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2016年4月19日 (火)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提に論じて、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである。」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」といふ言葉を使った。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として自殺するのではなく、言葉の正しい意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここでいう「身分の高貴さ」とは、階層的・職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ている。

 

 三島氏の作品と人生における「文化意志」は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道の実現」であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその「美の極致」を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。 

              

 『萬葉集』所収の「柿本人麿歌集」の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)という歌も、相聞の心を戀闕心に置き換えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方であろう。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動をいわゆる「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」の冒頭に書かれている通りだ。

 

 戦後日本の救済・革命のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは三島氏の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。           

                        

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。生き長らえれば、三島氏の四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。しかし、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。その結果が今日の混迷である。

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