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2016年2月11日 (木)

紀元節の意義

 二月十一日は「建国記念の日」である。正しくは「紀元節」である。皇紀元年は西暦紀元前六六〇年にあたる。本年は皇紀二六七六年である。この日にこそ、我々は正しき国家観を考え、日本国を道義国家として新生せしめねばならない。

 

 永遠の維新を繰り返す日本国は永遠に不滅である。而して、我々の目指す維新とは、国家の日本的変革である。

 

 権力国家としての側面のみになってしまっている国家の現状を改革し、天皇中心の信仰共同体としての国家を回復せしめることが今日における国家変革即ち維新なのである。

 

 麗しき日本の自然は破壊されつつあり、人間の命すら科学技術文明・機械文明によって蝕まれつつある。こうした状況を打開するには、真に生命を尊重する精神を国民一人一人が保持しなければならない。

 

 そのためには日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復することが大切である。

 

 戦後七十年間、、物質至上主義・営利至上主義・快楽主義に汚染され続けてきた日本及び日本国民の頽廃を救うには、日本の伝統精神・国家観・人間観を回復する以外に道はない。

戦後において、「個の尊重」とか「人権」ということが叫ばれ、ともすると国家を邪魔なもの悪いもの人権を侵害するものという考え方が横行するようになっている。しかし、人間は余程の例外を除いて一人では生きていけない。人は多くの人間との関係性・共同生活があってはじめて生存できる。

 

「人」というものはだから自分自身であるとともに他者でもありさらには共同生活を営む場の全体のことでもある。それは「人」という言葉は、「人を馬鹿にするな」と言う場合は自分自身のことであり、「人の物を取る」と言う場合は「他者」のことであり、「人聞きが悪い」と言う場合は世間のことであることによっても分かる。

 

 国家が人間の生活を守り発展させる有機体(生き物)であるという側面と、国民を圧迫し束縛する側面を持つことも確かである。

 

 一定地域で共同生活を営む人々の数が増加すると、共同生活の場である国家が巨大化する。特に近代産業国家は規模が大きく仕組みが複雑になる。すると、それにともなって国家を運営するために必要な国家権力というものも肥大化する。肥大化するだけでなく、国民を抑圧し圧迫するものとなる場合がある。また、他の国家との闘争・戦争を行う場合もある。また、そこに生きる国民同士の衝突も起こる。

 

 しかしだからと言って、国家を否定することはできない。むしろ、国家の悪しき側面をできる限り押さえることが大切になってくるのである。そのためには国家はただ人間の共同生活を営むための装置・権力機構であるという考え方を持たないことが大切なのである。

 

 人間が共同生活を営む国家という共同体には、「精神的共同体」という側面と「利益共同体」という側面がある。「精神共同体」とは共同生活を営む人間がお互いにいたわり合い助け合い愛し合い信じ合うという精神的「結び」によって成立する共同体と言っていい。一方、「利益共同体」とは人間が物質的・経済的な利益を共同して獲得し分配する共同体と言っていい。

 

 人間自身にも、精神的なやすらぎや信頼や安穏や道義精神を追い求める側面とともに、物質的利益や肉体的快楽を追い求め悪事を行う側面があるのと同じである。

 

 また、人間というものは残念ながらお互いに愛し合い信じ合い協力し合うだけではなく、他人より優位に立ちたがり、他者を憎み闘争し果ては殺し合うこともある。

 

 こうしたことを抑制しつつ国家という共同体を秩序あるものとして成り立たせるには、強制力を持った権力機構が必要になって来るのである。

 

 ただし、この権力機構もその存立の基本をただ「力」に置くだけでなく、道義的正統性というものがなければならない。それは国家の尊厳性と言い換えてもいい。それがないとただ国民と対立する暴力機構と化してしまうおそれがある。

 

 ともかく、国家も人間と同様に、できる限り、利益追求のみに走らず、共同の道義精神に基づく立国(国の成立)につとめるべきである。そして、ただ利益のみを追求する営利至上主義国家ではなく道義国家の確立を目指さなければならない。

 

