« 千駄木庵日乗三月三十日 | トップページ | 『政治文化情報』平成二十八年四月号のお知らせ »

2016年3月30日 (水)

愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた

 今日の日本は高度工業文明が発達し物質生活が向上しているにもかかわらず、人々の心の中に不安と空虚感が広まっている。今日の日本の政治や経済の腐敗・教育の荒廃の根本原因は、日本国民が物質的繁栄を追い求め、民族の道統を忘却し、精神的価値を顧みなくなったところにあるといえる。

 

 こうした混迷状況を打開し変革するためには、長い歴史を有する日本民族が育み継承してきた伝統精神への回帰とそれを基盤とした愛国心(日本民族としての帰属意識)の昂揚が必要である。

 

 愛国心とは個人が運命共同体として結集し拡大された鞏固なる歴史的存在意識である。戦後日本は個として生きることが重視され、共同体の一員即ち日本国民として生きることは全く軽視されてきた。これを是正することが今日の急務である。そして愛国心の昂揚とは時間的過去への回顧ではなく現時点から将来への変革に焦点がある。

 

 大化改新・明治維新を見ても明らかなように、日本における変革や国難の打開は、必ず愛国心・尊皇心の興起と一体であった。

 

 伴信友は、日本伝統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふべければ…」と言っている。そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言えば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

 

 大化改新における『萬葉集』、平安時代の国風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍兵士の歌がそれである。  

 

 国を愛し、伝統を尊ぶ心は、勇ましい歌・述志の歌にのみ継承されてきたのではない。日本の家庭において自然に素直な形で永続的かつ普遍的に愛好された恋歌が多く収録されている『百人一首』は、天智天皇・持統天皇の御歌で始まり、後鳥羽院・順徳院の御歌で終わっている。つまりわが国の伝統美を歌った王朝時代の歌が集められており、日本文化は宮廷とりわけ王朝時代の勅撰和歌を典拠にし、中心にして継承され発展してきたことを証しする歌集が『百人一首』である。今日『百人一首』が家庭から消え去りつつあるのは、青少年たちが日常生活の中で感覚的に日本の古典を理解することができなくなっているのである。これはまさに日本伝統美の衰微そのものである。実に以て嘆かわしい限りである。

 

 日本人として自然な心で天皇を仰慕し、国を思い、国土を讃美する歌は萬葉時代から現代まで数限り無くある。

 

 大化改新を断行した後、日本は天智天皇二年(六六三)に白村江の戦いに敗れた後も、反乱も起こらず国家の統一を失わなかったのは、愛国心・ナショナリズム燃え上がったからである。萬葉時代とは、そういう時代である。だから萬葉集には柿本人麻呂などの天皇讃歌国土讃歌の歌や防人歌という国土防衛への決意の歌が収められているのである。

 

いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴の御津の濱松待ち戀ひぬらむ

 

 山上憶良が遣唐使として唐にいた時、祖国を偲んで歌った歌である。「さあ、人々よ。早く日本へ帰ろう。あの難波の大伴の郷の御津の濱松ではないが、残してきた家族が待ち焦がれているだろう」という意。

 

日本回帰の心が見事に美しく歌われている。憶良は唐との文化の対比において日本を自覚し祖国愛に目覚めたのである。和歌の表現に関していえば、支那を知らない大伴旅人(讃酒歌を作った歌人)よりも実際に支那で生活した憶良の方がかえって日本的である。

 

 仁和三年(八八七)宇多天皇が即位されると、天皇新政の復活と摂関藤原氏の抑制に力を尽くされると共に、遣唐使を廃止し、平安初期百年の間支那模倣の科挙の制度のための漢詩文全盛の陰になっていた伝統的な和歌を復興するなど、支那崇拝を排して国民的自覚を明確にし国体意識興起の復古維新を断行された。そして、延喜五年(九0五)醍醐天皇の命により、紀貫之などによって、日本の伝統美・風雅を見事に結晶させた勅撰歌集『古今和歌集』が撰進された。

 

美濃國(みののくに)関の藤川絶えずして君に仕へむ萬代までに

 

 陽成天皇の大嘗祭の悠紀國であった美濃国の神前で舞いながら歌われた「神遊びの歌」である。「美濃国の藤川が絶えることがないように、大君に仕えよう、永遠に」という意。平安時代の人々の心の中核には天皇仰慕の心と神代への回帰の心とがあった。

 

ゆえに在原業平は「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ」「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」と詠んでいる。さらに国歌『君が代』の典拠である「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」も『古今和歌集』の「賀歌」である。

 

 源平の争乱は終結した後、武士の勃興によって王朝文化が滅びゆかんとする乱世変革の時代に、後に北条氏と戦い隠岐に流されたまいし後鳥羽上皇の命により藤原定家などによって元久二年(一二〇五)に撰進された勅撰歌集が『新古今和歌集』である。

 

もろこしも天の下にぞありときく照る日の本を忘れざらなむ

 

 成尋法師という人が延久四年(一〇七二)支那に渡った時に、その母が詠んだ歌。「唐土も同じ天の下にあると聞いています。天に照る日の本である日本を忘れないで下さい」という意。

 

息子が仏道修行に行く支那も日の本の国たるわが天日の光が照らしているのだから、日本人としての誇りを忘れるなと呼びかけているのである。聖徳太子の御精神に相通ずる誇らかな愛国精神の歌である。

 

 武士階級の勃興により皇威が次第に衰退して行く中にあってもかえって、「君が代」を讃える歌が多くなり、『新古今和歌集』には「君が代は久しかるべし度会や五十鈴の川の流れ絶えせで」(大江匡房)「宮柱下つ岩根に敷き立ててつゆも曇らぬ日のみ影かな」(西行)「君が代は千代ともささじ天の戸や出づる月日の限りなければ」(藤原俊成)などの歌が収められている。

|

« 千駄木庵日乗三月三十日 | トップページ | 『政治文化情報』平成二十八年四月号のお知らせ »