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2016年1月31日 (日)

和歌は人間のまごころを表白する抒情詩であり人智のさかしらを超えたまごころの調べである

 

明治天皇御製

 

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」

「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」

「まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけばわすれざりけり」

 

『うた』の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。わが國の文藝の起源は神への祭祀における舞ひ踊りと共に歌はれた「歌」であることは、出土してきてゐる土偶によって分かるといふ。

 

ことばを大切にし、ことばに不可思議にして靈的な力があると信じたがゆゑに「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、歌は何よりも大切な神への捧げものとされたのである。それが祝詞となったのである。祝詞も声調・調べが整ってゐる。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教において神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、特定の言葉を唱へることが基本的行事である。すべて言葉を唱へる行事である。祈りとは、経典や聖書、祈りの言葉そして題目や念仏も同じである。

 

歌をはじめとした日本文藝の起源は、神への訴へかけである。和歌は神聖な文藝であると考へられていた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源なのである。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。

 

『古今和歌集』の「仮名序」は、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献と言ってよい。これは紀貫之が執筆した。それには次の如くに論じられてゐる。

 

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出(いだ)せるなり」(やまとうたは、人の心を種にたとへると、それから生じて出た無数の葉のやうなものである。この世に生きてゐる人は、様様な事に遭遇するので、心に思った事を、見た事聞いた事に託して言い表はすものである、といふほど意)。

「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)。

 

 和歌とは、三十一文字の定型詩であり、抒情詩であるといふことであると説いてゐる。また、歌は生活の実感を詠まなければならないと説いてゐる。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったゐるといふ事実が非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

明治天皇は、

 

「鬼神も泣かするものは世の中の人のこころのまことなりけり」

 

と詠ませられてゐる。

 

「鬼神の」の御製は、歌の力の偉大さを論じた『古今和歌集』の「仮名序」を踏まへられてゐると拝する。この御製で大事なのは、「人の心のまことなりけり」と示されてゐることである。和歌が単なる文藝作品で文藝作品なら虚構が許されるが、歌はさうではない。「人のこころのまこと」を歌はねばならない。自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころを歌はねばならない。それが「五・七・五・七・七」と形式で表白され、読んだ人・聞いた人の魂を動かすといふのが「やまとうた」の本質である。

 

「天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ」といふのは決して誇張ではなく、古代・中古においては本当にさう信じられてゐたのである。

 

つまり歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを三十一文字にして固め成して鎮める働きをする。和歌は人間のまごころを表白する抒情詩である。日本民族の人智のさかしらを超えたまごころの調べである。

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千駄木庵日乗一月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。村松伸治日本文化大学教授が座長。久保田信之氏が「憲法『国民の権利及び義務』に関する疑念』と題して報告。全員で討論。帰途、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年1月30日 (土)

『政治文化情報』平成二十八年二月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十八年二月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十八年二月号(平成二十七年一月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

日本共産党議員の國會開會式出席について

 

日本國體を破壊せんとする日本共産党の議員は國會開會式に出席する資格はない

 

「君主制打倒」「天皇制廃止」こそ日本共産党の基本姿勢

 

西洋の主権概念は日本國體とは絶対に相容れない

 

共産主義革命が起こり君主制が廃止された國は独裁専制國家になった

 

我々日本人は満洲建國を誇りとしなければならない

 

満州は支那ではなく満州人は漢民族ではない

 

欺瞞的な『ワシントン条約』を根拠にして満洲事変を侵略だとするのは誤り

 

満洲の独立・建國を日本が主導して實現させた戦ひが満洲事変である

 

千駄木庵日乗

吉野文雄拓殖大学國際学部教授「マニラの中國人墓地には『抗日烈士』の碑がある。『抗日記念館』もある。看板の字は銭其琛が書いた。日本はぼんやりしていると危ない。『抗日烈士の碑』はアジア各地にある」

 

阿南惟正氏「昭和八年まで、昭和天皇にお仕えする。その時の侍従武官長が鈴木貫太郎。父は鈴木貫太郎氏を深く尊敬。この時の信頼関係が終戦時の二人の意思疎通につながる」

 

山村明義氏「神社は寛容。監視カメラを置きたくない。何があっても受け入れるしかない。八萬ある神社のうち一萬しか監視カメラはない。日本傳統信仰は大らか」

 

この頃詠みし歌

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萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 二月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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2016年1月29日 (金)

共産支那による「台湾統一」という名の台湾侵略支配を阻止し、台湾独立を支持しなければならない

 

二・二八事件とその後の暴虐なる恐怖政治によって、台湾人から「支那は日本の統治から台湾を『解放』してくれたわが祖國」という感情は雲散霧消し、「我々は支那人ではない」「支那人にはなりたくない」という自覚が強くなった。ナショナリズムは外部からの圧力を排して民族の独立を勝ち取ろうとする國民的規模の精神と行動である。二・二八事件とその後の長期にわたる國民党政権による植民地支配という歴史が、台湾人ナショナリズムを勃興させたのである。

 

二・二八事件以来今日に至る六十九年間に、台湾人の大多数は「台湾は支那とは全く異なった民族であり國家である」という國民的規模の台湾人ナショナリズム・台湾民族精神を強固に確立した。しかもナショナリズムの情念は回顧的なものではなく、現時点から将来・未来へ向けての延長線上に焦点が結ばれる。台湾人のナショナリズムは、今日、将来の台湾独立・建國へ向けて燃え盛っているのである。蔡英文女史の総統選挙勝利を見てそれは明らかである。

 

大陸を支配する共産政権は、今日、「富國強兵政策」という帝國主義政策を露骨に採っている。日本・台湾など周辺諸國を侵略し支配しようという支那政治権力の伝統的な傾向が露骨に復活した。それが台湾及び尖閣諸島そし東支那海・南支那海への軍事的膨張となって表れているのである。

 

共産支那はさらに、わが國の沖縄に対してすら領土権を主張し始めている。近年の支那の膨脹政策によって、日本が自主独立を維持できなくなる危険がある。台湾が共産支那の支配下に入ったら、日本の安全が決定的に脅かされるのである。日本の独立と安全を維持する上からも、共産支那の台湾侵略支配を絶対に阻止しなければならない。そして我が國は、独立台湾と協力して共産支那のアジア侵略支配の野望を粉砕しなければならない。つまり、台湾独立はアジアと日本の安全にとってもきわめて大事なのである。

 

今日の台湾は、いまだに「中華民國」と称している。台湾人による台湾人のための「台湾國」が建國されることこそ、真の台湾独立である。

 

「台湾独立」とは、「台湾は支那ではなく、台湾人は支那人ではない」ということ明確にすることである。台湾は、明代から日本統治時代そして何よりも戦後五十年近くにわたる國民党外来政権の植民地支配下において、大陸とは異なった運命共同体意識・文化・言語・伝統精神を形成し、台湾自主独立精神・台湾民族主義が確立したのである。そして、これから台湾人による台湾人のための台湾人の國家が建國されるのである。     

 

大東亜戦争において台湾の人々は誇りを持って日本軍兵士として戦ってくれた。大東亜戦争に従軍した台湾人軍人は八萬四三三名、軍属と軍夫は十二萬六七五〇名で、合計二〇萬七一八三名であった。そして戦死および病死者は三萬三〇四名となっている。(厚生省援護局資料)

 

昭和十六年、台湾で徴兵制が実施されると、千名の採用者に対して実に六十萬人もの志願者が殺到し、台湾軍司令部に数多くの血書、嘆願書が提出されたという。(黄文雄氏著『大東亜共栄圏の精神』による)

 

「高砂義勇兵」として出征した高雄州潮州郡バクヒョウ青年団長ダリヤンは、「テンノウヘイカバンザイ。私ハ日本ノ男デス。大和ダマシイガアリマス。ドンナニクルシイコトデモ、テンノウヘイカノタメクニノタメナラクルシイトハオモヒマセン。グンプニシテクダサイ」と書いた。(王育徳先生緒『台湾-苦悶するその歴史』)

 

台湾人日本兵の中には戦犯として処刑された方もいる。昭和二十三年六月二十三日、蘭印(現インドネシア)グロドックにて殉難した陸軍軍属・董長雄氏(日本名・玉峰長雄氏)は、次のような辞世と遺書を残した。

 

「たはけ奴の 撃つ十發は 男の子吾が 胸板貫くとも まことは貫けじ」

 

「本職は台湾人である。そして國家の所属が変っても、本職は日本軍人として死んでいき度いのである。若し此の裁判が『正義の爲』と言はずして報復と呼稱せば本職は死刑にされても何をか言はむ。そして刑務所内に於ける彼等が我々に対する虐待は如何、特に平和時に於てである。何が正義! 何が裁判だ!」(『大東亜戦争殉難遺詠集』)

 

このお二人の文は涙なくして読むことはできない。台湾人に対して無上の感謝の誠を捧げずにいられない。我々日本人は、かつての同胞に対する信義の上からも、民族自決の大義の上からも、共産支那による「台湾統一」という名の台湾侵略支配を阻止し、台湾独立を支持しなければならない。

 

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千駄木庵日乗一月二十九日

午前は、諸雑務。

昼は、二松学舎大学の後輩と懇談。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、書状執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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第五十八回日本の心を学ぶ會

テーマ「日本國體」「皇室」について

 

平成二十八年の新春を寿ぎ奉ります。 

 

新年の皇居一般参賀には八萬二千六百九十人が参賀し、平成の御代になってから二番目に多い人数を記録しました。戦後七十一年を経過した今日において、日本人の心には篤い尊皇の精神と皇室へ敬愛の心が強く息づいているを証します。建國以来、天皇・皇室は、日本國の政治・文化・宗教などの中心者、日本國のかけがえない御存在として尊崇されてまいりました。

