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2016年4月30日 (土)

この頃詠みし歌

我此土安穏ただに祈らむ春の夜 火の国熊本を地震襲へり

 

古代よりこの国は地震の多き国ただひたすらに耐えねばならぬか

 

あな恐ろし大地揺らぎて火の国の緑の山々こぼたれにけり

 

若き命奪はれしことの口惜しさ地震の禍は情け容赦なし

 

若者がむごくも建物につぶされしと聞くは悲しき火の国の禍

 

部屋に溢るる書物と資料を如何にせむあと何年生きるかしらねど

 

さみしさに耐えゐる母は我と会へば泣くが如くに喜びたまふ

 

時計を見ればもう帰るのかと問ひたまふ何と愛しきわが母上は

 

夜の町をさまよふ母をさがしたる思ひ出は今も切なかりけり

 

今はただ車椅子に座りつつ母は施設で過ごしたまへる

 

とことはの光りと思ふ月の照る夜空に向かひて口笛を吹く

 

夢幻なる世界に入り来て歩み行く崖の上なる細き道をば

 

計画的大虐殺の張本人ルメイこそ第一の戦犯と思ふ

 

迎へ火を焚きゐる父と母の姿 写真で偲ぶ懐かしさかな

 

今日も元気に母がゐませば嬉しくて共に語らふ夕つ方かな

 

南洲の大き御像を振り仰ぎ維新回天の歴史を偲ぶ

 

皇城守護の強く気高き志 南洲精神を偲びまつれり

 

彰義隊の悲しき御霊の祀られし石碑を畏み仰ぎまつれり

 

久しぶりにゆっくり歩みし駿河台新しきビルが立ち並びをり

 

土色の校舎は消え去り新しきビル聳え立つ明治大学

 

聖橋より下を望めば工事中 ここも新たなる眺めとなるか

 

ニコライ堂と湯島聖堂は何時までも変わらずにあるが嬉しかりけり

 

若き友と語らふ時の楽しさよ 命爽やかに生きませと祈る

 

根津権現の氏子として生き今日もまた朱色の社に参り来れり

 

トンネルに入り行くバスに乗りをればこのまま出なくなるを恐れる

 

春雨に濡れつつ上野の山を歩き上島コーヒーがありて喜ぶ

 

愛らしき乙女に金を支払ひてコーヒーを待つ束の間の幸

 

何時起こるかわからぬ地震を恐れつつまた忘れつつ日々過ごしゐる

 

エレベーターが下がり来るのを待ちてをり 母のゐる部屋に向かはんとして

 

皆それぞれに語らひにつつ酒を呑む酒場楽しき春の夕暮

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千駄木庵日乗四月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。施設の方と今後のことを相談。

帰宅後は、原稿執筆など。

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「特別展・生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」展参観記

昨日参観した「特別展・生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」は、「『湖畔』で広く知られ、日本美術の近代化のために力を尽くした黒田清輝(1866-1924)の生誕150年を記念した大回顧展です。この展覧会は師コランやミレーなど、黒田がフランスで出会い導かれた作品をあわせて展示しながら、留学時代の『読書』『婦人像(厨房)』や帰国後の『舞妓』『智・感・情』などの代表作によって、黒田清輝の画業全体を振り返ろうとするものです」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「編物する女」 「婦人像(厨房)」 「横浜本牧の景」 「大磯鴫立庵」 「日清役二龍山砲台突撃図」 「湖畔」 「智・感・情」 「舞妓」 「春畝」「自画像(ベレー帽)」「ダリア」「瓶花」「祈禱」などを観る。

 

どの作品も百年以上昔のものとは思えないみずみずしさがある。だから今日まで伝えられているのであろう。近代日本洋画のスタンダード作品と言える。花を描いた絵が実に美しかった。「外光派」と言われたそうで、戸外で光に照らされた風景や女性像が多く明るい作品が多かった。

 

女性の裸体画を多く描いている。明治の初期のことである。だから、「公序良俗」に反するという批判が起こり、展覧会では作品の一部を布で隠したり、参観者を規制する特別室が設けられたらしい。今日では全く考えられないことである。

 

「源清輝」という署名が書かれている作品があった。鹿児島の「黒田氏」は源氏の末裔だと言う。そういう面では自分の「氏」を大切に思う人であったのであろう。

 

私は、黒田清輝は鹿児島出身であるので、明治の元勲であり、総理大臣をつとめた黒田清隆の弟か子息かと思っていたが直接の血縁関係はないことが分かった。しかし、黒田清輝の父上の黒田清綱は戊辰戦争で「山陰道鎮撫総督参謀」の任についた。維新後は、元老院議官を経て、子爵に叙せられ、貴族院議員、錦鶏間祗候、枢密顧問官を歴任した。黒田清輝も東京美術学校教授、帝室技芸員、帝国美術院院長などを歴任し、父の死去により子爵を襲爵し、貴貴族院議員に就任している。こうしたことによって画家としての活躍が制限され、晩年は大作を創作ことが出来なかったようである。

 

黒田清輝は近代画壇において優れた業績をのこすと共に公的にも高い地位についたという意味で、文壇の森鷗外と似た立場であったと言える。女性を描いた作品が素晴らしかった。いわゆる「美人画」というのを超えた迫力というか訴えかけてくるものがあった。

 

 

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千駄木庵日乗四月二十九日

午前は、諸雑務。

午後は、新宿燕西口駅頭にて行われた『昭和節奉祝街頭演説会』に参加。久しぶりに街頭演説を行う。清々しい。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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2016年4月29日 (金)

日本的ナショナリズムは國體護持精神と不離一體である

 「ナショナリズム」とは、一つの民族が他の民族の支配を排除して、自身の國家の独立を回復あるいは維持しやうとする國民的規模の思想及び行動である。さらに、「ナショナリズム」は、将来へ向けて自國・自民族が独立を維持するための精神であって、決して回顧的なものではない。今日の日本の危機打開独立のためにも欠くべからざるものなのである。

 

安政五年(一八五八)のアメリカとの通商条約締結の問題によって、倒幕論が澎湃として起こった。和辻哲郎氏は「シナ古代に典拠を求めていた尊皇攘夷論は、日本人が欧米の圧迫によって日本を一つの全體として自覚するとともに、その鋒(ほこさき)を幕府の封建制に向け、武士社會成立以前の國民的統一を回復しようとする主張に変わって行った。…日本第一期以来の天皇尊崇の感情が…國民的統一の指導原理となった。…王政復古の達成は、松陰処刑後わずかに八年目のことであった。」(『日本倫理思想史』)と論じてをられる。 

 

わが國幕末期における「攘夷の精神」とは、松陰など維新を志した人々が抱いたアジア及び日本に対する西欧列強の侵略を打ち払ふといふナショナリズム・國防意識と言って良いのである。しかしそれは前述した通り決して外國との交はりを一切絶つといふことではない。

 

日本ナショナリズムの基礎となるものは、天皇中心の國體を護持する精神である。日本國民の國を愛する心の特質は、「尊皇攘夷」「尊皇愛國」といふやうに萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本の民族意識・日本ナショナリズムの基礎は、一君万民の共同體即ち天皇中心の國體を護持する精神である。民族主義・愛國心・ナショナリズムは、天皇中心の歴史意識と不離一體である。日本民族の歴史を我々一人一人の精神の中で甦らせて、自己の倫理観・道義感の基本に置くことによって日本民族の意識・ナショナリズムが形成される。今日においても然りである。日本ナショナリズムの基礎にはわが國の古代からの傳統精神への回帰があった。これを復古即革新といふ。 

 

日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇し日本の自然を慈しむごく自然な心である。「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

そして、『萬葉集』の防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も「尊皇攘夷」が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における変革や國難の打開は、必ず尊皇心の興起と一體であった。

 

「尊皇攘夷」は、國家的危機に際會して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

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千駄木庵日乗四月二十八日

午前は、諸雑務。

午後は、上野公園の東京国立博物館平成館にて開催中の『近代絵画の巨匠黒田清輝生誕一五〇年特別展」参観。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆。

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2016年4月28日 (木)

愛国運動と宗教

明治維新の思想的基盤は、水戸学と共に神道国学の精神があった。国学四大人と呼ばれる本居宣長・平田篤胤・荷田春満・賀茂真淵の思想的影響は大きい。

 

それと共に、幕末期には、黒住教・天理教・金光教という所謂教派神道三教団が立教した。この三教団が、神社神道と異なる所は、教祖がおり、独自の経典があり、布教活動を行うということである。そして、病気・貧困などに苦しむ民衆の救済を行った。

 

さらに、幕末期には、民衆による伊勢参宮が盛んに行われた。これを「おかげ参り」という。つまり、明治維新という未曽有の変革の精神的基盤には、国民全体の宗教的情熱があったのである。

 

明治二十五年に立教した教派神道・大本教は、大正維新運動・昭和維新運動において大きな働きをした。教祖の出口王仁三郎は頭山満・内田良平両氏の深い交わりがあった。そして『立て替え立て直し』『神政復古』を唱え、昭和神聖会という愛国運動組織を作った。大本教は、頭山満・内田良平両先生をはじめとした多くの維新運動者と連携を持った。出口王仁三郎氏に、「月の出口は頭山満 神が打ち出す末永世」という歌がある。維新運動の指導者だった頭山・内田・末永の三氏と自分の名前を詠み込んだのである。

 

しかし、昭和十年に、政府権力による大本教大弾圧が行われ、殆ど壊滅状態に陥った。これは、大本教と愛国維新運動が一体となって国家変革を実行するのを権力側が恐れたためと言われる。その後、大本教にとってかわるように、愛国宗教として大きな活動を行ったのが生長の家であった。

 

田中智學の日蓮主義も維新運動に大きな影響を及ぼした。石原莞爾・板垣征四郎・北一輝・西田税・井上日召は、みな日蓮主義者と言って良い。日蓮の救済思想が、当時の維新運動者に共感を呼んだのであろう。

 

戦後の民族運動・維新運動に大きな影響を与えた宗教団体は、何と言っても、生長の家であろう。今日、民族運動・真正保守運動を行っている人々に、生長の家の信者はまことに多い。

 

ところが残念なことに、最近は、谷口雅宣という三代目の指導者が、祖父である谷口雅春先生の遺志を踏みにじり、教えを隠蔽して、愛国運動とは全く異なる路線を歩んでいる。

 

大本教も、維新運動との接点は無くなっている。日蓮系教団も、維新運動・愛国運動を行う団体は少ない。霊友会や仏所護念会は保守ではあるが、戦前の日蓮主義のような維新運動に対する大きな影響力は持っていない。それどころか、創価学会のように、民族運動の批判の対象になるような教団が最大の組織を誇っている。しかし、田中智学系統の諸団体は、活発な愛国運動。真正保守運動を展開している。

 

 

こういう歴史を紐解くと、維新運動と宗教はとても深い関係にあるということが分かる。特定教団と結び付くということではなく、愛国運動・維新運動には、敬神・尊皇・崇祖という日本伝統信仰に立脚した信仰的情熱が不可欠である。それが基本である。

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千駄木庵日乗四月二十七日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。食欲あり。有り難し。

午後六時より、グランドアーク半蔵門にて、『創刊二十年「月刊日本」を叱咤激励する会』開催。坪内隆彦氏が司会。西原春夫・亀 井静香・西村眞悟の各氏らが祝辞。南丘喜八郎氏が挨拶。村上正邦氏の音頭で乾杯を行い、盛宴に移った。

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帰宅後は、原稿執筆。

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2016年4月27日 (水)

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十八年五月号のお知らせ

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十八年五月号(平成二十七年四月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

日本人の祖靈信仰について考へる

タイやミャンマーの仏教は死者の骨即ち遺骨は不浄と考へてゐる

 

日本人は古代から遺骨には死者の「タマ」(靈魂)が宿ってゐるとして大切にしてきた

 

祖靈崇拝・死者への祭祀と神仏融合

 

「七生報國」の精神と「よみがへり」の思想

 

日本人は肉體が滅びても人間が無に帰することはないと信じて来た

 

千駄木庵日乗]

青山学院大学大学院教授福井義高氏「日本軍と共にINA(インド國民軍)がインパールで戦ったことが、インド独立を決定づける」

 

田久保忠衛杏林大学名誉教授「ソ連の侵略は計画的。北方領土は強奪された。六十万人がシベリアの二千カ所の強制収容所に入れられた」

 

インド政策研究センター教授・プラーマ・チェラニー氏「アジアは列強によって植民地になった。日本がロシアに勝ったのは、アジアにとって励みになった」

 

松崎晃治小浜市長「自然を神と拝み、神と同じ酒をいただく。五穀豊穣を祈る。多くの人々に日本の心を傳えたい」

 

神崎宣武氏(民俗学者)「お神酒をあがらぬ神は無し。供えた酒をいただくのが直會」

 

大久保利泰(としひろ)(大久保利通の曾孫)「明治元年から二年に時代が大きく動いた。当時の政治家の偉大さを今日の政治家は見習ったら良い」

 

この頃詠みし歌

 

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日本傳統精神とは稲作生活から発した自然と人間の共生の精神

 日本傳統精神とは、生活の中の中から自然に生まれた精神で、天神地祇崇拝(祖先と自然の霊を尊ぶ心)を基本とする。そこから明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一観(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心などが生まれた。それは古代日本の稲作生活から発した大自然と人間の共生の精神である。

 

日本傳統精神は文献的には「記紀」と「萬葉集」に示されている。そしてそれを常に実践されているお方が祭祀主・日本天皇である。日本の傳統精神・生活・文化の基本・核は天皇の祭祀である。

 

わが國の傳統精神は、一人の教祖が説いた教条的で固定的な教義を絶対的なものと信じ込むというのではない。日本傳統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心・祖先を尊ぶ心である。きわめて自然で自由で大らかな精神である。日本人は、あるがままの自然に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考えないで、人間が自然の中に入り、人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

