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2016年4月 1日 (金)

『正論』五月号掲載されている林千勝氏執筆の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」を読んで思う

今日届いた雑誌『正論』五月号に掲載されている近代史研究家・林千勝氏執筆の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」という論文はとても興味深い近衛文麿の側近であった風見章(近衛内閣書記官長・司法大臣を歴任)は、共産主義者であり、支那事変の拡大、日米戦争を計り、日本を敗戦に追い込み、共産革命達成を策したということが論じられている。

              ○

 

小生も、平成二十三年十二月発行の『政治文化情報』三百十三号で、要旨次のように論じた。

 

「ルーズヴェルト米大統領の周辺が共産主義者で固められてゐたのと同じく、日本でも、総理大臣時代の近衛文麿の周辺に共産主義者がゐたことは事實である。

内閣書記官長(=現在の官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者として死刑となった尾崎秀實(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止に暗躍したとされる西園寺公一(中國共産党系のマルキスト)などである。

昭和十二年(一九三七)に総理大臣となった近衛文麿が風見章を内閣書記官長に抜擢した時は、風見と全く面識がなかったといふ。風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣の嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

戦後になると風見は、昭和三十年(一九五五)一月にマルクス・レーニン主義政党である左派社會党に入党した。また、日ソ協會副會長、日中國交回復國民會議理事長、アジア・アフリカ連帯委員會代表委員、世界平和評議會評議委員として活動した。しかも風見章は尾崎秀實を「マルクス主義の殉教者」と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」 (『改造』昭和二十六年五月号) と書いた。風見が完全なる共産主義者であったことは明白である。

西園寺公一(公望の孫)は、イギリスのオックスフォード大學でマルクス主義の洗礼を受けたといはれる。近衛内閣が成立すると外務省嘱託・内閣嘱託を歴任した。尾崎秀實と共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それが「國家機密漏洩」であるとして、「ゾルゲ事件」に連座したとされ、禁錮一年六月、執行猶予二年の判決を受けた。西園寺は昭和三十三年(一九五八)に日本共産党に入党する。日中共産党が対立状態になり、昭和四十二年(一九六七)二月、日共を除名された。西園寺もまた完全なる共産主義者であった。

近衛文麿は何故このやうな人物を内閣の中枢である書記官長そして機密を知り得る立場にあった内閣嘱託に任命したのであらうか。有体に言って近衛文麿は脇が甘かったと言はざるを得ない。」

 

 

さらに小生は、平成二十四年二月十日発行の『政治文化情報』第三百十四号で次のように論じた。

 

「風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

『根本瑛』(根本瑛先生追憶の書編纂委員會編)に収録されている愛國維新運動に挺身されてきた方々の根本瑛氏への追悼文に、風見章のことに触れた次のやうな文章があった。

塙三郎氏「そのころの先生(注・根本瑛氏)は、一つにも二つにも風見章に尽くしていた。風見に尽くす事は、國に尽くすと同意語であると確信していた。久しくして、風見に裏切られた時に、その倍に増して、風見を恨んだ。…戦後の風見は完全にその本性を現わした。彼は、尾崎秀實やゾルゲと共にして日本を裏切った人物であった。」

中村武彦氏「(注・根本瑛氏に)二度目にお目にかかったのは大東亜戦争の敗色すでに決定的となりつつあった十九年の秋であった。本間憲一郎先生の御伴をして帝國ホテルへ行った時…根本先生が居られて暫くお話をされた。…両先生の御話しをうかがっていた中に、風見章氏のことが出て両先生とも異口同音にその変節を嘆いておられたのが、強く記憶に残っている。根本先生は政治家風見章の後援者として知られ、風見氏の今日あるは先生のおかげだと云われていた。私どもも風見氏の行動を苦々しく思っていたのであるが先生にしてやはりその嘆きがあるのかと痛感したことは忘れられない。」