 

日本文藝には君臣の関係を表現した詩歌や物語が数多く遺されており、國民はこれらの文藝作品から深い感動とともに君臣のあるべき姿について学んできました。いかなる権力者も天皇・皇室の神聖権威のもとに政治を行う事が日本のあるべき姿であることは自明でありました。

 

近代に入り日本國體を否定する思想が國内に流入しました。しかし、そういう思想に対して、國民の圧倒的多数が拒否反応を示しました。

 

大東亜戦争終結後、GHQは日本弱體化の工作の一環として、國體破壊を目的として様々の工作を行いました。「大日本帝國憲法」明治天皇勅定の「皇室典範」「教育勅語」を廃止するのみならず、『國體の本義』など日本國體の正統性を論じた書籍を抹殺しました。

 

戦後、駐日大使を務めたライシャワーはその著書『太平洋の彼岸』のなかで「日本の統治形態を支持せず利用することでもって我々は共和革命の扉を開いておいたが何も起こらなかった」と述べております。つまりGHQは日本が、天皇のもとに國民が統一し國家が発展することを妨害し、日本を弱體化し、戦勝國の言いなりになる國家にしようとしたのです。

 

このような占領政策の悪影響は、戦後七十一年を経過した今日、花開き實を結んでいると言っても過言ではありません。「占領憲法」、「皇室典範改正問題」、「政治家の皇室軽視」などを見ればそれは明らかです。そして表向きは天皇・皇室に敬意を払っているような態度を見せつつ、實は國體破壊を狙っている政党・政治家も数多く存在します。

 

こうした状況において、國體破壊を目指す政治勢力を駆逐し、皇室に対する彼らの欺瞞的な策謀の實態を正しく認識し、撃ち砕くが大切です。そこで、新年初めての勉強會では「日本國體」「皇室」について学びたいと思います。 

 

【日 時】平成二十八年一月三十一日(日)午後六時より

 

【場 所】文京シビックセンター 3階會議室B

東京都文京区春日一-十六-二十一 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩一分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩九分

 

【講 演】

「日本共産党の國體破壊の體質についてー國會開會式出席問題に関連して」四宮政治文化研究所代表四宮正貴氏 

せと弘幸氏は調整中です。

 

【司會者】林大悟

 

【参加費】資料代五百円

 

【連絡先】渡邊昇 〇九〇―八七七〇―七三九五 

 

この案内文は主催者が作成しました。 

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2016年1月28日 (木)

『中央乃木會主催講演会』における大久保利泰氏の講演内容

昨年十月三日に行われた『中央乃木會主催講演会・近現代偉人の子孫が語る歴史秘話シリーズ第五回』における大久保利泰(としひろ)(大久保利通の曾孫)による「大久保利通が生きた明治時代」と題する講演内容は次の通り。

 

「乃木大将と大久保利通とは、西南戦争の時に会ったかもしれない。私の父が、乃木大将が院長をされていた学習院の初等科の生徒だった時、乃木大将のお話を伺った。私の父は、明治三十三年生まれ。利通は明治十一年に亡くなった。利通に関して私には本による知識しかない。

 

利通は内務卿として、一人で責任を負った。慶應四年の鳥羽伏見の戦いが大きな転換。鳥羽伏見が開戦した時の西郷隆盛から大久保利通への手紙がある。幕府軍は力を出し切れなかった。緒戦で官軍は成果を収めた。官軍は錦の御旗を立てた。幕府軍は錦の御旗に手向かうと賊軍になる。官軍は三日間で勝利を収める。大きな戦果を挙げて朝廷に政権が移った。

 

その頃、明治天皇は二十歳になっておられない。御所の中で女房に囲まれる生活であった。大久保利通は、御所を大阪に移したらどうかという建言をする。公卿たちの猛烈に反対に遭い、取りあえず大阪に行幸していただく。御所から外に出て頂き、五十日間街を歩いていただいた。中古時代以前は別として、天皇が海をご覧になったのは初めて。

 

慶應四年八月、京都で即位の礼。明治と元号を改める。『新しい都は江戸が良い』と建議した人がいた。明治元年、明治天皇に東京にお出ましをいただいた。十二月に京都に還幸された。明治二年三月に再び東京に行幸。江戸を東京と改めた。太政官を東京に移す。この時点で、首都機能が京都から東京に移った。遷都の日付ははっきりしない。当時の若き指導者の熱意がこうしたことに現われている。

 

明治元年から二年に大きく動いた。当時の政治家の偉大さを今日の政治家は見習ったら良い。明治四年の廃藩置県で落ち着いた。明治五年十一月、大久保は岩倉使節団に加わり副使として横浜から欧米回覧に出発。三条実美、西郷隆盛は日本に残った。ドイツでビスマルクとモルトケに会った。西郷宛の手紙で、『ビスマルクに会って感銘した。これからは武力、国力が大事。国力を欧米に追いつかせないといけない』と書いている。

 

征韓論問題が起こり、早く帰国してくれとの連絡があった。大久保と木戸孝允との対立が起こり、お互いに別の船で帰国。外国との戦いの前に国力を充実させねばならないということになった。農業収穫物を増加させることが第一ということになった。土地開発が行われた。明治九年、天皇の東北御巡幸の先駆けとして、郡山に赴いた。当時の郡山は殆ど原野だった。猪苗代湖から郡山に疎水を引くことを建議。この動きを始める直前、大久保は暗殺された。西南戦争が終わった後、農学校を作る。絹が産業の中心だった。殖産興業で動き始めた直後に暗殺された。霞が関の自宅から太政官に向かう途中で殺された。明治十年に、仮設も含めて電信網が出来上がった。三十代、四十代の若いリーダーが私心を捨てて活躍した。大久保利通は、『明治に入って十年間は騒乱の時代、次の十年が不肖自ら内治に力を注ぐ。次の十年は後進にゆだねる』と語っていた。

 

利通は、冷酷で専制政治家と言われている。しかし子孫にとっては、そんなことはなかったと思う。他人の話をよく聞き、その意見を持ってきた人に実行させる。ただし『責任は自分が持つ』と言った。子供たちにも自分で考えさせ、子供たちの自立心を育てた。岩倉使節団から帰国してから、家でも洋装、朝はパン食。西洋のものをどんどん取り入れた。外国のものなら何でも良いというのではなく、日本の行く末を見定めてそれに必要なものをとり入れる。

 

大久保のあとは、伊藤博文。山県有朋が引き継いだ。専制政治家が死んだら、その政策はすべて否定される。大久保は専制政治家ではなかった。日本は外交交渉が下手。しかし大久保の北京会談での行動は見事。近代日本の基礎を固めたのが大久保だという気がする。

 

大久保の三つ年上の兄貴分が西郷さん。征韓論で立場を異にした。お互いに国を思ってのこと。大久保は内治優先。利通は西南戦争開戦の時、西郷が入っていなかったと思い、そう信じた。西郷が城山で死んだ時、大久保は涙を流さなかった。西郷が立ったと聞いた時、大久保は涙を流した。その時、覚悟を決めた。西郷に別れを告げた。大久保は立場をわきまえることが出来た。意志が強い。西郷家と大久保家とは遠い親戚。

 

大久保が暗殺された時の馬車の馭者も切られた。身寄りが無かった。馬も斬られた。青山墓地の大久保利通の墓の横に馭者と馬の墓もある」。

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千駄木庵日乗一月二十八日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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2016年1月27日 (水)

吉野山について

奈良県の吉野は今日も自然の美しいところであり、日本民族そして皇室の歴史と伝統を伝へてゐる地である。神武天皇は大和橿原の地に都を開かれる際、熊野に御上陸になった。そして吉野をお通りになった時、神のお告げにより無事に大和の國にお入りなり都を開かれるための祭事を行はれた。その時、神武天皇は、吉野にもともと住んでゐた尻尾の生へてゐる人に道案内されて、大和に入られた。大和朝廷成立の上で、非常に由緒のある地が熊野と吉野である。

 

その吉野に歴代の天皇が離宮を造営されたのは、皇室の歴史と伝統を思ひ起こすためである。天皇が離宮に行かれたのは、単に遊びに行かれたのではなく、歴史的由緒のある神聖な吉野の地で、川水で御祓をされ祭祀をされるためであった。歴代の天皇は、度々吉野や熊野に行幸され、神祭りを行はれた。

 

特に、持統天皇にとって吉野の地は、夫君・天武天皇が「壬申の乱」の前に隠棲された地であるので思ひ出深いところであった。また、「壬申の乱」以後の不安定な時期に、持統天皇は皇統の正統性を確認するために、神武天皇が橿原奠都の前に神の御加護を祈る祭事を行はれた吉野で、祭事を行はれたのである。そして、天皇としての神威・霊力を高められた。また、伊勢の神宮の式年遷宮祭の制度も、天武天皇の御代に定められ、持統天皇の御代から行はれるやうになった。 

 

持統天皇は御在位中非常に多く吉野へ行幸された。持統三年(六八九)正月から持統十一年(六九七)四月にかけての八年間に三十三回ほど行幸された。即位されて間もない時期は一年に五回吉野に行かれた。そして、御滞在日数は長い時は三ヵ月、短い時は二日。一回平均して一週間くらい吉野に滞在された。真冬にも赴かれた。これは避暑とか物見遊山ではなく宗教行事である。

 

天皇に即位されるはずであったのに夭折された草壁皇子が薨去された後も、吉野に行幸されることが多くなる。山深い清浄な吉野の地へ赴かれて、亡き皇子を偲ばれたのであらう。

 