再生と循環は自然の思想である。古代日本人は自然の再生と循環の中に共に生きて来た。日本人は、人の命も自然の命も永遠に共生し循環し続ける事を実感してきた。しかるに今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。自然破壊は何としても是正されなければならない。

 

日本傳統信仰は、人の命と自然の命を神聖なるものとして拝ろがむ精神である。祭祀という神人合一の行事はその實践である。その最高の祭り主・日本傳統信仰の體現者が日本天皇であらせられる。

 

わが國の神は天津神、國津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。日本傳統精神すなわち「日本人が歩むべき道」とは「日本の神々の道」である。したがって、伊耶那岐命・伊耶那美命・天照大神をはじめとする日本の神々を祭られる日本天皇が、日本の道を体現されている方であると信じた。つまり「日本の道」は実体の無い抽象的な教義として継承されてきたのではなく、<天皇の祭祀>という現実に生きた行事によって継承されてきているのである。

 

わが國の傳統精神における最も大切な行事は祭祀である。「祭祀」とは神に奉仕し、神の御前において自己を無にして神の御心に従い奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓いする行事である。さらに、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の実践である。つまり人と自然の本来の姿を回復する行事が祭りである。

 

そしてそれは、明るく平和的な行事である。動物や人間を生贄として神に捧げる事はしない。

 

わが國民が祭りが好きであるということは、日本人が本来明るい平和的精神を持っているということである。日本民族は本来的に残虐でもないし、厭世的でもなければ逃避的でもない。また排他的でもない。それがわが國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓い清めることができると信じ続けてきている。この「祭祀」の精神が、戦争・闘争テロが繰り返され、自然は破壊され、人の命は軽視される現代を救済し打開する原理となると確信する。

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千駄木庵日乗四月二十六日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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2016年4月25日 (月)

日本傳統精神が現代の危機を打開し救済する力となり得る

自然に抵抗し、自然と戦わなければ、人間生活を維持できない厳しい自然環境に生活する人々は、様々な論理や分析を必要とした。そして厳しい自然環境にあって、人間が穏やかで繁栄した生活を営むためには、自然を作り変え、改造しなければならない状況にあった。

 

自然と対決し戦い、自然に打ち勝たねばならない厳しい自然環境の中東半島のようなところに生きる人々は、経験的知恵や合理的知識・分析・説明が不可欠であった。そこで、多くの教条教義を作り出した。また、自然と戦う武器や技術を必要とした。

 

中東に生まれた一神教(ユダヤ教・キリスト教・回教)は、そういった環境と生活から生まれた宗教であるから、現実をそのまま肯定し自然に随順し自然そのものを神として拝むなどということはない。そして「エホバ」という唯一絶対神を信じ、ある特定のすぐれた人物の説く教義を信じ、その人物を崇拝する。そしてその他の神や教えを排撃する。そして過去においてのみならず今日ただ今も宗教戦争をくり返している。

 

また近代社會を混乱に陥れ、限りない闘争と破壊を起し、自然を破壊してきた思想が、西洋近代の合理主義でありそれを根幹とする科學思想といふイデオロギーである。これを超克し是正するものが、日本の傳統精神である。日本傳統精神は、「合理的なものの考え方」を否定するのではなく、その欠陥を補うのである。

 

歴史や自然を対立的にとらえて、論理や教条を振り回して自然や宇宙や人生や歴史の本質を説き明かそうなどという不遜な考えは持たなかった古代日本人の基本的な姿勢を、現代において甦らせることが必要なのである。

 

現代日本の混迷は、日本國體を否定し、日本傳統を否定し、神を否定する思想が蔓延して来たことがその根本原因である。しかし、わが日本民族は、今日の混迷を打開し正しき日本の姿を回復するに違いない。そのためには、歴史を回顧して明らかな如く、真に國家の傳統精神を継承する者たちの必死の努力精進が必要である。

 

わが國の麗しい山河、かけがえのない道統を重んじ、日本の傳統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。わが國は天皇の文化的精神的統合精神を基盤として生きてきた。それは國家のエゴ・侵略性・収奪性を和らげ命の大切さを実感させるものであり続けた。

 

また日本傳統信仰を基盤として、わが國は、様々の文化・芸術を花咲かせてきた。その文化芸術は今や、世界的に高く尊い価値を持っている。日本が世界に貢献できるのは、決して経済だけではない。むしろ文化芸術そしてその基盤である日本傳統信仰が今後の世界に大きな貢献をすると信じる。

 

日本國體は、神話の精神がその淵源である。神話の再興が現代の救済である。日本天皇は、神話時代からの傳統を継承され、實際に今日唯今も神話時代以来の祭祀を行われている。「天皇の祭祀」は、今に生きる神話である。天皇は、これからの日本と世界の真の平和と再生にとってまことに大切な御存在である。

「傳統精神」「國體精神」「神話の精神」というものは、急速な科学の進歩と世界の統合化やグローバル化によって人類の中に吸収されて消滅することはあり得ない。歴史的に形成されてきた傳統精神は永遠に生き続ける。天皇がその体現者であられる日本傳統精神が現代の危機を打開し将来の日本及びアジアそして地球の救済の力となり得る。

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千駄木庵日乗四月二十五日

朝は、諸雑務。

 

この後、施設に赴き、母に付き添う。

 

午後一時より、明治大学 駿河台キャンパス グローバルフロントグローバルホールにて、『東京財団・明治大学国際総合研究所共催 国際シンポジウム2016 ―中国はどのような「大国」か?―』開催。開会の辞(土屋恵一郎 明治大学長)の後、高村正彦自民党副総裁が、「平和安全保障法制―日本とアジア太平洋の平和」と題する基調講演を行った。このあと、パネル・ディスカッションが行われた。パネリストは次の通り。

<第1部 政治・社会分野>王逸舟(北京大学国際関係学院副院長)菱田雅晴(法政大学法学部教授)エフィ・フィトリアニ(インドネシア大学国際関係学部長)エリック・ヘジンボサム(マサチューセッツ工科大学主席研究員)宮本雄二(宮本アジア研究所代表/元中国大使)の各氏。

<第2部 経済分野>

肖耿(香港大学経済・工商管理学院教授、HSBC社外取締役)柯隆(富士通総研主席研究員)津上俊哉(津上工作室代表/元経産省通商政策局北東アジア課長)

エフィ・フィトリアニ(インドネシア大学国際関係学部長)エリック・ヘジンボサム(マサチューセッツ工科大学主席研究員)の各氏。

パネルは(政治・社会):川口順子(東京財団名誉研究員、明治大学研究知財戦略機構特任教授)パネル(経済):林良造(明治大学国際総合研究所長)の各氏。

 

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆。

 

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天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる

 今日の危機的状況を打開するためには、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。

 

明治維新前夜は、アメリカなどの西欧列強が徳川幕府の弱体化に付け入って武力による圧迫を以て屈辱的な開港を日本に迫って来た。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力=徳川幕藩體制を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。かうした状況を打開し、王政復古すなはち天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けやうとしたのが明治維新である。

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、またその変革の是非を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられたと言へる。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。辛亥革命は阿片戦争、支那共産革命は日本との戦争が影響した。アメリカ独立革命は言ふまでもなくイギリスとの戦ひであった。明治維新もまたしかりである。

 

わが國のやうに建国以来三千年の歴史を有し高度な統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一体感・運命共同意識を回復して外敵に当たろうとしたのである。

 

國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

 

「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を撃ち払ふといふことである。西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本民族の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出である。アメリカやロシアの軍艦の来航といふ國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 

「尊皇攘夷」の起源は、貝塚茂樹氏によると、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟(きし)である。ただし支那の場合は、「尊皇」ではなく」尊王」である。

 日本國の長い歴史の中で、「攘夷」の精神は静かに表面に出ず脈々と継承され生き続けたのであるが、白村江の戦いの敗北・元寇・幕末といふ外患の時期においてこの精神が昂揚した。

 

大化改新と明治維新は共通する面が多い。それは外圧の排除であり、政治体制・法体制の整備であり、外國文明・文化の輸入である。大化改新後の律令國家体制は明治維新後の明治憲法体制と相似である。

 

維新のことを日本的変革といふ。日本の伝統精神に基づいた変革が維新であり、日本の本来あるべき姿(天皇中心の國体)を明確にする変革が維新である。維新と革命の違ひは変革の原理を天皇とするか否かである。ゆへに明治維新は革命ではない。

 

また、神武建國の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではない。日本の道統への回帰である。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのである。これを「維新とは復古即革新である」といふ。

 

徳川幕藩体制から天皇中心の統一國家への転生は、体制変革のみならず、精神の変革がその根底にあった。日本國家の発展と安定の基礎は、天皇中心の信仰共同体としての日本國體が、現実の國家運営の基盤として正しく開顕してゐることにある。

 

近代のみならずわが國の歴史が始まって以来、日本國家を統合する<核>が天皇であった。急速な変化と激動の中で、わが國が祖先から受け継いだ伝統を守り、かつ変革を為し遂げた<核>が、天皇のご存在であった。わが國は、どのやうな困難な時期においても、常に伝統を守り、統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その<核>が天皇であった。

 

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。

 

事実、明治維新断行後、天皇を統治者として仰ぎつつ、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県によって統一國家が建設され、帝國憲法の発布・議会政治が開始された。そしてわが国は、欧米列強の支配下に置かれることはなかった。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は天皇を中心とするわが國體精神であった。特に政治・倫理・文化など國家民族形成の基本においてしかりであった。日本人は優秀である。その優秀さは、勤勉性、高い道義心、協力と献身の精神の旺盛さ、謹厳実直さなど色々挙げられるだらう。

 

わが國の最高の御位にあるお方は、上御一人日本天皇であり、天皇はもっとも清浄な人であり、人間の姿をした神である。天皇が政治・軍事・文化・宗教の最高権威者である。

 

共産支那や韓国の「傲慢無礼」な反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されている今日、わが國民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

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千駄木庵日乗四月二十四日

朝は、諸雑務。

午前十一時より、上野公園西郷南洲翁銅像前にて、『西郷南洲翁銅像清洗式』執行。祭事、国民儀礼が行われた。続いて、早瀬内海西郷南洲会会長が挨拶。三沢浩一氏及び小生が祝辞を述べた。そして奉納演武などが執り行われた。多くの同志が参集した。

一旦帰宅し、今夜の講演の準備。

午後六時より、、文京シビックセンターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が挨拶。小生が「昭和天皇御製に学ぶ」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆の準備など。

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2016年4月23日 (土)

辞世の歌に学ぶ

 この世を去るに臨み、自己の感懐を三十一文字に託して表白することは、日本古来の風儀である。これを辞世の歌という。「人の将に死せんとする、その言や善し」といわれて来た通り、人は死に臨んだ時こそ、その真心を訴え・魂の心底からの叫びを発するのである。死に望んだはそしてそれは多くの人々の共感を呼ぶ。

 

日本武尊の辞世

 

 本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

 嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや

 

 命は東征の帰路、能煩野(のぼの・今日の三重県山中)に至って病が重くなりたまい、この歌を詠まれてお隠れになった。「乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ」というほどの意。英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた命の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌われている。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

大津皇子の辞世

 

 萬葉集に収められた辞世の歌でもっとも有名なのは、大津皇子の次の御歌である。

 

 百伝(ももづたふ)磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

 天武天皇の第三皇子であられた大津皇子が、天武天皇崩御直後の朱鳥元年(六八六)、謀反の罪に問われ、死を賜った時の御歌である。「(百伝ふは枕詞)磐余の池に鳴く鴨を今日を見納めとして自分は死んで行くことであろう」というほどの意である。死に臨んでの再び見ることのできない光景に自らの全生命を集約させた歌いぶりで、詠むものに大きな感動を与える。「雲隠り」と詠んだところに、肉体は滅びても生命は永遠であるという日本人の伝統的な信仰が表れている。この信仰が「七生報国」の精神につながるのである。

楠木正行の辞世

 

 かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる

 

 これは、南朝の忠臣楠木正行が足利高氏の大軍を河内の四条畷に迎え撃ち、壮烈な戦死を遂げる直前、同志と共に、後醍醐天皇の吉野の御陵に参拝し、そのふもとにある如意輪堂の壁板に矢立硯で書き留めた辞世の一首で、再び生還しないという悲壮なる決定(けつじょう)を詠んだ歌である。この時正行は鬢の髪を少し切って仏殿に投げ入れ敵陣に向かったという。湊川楠公戦死の場面と、この正行最後の参内の場面とは、『太平記』の中でも最も人の心を動かし、涙をさそう段である。

 四條畷の戦いは、正平三年(一三四八)正月五日の早朝開始され、楠木勢は北進し、高師直の軍に肉迫し、師直もあわやと思われたのであったが、遂に楠木勢は力尽き、正行と舎弟正時とは立ちながら刺し違えて、同じ枕に臥したという。

 

吉田松陰の辞世

 

 幕末勤皇の志士の辞世の歌は数多い。その代表的な歌が、吉田松陰の次の歌であろう。 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 

 安政の大獄によって幕府に捕らえられた松陰は死罪の判決を受け、安政六年(一八五九)十月二十七日、従容として斬首の刑を受けたのである。松陰先生時に歳三十。先生は獄中において「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん」「呼び出しの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな」という歌も詠まれている。さらに松陰は、

 

 吾今国ノ為ニ死ス 死シテ君親ニ背ズ 悠々タリ天地ノ事 鑑賞明神ニアリ

 

という詩も遺した。門下生は師・松陰の死に奮い立ち、その意志を継ぐべく、覚悟も新たに激動の時代を・維新回天の聖業に邁進するのである。

 

乃木大将御夫妻の辞世

 

