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2016年2月 7日 (日)

大化改新とは天皇中心の國體を回復する大変革である

大化改新は、皇極天皇の御代に断行された大変革であり維新である。中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(後の藤原鎌足)と図って、蘇我氏を滅ぼして、天皇中心の國家体制を確立した。これは、古代における最大の変革にして國史上最初の大変革である。変革の柱は、制度的には、諸豪族の私有地・私有民を廃して、公地公民制とすることであった。

 

しかし、それはあくまでも制度の面においてであり、大化改新の指導精神は、『天壌無窮の御神勅』に示された「天つ神の御子がこの日本國を統治したまう」という天皇中心の國體の真姿を回復することにあった。

 

皇極天皇元年(六四二) 正月、敏達天皇の曾孫である宝皇女が即位して、皇極天皇となられた。この時、皇極天皇は四十九歳であられた。しかし、皇極天皇の御代になってから、蘇我氏は益々その権力を強めた。蘇我蝦夷は錦に縁取られた紫冠をその子・入鹿に贈った。聖徳太子の定められた冠位十二階を無視した振る舞いである。これは私的に大臣の位を譲ったことになり、天皇の権威を蔑ろにした行為である。

 

また、蘇我蝦夷の墓を大陵、その子の入鹿の墓を小陵と称させたりした。そしてその墓造りに聖徳太子の乳部の民(みぶのたみ・御子の養育の奉仕した人々)を使った。

 

同年十月、病気になった蘇我蝦夷は、天皇の御承認を得ず、独断で息子の入鹿に大臣の身分をあらわす紫の冠をかぶらせた。

 

これに対し、聖徳太子の王女であられる上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこと)は、「天に二つの日無く、國に二の王無し。何に由りてか意の任(まま)に悉くに封せる民を役(つか)ふ」と批判された。また、民たちも蘇我氏の横暴に反感を持ち、山背大兄皇子に同情を寄せた。

 

蘇我蝦夷の息子・入鹿はこれを不快に思い、聖徳太子の一族への反発心を強めた。入鹿は父親以上に権勢欲の強い人で、山背大兄皇子が多くの人々に慕われていることを妬んだ。ともかく、聖徳太子の理想を追求される山背大兄皇子が蘇我氏にとって邪魔だったのである。

 

そして、舒明天皇と馬子の娘法提郎媛(ほてのいらつめ)の間にできた古人大兄皇子を、皇極天皇の次の天皇に擁立する計画を立てた。そして山背大兄皇子を亡き者とする決意を固めた。

 

十一月一日、蘇我入鹿は、巨勢徳太などを差し向けて山背大兄皇子を斑鳩宮に襲わせた。不意をつかれた山背大兄皇子は、いったんは生駒山に逃れたが、「自分が蘇我氏と戦われると苦しむのは民衆である」と言われ、すでに焼け落ちた宮殿の近くにある斑鳩寺に帰られ、皇子一族二十五人は、自経(自らくびること)して果てられた。その時、空には五色の幡、蓋が翻り、伎楽の舞が見られたと、人々は伝えている。きっと諸天諸仏が山背大兄皇子の<捨身無我>の行動を喜ばれたのだと人々は噂したという。これにより聖徳太子の子孫は滅びてしまった。

 

皇極天皇四年(六四五)六月、中大兄皇子によって、蘇我蝦夷・入鹿父子が誅殺された。中大兄皇子は、舒明天皇を御父とし、皇極天皇を御母とした皇子であらせられる。皇子は、幼い頃から、蘇我氏の専横に憤りを感じておられた。山背大兄皇子一族が蘇我氏によって滅ぼされる事件を見て、何としても蘇我氏を打倒しない限り、天皇中心の國體を護ることは出来ないし、日本の國づくりはできないと判断され、蘇我氏誅滅を決意されたのである。

 

まず、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を誅殺し、ついで蘇我蝦夷を攻め滅ぼした。これはまさに劇的な大事件であった。

 

蘇我氏の専横は、崇峻天皇の弑逆、山背大兄皇子一族の殲滅など、その極に達していた。大化改新は、蘇我氏という悪逆無道の逆族を滅ぼして、天皇中心の國體を明らかにすることがその根本目的であった。それは聖徳太子の『十七条憲法』の精神の継承でもあり、実現でもあった。 

 

それは、大化二年の中大兄皇子の奏言(天皇に申し上げる言葉)に「天に双の日無く、國に二の王無し。是の故に天下を兼併して萬民を使ひたまふべきは、唯天皇のみ」(『日本書紀』)と示されていることによって明らかである。

 

一方、対外関係も、支那大陸において中央集権的な唐が成立し、その対外進出政策が顕著になり、朝鮮半島において新羅勢力が勃興し、わが國は極めて危険な立場に立つことになった。まさに内憂外患交々来るといった状況だったのである。それは幕末・明治維新期と相似である。そればかりでなく、今日唯今の日本の状況とも酷似している。

