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2016年5月10日 (火)

八幡大神のご神徳

八幡神が信仰されるやうになったのは奈良時代からであり、神代には登場されない神である。八幡信仰が盛んになったのは、武門とりわけ源氏の隆盛と深く関はりがあるといはれる。また、怨霊の魂鎮めとも関連があるといはれてゐる。中世以来、討死した武将、攻められて自裁した武将及びその一族を、八幡神として祀った例が多くあるといふ。八幡神は神代以来の神々いはゆる天神地祇とはそのご性格を少しく異にしてゐる。

 

八幡神は、わが國最初の神佛習合神として早くから信仰された。聖武天皇は、天平十九年(七四七)に東大寺大佛(盧舎那大佛)造立に際して、豊前國の宇佐宮に勅使として橘諸兄(従三位左大臣)を遣はされ、「國家鎮護」と「大佛造立」の祈願を行はせられた。八幡神の「天神地祇を率いて大佛建立に協力しよう」といふ意の神託が下された。

 

天平二一年(七四九)陸奥の國から大佛像に使ふ黄金が献上され大佛造立が完成した。聖武天皇は大変お喜びになり、この年の七月二日天平勝宝と元号を改められた。黄金の発見といふ瑞祥は八幡神の神徳のよるものとされたのであらう。天平勝宝元年(七四九)十二月に、宇佐八幡の神霊が、紫錦の輦輿(れんよ・鳳輦のこと)に乗って入京し、東大寺の地主神として迎へられたといふ。紫錦の輦輿は、天皇のお乗り物であり、八幡神がすでにこの頃、応神天皇の御神霊であると信仰されていたと思はれる。

 

天応元年(七八一)に、八幡神に「八幡大菩薩」の神号が与へられた。延暦二年(七八三)には、「護國霊験威力神通大自在菩薩」といふ号も加へられてゐる。

神佛習合の初期現象たる「八幡神上京」は、教義・教条の理論的裏付けがあって行はれたのではない。現實が先行し、それに後から理屈が付けられたのである。まず神と佛が習合することが先だったのである。ここが日本民族の信仰生活の特質であり、幅が広く奥行きが深いといはれる所以である。融通無礙なのである。

 

石清水八幡宮も、創建以来、幕末までは神佛習合の宮寺で石清水八幡宮護國寺と称してゐた。明治初期の神佛分離までは「男山四十八坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ねた。男山の麓からけーブルで登って来ると、宿坊の跡らしい所が点在してゐた。

 

神と佛とがごく自然に同居し、同じく人々によって信仰せられて来たのが日本の信仰の特色であり傳統であらう。神と佛とを理論的教学的に識別する以前に、日本民族の信仰においては、感性において神と佛とを同一のものの変身した存在として信仰したのである。一つの家に神棚と佛壇が祀られ安置されている姿は、一神教の世界ではあり得ないと思ふ。

 

日本人が太古から継承してきた自然信仰と祖霊信仰といふ日本民族の中核信仰に外来宗教が融合されていったのである。石田一良氏は「神道の原質と時代時代の宗教・思想の影響との関係は『着せ替え人形』における人形と衣裳との関係のようなものと喩えられるかもしれない。…神道の神道たる所以は原初的な原質が時代時代に異なる『衣装』をつけ、または『姿』をとって、その時代時代に歴史的な働きをする所にある」(『カミと日本文化』)と論じてゐる。卓見であると思ふ。

 

いくら外来宗教を受容したからとて、わが國の風土と日本民族の気質から生まれた「すべてを神として拝ろがむ傳統信仰」の中核は失はれることはなかった。

 

石清水八幡宮は、第五十六代・清和天皇が即位された翌年の貞観元年(八五九)七月十五日、弘法大師空海の弟子であった僧行教行が宇佐八幡宮に参詣した折、八幡大神の「吾れ都近き石清水男山の峯に移座して國家を鎮護せん」とのご託宣を受け、翌貞観二(八六〇)年四月三日、清和天皇のご命令により社殿を建立し八幡神を祀ったことを創建とする。石清水八幡宮はご創建からして佛教と深いかかはりがあったのである。

 

八幡神は全國の武士から武の神、弓矢の神として尊崇されただけでなく、「護國霊験威力神通大自在菩薩」とも称されたやうに、朝廷をはじめ全日本國民から國難打開の神として尊崇されて来た。

 

第九十代・亀山天皇が、後宇多天皇の御位を譲られ院政を始められた文永十一年(一二七四)元寇(蒙古軍侵攻)があった。朝廷は各神社に異國降伏の祈願を行はせられた。後宇多天皇は石清水八幡宮に奉幣され蒙古軍退去の御祈祷をされた。

 

弘安四年(一二八一)には蒙古の大軍が再びわが國に迫った。亀山上皇は、伊勢皇大神宮へ敵國降伏を祈願するための勅使を派遣された。『増鏡』(後鳥羽天皇即位から後醍醐天皇の隠岐からの還幸まで、一五代約百五十年間の歴史を編年体で記した歴史書)には「わが御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命めすべき」との宸筆の願文を、伊勢皇大神宮に捧げられたと記されてゐる。

 

同年六月には、亀山上皇は石清水八幡宮に御幸され、神楽を奏せしめられ、西大寺長老・叡尊(えいぞん)をして真読(しんどく・経典を省略しないで全部読むこと)の大般若経(だいはんにゃきょう)を供養せしめ、終夜、敵國降伏・元寇撃滅を祈願あそばされた。

 

この時に、いはゆる「神風」が吹き、「國に仇をなす十余萬の蒙古勢は、底の藻屑と消え」てしまった。このことが、八幡大神をはじめとした日本の神々への神を深めしめ、日本神國思想がますます強固になった。

 

亀山上皇は、石清水神宮に御幸された時、次の御歌を詠ませられてゐる。

 

「石清水たえぬながれは身にうけて我が世の末を神にまかせむ」

 

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