 明治四十五年七月三十日暁、明治天皇は、御歳六十一歳をもって崩御あそばされた。後に軍神と仰がれた乃木希典大将は、大正元年九月十二日の御大葬当日、次のような遺言を書いて殉死をとげた。「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ、自殺候段恐入候儀、其罪ハ不軽存候、然ル処、明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ、其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ズ。皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覚悟相定候事ニ候」と。乃木大将は今もって西南戦争の際の軍旗喪失の責任を感じ、皇恩の厚きに感謝している。そして、次のような辞世を遺された。

 

 うつし世を神さりましし大君のみあとしたひてわれはゆくなり

 

 神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにおろがみまつる

 

 さらに静子夫人も、

 

 いでましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢うふぞかなしき

 

 との辞世を遺して大将と行を共にされた。時に大将六十四歳、夫人は五十四歳であった。日本殉死史上最後の人といわれる。

 平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬で、小生は二重橋前にて、轜車をお見送り申し上げたのであるが、その時乃木静子夫人の辞世の歌が思い出され、涙が溢れて止どまらなかった。轜車の御出発はまさしく「かへります日」の無い御幸の御出発であったのである。        

 

三島由紀夫・森田必勝両烈士の辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

 昭和四十五年十一月二十五日午前十一時、楯の会隊長三島由紀夫氏と、隊員森田必勝氏、小賀正義氏、小川正洋氏、古賀浩靖氏の計六名は、東京市谷の自衛隊において、東部方面総監の身柄を拘束し、「自衛隊国軍化」「憲法改正」「道義建設」などを自衛隊員に訴えた。そしてその後、三島・森田両氏は壮烈な自決を遂げた。この二首はその時の三島氏の辞世の歌である。

 さらに、森田必勝氏は、

 

 今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

 

 という辞世を詠んだ。戦後の自決事件でこれほど大きな衝撃をもたらしたものはない。三島氏は「散るをいとふ世にも人にもさきがけて」と詠んでおられる。戦後日本は、経済至上主義・営利至上主義の道をひたすら歩み続け、欺瞞的な平和主義にとっぷりとつかってきた。肉体生命以上の価値を認めず、誤れる「生命尊重」を標榜し、無上の価値即ち国のため・大君のため・大義のために潔く散る精神精神を忘却してしまったのである。かかる状況に耐えかねた三島・森田両氏等は「今こそ生命尊重以上の価値を諸君の目に見せてやる」(檄文)と訴えたのである。

 

 現代日本は、日本武尊・大津皇子・楠木正行・吉田松陰・乃木御夫妻・三島森田両烈士の自決の精神こそ「生命尊重以上の価値」であった。「物で栄えて心で滅びる」といった状況を呈しつつある今日こそ、そうした精神に回帰すべき時である。

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千駄木庵日乗四月二十三日

午前は、諸雑務。『政治文化情報』発送作業。完了。購読者の皆様には、週明けにはお届けできると思います。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日行われる『西郷南洲像清洗式』におけるスピーチ、『日本の心を学ぶ会』のおける講演の準備など。

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久保田信之氏の「憲法『国民の権利及び義務』に関する疑念』と題する講演内容

一月三十日に開催された『憲法懇話会』における久保田信之氏の「憲法『国民の権利及び義務』に関する疑念』と題する講演内容は次の通り。

 

「『個人』は哲学では異常な概念。憲法の条文はともかく、現実社会と対比して考えて行かないと話は進まない。哲学はそれだけだと観念論になる。『教育は哲学の実験室』という言葉がある。問題は現実。日本を安全に維持させるためにあんな憲法で良いのだろうかという事を検討してもらいたい。憲法学者は現実を見ていない。

 

理想の人間像を作ってそこに持って行ったら良いという教育論は古典的発想。この子をどうしたら良いという将来像ばかりを考えて焦りが出て来る。有名校に入ることが目的。

 

『現行憲法』第十三条には『すべて国民は、個人として尊重される』とあり『国民』ではない。異様な思想である。『基本的人権』という言葉を持ってくると現実が混乱する。『国』をどう考えるのか。『公共の福祉』は空虚な概念。

 

『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』とある。『個人』とは何なのか。裁判所で宣誓する時、何に対して誓うのか。『良心に基づいて真実を語る』と言うが自分が自分に誓うことになる。

 

第二十条には『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する』とある。宗教は日本においては習慣・慣習であったりする。

 

第二十一条には『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』とある。児童ポルノを禁止できない。日本社会の秩序が乱れる。反社会的活動の結社に対しても及び腰。現実を混乱させる。『現行憲法』は矛盾だらけ。『現行憲法』が如何に現実から乖離しているかを洗ってみる必要がある。『現行憲法』は日本国の憲法ではなくGHQ憲法。全ての根幹・大本に『個』を置いている。

 

『現行憲法』十三条の異様な思想の発想の原点はデカルトの著作『方法序説』。デカルトは全てを疑って疑い得ないものが『私自身』の存在とし、最も確実なものは『私自身』とする。かくして『我思う、ゆえに我あり』(ラテン語Cogito ergo sum)という命題にたどり着く。ここで言う『Cogito(コギト)』こそまさしく『individual』である。それを『個人』と訳した。

 

全てを外して否定しても否定し得ない最後に残るもっとも基本的なものは何か。『確実な認識の出発点』として『意識する我(Cogito)の存在にたどり着いた。全てを外すとヒト科の動物になる。各人が自らの生命を維持するために何をしても良いというのが『自然権』。そして『万人は万人に対して狼になる』危険がある。それを防ぐために自由の制限、契約国家論のようなものを打ち出したのがトマス・ホッブス。

 

ホッブスは神無き世界における『個人』の『自然権』が恐ろしい凶器になってしまうと説いたのだが、ジョン・ロックは『神が自然を与えた』『神によって平和に共存できる』『神によって各人は自由かつ平等な存在だ』とした。コロラドの太平現は見渡す限り何もない。そこにいる個人は神に結び付かないと不安でしょうがない。ロックの思想を受け入れたのがアメリカであり、そのアメリカによって与えられたのが『日本国憲法』である。

 

『第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』と規定して、『国や組織』よりも『個人の権利』を優先させてしまった。それ故『万人により万人の闘争』が起きても不思議ではない。

 

国の民である限り、そして『人・間』である限り、『個人』を超えた國の民として組織の一員としての『制約・ルール』の下に生存せねばならない。しかし『国民』を『個人』に解体する憲法により、国民は『神の如き無制約に自立する存在』になってしまった。

 

明治時代に個人について悩んだのは夏目漱石。イギリスから帰国して『私の個人主義』という講演を行った。自由・平等・博愛という矛盾するもののバランスをいかにして保つかが問題。『個人』をどう考えるのか。国家を対立概念としてとらえなければならないのか。法律が対象にしている国家とはステイト国家。憲法は万能ではない。憲法が全てを解決することはない」。

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千駄木庵日乗四月二十二日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』発送準備など。

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2016年4月22日 (金)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 五月十一日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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第六十一回日本の心を學ぶ會

テーマ 昭和天皇の御聖徳と昭和の御代 

 

四月二十九日に「昭和の日」を迎えます。

もともとは昭和の御代の「天皇誕生日」だったものが、昭和天皇が崩御されたことを受けて「みどりの日」となり、平成一九年に多くの國民の声を受け「國民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正され「昭和の日」となりました。

祝日法によるとその目的は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み國の将来に思いをいたす」とされています。

 

まさに昭和の御代の六十四年は激動の時代でありました。大東亜戦争の開戦と敗戦、米軍による國土の徹底的な破壊と占領、そして奇跡の復興。なにより天皇の御地位が外國の軍事力によって制限されるという日本國始まって以来、最大の危機が昭和の時代に訪れたということは何よりも記憶にとどめなければならないでしょう。

 

このような日本始まって以来の國難に見舞われた時代に、昭和天皇は常に國民と苦楽をともにされ、國家の安定と國民の幸福を祈られました。

 

昭和天皇はその八十七年の御生涯のなかで約一万首のやまと歌をお詠みになりました。天皇の詠まれた御歌は御製とも言われ、臣下の歌とは厳然として区別されています。

 

歴代天皇は公的な詔勅やお言葉で示すことのできないお気持ちやご心境を歌で吐露されてきました。

 

昭和天皇も歴史の節目でそのお気持ちを御製に託して國民にお傳えになりました。記者会見中で御製の「作歌の態度」について問われたときに「できるだけ気持ちを率直にあらわしたい」と仰せになりました

 

御製こそが天皇の真の御心であり、君と民とを直結する日本の橋といえるでしょう。

 

今回の勉強会では昭和天皇のお詠みになった御製を通じて昭和天皇の御聖徳と昭和の御代を振り返りたいと思います。

皆様のご参加をお待ちしております。

 

【日 時】平成28年4月24日(日)午後6時00分より

 

【場 所】文京シビックセンター 3階会議室A

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩一分JR総武線水道橋駅(東口)徒歩九分

 

【講 演】

「昭和天皇御製に学ぶ」四宮正貴氏(四宮政治文化研究所代表)

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代五〇〇円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 〇九〇―八七七〇―七三九五 

 

この案内文は、主催者が作成したものです。

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2016年4月21日 (木)

今日の危機的状況も、尊皇精神の興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する

「共通の価値観」という言葉がよく使われる。「自由と民主主義」「議會政治」という事なのだろうか。欧米と日本は確かにそういう面では共通の価値観を持っているのだろう。しかし、文化・宗教・伝統・歴史では相当異なる価値観を持っているのではないか。

 

橘曙覧(幕末の歌人・國學者。越前國(福井県)の人。王政復古を希求。萬葉調の気品ある歌を詠んだ)

 

「利(くぼさ)のみむさぼる國に正しかる日嗣(ひつぎ)のゆゑをしめしたらなむ」

 

と詠んだ。

 

この歌について折口信夫氏は、「彼の夷狄らは利を貪り、利を營むことにのみ汲々としてゐるが、其故にこそ、王者の興亡が常ならぬのである。正しい皇統の連綿としておはす故を、彼らにしらしめてやるがよいと言ふ…夷狄の、利に敏いことを聞いて、又人に諭したのだ。さう言ふ外國人などとの通交に、わが國が不利益な立場にばかり立ってゐた事を知ってゐたのである」(『橘曙覧評傳』)と論じてゐる。

 

支那は今や曙覧が言ふ「利のみ貪る國」になり果ててしまった。鄧小平以後の支那共産党政権の基本路線である「社會主義市場經濟」「改革開放」とは、「利を貪る路線」である。環境破壊や貧富の格差を顧みず外資に依存したこの路線はやがて破綻すると見る人が多い。自然の荒廃は人心の荒廃につながるし貧富の差の拡大もまた民衆の心を荒廃せしめる。

 

支那は日本から利を貪ろうとして過去の歴史問題を持ち出し、あれこれと内政干渉を繰り返してゐる。それだけではなく、わが國に対して領土的野心をむき出しにしてきた。これに対しては、毅然として対処し、あらゆる手段を用いて撃退しなければならない。

 

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇精神・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。「白村江の戦ひ」に敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた時には、大化改新を断行し、天皇中心の國家體制を明徴化した。「壬申の乱」の後には、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』及び『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。「元寇」の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。幕末の外患の危機に際しては、尊皇攘夷をスローガンとする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。今日の日本の危機的状況も、尊皇精神の興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。

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千駄木庵日乗四月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、書状執筆。原稿執筆。

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孝明天皇御製を拝し奉りて

 

孝明天皇御製

 

國の風 ふきおこしても あまつ日を もとの光に かへすをぞ待つ

 

長州藩直目付長井雅楽は、文久元年(一八六一)五月に藩主毛利慶親に提出した建言書・『航海遠略策』で次のやうに論じた。

 

「…御國體相立たず、彼が凌辱軽侮を受け候ふては、鎖も真の鎖にあらず、開も真の開に之無く、然らば開鎖の實は御國體の上に之有るべく、…鎖國と申す儀は三百年来の御掟にて、島原一乱後、別して厳重仰せつけられ候事にて、其以前は異人共内地へ滞留差し免(ゆる)され、且つ天朝御隆盛の時は、京師へ鴻臚館(註・外國使節を接待した宿舎)を建て置かれ候事もある由に候へば、全く皇國の御旧法と申すにてもこれなく候はん。伊勢神宮の御宣誓に、天日の照臨する所は皇化を布き及し賜ふ可(べ)しとの御事の由に候へば、…天日の照臨なし賜へる所は悉く知す(註・統治する)可き御事にて、鎖國など申す儀は決して神慮に相叶はず、人の子の子孫たるもの、上下となく其祖先の志を継ぎ、事を述るを以て孝と仕り候儀にて、往昔神后三韓を征伐し賜ひ(註・神功皇后が朝鮮に遠征されたこと)候も、全く神祖の思し召しを継せ賜へる御事にて、莫大の御大孝と今以て称し奉り候。……仰ぎ願はくは、神祖の思し召しを継がせ賜ひ、鎖國の叡慮思し召し替られ、皇威海外に振ひ、五大洲の貢悉く皇國へ捧げ来らずば赦さずとの御國是一旦立たせ賜はば、禍を転じて福と為し、忽ち點夷(註・小さな外國)の虚喝(註・虚勢を張った脅かし)を押へ、皇威を海外に振ひ候期も亦遠からずと存じ奉り候…」。

 

大和朝廷の頃は、外國との交際も盛んであり、太陽の照るところは全て天皇の統治される地であるといふのが日本の神の御心であるから、鎖國政策は、日本の神の御心に反しており日本の傳統ではないから転換すべきである、そして、外圧といふ禍を転じて福と為し、天皇の御稜威を世界に広めるべきであると論じてゐる。天照大御神の神威を體し鎖國を止めて、海外への発展の道を開くべしといふ氣宇壮大な主張である。

 

鎖國は、八紘為宇のわが國建國の精神に悖るといふ正論である。この正論は明治維新の断行によって實現した。

 