吉野は日本山岳信仰・修験道(役小角【えんのおづの】を祖とする、密教の一派。山岳修行によって超自然的な力を得ることを目的とする)の聖地である。吉野に行くことによって、大きな霊的な力が与へられると信じたのである。雄略天皇もよく吉野に行かれ、天武天皇は吉野に籠られ、南北朝の騒乱の時も、後醍醐天皇は吉野に朝廷を開かれた。

 

吉野は山が険しい要害の地であると共に、背後の熊の灘から全國からの物資を運ぶこともできるし、全國に指令を発することもできた。だから、大和や京の都の中央勢力に対抗するために立て籠もるのに適してゐた。

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千駄木庵日乗一月二十七日

朝、宿舎を出発。朝起きると、窓から見える山々は朝日に照らされ輝いていた。『武田節』の「甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし おのおの馬は 飼いたるや 妻子につつが あらざるや あらざる」という一節を想起した。

 

昼前、東京に帰着。

 

午後、施設に赴き、母に付き添う。

 

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

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千駄木庵日乗一月二十六日

午前は、諸雑務。

午後、東京を出発。一路、山梨県石和温泉へ。

午後六時より、ホテル甲斐路にて、『大吼出版代三十四回新年総会』開催。国民儀礼、石井忠彦新会長が挨拶。阿形充規・小林節・大下英二の三氏そして小生が祝辞を述べ、直隆志氏の発声で乾杯が行われ、盛宴に移った。白倉康夫氏の音頭で手締めを行い、終了した。

この日は石和温泉に宿泊。

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2016年1月26日 (火)

大東亜戦争開戦と東条英機元総理

 俗耳に入りやすい主張に「昭和天皇は平和を望んでおられたのだが東条などの軍部が陛下の大御心を無視して戦争に突っ走ったのだ」というのがある。そして東条氏に「罪」の一切をかぶせてよしとするのである。これは全く誤れる議論である。

 

昭和天皇陛下が平和を望んでおられたのは事実であるが、東条氏が陛下の大御心を無視して戦争を始めたなどというのは絵空事である。昭和天皇陛下は東条氏を深く信頼あそばされていたことは戦争直後から最近に至るまでに発表された数々の文書などによって明らかである。

 

 木下道雄氏(元侍従次長)の『側近日誌』によれば、昭和天皇は「東條ほど朕の意見を直ちに実行に移したものはない」と仰せになったという。東条氏は忠誠心厚き軍人であり、天皇陛下の大御心を無視するなどということは無かったと思われる。

 

東条氏自身東京裁判で「日本国の臣民が陛下の御意志に反してアレコレすることはありえません」と述べている。

 

安倍源基氏はその著『昭和動乱の真相』において「(東条氏は・注)天皇に対する忠誠心の強い軍人であったようだ。…陛下の御意志を体して日米開戦を回避するため、全力をあげた…東條内閣成立の翌月、来栖大使を米国に特派したのもこれがためであった。…(注・昭和十六年十二月一日の)歴史的御前会議終了直後における東條首相の表情を、佐藤賢了氏著『東條英機と太平洋戦争』はこのように伝えている。「東條首相に私は陛下のお考えはどうですかとたづねたら『ハルノートをごらんなってはいかに平和を愛好され給う陛下も…』そこまで言うて急に口をつぐんだ。開戦の重大な責任だから、輔弼の責任者たる自分が負うべきことに気がついたのであろう」と記しておられる。

 

また矢次一夫氏は『天皇・嵐の中の五十年』という松平康昌元内大臣秘書官との対談で、次のように述べておられる。「(東条氏は・注)陛下に信用されない陸軍というものに、まじめに悩んでいたと思いますね。陸相になってからの東条は、陛下の御信任を得るということのために、一生懸命努力したようです。…東条が陛下に所管事項を報告する場合、つとめて陛下が安心されるように、関連する前後の事情、将来の見通しなどについて、詳細を尽くすというふうがあったので、次第に陛下の方でも、東条を通して陸軍を見直すというふうがあったんでしょう」。これに対して松平氏は「その通りです。相当に信用しておられたようです。…九月六日の御前会議の決定ですね。あれを白紙に関して、もう一度戦争をしないよう、考え直せという陛下のお言葉に対して、…東条さんは努力したと思っていますが」と答えている。

 

 日本政府は陛下の戦争回避を望まれる大御心を体してアメリカに対して譲歩に譲歩を重ねたのであるが、アメリカはそれを一切無視し、経済封鎖を益々強め、近衛文麿首相のルーズベルトとの会談要請を拒否し、あまつさえ「ハルノート」という到底受入れ難い最後通告を突きつけ、ついにわが日本は開戦に踏み切らざるを得なくなったのである。それは『開戦』の大詔に「米英両国と釁端を開くに至る。洵に己むを得ざるものあり。豈朕が志ならんや」仰せになっていることによって明白である。

 

東条氏は東京裁判においけるキーナン首席検事の「その戦争を行わなければならない。行えというのは裕仁天皇の意思であったか」との尋問に答えて、東条氏は「意思と反したかもしれませんが、とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によってシブシブ御同意になったというのが事実です。而して平和御愛好の御精神は最後の一瞬に至るまで陛下は御希望を持っておられました。戦争になっても然り、その御意思の明確になっておりますのは、昭和十六年十二月八日の御詔勅のうちに明確にその文句が加えられております。しかもそれは陛下の御希望によって政府の責任において入れた言葉です。それはまことに己むを得ざるものであり、朕の意思にあらずという意味の御言葉であります」と答えている。

 

さらにウエップ裁判長の「証人以外の何人が天皇に対し米英と宣戦するようにということを進言したか」との尋問に対して東条氏は「自衛上どうしても、戦争をやらねばならないという結論に達したのであるが、最後の決定について、私と両総長(仼杉山参謀総長と永野軍令部総長)が、直接、天皇陛下にお目にかかって申し上げた。私と両総長は『日本の自存を全うするため、平たくいえば戦争以外に生きる道はありません』と申し上げた。しかして御嘉納をいただいたのです」と答えている。

 

東条英機氏はさらに『東京裁判』の陳述において要旨次のように述べた。「・日本は米、英、オランダ三国によって戦争の挑発に追いつめられ自衛のため開戦に至った。・天皇には何ら責任はない。その理由は、天皇は輔弼の上奏に対して、拒否権を発動されぬ立場であるために、実際政治とは具体的な関係がなかった。・日本の大東亜政策を侵略と決めつけているが、世界におけるアジア大陸の侵略者こそ米英など白人であり、これを日本が解放せずして、誰が行えたであろう。・対米開戦は、謀略的かつ侵略的目的のために、長年かかって計画したのではない。昭和十七年十二月一日の御前会議において、やむなく開戦を、初めて決定したのである」と。 

 

 大東亜戦争の開戦は、アメリカのあまりに理不尽なる圧迫が原因となった実に以てやむを得ざる選択であって、東条英機首相が陛下の大御心を無視し国民の声も聞き入れず戦争に突っ走ったなどということは絶対にないのである。むしろ大東亜開戦を一億国民が双手を挙げて歓迎し歓喜したというのが歴史の真実である。

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千駄木庵日乗一月二十五日

午前は、諸雑務。

午後二時、ある新聞社の文化部長来宅。小生に「萬葉集」をテーマにしてインタビュー。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2016年1月24日 (日)

現御神思想について

天皇が生きたまふ神であられるといふ信仰・現御神思想は、天皇が祭祀を行はれることから発するのである。「昭和二十一年元旦の詔書」で、天皇は神格を否定されいわゆる『人間宣言』を行はれたとされてゐるが、天皇が大嘗祭・新嘗祭・神嘗祭などのお祭りをされておられる限り、天皇と日本の神々とは一体であるといふ信仰が無くなることはない。天皇が祭り主であられるといふこと自体が、天皇が地上において生きたまふ神であられるといふことなのである。なぜなら、祭りとは自分を無にして神に仕へ神と一体となる信仰的行事であるからである。

 

そもそも、「天皇が神であられる」といふ場合の「神」とは、天皇がキリスト教などの一神教の「全知全能の神」「唯一絶対神」だといふことではない。天皇は天神地祇の祭り主であられ、神ながらの御存在であられるといふことである。明治以後キリスト教の「ゴッド」を「神」と訳したのが大きな混乱の基なのである。支那では「ゴッド」を「天帝」と訳してゐる。わが國も「造物主」とでも訳すべきであった。

 

折口信夫氏は、「吉野川の水上(ミナカミ)で朝夕に行はれる神事を、神さび即、神聖なまつりごとと見、それを説明するに『神ながら』と冠したのである。」「何故に天子のまつりごとが、神業である以上に、神意であると信じたのか、又天子御自身の御意志を神意と考へたか…天子の威力は、これ(註・天皇靈)の來りよる事によって生じるものと考へ申したのが、古代の信仰であった。全て、邑落・國土・萬物に靈あって、これがある撰ばれた日との身に入る事によって、初めてその物を自由にする権威を生じるものと考へた。その最偉(オホ)きくて、尊いものを『天皇靈』と申して居たのである。又、それが恐らく『かむろぎ』或は『すめろぎ』なる古後の眞内容となって居たものと思はれる。…信仰的に省察すれば、神祖の精神は、常に大御躬に出入するものと信じてゐたことが察せられるのである。…(註・すめみま)も亦、天孫、或は神孫の義に用ゐられて居り、瓊瓊杵尊以降、歴代の至尊を申し上げることになってゐる。「みま」は、尊きの靈のより給ふ所としての聖躬(註・せいきゅう。天子のからだ。玉体。聖体)であり、「すめろぎ──かむろぎ」は、その威靈の御稱号號であった事は、ほゞ正しいとも申して良い、古代の神聖なる表現の一つであらう。この威靈は、歴史的にも考へられ、また常に現實には當今(とうぎん)陛下の御上にも考へ申されるのである。それで、祖神であって同時に、現代の主上を申し上げる事になる訳である。」(『日本古代の國民思想』)と論じてゐる。

