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2016年4月11日 (月)

日本人は、肉體は滅びても、生命は永遠といふ信仰を持ってゐる

  日本人にとって「死」とは虚無の世界への消滅ではない。肉體は滅びても生命は永遠であると信じてゐる。生の世界と死の世界は絶対的に隔絶してゐない。人が死んでも、その魂をこの世に呼び戻すことができると信じてゐる。本来日本人は、「死ぬ」と言はず「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」と言った。「葬る」ことを「はふる」といふ。「はふる」とは「羽振る」である。魂が空を羽ばたいて飛んでいくことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

日本武尊は薨去された後、その御靈は白鳥となって故郷に向かって飛んで行かれた。古代において鳥は靈魂を運ぶものと信じられた。肉體を離脱する靈魂の自由性・不滅性の最も原初的な信仰である。そしてその鳥が純白なのは、清らかさを好む日本人の生活感覚から生まれたのであらう。

 

「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」といふ言葉は、肉體は滅びても生命・靈魂は生き続けるといふ信仰に基づく言葉である。今でも、丁寧な言ひ方をする時には「死んだ」とか「死ぬ」と言はない。「他界する」「昇天する」といふ。また、「亡きがら」「遺體」とは言っても「死體」とは言はない。

肉體の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

日本人は、古来、靈魂が遊離して肉體は滅びても人間が無に帰するといふことは無いと信じて来たのである。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち靈は永久にこの國土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居る」(『先祖の話』)と論じてゐる。

 

死者の靈魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この國土に留まって子孫を見守ってゐるといふ信仰は、わが國において永く継承されてきてゐる。「先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の靈魂を身近に感じて来たのが日本人の傳統的祖靈観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持ってゐるのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身體から遊離することが死である。それがために肉體人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。『萬葉集』の柿本朝臣人麻呂の歌「淡海(あふみ)の海()夕波千鳥汝()が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。氣力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」のからである。死とは命が枯れることであり、肉體から魂・生命が去ることである。死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本傳統信仰には死はない。死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。

 

お盆には先祖の御靈が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰を持ってゐる。死とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

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