この長井雅楽の文書は五月十二日に毛利慶親より三条愛(さねなる)に提出された。これをお読みになった孝明天皇は、

 

「六月二日長門藩主・毛利慶親の臣・長井雅楽を以て慶親へたまひたる」と題されて、

 

國の風ふきおこしてもあまつ日をもとの光にかへすをぞ待つ

 

との御製を賜った。孝明天皇は決して頑なな攘夷論者・鎖國論者ではあらせられなかった。わが國の主體性を確立した上での開國・海外発展・外國との和親交際は太古以来のわが國の傳統であると考へられてゐたのである。皇臣・岩倉具視も同じ考へである。岩倉が、孝明天皇を弑逆し奉ったなどといふ説は妄説である。

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千駄木庵日乗四月二十日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備。原稿執筆。

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2016年4月19日 (火)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提に論じて、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである。」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」といふ言葉を使った。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として自殺するのではなく、言葉の正しい意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここでいう「身分の高貴さ」とは、階層的・職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ている。

 

 三島氏の作品と人生における「文化意志」は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道の実現」であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその「美の極致」を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。 

              

 『萬葉集』所収の「柿本人麿歌集」の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)という歌も、相聞の心を戀闕心に置き換えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方であろう。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動をいわゆる「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」の冒頭に書かれている通りだ。

 

 戦後日本の救済・革命のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは三島氏の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。           

                        

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。生き長らえれば、三島氏の四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。しかし、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。その結果が今日の混迷である。

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千駄木庵日乗四月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆。

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2016年4月18日 (月)

後深草上皇と亀山上皇の敵國降伏の御祈願と元寇

鎌倉時代に二回の元寇・蒙古襲来が起こった。第一回の「文永の役」に際して、後深草上皇は、文永八年十月二五日に石清水八幡宮へ行幸されて異國調伏(ちょうぶく・内外の悪を打破すること。特に怨敵・魔物を降伏すること)を祈願された。十一月六日に蒙古軍撤退の知らせがもたらされると、八日に、亀山上皇は石清水八幡宮へ御自ら行幸され徹夜して勝利と國土安穏の感謝の祈りを捧げられた。翌九日には賀茂・北野両社へも行幸された。

 

第二回の「弘安の役」においても、朝廷から全國の二十二社への奉幣と異國調伏の祈祷の命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所において公卿殿上人、北面武士による「般若心経」三十萬巻の転讀などの祈祷が行はれた。亀山上皇はさらに、弘安四年六月石清水八幡宮に参籠され、六月四日には、「不断最勝王経」等を修して敵國調伏を祈祷され、七月一日には「仁王経」等を転讀され、七月四日には「一切経」を転讀され、敵國降伏を祈願あそばされた。

 

さらに、亀山上皇は、弘安四年六月、異國降伏御祈願のために勅使を伊勢大神宮に発遣せられ、宸筆の御願文を奉られた。

 

『増鏡』巻十二「老のなみ」には次のように記されてゐる。「伊勢の勅使に経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、眞讀(注・しんどく。経典を省略しないで全部讀むこと)の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、『我御代にしもかゝる亂出で來て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき』よし、御手づから書かせ給ひける…七月一日(注・閏)おびたゞしき大風吹きて、異國の船六萬艘、つは物のりて筑紫へよりたる、みな吹破()られぬれば、或は水に沈み、をのづから殘れるも、泣く泣く本國へ歸にけり。…さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申をくりける。

 

勅として祈しるしの神かぜによせくる浪はかつくだけつつ 

 

かくて静まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心どもおちゐて、めでたさかぎりなし。」

 

当時の日本國民は、亀山上皇の命懸けの御祈願を神仏が嘉され蒙古軍が玄界灘の底の藻屑と消えたと信じた。

 

亀山上皇は次のような御製を詠ませられてゐる。

 

「石清水の社に御幸ありし時よませ給うける

石清水たえぬながれは身にうけて吾が世の末を神にまかせむ

 

神祇の心を詠ませ給うける

今もなほ久しく守れちはやぶる神の瑞垣(みづがき)世々をかさねて

 

神祇

ゆくすゑもさぞなさかえむ誓あれば神の國なる我が國ぞかし」

 

元寇に際して、日本天皇の御命懸けの御祈祷を拝し奉り、日本國は「現御神日本天皇を君主と仰ぎ天地の神々が護り給ふ神の國」であるといふ「神國思想」が勃興し、まさに挙國一致で戦い、蒙古軍を二度にわたって撃退した。

 

元寇は、まさに有史以来未曽有の國難であった。石原慎太郎氏は今回の都知事選当選直後の記者會見で國民唱歌『元寇』の一番の「四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る/十萬余騎の敵 /國難ここに見る /弘安四年夏の頃」といふ歌詞を披露した。

 

二番の歌詞は、「天は怒りて海は /逆巻く大浪に /國に仇をなす /十余萬の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し」である。今こそ、日本國民はこの歌の心意気を発揮しなければならない。

 

第一〇三代・後土御門天皇の御代は、応仁文明の乱・疫病の流行・大火大地震などがあり、國民は疲弊し、朝廷の衰微も極に達した。後土御門天皇が崩御になられた後、御大葬は行はれず、御遺体を宮中に御安置申し上げたまま四十九日に及んだといふ。この時もまた未曽有の國難であった。この國難に御代に際して、後土御門天皇は御宸筆の「般若心経」を伊勢の皇大神宮に奉納し、聖算長久、武運安全、兵革静謐を祈願された。

 

後土御門天皇は、明応四年(一四九九)に次のような御製を詠ませられた。

 

「伊勢

にごりゆく 世を思ふにも 五十鈴川 すまばと神を なほたのむかな」

 

この御製は聖天子の篤き祈りの御歌である。いかなる濁れる世、乱世であっても、否、さうであればこそ、上御一人日本天皇は、神への祭祀、祈りを深められた。そしてその事が、日本國再生の基となった。

 

今日の日本も「にごりゆく世」である。祭祀主・日本天皇の御稜威の下、本来の日本の清き姿に回帰しなければならない。

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千駄木庵日乗四月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。有り難し。

午後七時より、グランドヒル市ヶ谷にて、『西村真悟君の出版を祝い励ます会』開催。中山恭子さん、荒木和博氏、飯塚繁雄氏などが祝辞、西村真悟氏が挨拶。乾杯の後、盛宴に移った。多くの同志・友人が参集し、和気あいあいにして活気に溢れる会合であった。

登壇者の印象に残った発言を記します。

中山恭子さん「国会は保守主義・社会主義などの『主義』で議論している。『日本の心』大切にしたい。西村真悟氏のいない国会は軽い。『日本の心』を語る熱い政治家が国会にいないのは残念」。

西村真悟氏「わが党は実際に命を懸けた人を党首にしている。『平和主義者』が戦争を招く。『安保法制』を廃案にするために共産党と組んでいる連中が戦争を招く。国防は最大の福祉。田母神氏逮捕で大地が怒った。四つ星の将軍を逮捕するほど重大な罪を犯したわけではない。『戦後体制』とは、天皇陛下の『詔勅』を封印していること。明治時代は『五箇条の御誓文』で始まった。西尾末広氏は戦争直後、皇室を戴く国家を護るために戦った。民社党が私の原点」。

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祝辞を述べる中山恭子さんと西村真悟氏ご夫妻

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年4月17日 (日)

飯田将史氏(防衛省防衛研究所主任研究官)の講演内容

一月二十日午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、「第127回海洋フォーラム 南シナ海をめぐる問題と中国の海洋戦略」開催。飯田 将史氏(防衛省防衛研究所 主任研究官)が講演。講演内容は付きの通り。

 

「去年五月、『中国国防白書』発表。軍事戦略を説明。中國は基本的軍事戦略を時代と共に見直してきている。現在は、海上軍事闘争の準備を重視。海軍重視。海洋権益を守る。海外権益擁護・海洋の重要性を『白書』に明記。中國における安全保障環境が変化。建国当初は陸上にあった。危険は陸上からやって来た。それを一つ一つ解決。ロシアとの国境も全て確定。陸上からの安保上の懸念・脅威がなくなった。重陸軽海の打破。海洋の経路と権益の擁護を高度に重視。

 

中国にとって失われた領土は海洋にある。その最大なものは台湾。そして尖閣・西沙。これが中國海洋が海洋に進出する理由の一つ。もう一つは、中国経済発展の実現によって海洋に進出した。中國はエネルギー消費量が急激に伸びて来た。エネルギーの対外依存がうなぎ上りに増加している。中國は自前のエネルギーの確保を重視。

 

一九七〇年から八〇年、中国は南シナ海支配を拡大して来た。力を背景にして現状の変更を進めてきている。尖閣の主権を脅かしている。南シナ海では現状変更を実現している。海上警察などを使って勢力拡大に成功。二〇一二年四月、スカーボロ礁をフィリッピンから奪取。そして、セカンド・トーマス礁に狙いをつけている。ベトナムとは石油掘削を巡り衝突。

 

二〇一三年一月、『中國が核心的利益で取引すると期待すべきではない。正当な権益を放棄せず核心的利益は犠牲にしない』という方針を打ち出した。『平和発展の道』は条件付き。二〇一三年七月、習近平は『海洋強国を選択する』と言った。海洋権益と核心的利益の重視はほぼ同じ。中國はこの二、三年南シナ海での軍事的プレゼンスを強めている。昨年七月南シナ海での大規模な実弾演習・上陸演習を行った。フィリッピン・ベトナムへの威圧。二〇一四年一月、インド洋へ進出して演習。第一列島線を南から突破しようとしている。急速に埋め立てを進め軍事化している。人工島の基地を作ろうとしている。それに依拠して領海を主張して来ることは否定できない。南シナ海に広大な中國の領海が出現する可能性あり。軍事的にアメリカによる中国への接近を拒否。

 

尖閣・フィリッピン・台湾の三つの問題での最大のネックはアメリカ軍。如何にアメリカの介入を回避するかが大問題。南シナ海は非常に深い海。潜水艦は深く潜れる方が有利。二〇〇九年三月、南シナ海で米艦艇『インペッカブル』に対する妨害を行った。海南島基地の強化は、潜水艦運用において非常に重要。体を張ってアメリカ軍を妨害した。

 

アメリカは、昨年十月二十七日南シナ海で航行の自由作戦を実施。アメリカは航行の自由が確認されるまで止めることはないであろう。それなりの覚悟を持ってアメリカは始めたのであろう。南支那海での米中対峙は高まる。アメリカと米国との国益の衝突。危機管理のメカニズムに米中は合意。力を競い合う状況は今後も続く。中國は二枚舌で、それに何の躊躇もない。中国は『国際法』について、自分たちに有利なことは重視。不利ことは無視する。

 

中國は多面的存在。経済的には日米東南アジアは共通利益を持つ。中國への経済依存度は、東南アジアは日米よりも圧倒的に高い。中國は東南アジアを団結させない戦略。問題の根本は中国の政治体制にある。一党独裁体制の正当化、経済発展、国家の統一、民族主義の実現が一党支配体制を納得させている。経済成長は減速し、簡単に克服できない。中国共産党はナショナリズムに頼らざるを得ない。ナショナリズムにおける成果を国民に見せることが大きなポイント。中國は中東問題の深刻化に期待がある。九・一一以降中国はチャンスの時代を迎えた」。

              ○

千駄木庵主人曰く。共産支那は、尖閣・沖縄・フィリッピン・台湾などを支配下に置こうとしているのである。その最大のネックはアメリカ軍なのである。そのために飯田 将史氏が言われる通り、アメリカの介入を回避せんとしているのである。沖縄における反基地闘争、反自衛隊闘争さらには琉球独立の動きは、自覚するとしないとに関わらず、共産支によるのアジア侵略支配を助ける役目を果たしているのである。

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千駄木庵日乗四月十七日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、資料の整理・検索、原稿執筆の準備、原稿執筆など。

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荒ぶる神は祭祀によって鎮めることができる

「神」は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

 

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)(『古事記傳』)と定義してゐる。

 

 日本の自然の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。

 

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

 

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

 

近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

 

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

 

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

 

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

 

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

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千駄木庵日乗四月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後も、資料の整理、原稿執筆。

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2016年4月15日 (金)

この頃詠みし歌

肥満体の我は息を弾ませて本郷台地をのぼり行くかな

 

団子坂大給坂にたぬき坂は我に親しき坂道の名ぞ

 

一歩一歩湯島中坂を上り行くこの夕暮れに息切らしつつ

 

春の夜の空を動き行く飛行機の灯り眺めるほろ酔ひの我

 

國会前で物の怪に憑かれし如く叫びゐる若者たちの何と厭はしき

 

橋の上より川の流れを見つめをり花びら浮かべて流れゆく川を

 

ゆったりと流れ行きゐる川の面に桜の花びら散り続くなり

 

ゆったりとゆったりと流れる川の面 桜の花びらもゆったりと行く

 

川の面が桜の花びらに覆はるる江戸川公園にひとりやすらぐ

 

遊歩道に桜の花びら散り敷きて過ぎ行く春を惜しみゐるなり

 

水を祀る小さき社を仰ぎつつ江戸の昔を偲ぶ春の日

 

風吹けば桜吹雪に包まれて今われ春の真中にぞ立つ

 

わが人生六十九回目の桜花舞ひ落つる下に立ちてうれしき

 

麗しき日の本の國をそのままに誇るが如き満開の桜

 

地下駅より上り来たれば満開の桜花見えたり春の喜び

 

春の苑桜の花の咲き満ちて大き仏の慈願尊し 

 

若き日の友らが次々と逝きにけること思ひつつ落花見てゐる

 

散る桜仰ぎて立てばこれの世を去りし友どちの面影ぞ立つ

 

明るき坂を上り行きなば母が待つ施設があるを喜びとする

 

病みし友と電話で話せど慰めの言葉もうまく口より出でず

 