 

 今・此処が神代と思ふ信仰、自然を神として拝ろがむ信仰は、自然が美しく穏やかな日本國であればこそ生まれてきた信仰である。自然と対立せず、自然を征服しようとしないで、自然の中に包まれ自然と共にて生きる日本人の國土観・自然観である。

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ご恵送いただいた書籍の紹介

い畏友・戸矢学氏より下記の御著書をご恵送いただきました。

 

             ◎

戸矢学氏著 『神道入門』 河出書房新社発行

戸矢氏はこの著書の中で、「『古事記』は日本の神々についての伝承であるが、『萬葉集』は日本人の心情の伝承である」「『萬葉ぶり』の継承は、ちょうど『神道』の継承と符合する」「『萬葉集』は、いにしえの人の心、生活のあり様を率直に伝えてくれる。そのことは日本民族の真実の姿を伝えるということである」と論じておられる。まことにその通りである。

「入門」とは名付けられているが、神道思想とその歴史について、きわめて大切な事、重要なことが、しかもわかりやすく書かれている。ご一読をお勧めします。

 

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千駄木庵日乗一月二十四日

午前は、諸雑務。

午後は、明日行われる小生へのインタビューの準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。有り難し。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2016年1月23日 (土)

わが国を侮る国、わが国の主権を侵害する国に対しては、正道を踏み、義を尽すべきである。

竹島はわが國固有の領土である。わが國は、遅くとも一七世紀はじめには、竹島を実効支配してその領有権を確立し、竹島(当時の「松島」)を認知していた。このことは歴史的事実に照らし、且つ、多くの文献、地図などにより明白である。

 

李氏朝鮮は一三四八年(わが國の南北朝時代)から欝陵島すら放棄しており、欝陵島よりなお九二㌔日本に近い竹島についてはその存在すら知らなかったのである。竹島に李氏朝鮮の支配が及んだことはない。

 

韓國は竹島(韓國名・獨島)が西暦五一二年以降、韓國領に組み込まれたと主張している。しかし、韓國側が自國領とする当該島は、今日の欝陵島であり、わが國の竹島ではない。韓國側の主張は、古文献・古地図の読み変え・誤読による歴史歪曲に過ぎない。

 

韓國は、「日本の韓國侵略の始まりは竹島の日本編入からである」と主張しているが、その当時からわが國に朝鮮併合の意思があったなら、わが國政府は、領土的には何の価値も無い竹島ではなく、人が住める鬱陵島の主権を奪ったはずである。ところが日本政府は江戸幕府と同様に一貫して鬱陵島は朝鮮領とした。これは、竹島がその時以前からわが國固有の領土であったからである。

 

明治三十八年の、閣議決定及び島根県告示による竹島の島根県への編入措置は、日本政府が近代國家として竹島を領有する意志を再確認したものであり、それ以前に、日本が竹島を領有していなかったこと、ましてや他國が竹島を領有していたことを示すものではない。

 

韓國は、サンフランシスコ講和条約が発効する直前の昭和二七年一月一八日、竹島を自國領と主張し始め、公海上にいわゆる「李承晩ライン」を一方的に宣言、日本漁船を締め出すと共に竹島を強奪した。そしてわが国漁民を不当不法に拿捕し、迫害した。韓國はサンフランシスコ講和条約が発効する前に竹島を武力で占領し、自分たちで自國領土として宣言したのである。

 

韓國は、「日本に何をしても反撃しない」と甘く見ているのである。また、反日感情を國内政争の道具にして煽っている。

 

それもこれも、「國際紛争を解決する手段として武力の行使は永久にこれを放棄する」と謳い、「陸海空軍その他の戦力は保持しない、國の交戦権はこれを認めない」と明記している「占領憲法第九条」が、わが國を独立國家としての体を成さない状態にしてしまっているところに根本的な原因があるのである。

 

「現行占領憲法」前文の「諸國民の公正と信義に信頼して自國の生存と安全を保持しようと決意した」という文章が如何に非現実的であるかは、北方領土問題・尖閣列島問題・竹島問題を見れば火を見るよりも明らかである。現実にわが國固有の領土が「公正も信義もない諸國」によって不当に占領され、或いは侵略の危機に瀕しているのである。

 

わが國は、自主憲法を制定し、毅然たる主権國家として再生すべきである。そして、領土問題について韓國に厳正に対処すべきである。

 

そもそも、戦後日本の外交は、何かが起こった時には、如何に相手國を怒らせずに収めるかということにエネルギーを注いできた。今回のいわゆる「従軍慰安婦」問題に対する対処を見てもそれは明らかである。北朝鮮による拉致問題、尖閣諸島問題、北方領土問題、竹島問題、教科書問題など重要な外交問題は全てそうである。竹島問題は國家の主権の問題である。弱腰外交・土下座外交はもういい加減に止め竹島奪還を実現すべきである。

 

このままだと、竹島は未来永劫韓國に“占領”されたままとなってしまう。わが國政府の弱腰外交・土下座外交は、わが國民全体の主権に対する希薄な意識に由来すると言わざるを得ない。「父祖伝来の地」という言葉の重みをもっと認識すべきである。

 

領土を固守し、正当なる主張をする姿勢こそ、主権國家の政府としての基本的な外交姿勢である。それは西郷隆盛が「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。談国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当たりては縦令国を以て斃るるとも、正道を踏み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所申すものにて、更に政府には非ざる也」と説かれてゐる通りである。わが国を侮る国、わが国の主権を侵害する国に対しては、正道を踏み、義を尽すべきである。

 

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千駄木庵日乗一月二十三日

午前は、諸雑務。『政治文化情報』発送作業。

午後は、発送完了。購読者の皆様には、週明けにはお届けできると思います。

この後、資料の整理など。

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やまと歌・和歌について

和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋で最も固有な文藝である。「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまと歌」という言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之といわれている。紀貫之は、平安前期の歌人、歌学者で、仮名文日記文学の先駆とされる『土佐日記』の作者である。加賀介、土佐守などを歴任し、醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となり、「仮名序」を執筆した人である。

 

「やまと歌」の発生は古代祭祀である。日本では太古から、天地自然の中に生きている神々に、五穀の豊饒や民の幸福を祈る「祭祀」が行われている。その「祭祀」において祭り主が神憑りの状態で「言葉」を神々に捧げた。「唱え言」である。その「唱え言」が度々繰り返されていくにつれて、一定の形をとるようになった。それが「やまと歌」の起源である。その「唱え言」は後に「祝詞」と言われるようになった。つまり祝詞とやまと歌はその発祥を同じくするのである。

 

「唱え言」は、神に自己の思いや願いを訴える言葉である。この「訴える」が「うた」の語源なのである。即ち「歌」とは他者に何事かを「訴える」言葉である。人間が神に何事かを訴えることが歌の起源である。祭祀における「となえごと」は、「やまと歌」のみならずわが國の文藝全體の起源である。

 

神に対してだけでなく、恋人や親や死者や自然など他者に対する訴えかけが、日本文藝の起源である。他者に対して何事かを訴えるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教において神や仏に対して祈りを捧げ経典を読誦する。即ち神仏に特定の言葉を唱えることが基本的行事である。すべて言葉を唱える行事である。

 

「やまと歌」は自然に声調・調べが「五七調」あるいは「七五調」に自然に整えられた。これは「五七調」あるいは「七五調」という調べに、日本人の心を訴えることに適する何ものかがあるということである。これは「五七調」「七語調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるということである。「五七調」は対照的に素朴で力強い感じを与えることを特徴とし、『萬葉集』に使われている。「七五調」は優しく優雅な感じを与えることを特徴とし、主に『古今和歌集』に使われている。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったという事實は非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。そして和歌が「五・七・五・七・七」という「定型」になっていったのであろう。

 

和歌は、なぜ定型・韻律に則って歌われるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則っているからであろう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が國民の生活も規則正しいものとなっている。わが國においては四季の変化と農耕生活とが調和しており、毎年一定の「型」が繰り返されている。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだということができる。

 

和歌は、人知の「さかしら」を超えて自然に生まれてくる「素直な心」(まごころ・もののあわれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するというのではなく、新しい創造をともなう。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるところに和歌の面白さがある。

 

これは和歌のみならず學問においてもいえる。「学ぶ」の語源は「まねぶ」であるという。先達・師匠の真似をすることが「学ぶ」の原点である。

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千駄木庵日乗一月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。食欲旺盛なので安心する。

この後、赤坂の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館にて開催中の『水―神秘の形』展参観。

帰宅後は、明後日行われるインタビューの準備など。

 

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2016年1月22日 (金)

日本は、支那の属國になるか、支那を押さえこむか、二つの道しかない

 

共産支那は建国以来、外敵を作り出すことによって、国家の統一を図り、民衆の不満を押さえ込んできた。冷戦時代は、アメリカ帝国主義・ソ連修正主義であった。近年は、日本である。習近平体制になってますますひどくなった。

 

「反日」が今日の共産支那の国是である。というよりも、「反日」を高揚することによってしか、国家の安定と統一を図ることができないのである。

 

共産支那における八〇年代の改革・開放路線は、わが国からの経済援助や投資によって推進された。その頃は、「過去の歴史問題」を持ち出してわが国を非難攻撃しなかった。しかるに「天安門事件」によって共産主義に対する幻想が崩壊し、共産党政権の虚像が崩れ、共産党一党独裁体制が危機に瀕するようになると、共産党の威信を保つために支那共産政権は国民の不満を外に向けさせるようになり、日本をその標的にしたのである。

 