鈴木善一氏「國際共産主義運動の思想から、天皇制の廃止、共和制への移行を唱道したのが日本共産党であり、当時近衛内閣の書記官長としてスパイゾルゲ、尾崎秀實、西園寺公一、野坂参三らと行動を共にしたか、少なくとも便宜を計ったのが風見章である。根本博士は現状打破の点で風見の革新思想と一脈相通ずるかに見えたが、風見は共産主義、社會主義を友とし、長男は共産主義者であるということから、根本博士は風見と絶対に袂を別つことを決意し、晩年色々な人が両者の間を調停したが、頑としてこれだけは操守した。」

このやうに、同時代に生きた方々の証言を読めば、近衛文麿の側近だった風見章は、尾崎秀實と同志的関係にあり、尾崎のいはゆる「敗戦革命工作」に協力してゐたことは確實である。

尾崎秀實自身、処刑の直前に、自主的に意見を述べ、「自分は長く仮面をかぶった危険な潜行運動をした…自分たちの日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、擾乱は起こり、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である。」と書き、「大東亜新秩序社會」が戦争の後に現れて、「世界共産革命」の一端を形作るという満足感を以て死に赴いたといふ。(保阪正康氏著『昭和史七つの謎』より引用)

尾崎秀實自身もその『獄中手記』に「内閣嘱託時代は毎日首相官邸に出勤し秘書官室下の地階の一室で仕事をする外秘書官室や、書記官長室には常に自由に出入し書記官長、秘書官等から内閣に来ている文書中仕事の上で必要とするものを見せられ或は私の方から申し出て必要なものを見せて貰うこともあり又此等の人達と話をする機會も多かった訳でありまして私はこれ等に依って現實の政治が如何に動きつつあるかを確實に知ることが出来ました。左様な訳で内閣嘱託たる地位にあった関係から此の重大な転換期に於ける國の政治の重要な動向を知り得たと同時に其の時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。此等の情報は勿論ゾルゲに報告すると共に政治動向に関する私の意見も述べて居るのであります。」と書いてゐる。

近衛内閣の内閣書記官長・秘書官・内閣嘱託といふ内閣中枢に「資本主義國家同士を戦争させ、共産國家が漁夫の利を得て、アジアそして世界を赤化する」といふ世界革命戦略を實行しつつあったソ連のスパイ・工作員・同調者たちが入り込み、対米英戦誘導や情報収集などの工作を行ってゐたのである。そして、日支及び日米関係分断を図ったのである。實に以て戦慄すべき事態であった。近衛文麿氏の『上奏文』における痛切なる反省の弁通りの事態であった。

内閣の中枢にソ連・國際共産主義運動組織のスパイ・工作員が入り込んでゐたのだから、参謀本部や陸海軍省などにも工作員が潜入してゐたと推測することができる」。

 

              〇

「反戦平和」を標榜する運動は今も活発である。彼らは、新安保法制反対闘争・米軍基地反対闘争・核兵器反対運動・反自衛隊運動などを行ってゐるが、共産支那・北朝鮮の核兵器に対しては一切抗議運動を展開しない。共産支那・北朝鮮の軍事侵略に対しても何の抗議も行はない。日本の安全と独立を守る運動のやうに見せかけて、實は意識するとせざるとにかかはらず共産支那・北朝鮮の侵略を助けてゐるのだ。

民新・社民・共産・偏向メディアの「反戦平和運動」は、共産支那・北朝鮮のわが國及び全アジアに対する侵略支配を實現するための策謀であり、共産支那・北朝鮮の手先となって日本の安全・独立・自由・繁栄を脅かしてゐるのだ。

戦後ずっと行はれて来た左翼勢力の「反戦平和運動」の本質は、支那事変・日米戦争を煽りつつ實は「社會主義の祖國・ソ連」を守り、アジア赤化を實現せんとした風見章・尾崎秀實と全く同じである。共産支那・北朝鮮の軍事的圧迫にさらされてゐる今日のわが祖國日本は、歴史に學び、侵略國家の謀略にはまることなく、祖國の独立と平和と自由を守り抜かねばならない。

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