饒舌に話すは難し病みし友の弱りたる声を聴きゐる我は

 

神を信ずる女性の言葉強くして胸の奥処(おくど)に響き来るなり

 

けたたましきサイレン聞こえ来る夜なれば安眠といふを拒否されにけり

 

冷雨降る駒込の街のラーメン屋人さはに満つる暖かさかな

 

六義園に行列して入る人々をいぶかしみ見る我にしありけり

 

我もまた京都に行けば行列に交じりて庭園を経巡りにけり

 

遠き世の歌を讀みつつ今の世を生きる人々は心和ます

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千駄木庵日乗四月十五日

午前は、『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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京都御所拝観

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紫宸殿

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承明門より紫宸殿を拝す

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小御所

栄枯盛衰有為転変の世なりとも京都の御所は永久に美し

 

紫宸殿の高御座を拝し皇國(すめくに)の永久の榮を祈りまつれり

 

天津日嗣の高御座を今日仰ぎすめらみ國に生れし幸を思ふ

 

日本文化の結晶の如き京都御所に参り来たりし春の朝かな

 

雨に濡れるみはしの桜を眺めつつ孝明天皇を偲びまつれり

 

孝明天皇の深き祈りを偲びつつみはしの桜を仰ぎたるかな

 

武家専横の世を改めてすめらぎのしろしめす世に帰りし歴史

 

春の雨に濡れつつめぐる京都御所清らかにして美しきかな

 

恋闕の心をしみじみ実感す 今日承明門の前に立ちつつ

 

土砂降りの雨に濡れつつあまたなる民草は御所を経巡りてをり

 

外つ國人が多く歩める京の御所 春たけなわの桜満ち満つ

 

高台寺の枝垂れ桜を見上げたり栄枯盛衰の世を思ひつつ

 

久しぶりに訪ね来たりし靈山の観音像は変らずに立つ

 

東山を背にして立てる観音の白きみ姿を仰ぎたるかな

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千駄木庵日乗四月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き母に付き添う。食欲あり、機嫌良し。有り難し。

帰宅後も原稿執筆。

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2016年4月13日 (水)

敬神崇祖がわが國民道徳の基本であり祖靈を尊ぶことがわが國の道統である。

日本武尊は薨去された後、その御霊は白鳥となって故郷に向かって飛んで行かれた。古代において鳥は霊魂を運ぶものと信じられた。肉体を離脱する霊魂の自由性・不滅性の最も原初的な信仰である。そしてその鳥が純白なのは、清らかさを好む日本人の生活感覚から生まれたのであろう。

 

柳田國男氏は、「日本人の大多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何か其の消息に通じているやうな気持を、抱いて居た…第一には死してもこの國の中に、霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、第二には顕幽両界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに、何れか一方のみの志によって、招き招かるゝことがさまで困難でないやうに思って居たこと、第三には生人の今はのときの念願が、死後には必ず達成するものと思って居たことで、是によって子孫の為に色々の計画を立てたのみか、さらに三たび生まれ代って、同じ事業を続けられるものゝ如く、思ったものの多かったといふのは第四である。」(『先祖の話』)と論じている。

 

日本人は、死後の世界は現世とそう隔たった世界ではない信じた。佛教特に浄土信仰が、十萬億土の彼方にある西方極楽浄土に往生すると説くのとは大分違う。

 

中村元氏は、「日本人は佛教の渡来する以前から現世中心的・楽天的であった。このような人生観がその後にも長く残っているために、現世を穢土・不浄と見なす思想、日本人のうちに十分に根をおろすことはできなかった」(『日本人の思惟方法』)と論じている。

 

日本には死んだご先祖が草葉の蔭から子孫を守って下さるとか、あるいはその反対に怨みを持って死んだ人の霊が生きたいる人のところに化けて出るという信仰がある。一方日本人は、死んだら西方十萬億土の彼方にある極楽に往生して佛様になると信じ、その佛様が草葉の蔭(この世のお墓の下といふこと)から子孫を守ってくれると信じた。まったく矛盾するような考えであるが、これは信仰だから「合理主義」であれこれ論じても仕方のないことである。

 

中世の戦乱の世になって、この世を穢土として西方極楽焼土に憧れる信仰が盛んになった。極楽浄土思想は、わが國の伝統信仰の重要な柱の一つである「常世」思想と融合したと思われる。

 

ともかく日本民族は肉体が滅びても魂は永遠である信じてきた。だから古典和歌には肉体が滅んだ姿を詠んだ歌はない。

 

ともかく、日本人にとって肉體の死は靈魂の滅亡ではないのである。これがわが國の傳統的死生観である。そして死者の靈を弔い鎮めることが現世に生きる人間のつとめである。敬神崇祖がわが國民道徳の基本である。祖靈を尊ぶことがわが國の道統である。

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千駄木庵日乗四月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、今夜の『萬葉集』講義の準備、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が大伴旅人の歌などを講義、質疑応答。

帰途、出席者と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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七生報国の精神とよみがヘリの思想

日本人は古来、肉体は滅びても、生命は永遠といふ信仰を持ってゐる。今日の日本人の多くもさういふ信仰を持ってゐる。生の世界と死の世界は絶対的に隔絶してゐない。人が死んでも、その魂をこの世の近くにゐて我々を守ってゐると信じてゐる。この信仰は仏教の極楽往生の思想と矛盾しても今日まで生き続けてゐる。

 

『太平記』には次やうに書かれてゐる。「舎弟の正季に向て、そもそも最後の一念に依て、善悪の生(しゃう)を引くといへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替(かへ)て、この本懐を達せんと契て、兄弟共に刺違て、同枕(おなじまくら)に伏にけり。」

 

この文章には、楠公のそして日本民族の絶対尊皇精神、七生報国の精神が見事にうたいあげられてゐる。「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」という正季の言葉は、後々の世まで深く人の心に感銘を与へ、人の心を動かした。歴史を動かしたと言っても過言ではない。

 

楠公兄弟は、「今度は浄土に生まれたい」「地獄には行きたくない」「後生はもっと善い処に生まれたい」などとは言はなかった。ただひたすら、「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ強烈な決意を吐露した。

 

「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生き通して、君国に身を捧げるといふ捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

 

保田與重郎氏は、「『罪業深き悪念云々』といふのは、当時の仏教思想に基づく考へ方である。『太平記』の作者も、仏教観念の鼓吹を、この物語執筆の趣旨としたのだが、大楠公の品格をのべ行動と結末を語るに当っては、さういふ観念のものを全く棄て、超越してゐるのである」「正季公がからから打笑ひ、七生尽忠の志を誓はれたのにたいし、大楠公が『よに嬉しげなる気色にて』これを諾ったといふ書きぶりは、まことにこの物語の作者の志のたけ高さ示すに十分であった。これこそすなほな民族感情の表現である。正季公がからからと打笑ったといふことは、当時の一般教養界を風靡した仏教信仰からくる穢土厭離の思想をその笑ひで吹きとばされたのである。」(『太平記と大楠公』・湊川神社社務所発行「大楠公」所収論文)と論じてゐる。

 

柳田國男氏は、「人があの世をさう遥かなる國とも考へず、一年の力によってあまたゝび、此世と交通することが出来るのみか、更にあらためて復立帰り、次次の人生を営むことも不可能ではないと考へて居なかったら、七生報国という願ひは我々の胸に、浮かばなかったであらう…廣瀬中佐が是を最後の言葉として、旅順の閉塞船に上った…生死の関頭に立つ誠實な一武人としては、是がその瞬間の心境に適切であったのは固よりで…同じ体験が至誠純情なる多数の若者によって次々と積み重ねられた。さうして愈々この四つの文字を以て国民生活の一つの目標として居るのである」(『先祖の話』)と論じてゐる。。

 

「七生報国」の精神、「七生まで唯同じ人間に生れる」とは、「よみがへり」の思想である。「よみがへり」と「黄泉(よみ)の國から帰って来る」ことである。黄泉の国に行かれた伊邪那美命を訪問しこの世に帰って来られた伊邪那岐命は、「よみがへられた」のである。

 

『萬葉集』では、「よみがへり」といふ言葉に「死還生」(死の世界から生きて帰るといふ意であらう)という字をあててゐる。

 

日本人が死者は必ずよみがへると信じたといふことは、日本人にとって絶対的な死は無いといふことである。人は永遠に生き通すと信じたのである。

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2016年4月12日 (火)

千駄木庵日乗四月十二日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。食事の介助。

午後四時より、田園調布にて、曽野綾子さんにインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。貴重なお話を聞くことができた。

帰宅後は、明日の「萬葉古代史研究会」における講義の準備。『政治文化情報』の原稿執筆。

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萬葉古代史研究会

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 四月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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神武天皇御即位・橿原奠都の聖史

『日本書紀』巻三・神武天皇即位前戊午九月の条に「九月の甲子(きのえね)朔(ついたち)…賊虜(あだ)拠る所は、皆是要害の地なり。故(かれ)、道路絶え塞(ふさが)りて、通らむに處無し。天皇悪(にく)みたまふ。是夜、自ら祈(うけ)ひて寝ませり。夢に、天神有(ま)して訓(をし)へまつりて曰く、宜しく天香山の社(やしろ)の中の土を取りて、以て天平瓮八十枚(あめのひらかやそち)を造り、并(あは)せて厳瓮(いつへ)を造りて、天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を敬ひ祭れ。亦厳呪詛(いつかのかしり・潔斎して行ふ咒言)を為せ。如此(かくのごとく)せば、虜(あだ)自づからに平(む)き伏(したが)ひなむ」「是(ここ)に天皇甚(にへさ)に悦びたまひて、乃ち此の埴(はにつち)を以て、八十平瓮(やそひらか)、天手抉(おめのたくじり)八十枚(やそ き)、厳瓮(いつべ)を造作(つくり)りたまひて、而して丹生(にふの)川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭り(いはひまつ)たまふ。」「時に道臣命(みちのおみのみこと)に勅(みことのり)すらく、『今高皇産霊尊を以て、朕(われ)親(みづか)ら顯齋(うつしいはひ)を作(な)さむ。汝(いまし)を齋主として、授くるに嚴媛(いつひめ)の號(な)を以てせむ。其の置ける埴瓮(はにへ)を名づけて、嚴瓮(いつへ)とす。又火の名をば嚴來雷(いつのかぐつち)とす。水の名をば嚴罔象女(いつのみつはのめ)とす。…』とのたまふ」

 

神武天皇は、天つ神の神示をいただき、丹生川上において、天神地祇を祭りたまひ、祈願を籠められ、神霊の御加護を得て、まつろはざるものたちを平定し、橿原の宮で即位を行はれた。これを「丹生川上の御親祭」と申し上げる。

 

「高皇産霊尊を以て、朕親ら顯齋を作さむ」の「顯齋」とは、顕露(あらは)には見えない神を、顕露に見えるやうに斎き祭ることとされる。即ち、高皇産霊尊の神靈が神武天皇の御身に憑りつき合一されて、現御神として顕現される祭りである。「丹生川上の御親祭」は、単なる戦勝祈願ではなく、神武天皇が現御神としての御資格を発現されたみ祭りなのである。

 

神武天皇御即位・橿原奠都の聖史の上で、非常に由緒のある地が吉野である。歴代天皇が度々吉野離宮は御幸されたのは、単なるご静養とか、物見遊山のためではなく、皇室の歴史と傳統を継承し、天神地祇を祭られるためである。神武天皇が橿原奠都の前に神の御加護を祈る祭事を行はれた吉野で、祭事を行はれ、現御神日本天皇としての神威・霊力を高められたと拝察する。神聖な吉野の地で、川水で御祓をされ祭祀をされ、國の平和、皇統連綿、朝廷の彌榮を祈られるためであった。

 

『日本書紀』に次のやうに記されてゐる。

(神武天皇)四年の春二月の壬戌(みづのえいぬ)の朔甲申(きのえねさるのひ)に、詔して曰はく、『我が皇祖(みおや)の靈(みたま)、天より降り鑒(み)て、朕が躬を光(てら)し助けたまへり。今諸の虜(あだども)已(すで)に平(む)けて、海内(あめのした)事無し。以て天つ神を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし』とのたまふ。乃(すなは)ち靈畤を鳥見山の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)。下小野(しもつをの)の榛原と曰ふ。用て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭りたまふ。」

 

鳥見山は標高七三五メートル。神武天皇御即位後四年春二月、神武天皇が大嘗祭を執行された聖跡と傳へられる。昭和十五年の紀元二千六百年を記念して文部省が行った神武天皇聖蹟調査で桜井市の鳥見山が霊畤傳承地として決定された。

 

神武天皇は、橿原の地に都を開かれる前に、丹生川上に於いて天神地祇を祭られ、都を開かれた後には、鳥見山に於いて天神地祇を祭られた。この二つの祭祀によって現御神として大和の國を統治せられるご資格を開顕されたと拝する。

 

現御神日本天皇の日本國統治は、西洋の「王権神授説」や支那の「天命説」とは全く異なる。神や天から王者としての権力を与へられるのではない。天皇御自ら祭祀を執行せられ、神と合一され、地上における神の御顕現即ち現御神となられるのである。「祭る人」から「祭られる神」になられるのである。三千年を経た今日も、その祭祀の聖蹟が麗しくも厳粛に傳へられてゐることに感激にほかなかった。

 

故に、天皇は常に無私の心で統治されるのである。無私の心とは神の御心のままといふことである。さらに御歴代の天皇の踏み行はれた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま國民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神の祭祀によって聖化された。日本神話には、神武天皇が御即位あそばされる前に、大和地方の國魂がこもっていると信じられた天香具山の埴土(はにつち)を以て天平瓮(あめのひらか)・厳瓮(いつへ)を作り、大和地方の神を祀って大和地方を平定されたと書かれている。

 