 

大化改新は日本建國以来最初の大きな國家変革である。そして大化改新以来今日まで日本の國家変革は、後鳥羽上皇による北条氏討伐の御行動も、建武中興も、明治維新も、そして昭和維新運動も、「天皇中心の國體の明徴化」言い換えれば「天壌無窮の御神勅への回帰」「神武建國への回帰」がその基本であった。

皇極天皇四年六月十九日、天皇及び皇太子(中大兄皇子)は、大槻樹下に群臣を集めて、次のように天神地祇に誓われた。そして、年号を建てて、大化元年とした。

 

「天覆ひ、地載せて、帝道(きみのみち)は唯一なり。しかるに末代澆薄(すえのようすら)ぎて、君臣序(ついで)を失へり。皇天、手を我に仮()し、暴逆を誅し殄()てり。……自今以後、君に弐(ふたつ)の政(まつりごと)無く、臣は朝(みかど)に弐(ふたごころ)あること無し。」

 

これはまさに聖徳太子『憲法十七条』の「詔を承けては必ず謹め、君をば天とし、臣をば則ち地とす」「國に二君なく、民に両の主無し。率土の兆民、王を以て主と為す。所任(よさせ)る官司は皆是れ王の臣たり」の御精神を受け継いだものである。

 

大化改新以前は、各豪族(氏上)もまた「君」であり、天皇はその氏上を統合する「おおきみ」(大王)であらせられたのであるが、天下に君たるお方は天皇ただお一方であるという、神代以来の一君萬民の國體のあるべき姿を明らかにせられたのである。

 

さらに重要なのは、大化改新において、「公地公民制」が採用されたことである。諸氏族の私領私民に対して氏上が君たることの否定であり、私領私民の否定である。これは、一君萬民の國體が明らかにするための当然の変革である。

 

これらの変革は、明治維新における徳川幕府打倒・廃藩置県と同じである。大化改新後、時間が経過して武家社會になると、この大化改新の精神が忘却され隠蔽されて、各地の武将・大名を「君」と仰ぐようになるのである。

大化改新はただ聖徳太子の御精神を継承し実現しただけではなく、神代以来の天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体としての日本國の本姿を顕現せしめた変革であった。

 

蘇我氏討滅直後、政治をいかにするかという事を群臣が協議し、先ず神祇を祭り鎮めて後に政治を議すべきであるとの結論に達した。

 

そして、大化元年八月五日に、孝徳天皇が、東國等國司に与えられた『勅語』に、「天つ神のうけよさせたまひしまにまに、今始めて将に萬國を修めむとす」と示されている。

 

和辻哲郎氏は、「この考えは、聖徳太子の憲法にはあらわれていない。従って、大化の改新が、内容的に太子の憲法を実現するものであったとしても、なおここに第一期の伝統的精神と力強く結びつくことによって、強い実践力が生じたのである。」(日本倫理思想史)と論じておられる。和辻氏のいう「第一期」とは古代祭祀社會のことである。

 

この『勅語』の御精神は、神代以来の現御神(あきつみかみ)信仰を高らかに宣せられているのである。言い換えると、日本神話の精神への回帰が大化改新の根底あったということである。

 

さらに、大化改新後の「詔」は「明神御宇日本天皇」(あきつかみとあめのしたしらしめすひのもとのすめらみこと)というお言葉で始まっている。これは、日本神話の精神・「天壌無窮の御神勅」の御精神を体した御言葉である。

 

さらに、大化改新後に制定された公式令で、重大事に関して外國の使いに詔を与える場合には、「明神御大八洲天皇詔旨」(あきつかみとおおやしましろしめすすめらみことのみことのり)と書き出すべきことを規定した。

 

日本天皇の國家統治は、『天壌無窮の御神勅』に示されているように、天つ神の生みの御子(現御神)が豊葦原瑞穂國(日本國)を統治されるのである。天皇中心の國體とは実にこのことなのである。

 

大化改新はただ単に、蘇我氏を打倒して、聖徳太子の御精神の継承し実現した変革ではなく、神武建國への回帰であり、さらには、『天壌無窮の御神勅』に示された日本國體精神の実現であったのである。

 

この神聖なる天皇の権威を基として國家変革が推し進められたのが大化改新である。だからこそ、祭祀と政治とが一体となり、地方的集団を全國的に一つにまとめ、全國を一つの國土、全國に住む民を公民とするという未曾有の変革が断行し得たのである。

 

今日の日本も、改革とか政治変革が叫ばれてきたが、益々日本國は混迷を深めている。制度ばかりいじくり回しても國家を救うことは出来ない。

 

「本立って道生ず」という言葉があるが、根本の道が立てられていなければ改革は実現しない。維新とは天皇中心の國體の明徴化によって現実の國家を変革することである。國體明徴という「本」を立ててこそ真の変革が断行できるのである。

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