 本来の国家とは単なる力の支配装置ではなく、その基礎にはその国に生きる国民が等しく正しいと信ずる価値・精神的道統というものがなければならない。

 

 「くに(国)」という言葉がある。「国のために尽くす」とか「国を愛する」という場合の「国」とは、「精神共同体」=道義国家たる「国」である。一方、「国に税金を取られる」とか「国に対して訴訟を起こす」という場合は「権力機構」としての「国」である。

 

 今日この「国」という言葉が非常に混乱して使われている。「大して国民のためにもならないのに沢山の税金を取るような国、国民から訴訟を起こされるような国を愛することは出来ないし、そんな国に尽くすことは出来ない」という考えを持つ人がいる。

 

 しかしこれは「国」というものを混乱して考えているのである。我々国民が愛するべき国、尽くすべき国とは、単なる権力機構でもないし利益共同社会でもない。信頼と正義と愛と真心によって結ばれた精神的道義的共同体なのである。

 

 現代日本の多くの人々は、愛国心を喪失し、自分さえ良ければ他人はどうなってもいいなどという利己的な精神に冒されたかに見える。そうした文字通り「亡国的状況」を是正するためには、正しき国家観の確立が行われなければならない。

 

 幾億人と存在する人間というものにもそれぞれ個性があるように、国家というものも、世界の多くの国々にはそれぞれに個性があり特殊性がある。

 

 日本という国には民族的個性がある。と言うよりもむしろ民族的個性を離れては国家は存立し得ない。日本という国そして日本人という民族の主体的歴史性、風土、信仰精神の意義を正しく把握してこそ、正しき国家観を持つことができるのである。

 

 人間の道義精神・道義に則った生活の実現も、そして道義国家・人倫国家の回復も、抽象的な「人類普遍の原理」などによって為され得るものではない。道義精神は、それぞれの国の歴史伝統・民族信仰の中から培われるものである。

 

 倫理・道義とか信仰精神というものは、それぞれの民族精神としてのみ表現されてきている。民族的歴史性・個性を通して表現されない普遍の原理などというものはありえない。たとえあると錯覚しても、それは抽象的な観念に過ぎない。その意味において「人類普遍の原理」だなどと言って欧米民主主義思想を基本原理としている現行占領憲法は無国籍憲法なのである。そもそも道義精神や政治思想には「人類普遍の原理」などというものはあり得ない。 

 

 宗教上の神や仏もそれぞれの宗教教団やそれぞれの宗教の発生した地域の特殊な個性ある神・仏として信じられてきている。ユダヤ教・キリスト教・回教という一神教ですらそれぞれ個性ある神となっている。仏教も日蓮宗・浄土宗・禅宗等々それぞれ個性ある仏を拝んでいる。

 

 日本という国家には日本の長き歴史の中から生まれてきた立国の精神というものがある。

 

 日本という国は、日本民族の生活と自然環境・風土の中からの生成して来た。日本民族の生活の基本は稲作である。日本人の主食は米である。

 

 稲作に欠かすことのできない自然が太陽であり大地である。その太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は国津神として祭られた。また稲穂そのものも神の霊が宿っているものとして尊んだ。

 

 天照大神をはじめとする天津神・国津神および稲穂の霊をお祭りされ、国民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主が、「すめらみこと」即ち日本天皇であらせられる。

 

 そして天照大神は太陽神であるのみならず、天皇の御祖先でるあると信じられた。天照大神は「日本国に沢山稲を実らせなさい」という御命令を与えられてその御孫神であられる邇邇藝命を地上に天降らせられた。その邇邇藝命の御子孫が神武天皇であらせられ、大和橿原の地に都を開きたまい、初代天皇に御即位あそばされた。その年から数えて今年は二六七六年なのである。

 

 『教育勅語』に示されている「皇祖皇宗」の「皇祖」とは、天照大神及び邇邇藝命の御事であり、「皇宗」とは神武天皇の御事である。 日本国家の存立の精神的中核はこのような信仰精神にあり、日本という国家は天皇を祭祀主とする信仰共同体なのである。ゆえに日本国は天皇国といわれるのである。

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