大和朝廷による祭祀的統一とは、各氏族・部族の尊崇していた神々を抹殺して大和朝廷の尊崇する神のみを祭ることを強制したのではない。各氏族・部族が尊崇する神々をそのままお祭りすることによって、精神的信仰的統一を実現したのである。これが西欧と日本との大きな違ひである。

 

日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そしてそれと一体のものとしての「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられる。その大君に對し奉り、臣下國民は赤き心直き心で仕へまつるのが日本國民の道である。そして上御一人の大御心は『おほみことのり』即ち詔勅・大御歌・公的御行動によって示されるのである。

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千駄木庵日乗四月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事、インタビューの準備。

夕刻、西日暮里にて、若き友人の懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2016年4月11日 (月)

今日思ったこと

アメリカは実際にあった原爆投下即ち広島大虐殺・長崎大虐殺を謝罪しないのだから、日本は実際には無かった南京大虐殺を謝罪する必要はまったく無い。

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日本人は、肉體は滅びても、生命は永遠といふ信仰を持ってゐる

  日本人にとって「死」とは虚無の世界への消滅ではない。肉體は滅びても生命は永遠であると信じてゐる。生の世界と死の世界は絶対的に隔絶してゐない。人が死んでも、その魂をこの世に呼び戻すことができると信じてゐる。本来日本人は、「死ぬ」と言はず「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」と言った。「葬る」ことを「はふる」といふ。「はふる」とは「羽振る」である。魂が空を羽ばたいて飛んでいくことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

日本武尊は薨去された後、その御靈は白鳥となって故郷に向かって飛んで行かれた。古代において鳥は靈魂を運ぶものと信じられた。肉體を離脱する靈魂の自由性・不滅性の最も原初的な信仰である。そしてその鳥が純白なのは、清らかさを好む日本人の生活感覚から生まれたのであらう。

 

「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」といふ言葉は、肉體は滅びても生命・靈魂は生き続けるといふ信仰に基づく言葉である。今でも、丁寧な言ひ方をする時には「死んだ」とか「死ぬ」と言はない。「他界する」「昇天する」といふ。また、「亡きがら」「遺體」とは言っても「死體」とは言はない。

肉體の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

日本人は、古来、靈魂が遊離して肉體は滅びても人間が無に帰するといふことは無いと信じて来たのである。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち靈は永久にこの國土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居る」(『先祖の話』)と論じてゐる。

 

死者の靈魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この國土に留まって子孫を見守ってゐるといふ信仰は、わが國において永く継承されてきてゐる。「先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の靈魂を身近に感じて来たのが日本人の傳統的祖靈観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持ってゐるのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身體から遊離することが死である。それがために肉體人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。『萬葉集』の柿本朝臣人麻呂の歌「淡海(あふみ)の海()夕波千鳥汝()が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。氣力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」のからである。死とは命が枯れることであり、肉體から魂・生命が去ることである。死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本傳統信仰には死はない。死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。

 

お盆には先祖の御靈が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰を持ってゐる。死とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

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2016年4月10日 (日)

千駄木庵日乗四月十日

午前は、諸雑務。

 

昼、施設に赴き、母に付き添う。食事の介助。食欲があり、元気なり。有難し。

 

午後三時より、芝の東京グランドホテルにて、「宗教問題講演会」開催。小川寛大氏が主催者挨拶。犬塚博英氏が「私の見てきた生長の家」と題して講演。質疑応答。

 

この後、地元の戻り、友人ご夫妻と懇談。

 

帰宅後は、原稿執筆、インタビューの準備など。

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2016年4月 9日 (土)

天皇の国家統治について

三潴信吾氏は「帝国憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、国家・国民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ『統治』は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の伝統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである」(『日本憲法要論』)。「(『大日本帝国憲法』)第一条の『統治』とは、わが日本の歴史的傳統的な万生撫育の精神によって『天の下治ろしめす』という、超政治的で萬世一系の皇位の『象徴』としての道義的御作用を、わが国の政治の理念として明示した文言です」(『憲法講話』)

と論じておられる。

 

『續日本紀』に収められている文武天皇の『宣命』には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。詳しくは「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されている。

 

また『萬葉集』巻十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の國には…」(四0九四)と歌っている。現代語に訳せば、「この豊葦原の瑞穂の國を、高天原より天降られまして御統治あそばされました皇祖邇邇藝命から御代を重ねられ、天津日嗣として天の下を御統治になった御歴代の天皇の御代御代、治められたこの四方の國は…」というほどの意である。

 

さらに『萬葉集』には、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」(はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)とか「高市岡本宮御宇天皇代」(たけちのをかもののみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)と記されている。

 

天皇の国家統治の「統治」という言葉は言うまでもなく漢語即ち支那の言葉である。これを<やまとことば>で言えば「しらす」「しろしめす」である。「やまとことば」の「しろしめす」(「しらしめす」ともいう)とは「知る」の尊敬語である。「知らす」にさらに「めす」という敬意を添える語を付けた言葉である。「天皇が民の心を知りたまい民もまた天皇の御心を知る」ということが「統治」なのである。

 

この場合の「知る」とは単に知識を持っているという意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握し関係するというほどの意であろう。

 

天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるということであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているということである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

 

祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の国家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本国が成立する。

 

先帝昭和天皇陛下が、よく「あっそう」というお言葉をお発しになられたのは、まさに無私と慈愛の心で相手の言う事をお聞きになられお知りになったということである。有難き限りである。

 

『大日本帝国憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いたのである。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られ、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)という、きわめて宗教的というか信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 

天皇統治は、天の神の御委任により天の神の地上における御代理としての天皇が天の下をお治めになるという雄大なる神話的発想に基づくのである。漢字表現は支那のものであっても、信仰自体は日本固有のものであって、神話時代より継承されてきたのである。人為的に権力・武力によって民と国土を治めるのではなく、あくまでも神の御心のままに宗教的権威によって国民と国土を治めるというのが天皇の国家統治である。

 

<やまとことば>ではまた「統治」のことを「きこす」「きこしめす」(「聞く」の尊敬語)とも言う。天皇が民の心を聞かれるという意味である。

 

日本を統治するために天の神の命令により天から天降られた天孫邇邇藝命の父にあたられ、天照大神が邇邇藝命の前に地上に天降らせようとした神を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)

と申し上げる。さらに、神武天皇の御子・綏靖天皇を神沼河耳命(かむぬなかはみみ)と申し上げる。日本国の統治者・君主は「耳で聞く」ことを大事にされていたので「耳」という御名を持たれたと思われる。

 

『古事記』には仁徳天皇の世を聖帝の世というと記されている。仁徳天皇は、高い山に登って四方の国をご覧になり、「国の内に炊煙が立たないのは国民が貧しいからだ。これから三年間国民から税金を取るのをやめよう」と仰せられた天皇で、聖帝と讃えられた。

 

「日本思想体系・『古事記』」の「補注」において佐伯有清氏は、「(聖帝の注)『聖』とは、耳と呈(貞即ち正)から成り、耳聡く聞き分ける人、神秘的な洞察力のある人物。農耕社会では時候の推移を洞察して農事を指導することが、対立する主張を聴取して調整することと共に、王たるべき者の責務であるから、聖と王とは結びつきやすい」と論じている。また『角川当用漢字字源辞典』(加藤常賢・山田勝美著)によれば、「意味を表わす『耳』と『口』と、音を表す『壬』とからなる形声字。…耳の穴がよく開いていて普通人の耳に聞こえない神の声の聞こえる意。…古代社会においては、普通人の聞きえない神の声を聞き分けうる人を『聖』と呼んだものであろう」という。

 

一般人が聞きえないことを聞く人というのは、聴覚器官が普通の人より発達している人ということではなく、神霊の声を聞く人ということであり、祭り主ということである。神の声を聞いて民に伝え、民の声を聞いて神に申し上げるという神と人とをつなぐ役目を果たされる祭り主が天皇のなのである。

 

また、<やまとことば>の「ひじり」(漢字では聖と書く)とは、「日を知る人」の意であるという。日とは文字通り太陽のことであり、天体の運行に通暁している人のことである。天体の運行即ち暦は農業にとってきわめて重要である。これを知っている人は農耕国家の君主たる資格を持つのである。また「日」は「霊」であり、「ひじり」は「霊力を有する神聖な存在」という意味でもある。

 

『萬葉集』に収められた「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麿朝臣の作れる歌」という長歌の冒頭に、「玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを…」とある。これは「(『玉だすき』は畝傍にかかる枕詞注)畝傍の山の橿原に都を開かれた日知りにまします(神武天皇の注)御代以来、(『つがの木』はつぎにかかる枕詞注)この世に降臨された現御神はことこどくみな天下を御統治になられたが…」というほどの意である。ここにも「日知り」という言葉が登場する。本居宣長は、「日知り」を「日の如くして天下を知らしめすといふ意なるべし」としている。「日の神・太陽の神の如くわけへだて無く天下を統治される天皇の御代」を「日知りの御代」と言ったのである。

ともかく、日本伝統の「ひじり」についての考えと支那の「聖」という字の意義とが結合して「聖帝」という考えが生まれたのである。

 

このように民の心を知りたまい(しろしめす)聞きたまう(きこしめす)ことが天皇の国家統治の基本なのである。

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千駄木庵日乗四月九日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

午後六時半より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。高乗正臣平成国際大学名誉教授が座長。慶野義雄平成国際大学教授が「憲法違反の『日本国憲法』-限界超えた解釈改憲―」と題して報告。質疑応答・討論。

帰宅後は、原稿執筆。

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第六十一回『日本の心を学ぶ会』のお知らせ

 

「昭和天皇の御聖徳と昭和の御代

 

四月二十九日に「昭和の日」を迎えます。

もともとは昭和の御代の「天皇誕生日」だったものが、昭和天皇が崩御されたことを受けて「みどりの日」となり、平成一九年に多くの国民の声を受け「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正され「昭和の日」となりました。

祝日法によるとその目的は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み国の将来に思いをいたす」とされています。

まさに昭和の御代の六十四年は激動の時代でありました。

大東亜戦争の開戦と敗戦、米軍による国土の徹底的な破壊と占領、そして奇跡の復興。

なにより天皇の御地位が外国の軍事力によって制限されるという日本国始まって以来、最大の危機が昭和の時代に訪れたということは何よりも記憶にとどめなければならないでしょう。

このような日本始まって以来の国難に見舞われた時代に、昭和天皇は常に国民と苦楽をともにされ、国家の安定と国民の幸福を祈られました。

昭和天皇はその八十七年の御生涯のなかで約一万首のやまと歌をお詠みになりました。

天皇の詠まれた御歌は御製とも言われ、臣下の歌とは厳然として区別されています。

歴代天皇は公的な詔勅やお言葉で示すことのできないお気持ちやご心境を歌で吐露されてきました。

昭和天皇も歴史の節目でそのお気持ちを御製に託して国民にお伝えになりました。記者会見中で御製の「作歌の態度」について問われたときに「できるだけ気持ちを率直にあらわしたい」と仰せになりました

御製こそが天皇の真の御心であり、君と民とを直結する日本の橋といえるでしょう。

 

今回の勉強会では昭和天皇のお詠みになった御製を通じて昭和天皇の御聖徳と昭和の御代を振り返りたいと思います。

 

皆様のご参加をお待ちしております。

 

【日 時】平成28年4月24日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 3階会議室A

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

 

「昭和天皇御製に学ぶ」四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395 

 

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この案内文は、主催者が作成したものです。

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日本の君主も国土も自然も国民も全てが神から生まれ、神霊的に一体である

神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。君主と国民とは対立関係にあるのではないし国家と国民も対立関係にあるのではないことは、日本神話に示されてゐる。

 

村岡典嗣氏は、「(国家の神的起源思想の特色として・註)国家成立の三要素たる国土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百万神はもとより、大八洲の国土そのものまでも、同じ諾册二神から生れでたはらからであるとの考へである。吾人は太古の国家主義が実に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即国家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が国土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の国家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである。」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。

 

日本國は神の生みたまひし国である。日本国の肇国・建国・生成は、決して武力や権力による統一・結合そして支配被支配関係の確立ではない。伊耶那岐命・伊耶那美命は、自然神であると共に、人格神であらせられた。

 

岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、国生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって国土が生成されたのである。国土ばかりではなく、日本国民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神のよって生まれたのである。

 

国土も自然も人も全てが神の命のあらはれであり、神霊的に一体なのである。これが我が国太古からの国土観・人間観・自然観である。

 

日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、二柱の神の「愛・むすび」によって国土が生まれた。つまり神と国土・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、神霊的に一体の関係にあるのである。ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地を創造し支配するといふユダヤ神話とここが全く異なる。

 

伊耶那岐命が伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ。だから・註)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

 

伊耶那岐命が「国土を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。

 

中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、国土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

 

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、国土をお生みになったのである。太古の日本人は劫初から、国家意識が確立してゐたのである。この場合の「国家」とは権力機構としての国家ではないことはいふまでもない。

 

天皇と国民と国土の関係も、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを君民一体といふ。

 

日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

皇祖天照大神を霊肉共に継承する『万世一系の天皇』を日本国の最高の権威(権力ではない)の座に頂き、君民一体の姿で民族の歴史を展開してきた、という点に日本の国柄の最大の特質がある。

 

したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、世界の多くの國々のやうな征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

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千駄木庵日乗四月八日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き母に付き添う。

午後六時半より、霞が関の霞山会館にて、『岡崎研究所懇親会』開催 太田博岡崎研究所理事長・所長が挨拶。加藤良三元駐米大使、鶴岡公二駐英大使、金美齢さん、風間直樹参院議員などがスピーチを行った。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年4月 7日 (木)

