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2016年5月27日 (金)

一神教と人類の闘争の歴史

 イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の戰ひはとどまるところを知らない。神の慈悲を説く宗教が何故、戰爭の慘禍を厭ひながら、その厭ふところの慘禍を繰り返すのか。

 

イスラム教もキリスト教もユダヤ教も、「人類は罪人であるから、唯一絶対神から裁かれ、唯一絶対神を信じ悔ひ改めなければ地獄の責め苦に遭ふ」と説く点ではほぼ共通してゐる。これがお互ひに裁き合ひ相爭ふ根本原因である。言ひ換へると、一神教を信ずる人々は、「人類は唯一絶対の裁きの神に背いた罪の子なるがゆへに、何らかの方法で自己處罰をしなければならない」といふ潜在意識を持ち、それが精神的原因になり戰爭に駆り立ててゐるのではなからうか。つまり一神教の世界における闘爭・戰爭の根本原因は、裁きの神への恐れと人間の『罪の意識』による自己處罰と考へられる。

 

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といふ一神教においては、天地宇宙の造り主は唯一絶対神しかあり得ないとし、唯一絶対神以外の神は絶対に認めない。自然に宿る精靈そして祖先神を拝む事は許されない。

 

そして、一神教においては、神といふ創造主(つくりぬし)と、人間といふ被造物(つくられたもの)とは、全く範疇の異なる存在であり、神はどこまでも支配者的存在であり、人間はどこまでも被支配者的存在である。その上、神は人間に原罪を負はせ、契約を結んだ。その契約を守らない者を神は裁く。人間は永遠に神の奴隷であり、神は人間に対して絶対君主的立場にあって、この関係は永遠に変るものではないとする。

 

『旧約聖書』(紀元前に、約千年にわたって書かれた多くのイスラエル‐ユダヤ文献の一部。ユダヤ教の聖典であり、キリスト教では、「新約聖書」とともに正典。三十九巻)のエホバの神は、天に住む戦争の神であり、また地震、噴火、砂嵐、疫病などの自然災害の神である。怒る神であり、復讐の神であり、裁きの神であり、嫉妬の神である。この神は、イスラエルの民がそれを崇めるかぎり、深い恵みを彼らに垂れ、彼らを擁護する。しかし、偶像崇拝など神の禁ずる行為をした者に対しては、その罪を裁く。

 

『創世記』二十二章には、「エホバの神はアブラハム(イスラエル民族の始祖)を試そうとして『お前の一人子イサクを燔祭(はんさい・旧約聖書の時代に神への供物として動物を祭壇で丸焼きにして供へたこと)の犠牲として自分に捧げよ』と命令した。アブラハムは、神の示した場所に祭壇をつくり、薪を並べ、イサクを縛ってその上にのせ、殺そうとした。その時、エホバの神は『お前は、お前の一人子すら私のために惜しまない。神を恐れるものである事が分かった』と言って、犠牲として羊を代りにくれた」と記されてゐるといふ。エホバの神は何とも恐ろしい神である。(大野健雄氏著『天皇の祭り』参照)

 

『士師記』(旧約聖書の第七書。イスラエルで、王の前身である士師(指導者)が民族を指導、保護した時代、すなわち指導者ヨシュアの死後からサムエル誕生前まで(前一二〇〇~一〇七〇年頃)の士師物語を中心にイスラエルの歴史を記した書)には、「イスラエルの人々は…先祖たちの神、主を捨ててほかの神、すなわち周囲にある國民の神々に従い、それにひざまづいて主の怒りをひき起こした。…主の怒りがイスラエルに対して燃え、…彼等が何処へ言っても、主の手は彼らに災ひした。」と書かれてゐる。

 

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はかうした怒りと裁きの神を信じてゐる。その怒りをなだめるために犠牲(いけにへ)を必要とした。それが十字架に磔にされたイエス・キリストである。

 

イエス・キリストが犠牲となるといふ行動を通して、神の怒りがなだめられ、神なる創造主と、人間なる被造物との間にできてゐる永遠の断層を埋められ、「神は愛なり」といふ信仰が強調され、人間は被造物の位置から、“神の子”と同列の“友”の位置にのぼったとされてゐる。このことが記録されたのが『新約聖書』であるといふ。

 

しかし、キリスト教徒の信じる神が、その本質において唯一絶対神といふ怒りの神・裁きの神であることに変りはない。したがって、キリスト教徒の多くには、まだまだ神と人間は隔絶した関係にあり、「人間は罪の子である」といふ信仰が強い。ただしアメリカに起ったニュー・ソート(いはゆる「光明思想」)は神は愛であり人間は神の子とであるといふことを強調してゐる。このキリスト教思想を日本に紹介し日本傳統信仰と融合せしめた人が、谷口雅春師である。

 

一神教を信ずる人々の多くは罪の意識にさいなまれ、神の怒りと裁きと復讐を恐れてゐる。そして自分たちの信ずる絶対神以外の神を信じてゐる人々を異教徒として、排撃することが多い。十字軍の遠征も、アメリカのわが國に対する原爆投下も、イスラム原理主義者のテロも、そうした信仰が根底にある考へられる。

 

イスラム教は唯一絶対神のみを信じる<一神教>をもっと激しくした教義であり、人間はまさに「神のしもべ」であり、神を疑ったり絶対神以外の存在を信じたりしたら、裁きを受けると信じてゐる。

 

中近東の厳しい自然環境、自然と闘ひ自然の猛威に打ち勝ち自然を支配しなければ生きていけない生活が、かうした唯一絶対神への信仰を生んだ。それは、自然を支配する神への絶対の信によって、人間は神から自然を支配する権利を与へられ、自然を支配し改造することが許されるといふ信仰である。

 

戰爭の根本原因を取り除くためには、神は人間の罪を裁き人間を懲らしめる存在ではなく、人間は本來神と相対立し神に裁かれる存在ではなく神と一体の存在であるといふ信仰に回歸しなければならない。そして、人類の自己處罰方法たる戰爭を無用に歸せしめなければならない。

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