« 千駄木庵日乗五月十四日 | トップページ | 千駄木庵日乗五月十五日 »

2016年5月15日 (日)

孝明天皇の大御心にこたえ奉る変革が明治維新だった

一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見し、一四九七年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を廻って以来、ヨーロッパ諸國=白色人種によるアジア侵略・植民地化は休みなく進み、十九世紀には、トルコから支那大陸に至るまで、アジアのほぼ全体が、欧米諸國の植民地支配下になった。

 

十九世紀半ばになると、わが國にも、西からはアメリカ、北からはロシア、西からはイギリスというように西欧列強の侵略の手はひしひしと迫っていた。日本もやがて植民地化の運命を辿る危険があった。

 

嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリーが浦賀沖に来航した。ペリーの軍艦は、江戸湾に侵入し、大砲をぶっぱなして示威行動を行い、開國を迫った。典型的な砲艦外交である。

 

ペリーは大統領の國書のほかに、一通の書簡を白旗と共に幕府に提出した。その書簡には「……通商是非に希むに非ず。不承知に候はば干戈を以て天理に背くの罪を糺し候につき、その方も國法を立て防戦いたすべし。左候はば防戦の時に臨み必勝は我らに之有り。その方敵対なり兼ね申す可く、もしその節に至りて和睦を乞ひたくば、このたび送り置き候ところの白旗を押し立つべし」(どうしても開國通商をしてくれと希望しているのではない。承知しないなら武力に訴えるまでだ。我々は必ず勝つ。その時にはこの旗を掲げて降伏しろ、という意。市井三郎氏著『明治維新の哲学』より引用)とあった。これほどの恫喝外交はない。

 

さらにペリーは、嘉永七年(一八五四)一月十六日の二度目の来航の時には、油絵を幕府への贈り物として持って来た。その油絵はアメリカのメキシコ侵略を描いた戦争画であった。これは文字通り視覚による恫喝である。ペリーのした事は文字通り恫喝と威嚇による開國要求であった。 

 

アメリカは一八六年(弘化三年)から四八年にかけてメキシコを侵略し領土を奪った。今日のニュー・メキシコ州とカルフォルニア州はもともとメキシコの領地だった。以前、ジョン・ウェイン主演の『アラモ』という映画が好評を博したが、これはアメリカのメキシコ侵略の原因となったアラモ砦の攻防戦を描いている。アメリカはアラモ砦を先にメキシコに攻めさせ、アラモ砦が全滅すると、「リメンバー・アラモ」を合い言葉にメキシコに侵攻したのだ。

 

先の大戦においても日本に先に真珠湾を攻撃させて、「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉に日本に襲いかかったのと全く同じやり方である。独立國家に対してすらこういうやり方を行うのであるから、他の地域に対してはもっと暴虐な方法を用いた。アメリカはハワイやフイリッピンを侵略した。

 

先の大戦もその延長線上にあったと言っていい。大東亜戦争は東方に勢力を拡大するアメリカとの戦いであった。昭和二十年の降伏調印式が行われたミズーリ号艦上に、ペリーが黒船に掲げた星条旗が掲げられた事実はこれを証明している。

 

アメリカのやることは正義であり、それに刃向かうものに対しては容赦のない攻撃を加えるというアメリカの身勝手さと野蛮さは、今日ただ今に至るまで基本的には変わっていないと考える。

 

西郷隆盛は『大西郷遺訓』において、「文明とは、道の普ねく行はるゝを言へるものにして、…世人の西洋を評する所を聞くに、何をか文明と云ひ、何をか野蠻と云ふや。少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の國に對しては、自愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、然らずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蠻なりと云ふべし」と欧米を批判したが、アメリカの日本への恫喝はまさに西郷が指摘した通りのやり方だった。東方への進出即ちアメリカが誇りとする「フロンティア精神」とは「残忍酷薄を事とし、己を利する」野蠻な方法による東方への侵略そのものと言っては言い過ぎであろうか。

 

徳川幕府は、アメリカの砲艦外交に対して、軍事的衝突を避けつつ、全國の力を結集する必要に迫られた。また鎖國という徳川氏政権掌握以来の基本政策を外國の脅迫によって修正することは幕府の権威と正統性を失墜する危険があった。そこで、國民的合意を達成するために、ペリーの要求に如何に対応すべきかを各大名そして陪臣(大名の臣)にまで広く諮問した。さらに、朝廷に対しても事の成り行きを奉告申し上げた。徳川幕府成立以来の「國政は一切徳川幕府に任せられている」という原則を幕府自身が否定せざるを得なくなったのである。これは幕府の権威の大きな失墜である。「長堤も蟻の一穴から」という言葉があるが、まさにこの事が後の幕府瓦解を招いた。

 

屈辱的な開國は、徳川幕府の弱体化・権威の失墜を天下に示し、日本國は天皇中心國家であるという古代以来の國體を明らかする端緒となり、明治維新の原理たる「尊皇倒幕」「尊皇攘夷」の精神が生まれた。そして、徳川幕府を打倒し、天皇中心の日本國本来の在り方に回帰する変革即ち明治維新によって日本は救われたのである。

 

第百二十一代・孝明天皇御製

 

「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(ことくに)の船」(嘉永七年)

 

「戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり」(御詠年月未詳)

 

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂えられた御歌である。この御製を拝した多くの志士たちが尊皇攘夷の戦いに決起した。

 

宮部鼎蔵(熊本藩士。肥後勤王党の総帥。尊攘派志士として、京都を中心に活躍。諸藩の有志たちと協議を重ね尊皇攘夷運動を推進したが、元治元年【一八六四】六月五日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦し自刃)は、熊本を離れ京都に赴く時、次の歌を詠んだ。

 

「いざ子ども馬に鞍置け九重の御階(みはし)の桜散らぬその間に」

 

孝明天皇の御製に応え奉り、幼い子供たちを前に尊皇攘夷の不退転の決意を披歴した歌である。

 

このような維新の志士の、孝明天皇への赤誠・戀闕の志は、宮部鼎蔵だけでなく、全國の志士たちに共通するものだったであろう。

 

徳富蘇峰氏は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない。長州でもない。其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。…孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であろうが、関白であろうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭であることを知らねばならぬ」(『孝明天皇を和歌御會記及御年譜』「序」。小田村寅二郎・小柳陽太郎共編『歴代天皇の御歌』より引用)と論じている。

 

孝明天皇の國を憂え、民を思われる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心に応え奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守ろうという國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

 

 

|

« 千駄木庵日乗五月十四日 | トップページ | 千駄木庵日乗五月十五日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/63629509

この記事へのトラックバック一覧です: 孝明天皇の大御心にこたえ奉る変革が明治維新だった:

« 千駄木庵日乗五月十四日 | トップページ | 千駄木庵日乗五月十五日 »