千駄木庵日乗四月七日

京都御所拝観。

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紫宸殿

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承明門

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紫宸殿と左近の桜

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紫宸殿 正面

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小御所

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御池庭

拝観を終え、帰京。

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千駄木庵日乗四月六日

午前、新幹線で京都へ。

午後、東山の高台寺(高台寿聖禅寺)に参詣。このお寺は、豊臣秀吉逝去後、その菩提を弔うために、秀吉夫人北政所(ねね)が慶長十一年(一六〇六)の改装した寺院。

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高台寺開山堂

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高台寺枝垂れ桜

この日は京都に泊まる。

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2016年4月 5日 (火)

シンポジウム「アジアの価値観と民主主義」における登壇者の発言

一月十九日に大手町の日経ホールで開催されたシンポジウム「アジアの価値観と民主主義」における登壇者の発言。

 

 猪口孝氏(新潟県立大学学長、東京大学名誉教授)「ヨーロッパはヒストリーで決められてきた。アメリカは哲学で決められてきた。アジアは自然との調和で決められてきた。アジアは長い歴史がある。紀元前二千年にゼロと1の違いを見つけた。ヨーロッパよりはるかに多い人口を抱えている。自由・寛容・人権・思いやりと並んで自然との調和が強く出て来た。ゆっくりと幹が出来る範囲でやって行こうというのがアジア。中國・インド・日本から科学技術が爆発的に出ている。アジア・インド・太平洋地帯の人々が世界をリードするようになっている。人間の力を過信することが多い。人間は自然の中の一部。あきらめはしないが無駄な抵抗はしない。多様性を受け入れる」。

 

渡部恒雄氏(東京財団上席研究員兼外交・安全保障担当ディレクター)「アジアにおける多様性。国民国家の成り立ちが全て違う。多様性の中のアジアでどうやって行けばいいのか。共通項は良い統治をすること。民を慈しむ心ともかぶる話。民主主義の理屈と実際に機能させるのとは違う。日本とインドで非西洋的伝統を保ちつつ民主主義を作った。他国への影響が強い」。

 

 

アンベス・オカンポ氏(フィリピン:アテネオ・デ・マニラ大学准教授、前歴史学部長)「歴史は繰り返される。過去は自由に語られるべし。過去を以て現在・未来につなげるステップが必要。自由主義の重要性を見出すべし。マルコス夫人が三千足の靴を持っていた。息子は副大統領候補として出馬。国民が投票することが出来るようになった。識字率の問題がある。エリートが勝利するとは限らない」。

 

ティン・マウン・マウン・タン氏(ミャンマー:シンガポール国立大学東南アジア研究所ビジティング・シニア・フェロー)「ミャンマーの若い世代は過去にとらわれている。民主主義的移行は一夜にしては為し得ない。色々な利害関係者がいる」。

 

松本紹圭氏(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来理事)「社会観・人間観が大事。自然は『じねん』と讀まれていた。自ずからしからしむ、あるがままという意。人間と外のものとをひっくるめて考える。宗教が民主化にどういう影響を与えたのか。矛盾がある事を踏まえた上で答えを急がない。諸行無常・変化しないものはない。いい加減という言葉はネガティブに響くが、ポジティブには『しなやかにやっていく』という意味」。

 

川島真(東京大学大学院総合文化研究科教授)「アジアからアジアが出来たのではない。ヨーロッパから与えられた地域概念。かなり多様性がある。寛容性を保ち創造性を得て来た」。

 

R ヴァイディヤナタン氏(インド:バンガロール経営大学教授)「神は一つだが、神の化身は様々あると吾々の宗教は信じている。

 

ティティナン・ポンスディラック氏(タイ:チュラロンコン大学安全保障国際問題研究所所長)「アジアの権威主義の独特のパターンは何か。アジアには民主主義の筋道は複数ある。日本とインドは民主主義があるが、他の国ではまだ整っていない」。

 

ラヒマ・アブドゥラヒム氏(インドネシア:ハビビセンター所長)「西洋が民主主義の道のりを歩み始めた時と、今のアジアとは全く違う。アメリカにも人種問題や格差問題がある」。

 

シャムスル・アムリ・バハルディーン (マレーシア・マレーシア国民大学民族問題研究所所長)「アジア的価値と民主主義を別個のものとするのか、連動するものとするのか。何千年前から継承して来たものは捨て去ることは出来ない。継承して来たものの上に新しいものを置かねばならない。マレーシアは民主主義もイスラムも自分のものにした。新しい思考を持てば良い」。

 

安倍晋三内閣総理大臣「私はアジアの未来に民主主義が根付いていくことに疑いを持ったことはない。民主主義の下で暮らす人口は世界のどの地域よりも優る。民主主義は未完である。改善を重ねていくもの。その絶対的条件は、他者に対して開かれていること。他者を尊重すること。インドネシアとインドはたくさんの言葉と宗教と多様性に富む社会で民主主義を根付かせる努力をしている。ヴィヴェーカーナンダが述べた寛容の精神がインドとインドネシアの今日をもたらした。自由と民主主義・法の支配はアジア・アフリカの人々にとって、二十世紀まで普遍のものとは言えなかった。一九五九年の東京オリンピックをアジアの人々は自分のことのように喜んでくれた。二〇二〇年の東京オリンピックは、人権と法の支配を自らのものにしたことを確かめる機会となる。民主主義が言葉の本当の意味で普遍的な価値になる。先祖代々我々が大事にして来た価値がある。『仁』という儒教の概念は『いたわりの心』。イスラムにも日本にも慈しみの心がある。強き者と同じ機会を弱き者にも与えるのが民主主義。汲めども尽きない養分がある。三日前に台湾がこの事実を教えてくれた。人間一人一人を大切にしていくところから全てが始まる。『人づくりなくして国づくり無し』が日本の海外援助の発想。インドの人たちが水の流れを敬う気持ちは理屈なしに日本人に分かる。輪廻転生思想も日本人が古来大切にしてきた。慈悲・和・仁と表現は違っても民主主義を支える思想がアジアにはある。自由・人権・民主主義をわがものとして法の支配を全うできることが日本の役割」。

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千駄木庵日乗四月五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。機嫌良し。

帰宅後は、原稿執筆。

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戦前戦中は暗黒時代ではなかった

曽野綾子さんは、金美齢さんとの対談で、次のように語っている。

 

「七十年近く前の大東亜戦争の話を、『反戦』の目的で語り継がなければならない、などと私は全く思いません。…『反戦』の目的で語られる戦争の体験など、冷静な歴史でない場合がほとんどだから、普遍性は持ち得ません」「私の周囲には工場労働は楽しい体験だった、という人が圧倒的に多いんです。十三歳の私も、毎朝七時から夕方六時までの長い作業時間を熱心に働きました。さすがに栄養が悪かったせいか、結核症と言われる目星ができたり、下駄の鼻緒擦れが膿んで直らなかったり、ひどい脚気の症状が現れたりしましたけれど、私はあの時以来、自分が工場労働者にもなれる、という確信を得たんです。これはありがたいことなんです」「私にとって工場で働いたことは、思い出すのも嫌な体験どころか迷いのない一途な献身を実感した輝くような一時期でした。私はあの時初めて、互角で社会に参加した。自分が国家の役に立っているということを実感したんです。戦争に加担するわるいことをしているという意識はまったくありませんでした」と。(曽野綾子・金美齢両氏の対談集「この世の偽善―人生の基本を忘れた日本人」)

 

「戦前戦中は暗黒時代だった」「軍人が威張り国民に自由は無く、戦争に駆り立てられた時代だった」ということが繰り返し語られ書かれてきた。私には勿論戦争体験はないが、そういう見方・そういう主張の昔から疑問を抱いて来た。「本当に戦前戦中は暗黒時代であったのか」「本当に国民には自由はなかったのか」という疑問を抱いている。

私の高校生時代に『懐メロブーム』が始まった。田端義夫氏のファンになったのをきっかけに、『懐メロ』ファンになり、東京十二チャンネルなどで放送された『懐メロ』番組をよく見た。

ある時、伊藤久男氏に司会者が「戦前戦中は嫌な時代だった。戦後は自由で明るい時代になった」という意味のことを言ったら、伊藤氏は、「いや、私は戦前の方が良かったね。御国のために歌を歌うという使命感があった。今は金のために歌っているんだ」と語った。

またある時、渡辺はま子さんに司会者が「戦時中は慰問に駆り出されて嫌だったでしょう」と問いかけたら、渡辺はま子さんは「慰問が嫌だったなんてことは全くありませんよ。喜び勇んで出て行ったのよ」と語った。

戦前戦中は暗黒時代であったと言うが、戦中戦前にヒットした歌謡曲は決して暗い歌ではない。

『お使いは自転車に乗って』(昭和十八年)、『南から南から』(昭和十八年)、『南の花嫁さん』(昭和十八年)、『勘太郎月夜歌』(昭和十八年)、『新雪』(昭和十七年)、『明日はお立ちか』(昭和十七年)、『パラオ恋いしや』(昭和十六年)、『梅と兵隊』(昭和十六年)、『蘇州夜曲』(昭和十五年)、『暁に祈る』(昭和十五年)、『お島仙太郎旅唄』(昭和十五年)、『なつかしの歌声』(昭和十五年)、『燦めく星座』(昭和十五年)、『誰か故郷を想わざる』(昭和十五年)、『いとしあの星』(昭和十五年)、『長崎のお蝶さん』(昭和十四年)、『港シャンソン』(昭和十四年)。

戦時中のヒット曲には、暗い歌などまったと言っていいほど無い。むしろ明るく楽しい歌が圧倒的に多い。戦前・戦中が暗黒時代であったなどというのは嘘八百でありデマである。

 

ある大先輩がテレビの歌謡曲番組を見ていると、出演していたディック・ミネ氏が「戦争で死んだ人は犬死だ」という意味のことを言ったという。そこでシベリア抑留体験を持っておられたその大先輩は、ディック・ミネ氏に抗議の手紙を書いた。するとデック・ミネ氏が直接電話をしてきて、「今のテレビではああいうことを言わなければならないのだす。申し訳ない」と言ったという。

 

私の母は、愛国団体の街宣車が軍歌を鳴らしながら家の前の道路を通ると、窓を開けて見ることが度々あった。軍歌が好きなのである。

私の母は、大正九年生まれであり、最も戦争で苦労した年代である。しかし、母は、皇室を尊崇している。私がごく幼い頃、外から家に帰って来ると、母が新聞を読みながら泣いていた。夫婦げんかをしても泣いたことがない母が涙をポロポロ流して泣いているので「どうしたの」と聞くと、「貞明皇后がおかくれになった」ということであった。私はそういう母を心から尊敬している。

 

間違った「似非平和主義」に毒され祖国の歴史を呪い続ける偏向放送の害毒はまことに甚大だし罪が深い。それは今日においてますますひどくなっている。

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千駄木庵日乗四月四日

午前は、諸雑務。

午後は、江戸川公園、新江戸川公園を散策。

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江戸川公園の桜

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江戸川公園の桜
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新江戸川公園

今日詠みし歌

ゆったりと 流れ行きゐる 川の面に 桜の花びら 散り続くなり

川の面 桜の花びらに 覆はるる 江戸川公園に ひとりやすらぐ

遊歩道に 桜の花びら 散り敷きて 過ぎ行く春を 惜しみゐるなり

風吹けば 桜吹雪に 包まれて 今われ春の 真中にぞ立つ

わが人生 六十九回目の 桜花 舞ひ落つる下に 立ちてうれしき

ゆったりと ゆったりと流れる 川の面 桜の花びらも ゆったりと行く   

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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2016年4月 3日 (日)

我が國傳統信仰は自然神・祖先神の命と、人の命とが結ばれる信仰

 わが國の自然を大切にする心=自然崇拝の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿ると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきた。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。

 

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それがわたつみ(神神)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

 

 我が國傳統信仰すなわち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。

 

 その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来た。

 

 古代日本人は日の神の永遠性を信仰してゐた。故に、日の神たる天照大御神は、最尊最貴の神と仰がれる。天照大御神は、高天原の主神であり、日の神である。その日の神を祀る祭祀主を共同體の「おほきみ」と仰いだ。そして日の神を「おほきみ」の祖神と信じた。ゆえに天照大御神は、日神に五穀の豊饒を祈る祭祀主である「おほきみ=天皇(すめらみこと)」の御祖先神としても仰がれるようになった。天照大御神は、日の神=自然神と、皇祖神=祖先神との二つの面を持つ女性神であられる。

 

 天照大御神は、大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)とも申し上げる。太陽を神格化した御名である。「ヒルメ」は光り輝く意で、「メ」は女神の意である。

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千駄木庵日乗四月三日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、検索、原稿執筆の準備など。

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2016年4月 2日 (土)

「絞首刑」執行直前の東條英機氏の言葉

東條英機氏は、大東亜戦争とりわけ日本と米英との戦争について『検事の論告より受けたる所感の要点』(昭和二十一年六月五日)といふ獄中で処刑を目前して記した文書で次のやうに総括してゐる。

 

「日本は果たして文明に宣戦せりや 戦争は人類の文明生活に破壊を招来するものにして、従て何れの國家も極力避く可きは論を待たず。之れがため平治國際上戦争の原因発生を紛争の危険前に抑止し、常に互譲の精神を以て之れを阻む迅速なる解決を必要とす。殊に大國國家において然り。…大國の威力を以て小國を屈従し正常なる発展を阻止せんとし然も其の目的を達せんがためには其の生存を脅威せんとするが如き行為は果して之れを以て文明的行為と認むべきや。

一、過去数世紀に欧米の東亜侵略、而して其の搾取政策の前に帝國及東亜民族が其の桎梏の前に苦悩せしかは之れを暫く置くも

二、第一次欧州大戦后の英米の帝國に対する國際圧迫。

三、某々大國に於ける東亜移民の排斥。高関税政策、経済ブロックの結成に依る帝國貿易振興の抑制。

四、支那に於て日支相戦はしむる政策の採用。

五、人種差別待遇。

六、大東亜戦直前に於ける平和通商破棄及経済的脅威。

七、日米交渉終期に於ける帝國に対する受入得ざる策、至難なる提案。

検事の論告に依れば、日本は文明に宣戦せりと称するも、寧ろ文明に宣戦せるは以上の事實より帝國を戦争に追い込みたる英米側に存し其の責任は其の負ふべきものなり。蓋し日本は自己の生存を保証せんがため及東亜國民の生存を永久に確立せんがために戦へるものにして、之れ換言すれば人類の真の文明を求めしがためなり(以下略)」。