わが国は、日本人のナショナリズム・愛国心を興起せしめるべきである。「外交は華麗に礼装した軍事である」という言葉がある。共産支那もアメリカもこれを着実に実行している。しかし、わが国は戦争直後日本を弱体化する目的で押し付けられた「現行占領憲法」に束縛され、戦うことを禁止されてきた。つまり「軍事力」を外交面で有効に活用できないのである。そして共産支那や南北朝鮮から侮りを受け、主権と領土を侵害されている。今日の日本の外交とは、譲歩・へつらい・阿り・謝罪・自虐である。

 

共産支那という國は、明確な國家目標・國家戦略を持ち、そのために國力のすべてを投入することができる國である。つまり、今日のわが國とは正反対の國なのである。

 

共産支那は、一九九〇年代以降、「中華民族の偉大な復興」を旗印に「富國強兵」策を通じて、アジアでの覇権確立を狙って蠢いてきた。核開発は四十年前から行っている。海洋進出は四十年前から始まっている。共産支那は、沖縄トラフ(海溝)まで自國の排他的経済水域と主張し、台湾併合を通じて東シナ海を内海化しようとしている。南シナ海すでに共産支那の内海化しつつある。

 

共産支那のアジアにおける覇権確立とわが國の属國化を目論む共産支那を封じ込めるために、わが國はアメリカ・台湾・ベトナム・フィリッピン・インドネシアなどとの連携を強化すべきである。さらに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、自国の安全と生存を保持しようと決意した」という夢物語危険極まりない幻想に貫かれている「現行占領憲法」を否定しなければならない。

 

支那の國家目標達成のために一番邪魔存在がわが日本なのである。日本は、支那の属國になるか、支那を押さえこむか、二つの道しかない。しかし、共産支那・中華帝國主義を押さえこむ力が日本にあるのか。甚だ心許無い。まずもって、わが國は國防体制をより一層強化しなければならない。

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千駄木庵日乗一月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

午後六時より、神保町にて、永年の同志二氏と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年1月21日 (木)

この頃詠みし歌

 

老老介護と自らを嘆く老婦人 その母上は九十八歳

 

くっきりとスカイツリーが見えてをり不忍池の彼方の空に

 

夕つ方に参り来たれる根津神社 光りに浮かぶ朱色のみあらか(お札納め)

 

あまたの人参り来たれる根津権現 朱色の社殿が朝日に映える(初詣)

 

この年の幸を祈り奉る根津のみやしろに鎮まる神に

 

乗り換へのエレベーターに昇り来し知り人は顔をそむけて行きぬ

 

一月になりても散り果てぬ銀杏の木を仰ぎてゐたり暖冬の朝

 

墓を売る旗並び立つ寺町の夕暮を行く生きてゐる我

 

ツアー旅行を三度(みたび)せし後思ほへらく旅は一人でするがよろしき

 

旗に続き 時間を決められ 行列して 歩くを旅なりとは とても思へず

 

 

何時も頼む定食を食し何時も会ふ人と挨拶を交はす食堂

 

過ぎてゆく時間と競争のわが生活(たづき)忙しなけれど魂(たま)躍動す

 

我を追ひ越しエレベーターに乗りゆきし図々しき女と笑みを交はせり

 

幾年を経ても忘れること難き思ひ出は自らを裁くが如く

 

友と二人酒酌み交はし語らへる冬の夜ならぬる燗が良し

 

新しき花が届けられ仏壇に供へまつれば心すがしき

 

くれなゐの花を玄関に飾りたり一人居の部屋に華やぎあれと

 

安倍さんの暴走で戦争になりますと共産党支持の老女は真顔でのたまふ

 

夜の部屋でもの書きをれば腹が鳴る 明日の朝まではものは食はぬぞ

 

バリにも行けぬ バス旅行も危険なこの頃は 家で過ごすが一番よろしき

 

コーヒーをそそぎたるカップを手に取りて静かなる夜を過ごしゐるかな

 

静かにも寒の雨降る夜の更けに窓の雫を見つつ立ちをり

 

日々(にちにち)を父の遺影に向かひ坐し安らかにゐませとただに祈れり

 

笑顔なる父の遺影に真向ひて南無遍照金剛と唱へまつれり

 

消え残る雪を踏みしめ歩みたり冬といふ季節をかみしめる如く

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千駄木庵日乗一月二十日

午前は、諸雑務。

 

午後は、資料の整理。

 

この後、施設に赴き、母に付き添う。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、「第127回海洋フォーラム 南シナ海をめぐる問題と中国の海洋戦略」開催。飯田 将史氏(防衛省防衛研究所 主任研究官)が講演。質疑応答。

 

この後、赤坂にて、友人ご夫妻と懇談。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年1月20日 (水)

警察について

戦後、再軍備が行われた時、「警察予備隊」と言われた。これが自衛隊の前身である。警察予備隊発足直後に、私の父は都庁から警察予備隊に移った。その頃から、内局はだいたい警察官僚が牛耳っていたといわれる。増原恵吉氏など立派な人ももちろんおられた。

 

しかし、警察官僚には、反軍思想・反自衛隊思想を持っていた人物もいた。名前は忘れたが、防衛庁官房長を務めた警察官僚は、何と非武装中立論者で、退職後、左翼の集会に出ていた。

 

後藤田正晴氏も「軍隊」に対する反感を持っていたようである。彼が中曽根内閣の官房長官だった頃、ある議員が「憲法を改正し、自衛隊を国軍にしなければならない」と言ったら、後藤田は色をなして、「五・一五、二・二六で警察官は軍人に殺されたのだ」と言ったという。

 

また九・一一テロの後、町村信孝氏などの自民党政治家が、「皇居・総理官邸・国会は、自衛隊が警備したらどうか」という意見を出したら、警察官僚が強硬に反対したという。もっとも、町村氏の父上の町村金吾氏は戦時中の警視総監だった。戦後、参院議員・国家公安委員長自治大臣・北海道知事を歴任した人で、風格のある人であった。

 

戦前、ゴーストップ事件以来というよりも、明治維新後、西郷隆盛の意向により、薩摩の城下士が軍、郷士が警察を担当して以来、軍と警察は仲があまりよろしくないという「伝統」があったようである。

 

警察庁のキャリア官僚が成田空港の手荷物検査場でブチ切れて女性検査員に暴言をはいたうえ、プラスチック製の検査用トレーを投げつけたという事件があった。こういうことはよくある。私も何年か前、皇居参賀に行った時、女性警察官の荷物検査を受けたが、その対応が無礼だったので、ブチ切れたことがあった。テレビの討論番組でブチ切れた経験もある。これは全国に放送されてしまった。したがってあまり他人のことは言えないが、キャリア官僚は、一流大学を出て、難しい試験に合格した人がなるとものとされている。それなりの知識・教養・品性を持っている人々であると承知している。そういう人が切れたのだから、余程のことがあったのであろうか。それともこの官僚の資質に問題があったのだろうか。そういう人が、他人を逮捕し捜査する権限を持つ警察官僚になっていることはやはり問題である。その人は、三十六歳で警視だったそうだが、普通の警察官は、その圧倒的多数が一生かかっても警視にはなれないで退職する。キャリア官僚はやはり以て範となる人でなければなるまい。格差社会とよく言われるが、官僚・役人の世界こそまさに格差社会の典型である。

 

軍・警察・税務署の三つは、国家にとってなくてはならない組織である。しかし、この三つの組織・役所ほど、時として民衆の敵となったり嫌われる場合があることは、時の今昔・洋の東西を問わずよくあることである。公立図書館や公立学校が好きだと言う人はいるが、税務署や警察が好きだと言う人はあまり聞かない。

 

警備公安警察が、日本国の治安のため・国民大衆の安全な生活のために活動しているのなら良いが、特定の政治権力者・特定政党などの手先になる場合があるとしたら問題である。

 

靖国神社に「昭和殉難者」をお祀りしていることに反対し東條元総理を猛烈に非難している読売新聞社トップや、靖国神社の存在そのものをも否定している創価学会が、警察権力に強い影響力を持っているという。

 

警察権力は組織防衛のためなら違法行為もする。私が実際に体験した事だが、私が都議会の警察消防委員会を傍聴しようとしたら、警視庁暴対課の警部に威圧を加えられた。これは明らかに公務員職権濫用であった。一生忘れられない事実である。

 

いわゆる保守勢力や政権与党の中に国を危くする者共がいる今日、国家権力機構である警備公安警察がそうした者共の手先となってしまう危険がある。

 

以前、鹿児島県警が摘発した選挙違反事件の被告十二人全員が無罪判決を受け、鹿児島県警の自白強要等の強引な捜査手法が糾弾されたことがある。拷問に近い取調べが行われ、無実の人々が多数罪に陥れられた。

 

警察及び検察権力は強大でありそれが濫用されると大変なことになる。しかも、捜査官が正義感や犯罪を摘発するという使命感に燃えて起った行き過ぎ事件ならまだしも、出世欲、功名心、成績を上げたい、署長に恥をかかせない、などというきわめて低次元の意識がその原因となって違法捜査が行われることがあるとしたら大問題である。鹿児島県警志布志事件はそうした事件であった。

 

警察署長のことをその警察の署員は「オヤジ」と呼ぶようである。ヤクザ組織も親分のことを「オヤジ」と呼ぶようである。つまり、警察署員には警察署長に対する「絶対服従」「絶対忠誠」が強いられているのだろうか。犯罪の防止と摘発を使命とする警察が戦闘的・軍隊的な指揮命令と服務が行なわれるのは止むを得ないが、それが履き違えられるとおかしな事が起る。事実、志布志事件で、捜査に疑問を感じた捜査員がその旨捜査会議で上申したら、署長にさんざん怒鳴られ、配置転換されられたという。

