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2016年1月 6日 (水)

満洲事変は日本による「中國侵略」ではない

 

安倍晋三総理は『終戦七十年談話』で、「満洲事変、そして國際連盟からの脱退。日本は、次第に、國際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい國際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」といふ見解を示した。

 

「昭和六年に起こった満洲事変は、十五年に及ぶ日中戦争の発端となった」「十五年にわたる支那への侵略戦争の開始が満州事変だった」といふ見方が定説になってゐるやうである。

 

「支那への侵略」とは、もともと支那人が居住してゐた土地を侵略したことを言ふ。しかし満洲は支那・中國ではなかったし満洲は独立主権國家ではなかった。満洲は、諸民族が混在する無主の地であった。従って、満洲事変は日本による「中國侵略」ではない。

 

満洲は元来、満洲民族など北方民族の住む土地であった。『後漢書東夷伝』(支那の後漢朝について書かれた歴史書)に「九夷」(漢民族が東方にあると考へた九つの野蛮国)ことが書かれてゐるが、朝鮮・満洲・日本がその中に入ってゐる。満洲は支那にとっては朝鮮・日本と同じく「東夷」であり「中華」ではないのである。

 

満州はもともと支那人が居住してゐた所ではない。その証拠が「万里の長城」である。支那大陸を初めて統一した秦の始皇帝は、満州や蒙古に住む民族が支那に侵入して来るのを防ぐため、三海関から西域地方まで六千四百キロの巨大な壁を作った。つまり、満州は蒙古と同様、支那人(漢民族)の居住地でも支配地でもなかったのだ。

 

満州族の清朝政府も、支那人が満州に移住するのを禁止し、自分たちの故郷に異民族たる漢民族が侵入するのを防いだ。

 

萬里の長城の内と外とは有史以来、敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那ではない。したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那を侵略したことにはならない。

 

満洲人は十七世紀初頭、萬里の長城を越えて支那大陸を征服した。清朝は支那大陸(萬里の長城の内側)への征服王朝であり、満洲は漢民族の地ではない。清朝時代の支那は、清によって征服された植民地だったのである。満洲族の清朝が漢民族の住む支那全土を支配したことによって、満洲が支那の一部になったわけでは決してない。

 

一九○五年八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人に対する蔑称)を追ひ払ひ、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。

革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じやうな異民族と断じた。満洲を外地・外國と考へてゐた。日本人に対して孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

明治四四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行はれた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲はまさに化外の地であった。孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考へてゐなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命してゐた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるといふのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだらうか。

 

従って、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならなかったのである。満州事変は断じて日本の侵略ではない。

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