 

大東亜戦争とはいかなる戦争であったかを記した血を吐くような文章である。東條英機元総理を始め、我が國の枢要な地位にいた人々二十八名を「文明」と「平和」の名によってその責任を裁くといふ『極東國際軍事裁判』に対する痛烈なる批判である。

 

小生は、東條英機氏を批判すべきところのない人物と思ってゐるわけではない。所謂「憲兵政治」「懲罰召集」「中野正剛氏の自決」「四方諒二東京峡憲兵隊長を使った岸信介氏への恫喝」など批判すべきところがあると思ふ。しかし東條氏が、先帝陛下のご意志を無視しあるいは逆らって日米開戦を行なったといふ批判は全く当たらないと思ふ。

 

 東條英機氏はその『遺書』において「開戦当初の責任者として敗戦のあとを見ると、實に断腸の思いがする。今回の刑死は、個人的には慰められておるが、國内的の自らの責任は死を以て贖(あがな)えるものではない。しかし國際的な犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ、力の前に屈伏した。自分としてはまた國民に対する責任を負って、満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者まで刑が及んだことは實に残念である。天皇陛下に対し、また國民に対しても申しわけないことで、深く謝罪する」と書いてゐる。

 

 東條英機氏は、昭和二十三年十二月二十三日、東京巣鴨にて殉難された。辞世において、

 

「たとへ身は 千々に裂くとも 及ばじな 栄えし御世を 堕せし罪は」

「続くものを 信じて散りし 男の子らに 何と答へん 言の葉もなし」

「さらばなり 苔の下にて われ待たむ 大和島根に 花薫るとき」

 

と詠んだ。

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千駄木庵日乗四月二日

朝は、諸雑務。

午前十時半より、六本木の国際文化会館にて、ペマ・ギャルポ氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。終了後、ペマ氏と懇談。ペマ氏とは、五十年近くの知己であるので、思い出話の花が咲く。

帰宅後は、資料の整理・原稿執筆の準備など。

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2016年4月 1日 (金)

『正論』五月号掲載されている林千勝氏執筆の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」を読んで思う

今日届いた雑誌『正論』五月号に掲載されている近代史研究家・林千勝氏執筆の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」という論文はとても興味深い近衛文麿の側近であった風見章(近衛内閣書記官長・司法大臣を歴任)は、共産主義者であり、支那事変の拡大、日米戦争を計り、日本を敗戦に追い込み、共産革命達成を策したということが論じられている。

              ○

 

小生も、平成二十三年十二月発行の『政治文化情報』三百十三号で、要旨次のように論じた。

 

「ルーズヴェルト米大統領の周辺が共産主義者で固められてゐたのと同じく、日本でも、総理大臣時代の近衛文麿の周辺に共産主義者がゐたことは事實である。

内閣書記官長(=現在の官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者として死刑となった尾崎秀實(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止に暗躍したとされる西園寺公一(中國共産党系のマルキスト)などである。

昭和十二年(一九三七)に総理大臣となった近衛文麿が風見章を内閣書記官長に抜擢した時は、風見と全く面識がなかったといふ。風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣の嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

戦後になると風見は、昭和三十年(一九五五)一月にマルクス・レーニン主義政党である左派社會党に入党した。また、日ソ協會副會長、日中國交回復國民會議理事長、アジア・アフリカ連帯委員會代表委員、世界平和評議會評議委員として活動した。しかも風見章は尾崎秀實を「マルクス主義の殉教者」と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」 (『改造』昭和二十六年五月号) と書いた。風見が完全なる共産主義者であったことは明白である。

西園寺公一(公望の孫)は、イギリスのオックスフォード大學でマルクス主義の洗礼を受けたといはれる。近衛内閣が成立すると外務省嘱託・内閣嘱託を歴任した。尾崎秀實と共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それが「國家機密漏洩」であるとして、「ゾルゲ事件」に連座したとされ、禁錮一年六月、執行猶予二年の判決を受けた。西園寺は昭和三十三年(一九五八)に日本共産党に入党する。日中共産党が対立状態になり、昭和四十二年(一九六七)二月、日共を除名された。西園寺もまた完全なる共産主義者であった。

近衛文麿は何故このやうな人物を内閣の中枢である書記官長そして機密を知り得る立場にあった内閣嘱託に任命したのであらうか。有体に言って近衛文麿は脇が甘かったと言はざるを得ない。」

 

 

さらに小生は、平成二十四年二月十日発行の『政治文化情報』第三百十四号で次のように論じた。

 

「風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

『根本瑛』(根本瑛先生追憶の書編纂委員會編)に収録されている愛國維新運動に挺身されてきた方々の根本瑛氏への追悼文に、風見章のことに触れた次のやうな文章があった。

塙三郎氏「そのころの先生(注・根本瑛氏)は、一つにも二つにも風見章に尽くしていた。風見に尽くす事は、國に尽くすと同意語であると確信していた。久しくして、風見に裏切られた時に、その倍に増して、風見を恨んだ。…戦後の風見は完全にその本性を現わした。彼は、尾崎秀實やゾルゲと共にして日本を裏切った人物であった。」

中村武彦氏「(注・根本瑛氏に)二度目にお目にかかったのは大東亜戦争の敗色すでに決定的となりつつあった十九年の秋であった。本間憲一郎先生の御伴をして帝國ホテルへ行った時…根本先生が居られて暫くお話をされた。…両先生の御話しをうかがっていた中に、風見章氏のことが出て両先生とも異口同音にその変節を嘆いておられたのが、強く記憶に残っている。根本先生は政治家風見章の後援者として知られ、風見氏の今日あるは先生のおかげだと云われていた。私どもも風見氏の行動を苦々しく思っていたのであるが先生にしてやはりその嘆きがあるのかと痛感したことは忘れられない。」

鈴木善一氏「國際共産主義運動の思想から、天皇制の廃止、共和制への移行を唱道したのが日本共産党であり、当時近衛内閣の書記官長としてスパイゾルゲ、尾崎秀實、西園寺公一、野坂参三らと行動を共にしたか、少なくとも便宜を計ったのが風見章である。根本博士は現状打破の点で風見の革新思想と一脈相通ずるかに見えたが、風見は共産主義、社會主義を友とし、長男は共産主義者であるということから、根本博士は風見と絶対に袂を別つことを決意し、晩年色々な人が両者の間を調停したが、頑としてこれだけは操守した。」

このやうに、同時代に生きた方々の証言を読めば、近衛文麿の側近だった風見章は、尾崎秀實と同志的関係にあり、尾崎のいはゆる「敗戦革命工作」に協力してゐたことは確實である。

尾崎秀實自身、処刑の直前に、自主的に意見を述べ、「自分は長く仮面をかぶった危険な潜行運動をした…自分たちの日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、擾乱は起こり、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である。」と書き、「大東亜新秩序社會」が戦争の後に現れて、「世界共産革命」の一端を形作るという満足感を以て死に赴いたといふ。(保阪正康氏著『昭和史七つの謎』より引用)

尾崎秀實自身もその『獄中手記』に「内閣嘱託時代は毎日首相官邸に出勤し秘書官室下の地階の一室で仕事をする外秘書官室や、書記官長室には常に自由に出入し書記官長、秘書官等から内閣に来ている文書中仕事の上で必要とするものを見せられ或は私の方から申し出て必要なものを見せて貰うこともあり又此等の人達と話をする機會も多かった訳でありまして私はこれ等に依って現實の政治が如何に動きつつあるかを確實に知ることが出来ました。左様な訳で内閣嘱託たる地位にあった関係から此の重大な転換期に於ける國の政治の重要な動向を知り得たと同時に其の時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。此等の情報は勿論ゾルゲに報告すると共に政治動向に関する私の意見も述べて居るのであります。」と書いてゐる。

近衛内閣の内閣書記官長・秘書官・内閣嘱託といふ内閣中枢に「資本主義國家同士を戦争させ、共産國家が漁夫の利を得て、アジアそして世界を赤化する」といふ世界革命戦略を實行しつつあったソ連のスパイ・工作員・同調者たちが入り込み、対米英戦誘導や情報収集などの工作を行ってゐたのである。そして、日支及び日米関係分断を図ったのである。實に以て戦慄すべき事態であった。近衛文麿氏の『上奏文』における痛切なる反省の弁通りの事態であった。

内閣の中枢にソ連・國際共産主義運動組織のスパイ・工作員が入り込んでゐたのだから、参謀本部や陸海軍省などにも工作員が潜入してゐたと推測することができる」。

 

              〇

「反戦平和」を標榜する運動は今も活発である。彼らは、新安保法制反対闘争・米軍基地反対闘争・核兵器反対運動・反自衛隊運動などを行ってゐるが、共産支那・北朝鮮の核兵器に対しては一切抗議運動を展開しない。共産支那・北朝鮮の軍事侵略に対しても何の抗議も行はない。日本の安全と独立を守る運動のやうに見せかけて、實は意識するとせざるとにかかはらず共産支那・北朝鮮の侵略を助けてゐるのだ。

民新・社民・共産・偏向メディアの「反戦平和運動」は、共産支那・北朝鮮のわが國及び全アジアに対する侵略支配を實現するための策謀であり、共産支那・北朝鮮の手先となって日本の安全・独立・自由・繁栄を脅かしてゐるのだ。

戦後ずっと行はれて来た左翼勢力の「反戦平和運動」の本質は、支那事変・日米戦争を煽りつつ實は「社會主義の祖國・ソ連」を守り、アジア赤化を實現せんとした風見章・尾崎秀實と全く同じである。共産支那・北朝鮮の軍事的圧迫にさらされてゐる今日のわが祖國日本は、歴史に學び、侵略國家の謀略にはまることなく、祖國の独立と平和と自由を守り抜かねばならない。

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千駄木庵日乗四月一日

午前は、諸雑務。『月刊日本』連載の「萬葉集」講義原稿脱稿、送付。

午後は、花冷えの中、桜花爛漫の日暮里諏訪台、谷中霊園散策。

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諏訪台養源寺の桜

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養源寺の弘法大師像

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諏訪台の古刹経王寺本堂の屋根と日暮里の高層マンション

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諏訪台の木造棟割長屋

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谷中大仏(天王寺の釈迦牟尼仏像)

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日のインタビューの準備、原稿執筆、校正。

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やまと歌と本質と「禁中並びに公家諸法度」

明治天皇は、

 

 

 

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」

 

「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」

 

「まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけばわすれざりけり」

 

と詠ませられてゐる。

 

 

 

 ところが徳川幕府が、皇室に対して規制的意味をもって制定した「禁中並びに公家諸法度」(別名「禁中方御条目十七箇条」)に「和歌は、光孝天皇より未だ絶えず、綺語たりの雖も、我が国の習俗なり。棄て置くべからず」などと記されてゐる。

 

 

 

「綺語」とは、美しく表現した言葉といふ意味であると共に、仏教で言ふ「十悪」の一つで真実に反して飾り立てた言葉といふ意味である。徳川氏の和歌といふ日本伝統文学に対する理解がいかに浅かったかを証明してゐる言葉である。この「御法度」の草案は、金地院崇傳とかいう坊主が造った。この坊主は、 豊臣家滅亡への謀略であった「方広寺鐘銘事件」にも関与した悪坊主である。当時の庶民は崇傳を『大欲山気根院僣上寺悪国師』と綽名し、大徳寺の沢庵宗彭は『天魔外道』と評してゐる。

 

 

 

和歌は決して遊びごとでもないし単なる美辞麗句を連ねたものでもない。まさに「まごころをうたひあげたる言の葉」なのであり、「世の中のことあるときによみいでる」ものなのであり「天地をうごかす」力を持つものである。神代の昔に発生し日本の道統を継承する最高の文藝が和歌である。

 

 

 

『古今和歌集』仮名序(紀貫之)に「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

 

 

「萬葉集」は太平無事な時代に遊びごと・綺語として歌はれた歌が収められてゐるのではない。「萬葉集」は、大化改新・壬申の乱・白村江(はくすきのえ)の戦ひ(唐新羅連合軍と日本百済連合軍の戦ひ)の敗北といふ國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集である。「萬葉集」が生まれた時代は、明治維新の時期とよく似てゐた時代であった。また、今日の日本の状況ともよく似てゐた時代であった。

 

 

 

さらに「萬葉集」の時代は、わが國が支那の思想・文化・政治制度・法制度を受容した時代であった。わが國が異質の文化(特に仏教・儒教といふ精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。かうした時期にわが國傳統的精神文化が興起した結晶が、「萬葉集」である。

 

 

 

権力闘争・皇位継承の争ひもあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。

 

 

 

当時の日本人が國難の時期に如何に日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、「萬葉集」の歌を読むとひしひしと傳はってくる。「萬葉集」には天皇國日本が様々苦難を経ながら國家體制が確立した時期である大和時代から飛鳥奈良時代にかけての「時代精神」「國民精神」が歌はれてゐるのである。

 

 

 

大陸からの文物輸入時代であり内憂外患交々来たるといった時期に、國體精神を謳歌し天皇國日本の永遠を祝福する歌集である「萬葉集」が編纂されたことに重大な意義がある。 国難に際会してゐる今日において「萬葉集」の精神を学ぶことはきはめて大切である。

 

 

 

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千駄木庵日乗三月三十一日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、『月刊日本』に連載中の「萬葉集」講義原稿執筆、資料の整理と検索、インタビューの準備など。

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