 

公安委員会も議会の警察委員会も、警察に飼い慣らされていると言っては言いすぎだが、警察に対するチェック機関の役目を果たしていない。県会議員などは、自分を逮捕し政治生命を奪う権限のある警察に対して厳しい姿勢をとれるはずがない。

 

警察は、違法行為があれば、法と証拠に基づいて、都道府県会議員でも、県知事でも逮捕できるし、しなければならない。警察とはそれほどに強大な権力を持つのである。その警察に対する第三者機関によるチェック態勢が整備されるべきであろう。

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千駄木庵日乗一月十九日

午前は、諸雑務。

 

午後二時より、平河町の北野アームスにて、「日本再生同志の会」役員会開催。中村信一郎氏が司会。小田村四郎会長が挨拶。西村眞悟氏がピーチ。全員で討論。

 

この後、大手町の日経ホールで開催されたシンポジウム「アジアの価値観と民主主義」に参加。 猪口孝 (新潟県立大学学長、東京大学名誉教授)、川島真(東京大学大学院総合文化研究科教授)、松本紹圭 (浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来理事)、R ヴァイディヤナタン (インド:バンガロール経営大学教授)、ラヒマ・アブドゥラヒム (インドネシア:ハビビセンター所長)、シャムスル・アムリ・バハルディーン (マレーシア・マレーシア国民大学民族問題研究所所長)、ティン・マウン・マウン・タン(ミャンマー:シンガポール国立大学東南アジア研究所ビジティング・シニア・フェロー)、アンベス・オカンポ(フィリピン:アテネオ・デ・マニラ大学准教授、前歴史学部長)、ティティナン・ポンスディラック (タイ:チュラロンコン大学安全保障国際問題研究所所長)、于鉄軍 (中国:北京大学国際戦略研究院副院長)、渡部恒雄(東京財団上席研究員兼外交・安全保障担当ディレクター)の各氏がパネリストとなり討論。加藤創太氏(東京財団上席研究員兼政策研究担当ディレクター)がモデレータをつとめた。最後に、安倍晋三内閣総理大臣が挨拶して終了した。

 

会場に入って行くと、金属探知機をくぐらされた。また受付の横や廊下や会場内に警察官が立って目を光らせていた。随分警戒が厳しいのだなあと思った。最近自爆テロ事件が起こったインドネシアのユドヨノ前大統領が出席していたからかと思った。ところがプログラムには書いていなかったが、最後に安倍総理が登壇したので、警戒が厳しい理由が分かった。

 

 

帰宅後は、『政治文化情報』の発送準備など。

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2016年1月18日 (月)

『第十二回日本酒で乾杯推進会議総会・フォーラム』における登壇者の発言

十月一日に元赤坂の明治記念館で開催された『第十二回日本酒で乾杯推進会議総会・フォーラム』における登壇者の発言は次の通り。

石毛直道国立民族博物館名誉教授(代表挨拶)「日本酒は日本文化を象徴するお酒。日本酒はすっきりとして純粋を追求して来た。元旦はお屠蘇から始まる。結婚式では三々九度の盃が行われる。神に供えるのも日本酒。神に捧げたお酒をいただく。神と一緒にお酒をいただく」。

 

松崎晃治小浜市長「若狭の国小浜は御食國(みけつくに)。古来皇室に食べ物を献上して来た。日本は稲作中心の食文化を育んできた。米からつくる餅と酒は大切なもの。酒蔵が全国的には減少している。小浜では酒づくりが進められている。五つの市民グループがある。三月十二日に奈良東大寺二月堂で行われる『お水取り』に先がけて、毎年三月二日に小浜市神宮寺で『お水送り』が行われる。自然を神と拝み、神と同じ酒をいただく。五穀豊穣を祈る。多くの人々に日本の心を伝えたい」。

 

神崎宣武氏(民俗学者)「日本酒とは清酒のことと理解している。私は吉備高原の神社の神主(注・岡山県宇佐八幡神社宮司)。お神酒をあがらぬ神は無し。供えた酒をいただくのが直會」。

 

大原弘信正暦寺住職「私のお寺は酒蔵免許を持っている。正暦寺は日本清酒発祥の地であると言われる。お酒の良い所は水が良い所。お酒を守ることは川の水の美しさを守る事になる。」。

 

高田公理武庫川女子大学名誉教授「十月一日は新酒づくりの元日。昭和五十三年に十月一日が『日本酒の日』になった。昭和十九年生まれの私は小学校一年生の時、父から『そろそろお酒の稽古ををせないかん』言われて御猪口一杯呑んだ」。

 

辻麻衣子辻本店杜氏「私は真庭の酒蔵の娘。『女子供は蔵に入るな』と言われて育った。二十歳になってお酒を呑み始め、こんなにおいしい飲み物が日本にあったのかと思い、酒造りに興味出て、大学の冬休みに一週間蔵に入り、私の人生は変わった。酒と水が毎日変わっていくのを見て、絞ったお酒を呑むことが出来る。素晴らしいお酒を呑める。一生の仕事になりました」。

 

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千駄木庵日乗一月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。機嫌良し。

帰宅後は、原稿執筆など。

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日本共産党はロシア・共産支那・北朝鮮のアジア赤化・侵略に加担してきた

 日本共産党は、昭和二十五年に、北朝鮮による韓國侵略=朝鮮戦争が起った時、日本において武装闘争・火炎ビン闘争を展開し、北の侵略を支援したのだ。また白鳥警部射殺事件、大須騒擾事件などを引き起こすなど暴力的破壊活動を展開した。これを後方攪乱と言う。

 

共産党員の多くは、「中核自衛隊」「山村工作隊」として、火焔ビンや時限爆弾などで武装して破壊活動を起した。

 

さらに、日共が朝鮮総連と一緒になって、平事件・皇居前メーデー事件・吹田事件などの数多くの騒擾事件・集団暴力事件を起したことは歴然たる事実である。

 

日本共産党は、あろうことか長い間、「朝鮮戦争をアメリカの侵略だった」などという嘘八百を並べ立てていた。

 

『日本共産党の四十五年』という書物(昭和四五年八月二五日・日本共産党中央委員會出版局発行)には「アメリカ帝國主義は、(一九五○年)六月二十五日、わが國を前進基地として朝鮮への侵略戦争をはじめました」とはっきり書いている。

 

日本共産党は、わが國における最初にして最大の北朝鮮軍事独裁政権支援組織だったのである。また、日本共産党が戦後、一貫して、朝鮮労働党の日本における窓口だったのである。

 

また、「在日朝鮮人の祖國帰還運動」にも日共は積極的に協力した。日本共産党と北朝鮮は、昭和三十四年、在日朝鮮人の北朝鮮への「集団帰還事業」を、わが国政府に働きかけ実現させた。これによって、約九万八千人の在日朝鮮人(約七千人の日本人を含む)が北に永住帰国した。

 

そして、「集団帰還事業」について宮本顕治書記長(当時)は、朝鮮労働党第四回大會で帰國熱を煽った。つまり、日本共産党は多くの在日朝鮮人を地獄に送り込んだのである。

 

七0年代初頭、北朝鮮の国家保衛部は、九万八千人の在日朝鮮人帰国者たちを粛清の対象にした。絶え間ない監視と罪状の捏造によって、金日成父子冒瀆、反動宣伝煽動罪、スパイ罪をかぶせ、七三年から八〇年の間に、全帰国者の約二割を処刑、もしくは政治犯収容所送りにしたという。

 

帰国事業では、日本共産党の有力者が、全国の「帰国協会」で「事務局長」を務め、地方党員が実働部隊となって在日朝鮮人を帰国させ、政治的には「北朝鮮に社会主義国の建設を」と宣伝した。

 

在日朝鮮人の北朝鮮への帰国に決定的な役割を果たしたのは日本共産党であった。共産党は自らが犯した犯罪行為に対して何の謝罪も行なっていない。のみならず、悲惨極まる状況に陥っている帰国者の救援・救出にもソッポを向きかえってそれを妨害して来たのである。

 

昭和四十年代前半、共産党の青年組織・民青の青年學生は、北朝鮮を理想國家・天國のように宣伝していた。共産党こそ北朝鮮問題で歴史的に拭い去ることのできない大きな罪を犯したのである。

 

拉致問題に関しても日本共産党は、平成十二年十月五日の党首討論で、不破哲三委員長(当時)らが「政府は拉致の確たる証拠を示していない」とか「確たる物証がなく状況証拠だけだ」などと述べた。拉致された人々は北朝鮮におり、拉致したのは北朝鮮なのである。「確たる物証」は北朝鮮にはあっても日本国内にあるはずがない。わが国の警察の捜査が及ばない北朝鮮の国家ぐるみの犯罪について、わが国の治安当局が「確たる証拠を示す」ことは殆ど不可能である。

 

日本政府に「証拠を示せ」と迫ること自体無理な話であり、こんなことを言うのは共産党が北朝鮮を擁護し拉致問題解決の意志が無かった何よりの証拠である。

 

そもそも日本共産党とは、ソ連に司令部のあった國際共産主義組織・ソ連による世界赤化侵略策謀組織=コミンテルンの日本支部として誕生した政党である。本来的にソ連の手先の政党であった。ソ連軍の後押しで朝鮮半島の北半分を占領して出来上がった傀儡國家=北朝鮮と同根・同質の政党なのである。

 

日本共産党は、長い間「暴力革命」を肯定し、火焔ビン闘争・武装闘争を行ない、多くの人々を殺傷した歴史を持つ政党である。特に昭和二十五年のコミンフォルム批判・朝鮮戦争勃発以後、日共は凄まじい武装闘争を展開した。ソ連や共産中国の指令に基づいて、日本共産党が暴力革命路線を突っ走ったのは、日本に駐留していた米軍が、ソ連・中共・北朝鮮による韓国侵略(朝鮮戦争)を阻止できないようにするという、後方撹乱の役割を担うためであった。

