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2016年1月24日 (日)

現御神思想について

天皇が生きたまふ神であられるといふ信仰・現御神思想は、天皇が祭祀を行はれることから発するのである。「昭和二十一年元旦の詔書」で、天皇は神格を否定されいわゆる『人間宣言』を行はれたとされてゐるが、天皇が大嘗祭・新嘗祭・神嘗祭などのお祭りをされておられる限り、天皇と日本の神々とは一体であるといふ信仰が無くなることはない。天皇が祭り主であられるといふこと自体が、天皇が地上において生きたまふ神であられるといふことなのである。なぜなら、祭りとは自分を無にして神に仕へ神と一体となる信仰的行事であるからである。

 

そもそも、「天皇が神であられる」といふ場合の「神」とは、天皇がキリスト教などの一神教の「全知全能の神」「唯一絶対神」だといふことではない。天皇は天神地祇の祭り主であられ、神ながらの御存在であられるといふことである。明治以後キリスト教の「ゴッド」を「神」と訳したのが大きな混乱の基なのである。支那では「ゴッド」を「天帝」と訳してゐる。わが國も「造物主」とでも訳すべきであった。

 

折口信夫氏は、「吉野川の水上(ミナカミ)で朝夕に行はれる神事を、神さび即、神聖なまつりごとと見、それを説明するに『神ながら』と冠したのである。」「何故に天子のまつりごとが、神業である以上に、神意であると信じたのか、又天子御自身の御意志を神意と考へたか…天子の威力は、これ(註・天皇靈)の來りよる事によって生じるものと考へ申したのが、古代の信仰であった。全て、邑落・國土・萬物に靈あって、これがある撰ばれた日との身に入る事によって、初めてその物を自由にする権威を生じるものと考へた。その最偉(オホ)きくて、尊いものを『天皇靈』と申して居たのである。又、それが恐らく『かむろぎ』或は『すめろぎ』なる古後の眞内容となって居たものと思はれる。…信仰的に省察すれば、神祖の精神は、常に大御躬に出入するものと信じてゐたことが察せられるのである。…(註・すめみま)も亦、天孫、或は神孫の義に用ゐられて居り、瓊瓊杵尊以降、歴代の至尊を申し上げることになってゐる。「みま」は、尊きの靈のより給ふ所としての聖躬(註・せいきゅう。天子のからだ。玉体。聖体)であり、「すめろぎ──かむろぎ」は、その威靈の御稱号號であった事は、ほゞ正しいとも申して良い、古代の神聖なる表現の一つであらう。この威靈は、歴史的にも考へられ、また常に現實には當今(とうぎん)陛下の御上にも考へ申されるのである。それで、祖神であって同時に、現代の主上を申し上げる事になる訳である。」(『日本古代の國民思想』)と論じてゐる。

 

 今・此処が神代と思ふ信仰、自然を神として拝ろがむ信仰は、自然が美しく穏やかな日本國であればこそ生まれてきた信仰である。自然と対立せず、自然を征服しようとしないで、自然の中に包まれ自然と共にて生きる日本人の國土観・自然観である。

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