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2016年2月 3日 (水)

三島由紀夫氏の天皇観と現行占領憲法

昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫氏が市ヶ谷台上で「天皇陛下萬歳」を三唱して自決された。三島氏は、深く切なる恋闕の思いを自決という行動で示した。今の日本は、三島氏が『檄文』で訴えられた「國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んで」いう情況が当時以上ひどくなり、日本という國が溶解しつつあるのではないかという危惧が深刻なものになっている。

 

國體の真姿を回復することによって国難を打開して来たのが、わが国の歴史である。三島氏のいふ「國の大本」「國民精神」とは天皇中心の國體及びその精神である。そうした意味で、三島氏の天皇論・憲法論は日本を再生するために重要な意味を持つと考える。

 

日本民族の古代からの傳統的な天皇観は現御神信仰である。それは日本の民族信仰の柱でもある。現御神信仰とは、「天皇はこの世に生き給う神である」「天皇は人にして神であり神にして人である」という信仰である。しかしその「神」とはキリスト教・イスラム教の唯一絶対神即ち全知全能の無謬神ではないことはいうまでもない。

 

三島氏はその著『日本文學小史』で、『古事記』を「神人分離の文化意志」と位置付け、日本武尊を「本来の神的天皇」「純粋天皇」とし、景行天皇を「人間天皇」「統治天皇」としている。

 

また、『討論 三島由紀夫vs東大全共闘』において,戦後あるいは近代の「天皇制」は,ゾルレン(理想としてあるべき姿)としての要素の甚だ希薄な『天皇制』であるとし、ゾルレンの要素の復活によって初めて天皇が革新の原理になり得ると論じている。これらは言って見れば三島氏の二元論的天皇観である。

 

三島由紀夫氏のこうした天皇観が、その作品『英霊の声』で「英霊」に「國體を明らかにせんための義軍をば、叛亂軍と呼ばせて死なしむる その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。これは神としてのみ心ならず、人として暴を憎みたまひしなり。…人として陛下は面をそむけ玉ひぬ。などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と嘆かせ、また、「昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせらせられるべきだった。何と云はうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだった。…何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせたまはざりしか」と語らしめたのである。

 

しかし、日本には<神人分離>は本来なかった。天皇が「人間」となりたまいしことはかつて一度もなかった。「今即神代」「神人合一」が日本の傳統信仰の最重要行事である「祭祀」の精神である。人は、神の分け御霊であり日子であり日女である。また、人にして神であり神にして人であらせられるのが天皇の御本質である。

 

日本天皇に、「神的天皇」「純粋天皇」と「人間天皇」「統治天皇」という二つの面があるということは絶対にない。天皇は人にして神であられ、天皇の統治は神ながらの統治である。

 

「現御神信仰」とは、歴代の天皇お一方お一方が天照大御神の「生みの御子」であらせられ、天照大御神の地上における御代理・神人合一の御存在であらせられるという信仰である。神武天皇以来今上天皇に至るまで歴代の天皇はなべて現御神であらせられる。それは大嘗祭の意義を拝すれば明らかである。現御神日本天皇を「ゾルレンとしての天皇」「ザイン(現実にある姿)としての天皇」と二元論的に分ける事は出来ない。

 

精神と肉體、祭祀國家と権力國家、神と人を、絶対に対立する存在とするのは西洋的二元論である。三島氏は西洋的二元論の影響を受けていることは自ら認めている。

 

しかし、三島氏は最晩年に、「二元論的天皇観」を克服した。だからこそ、自決の際、三島氏は「天皇陛下萬歳」を唱えたのである。

 

また、晩年の三島氏の『問題提起(日本國憲法)』という文章では、「大嘗祭」の深い意義を論拠として憲法上の「天皇」を論じている。それは、極めて正統な天皇論・憲法論になっている。

 

三島氏はその文章で、「大統領とは世襲の一點において異なり、世俗的君主とは祭祀の一點において異なる天皇は、まさにその時間的連續性の象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、『象徴』たる特色を擔ってゐるのである。」と論じ、現行占領憲法では、歴史、傳統、文化の連續性と、國の永遠性を保證する象徴行事である祭祀が、「天皇の個人的行事」となっており、天皇が「神聖」と完全に手を切った世俗的君主となってしまったと論じている。

 

これは三島氏による文字通り重要な問題提起である。天皇は大嘗祭をはじめとした祭祀を行なわれることによって天津神の地上における御代理としての資格を持たれ、現御神として御本質を顕現されるのである。そしてその神聖君主が統治される道義國家・祭祀國家が日本なのである。その根本を成文憲法が否定あるいは無視してしまっているところに、今日の日本のあらゆる混迷と堕落の真因がある。

 

天皇は<信仰共同體日本>の祭祀主であらせられるのだから、権力機構としての國家の基本法たる成文憲法の規定以前の御存在である事は言うまでもない。成文憲法の条文どおりの國家であらねばならないなどというばかばかしい議論があるが、全く逆であって、成文憲法というものは國家の本質どおりに作られていなければならない。その意味において「現行占領憲法」は失格である。全くの欠陥憲法である。

 

「現行憲法」が占領憲法といわれる所以は、まさに國體精神を忘却し日本の傳統を隠蔽する憲法であるからである。今日の日本において成文憲法は必要不可欠であるとすれば、憲法に正しき國體条項をつくり、現御神日本天皇・祭祀國家日本の本質を正しく成文として規定しなければならない。祭祀という天皇のもっとも重要な行事を「天皇の私的行事」にしまっている「現行憲法」は一日も早く否定されねばならない。

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