 

つまり、日共はソ連・共産支那・北朝鮮のアジア赤化・侵略策謀の手先であった。その罪は永遠に消し去ることはできない。

 

さらに言えば、長年党首(第一書記・中央委員会議長・名誉議長)を務めた野坂参三はスターリン独裁体制下のソ連のスパイとなり、同志であった山本懸蔵を死地に追いやったとして齢百歳にして共産党を除名された。

 

同じく長年共産党の最高指導者(書記長・幹部会委員長・中央委員会議長)として君臨した宮本顕治は、同志であった小幡達夫をリンチし死地に追いやったとして懲役刑に処せられた。野坂も宮本も金日成・金正日父子と同類項の人物だったのである。

 

また、北朝鮮労働党と友党関係にあり、暴力革命を志向し、実際に数多くの武装闘争を行なったのが日本共産党という政党なのである。日共は、国民の自由と生存権を圧殺している金正日独裁政権と同質なのである。共産主義国家(=共産支那・北朝鮮)・共産主義政党(=日本共産党)こそ「暴力的威圧で自由な言論を攻撃する」する国家であり政党である。共産党や旧社會党・社民党ような政党の存在こそが日本國及び日本國民の安全と平和を脅かしてきたのだ。

 

 こうした歴史を考えれば、日本共産党が「新安保法制」に反対し廃棄するために「国民連合政権構想」なるものをぶち上げたのは、今日唯今においても、共産支那や北朝鮮の軍事侵略に協力し加担するためである。日本共産党撲滅が急務である。

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千駄木庵日乗一月十七日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2016年1月17日 (日)

復古即革新が日本的変革の根本精神

今日の日本は大きな転換点に立ってゐるといはれる。激動の時代であり混迷の時代であることは確かである。かかる時においてこそ、目先の事象を見て右往左往することを慎み、物事を長い目で見る必要がある。わが國は悠遠の歴史を有してゐる。その歴史的観点から物事を正しく見極めるべきである。三千年に及ぶ歴史を貫いて来た傳統精神、民族の精神的核に立ち返って、現状を正しく観察し、変革の方途を見出すべきである。

 

我が國は過去において何回か國家的危機に際會し、見事に乗り越えて来た。外圧によって國家の独立が危殆に瀕した時、強烈な民族精神・尊皇精神が勃興し、変革を断行し、危機を打開して来た。

 

大化改新は唐新羅連合軍侵攻の危機があった時に行はれた。元寇=蒙古襲来の時、日本國民は愛國心を燃え立たせ神國意識を強固なものとした。それは建武中興へとつながった。明治維新は欧米列強による侵略の危機があった時に行はれた。

 

天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ

 

橘曙覧(江戸末期の歌人・國学者。越前の人)の歌である。

 

清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の傳統的道義精神である。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することを喜び希求した歌である。維新すなはち復古即革新の精神をうたひあげてゐる。この歌の心が維新=日本的変革の根本精神であると思ふ。

 

慶應四年十二月九日の『王政復古の大号令』(『王政復古の諭告』『王政復古御沙汰書』とも申し上げる)に、天皇國日本の真姿すなはち日本國體を回復することによって、現状の悪・穢れを祓ひ清めといふ明治維新の理念及び構想が示されてゐる。

 

「徳川内府、従前御委任の大政返上と将軍職辞退の両条は、今般、断然と聞こしめされ候。・・・(中略)これによって、叡慮を決せられ、王政復古、國威挽回の御基を立たせられ候間、自今、摂関、幕府等廃絶せられ、総裁、議定、参与の三職を置かれ、萬機を行はせられ、諸事神武創業の始めに原(もとづ)き、縉紳(官位が高く、身分のある人)武弁(武士)、堂上(清涼殿への昇殿を許される家柄。また、公卿になれる家柄)、地下(清涼殿殿上の間に昇殿することを許されていない官人の総称。また、官職・位階など公的な地位をもたな人。農民や民衆)の別なく、至当の公議を竭(つく)し、天下と休戚(「休」は喜び、「戚」は悲しみ)を同じくあそばさるべき叡慮に付、各々勉励し、旧来の驕惰の汚習を洗ひ、盡忠報國の至誠を以て奉公致すべく候事」。

 

橘曙覧が歌った「上古(いにしへ)の 御まつりごと」とは、「時間的過去」の政治形態をとり戻すことではない。時間的過去は永遠に取り戻す事は出来ない。民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とするといふことである。

 

「復古」とは、「古きがゆゑに良い」といふ骨董趣味ではないし、時間を過去に戻すことでもない。日本の理想的姿を単なる「時間的過去」に求めるのでもない。「元初の時」「物事の始まりの時」に回帰し復興するといふことである。「元初の時」の新たなる復活・発見である。

 

「諸事神武創業の始めに原(もとづ)き」とは、「復古」の精神であり、「至当の公議を竭(つく)し」「旧来の驕惰の汚習を洗ひ」とは、革新の精神である。さらに、「至当の公議を竭(つく)し」とのお言葉に議會政治を開き民意をきこしめす精神が示されてゐる。ここに、外國の革命とは全く異なる日本的変革すなはち維新の根本がある。

 

「元初の清浄なる日本」に帰ることが維新である。「神話の精神」は今日唯今、「天皇の祭祀」に脈々と継承され生きてゐる。太古の神話の精神が今日も生き続けている民族は日本民族のみである。ゆゑに、わが國體は萬邦無比なのである。

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千駄木庵日乗一月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、書状執筆。原稿執筆など。

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2016年1月16日 (土)

日本國體について

 

日本といふ國家には日本の長き歴史の中から生まれてきた日本独自の<立國の精神>がある。それは、日本列島の豊かな自然環境と共に生きる生活・風土の中から生成して来た。

 

日本民族の生活の基本は稲作であり、日本人の主食は米である。古代から現代に至るまで、稲作を中心とした農事を営む人々が、五穀の豊饒を神に祈り、豊作を神に感謝する祭祀を行って来た。

 

祭祀を中核とする共同體の統率者・祭り主(共同體を代表して神に祈り、神の意志をうかがひ知りそれを國民に告げる役目の人)は信仰的権威を担った。古代における祭り主を中心とする信仰的な血族関係即ち共通の祭祀と文化を持つ村落共同體が、民族共同體へと自然に発展し生成してきた國家が、日本國である。つまり、稲作文化が祭祀を生み、その祭祀の祭り主を中心とした共同體の生成が、日本國家の成立である。

 

稲作に欠かすことのできない自然の恵みが太陽であり大地であり水である。その太陽と大地と水を、神として拝んだ。太陽の神が天照大神である。また大地の神は大國魂大國主大神などの國津神として祭られた。水の神は罔象女神(みつはのめのかみ)などの神々として祭られた。また稲穂そのものにも神の霊が宿ってゐるとして尊んだ。そして、古代日本人は太陽を最も尊貴なる神として崇めた。それが天照大神である。

 

天照大神をはじめとする天津神、そして大地の神である國津神、水の神、および稲穂の霊などをお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主は、天照大神の御子即ち「日の御子」として國民から崇められた。これが即ち日本天皇であらせられる。

 

天照大神は、太陽の神であるのみならず、天皇の御祖先神と信じられた。そして天地の神々の祭り主たる天皇を、古代日本共同體の統一と連帯の中心者と仰いだ。

 

古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる太陽神・天照大神の祭祀を頂点とし、その神聖なる権威が他の多くの地方の神々と祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現した。つまり、古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神の祭祀によって聖化された。

 

これがわが日本の「この國のかたち」であり。正しくいへば「日本國體」である。わが國肇國以来の國體は、「日本は天皇を祭祀主・君主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体である」といふことである。これは永遠に変はらざるわが國體のである。「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體・祭祀國家・道義國家」が日本國の本質であり、日本國體である。

 

わが國に於ける維新とは、天皇國日本の真姿すなはち肇國以来の國體を回復することによって、現状の悪・穢れを祓ひ清める変革である。

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千駄木庵日乗一月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母と過ごす。「一緒に家に帰ろう」と言われるのが一番つらい。

帰宅後も、資料の整理。

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2016年1月15日 (金)

わが國體精神・天皇の國家統治は民の幸福実現を最高の目標としている

わが國體精神・天皇の國家統治は、民の幸福実現を最高の目標としている。國民の幸福の実現こそが天皇の統治の目的である。わが國においては、古代より國民を「おほみたから(大御宝)」と言ってきた。民を尊ぶことが天皇の御統治の基本である。日本伝統信仰おいては、人は神の分け御霊であり、人間は本来神の子として尊ばれるべき存在である。

 

歴代の天皇は、國民の幸福を祈られ、「おほみおや(大御親)」としての仁慈の大御心を以て「おほみたから」であるところの國民に限りない仁政を垂れたもうてきたのである。國民の幸福を実現する政治制度という意味で「民主政治」「民主主義」という言葉を使うとするなら、わが國の天皇統治はまさにそういう政治制度を生み出す根幹なのである。

 

天皇中心の國體を正しく実現する事を目的として断行された明治維新の基本的精神は、慶応四年三月一四日、明治天皇が京都御所南殿で、公家、諸侯や百官を率いて天地神明に誓われた『五箇条の御誓文』に示されている。それは、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の五か条であり、國民の幸福を実現する政治制度という意味での民主政治の基本が示されている。

 

