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2016年6月 4日 (土)

徳川康久靖国神社宮司(徳川慶喜徳川幕府第十五代征夷大将軍の曾孫)による「大阪城ディナー」と題する講演の内容

二月七日に行われた『中央乃木會主催講演会』における徳川康久靖国神社宮司(徳川慶喜徳川幕府第十五代征夷大将軍の曾孫)による「大阪城ディナー」と題する講演の内容は次の通り。

 

「慶応三年三月二十五日、『大阪城ディナー』が行われた。大政奉還の半年前、江戸城明け渡しの一年前にこういう事があった。

 

徳川慶喜は慶応二年に将軍になった。偉人であったかどうかの判断は難しいものがあるが、わが家では偉いということになっている。我が家では『慶喜公』と呼んではいけない。『慶喜様』と呼んでいる。別格の扱い。高松宮妃殿下も『慶喜様』と呼んでいた。

 

慶喜の子供たちは慶喜が静岡に隠居した後に生まれた。私の祖父はお屋敷の中で育てられると病弱になるということで静岡の町の商家に預けられた。やんちゃな育てられ方をした。一週間に一回日曜夜、家族そろって晩御飯を食べた。月曜の朝、それぞれ預けられている家に帰る。うちの祖父が一番やんちゃで、家の帰ると、慶喜公を『チャン』と呼んだ。

 

慶喜は半年間の将軍空席の後、慶応二年に将軍になった。一年後に大政奉還。江戸城に住んだことはない。活動の場は京都。元治元年、禁裏御守衛総督就任。

 

第四代征夷代将軍・徳川家綱は『若いので京都に行くことが出来ない』ということで、江戸で任官した。以来、十四代・家茂まで江戸で征夷大将軍に任官。江戸城で将軍宣下が行われた。慶喜は将軍宣下を二条城で受けた。戦闘経験のある徳川将軍は、家康・秀忠。三代から十四代まで戦闘経験なし。十五代の慶喜は、禁門の変で刀を抜いて戦っている。

 

アメリカ、イギリス、フランス、オランダの公使を大阪城に呼んだ。兵庫開港が最大の問題。朝廷は『開港はならぬ』という意向。外国からは開港要求があった。慶喜は板挟みになった。各公使と会談の後、晩餐会が行われた。三月二十五日イギリス、三月二十六日オランダ、三月二十七日フランス、三月二十八日アメリカの順で会談。

 

イギリス公使は、警備の騎兵隊を連れて大阪城にやって来た。大手門に到着。下乗の札があったが外交団は下乗しなかった。騎兵隊は下乗した。慶喜からイギリスとの外交問題即ち生麦事件の賠償、下関砲台問題の解決の提案が出された。慶喜の態度も外見も立派だったとイギリス人は書いている。慶喜はイギリスの騎兵隊を閲兵。武術が披露された。慶喜は馬に一番興味を持った。イギリスはアラブの馬を使っていた。当時の日本の馬と比較してすらりとした大きな馬だった。

 

イギリス側は晩餐会に期待していなかった。慶喜将軍はナイフとフォークを上手に使っていた。小笠原長門守が陪席した。ディナーの料理を誰が作ったかが問題。シェフはフランス人を雇った。この人は、横浜外人居留地のホテルのレストランの料理人。四日分のディナーを作った。大変な量の食材。相当な金額で引き受けたと思う。

 

晩餐会には音楽がつきもの。大きなオルゴールで音楽を流した。当時の幕府の財政はかなり逼迫していた。慶喜さんは相当進歩的。和食と日本酒を出さずフランス料理を出した。彼の食物嗜好は四足を食べた。一ツ橋家の当主の頃から豚肉を食べた。

 

薩摩寄りのイギリスも慶喜の外交手腕を評価し信頼した。慶喜個人に対して悪い印象を持たなかった。

 

慶喜は大正二年に亡くなるまで、一切政治の表に出なかった。一切話もしなかった。当時、最高の料理でおもてなし出来る和食の板前がいたかどうか疑問。板前を二条城から連れてきても良かったがフランス料理にした。孝明天皇は四足を召し上がらなかったと思う。私の祖父の弟は勝海舟の家に養子に行った。それ以来勝家との付き合いが続いている」。

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