世直し」だったのである。

 

 徳川慶喜は、徳川宗家を継承した人として、徳川家による政治参与の体制を守ろうとした。水戸学の尊皇攘夷の精神を旨としている慶喜ではあったが、そこに限界があったのである。徳川慶喜の尊皇精神は篤いものであったが、時代変革の流れ、言い換えれば維新即ち復古即革新断行の動きに抗したことが、慶喜の立場を悲劇的なものとしたのである。

|

« 千駄木庵日乗六月二十五日 | トップページ | 「第六十三回日本の心を學ぶ會」のお知らせ »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/63830056

この記事へのトラックバック一覧です:  明治維新と徳川慶喜:

« 千駄木庵日乗六月二十五日 | トップページ | 「第六十三回日本の心を學ぶ會」のお知らせ »