葦津珍彦氏は「五箇条の御誓文に見られる政治思想そのものは、決して外國の政治学理論によってはじめて教えられたものではなく、いわゆる幕末時代、約二十年の間に、日本人が政治実践の中から、自然成長的に形成されてきた日本人の政治思想であった。」(『近代民主主義の終末』)と論じている。

 

昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったので、國民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではない事を示す必要があった。」と仰せになられた。

 

天皇の國家統治は、まさに「輸入のものではない民主政治であり民主主義」なのである。天皇の國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の統治は民の心をお聞きになり、民の心をお知りになる事が基本である。そしてそれは議会によって実現する。ゆえに、明治維新断行後において、帝國議会が開設され『大日本帝國憲法』が施行されたのである。

 

近代に於いてのみならず、古代日本においても、國民のために政治が天皇の統治によって実現していたのである。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒()ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ。」

 

天皇が國民の幸福を祈られる祭祀を執行され、國民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、國民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごとにこそ、真の民主政治の根幹である。

 

天皇は常に國民の幸福を祈られておられる。天皇統治とは國民の意志をお知りになることが基本である。わが國の天皇は民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされてきた。わが國は君民一体の國柄である。

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千駄木庵日乗一月十四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、脱稿、送付。

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2016年1月14日 (木)

第五十八回日本の心を学ぶ會

テーマ「日本國體」「皇室」について

 

平成二十八年の新春を寿ぎ奉ります。 

 

新年の皇居一般参賀には八萬二千六百九十人が参賀し、平成の御代になってから二番目に多い人数を記録しました。戦後七十一年を経過した今日において、日本人の心には篤い尊皇の精神と皇室へ敬愛の心が強く息づいているを証します。建國以来、天皇・皇室は、日本國の政治・文化・宗教などの中心者、日本國のかけがえない御存在として尊崇されてまいりました。

 

日本文藝には君臣の関係を表現した詩歌や物語が数多く遺されており、國民はこれらの文藝作品から深い感動とともに君臣のあるべき姿について学んできました。いかなる権力者も天皇・皇室の神聖権威のもとに政治を行う事が日本のあるべき姿であることは自明でありました。

 

近代に入り天皇制を否定する思想が國内に流入しました。しかし、そういう思想に対して、國民の圧倒的多数が拒否反応を示しました。

 

大東亜戦争終結後、GHQは日本弱体化の工作の一環として、國體破壊を目的として様々の工作を行いました。「大日本帝國憲法」「皇室典範」「教育勅語」を廃止するのみならず、『國体の本義』など日本國體の正統性を論じた書籍を抹殺しました。

 

戦後、駐日大使を務めたライシャワーは「太平洋の彼岸」のなかで「日本の統治形態を支持せず利用することでもって我々は共和革命の扉を開いておいたが何も起こらなかった」と述べております。つまりGHQは日本が、天皇のもとに國民が統一し國家か発展することを妨害し、日本を弱体化し、戦勝國の言いなりになる國家にしようとしたのです。

 

このような占領政策の悪影響は、戦後七十一年を経過した今日、花開き實を結んでいると言っても過言ではありません。「占領憲法」、「皇室典範改正問題」、「政治家の皇室軽視」などを見ればそれは明らかです。そして表向きは天皇・皇室に敬意を払っているような態度を見せつつ、實は國體破壊を狙っている政党・政治家も数多く存在します。こうした状況において、國體破壊を目指す政治勢力を駆逐し、皇室に対する彼らの欺瞞的な策謀の實態を正しく認識し、撃ち砕くが大切です。そこで、新年初めての勉強會では「日本國體」「皇室」について学びたいと思います。 

 

【日 時】平成二十八年一月三十一日(日)午後六時より

 

【場 所】文京シビックセンター 3階會議室B

東京都文京区春日一-十六-二十一 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩九分

 

【講 演】

「日本共産党の國体破壊の体質についてー國會開會式出席問題に関連して」四宮政治文化研究所代表四宮正貴氏 

せと弘幸氏は調整中です。

 

【司會者】林大悟

 

【参加費】資料代五百円

 

【連絡先】渡邊昇 〇九〇―八七七〇―七三九五 

 

この案内文は主催者が作成しました。 

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北朝鮮について

北朝鮮問題を論ずる時は、国際テロ国家であり、人さらい国家であり、ならず者国家であり、無法国家であり、独裁専制国家であるという北朝鮮の本質をよくよく見極めなければならない。あの国はまともな国ではないのである。そのような国とほかの国に対してと同じような外交交渉を行なったり、支援や協力を行なうということ自体、大きな誤りである。

 

わが国は、北朝鮮をただひたすら警戒し、わが国に対する攻撃を排除するために最大限の努力をしなければならない。これがわが国のとるべき道である。

 

そもそも北朝鮮は「国家」と言えるかどうかさえ怪しい。「国家」とは、民主的な手続きによって選出された国民の代表者によって法律に基いて統治されているのが、「あるべき姿」である。

 

ところが北朝鮮は、金日成が死んだ後、どういう民主的法律的手続きを経て金正日が国家の最高権力者に選ばれたのかさえまったく不明である。金正日は、ただ金日成の息子だから後継者になったのである。金正恩もしかりだ。

 

一九四八年(昭和二十三年)、朝鮮半島全体で民主的な選挙を実施しようとしても金日成はそれに応じなかった。そして南だけで選挙が行なわれ、李承晩が初代大統領に選ばれた。だから本来的には、朝鮮半島における唯一の正統政府は大韓民国のみなのであって、金日成政権は北朝鮮を軍事占領している集団に過ぎないのだ。

 

そればかりではない。一九五〇年(昭和二十五年)六月二十五日午前四時過ぎ、金日成軍は、突如三十八度線を突破して侵略を開始し、ソウルを火の海にして、二十八日にソウルを占領した。この金日成軍による韓国侵略によって三百万人が犠牲になった。

 

この戦争で、金日成軍及びそれを支援する共産中国軍と戦ったのは国連軍である。そして、一九五一年二月一日、国連総会は共産中国を侵略者と決議した。

しかも、この戦争はまだ終わってはいないのだ。一九五三年(昭和二十八年)Iに「休戦協定」が結ばれているだけである。つまり、北朝鮮の盤距する政権は今日でも侵略者であり正統性がないのである。

 

朝鮮戦争の時、わが国内において、侵略者=北朝鮮・共産中国を支援するために火焔ビン闘争を展開したのが日本共産党である。日共こそわが国における最初にして最大の北朝鮮支援組織だったのである。

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千駄木庵日乗一月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、今夜行う『萬葉集』講義の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が、大伴坂上郎女などの歌を講義。

終了後、出席者の方と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2016年1月12日 (火)

「もののふの道(武士道)」とは

 「もののふ」とは、「武人・武士」という言葉を「やまとことば(和語すなわち漢語や西洋などからの外来語に対し、日本固有の語)」で言った言葉であり、雅語(上品な言葉。正しくてよい言葉。特に、和歌などに使う、平安時代風の言葉)的表現である。

 

 「やまとことば」の「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「もののべ」の音韻が変化した語である。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。「物部氏」という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だったという。

 

 物部の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。古代日本では、霊的力即ち巫術(呪術の一つ。超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧するものが「もののふ」(物部)であった。

 

 「もののふのみち」とは漢語(支那から伝来して日本語となった語。更に広く、漢字で組み立てて音(おん)で読む語)で言うと「武士道」である。「もののふのみち」は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として表現せられた。

 

 物部氏は饒速日命の後裔で武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。これが後世武士の起こる濫觴とされている。用命天皇の崩御直後(用命二年・五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏の馬子と物部守屋が争い破れて物部氏は滅びた。

 

 なお、「もののふ」を漢語では、「武士」(ぶし)というのは、折口信夫の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕える者であるからという。「ぶし」は「伏し」に通ずるという事であろう。

 

 「もののふの道(武士道)」とは、古代日本においては、宮廷を守護すること即ち皇室に忠誠を尽くすという精神である。それが原義である。日本武尊の御生涯にそれは明らかである。

 

「もののふの道」は、『萬葉集』に収められた次の歌に表白されている。

 

笠金村の歌。笠金村は伝未詳。作歌年代の明らかな歌は、霊亀元年(七一五・元正天皇の御代)から天平五年(七三三・聖武天皇の御代)まで)

 

「もののふの 臣(おみ)の壮士(をとこ)は 大君の 任(まけ)のまにまに 聞くといふものぞ」(三六九・軍人として朝廷に仕える男は、大君の仰せの通りに御命令の通りに聞き従うものであるぞ)。

 

 大伴宿禰三中の歌。大伴宿禰三中は系統未詳。遣新羅副使・摂津班田使(律令制下民に授けられた田んぼである口分田を民に分かち与えるために派遣された官吏)などを歴任。「宿禰」とは、天武天皇の御代に定めた八色姓(やくさのかばね)の第三。臣下を親しんで言った呼び名。この歌は大伴宿禰三中が、部下であった丈夫部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が亡くなった時に詠んだ歌。

 

「天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(もののふ)と いはるる人は 天皇(すめろぎ)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉(まつ)りて 玉かづら いや遠長く 祖(おや)の名も 繼ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子供に 語らひて 立ちし日より…」(四四二・天雲の垂れ伏す遠い国のもののふといわれる人は、天皇が神の如くにおられる皇居で、外の回りを立って警備し、奥庭におそばでお仕え申し上げ、(玉かづら・長居に掛る枕詞)ますます長く祖先の名を継ぎ行くものなのだと、父母に、妻に子供に語って出発した日より…) 

 

 故郷を出発する時の朝廷奉仕の確固たる覚悟が、上司の三中によって歌われている。「天雲の 向伏(むかふ)す国」は、「遠い国」につく慣用句で自殺した丈夫部龍麻呂の出身地のこと。東国の出身であったらしい。

 

 「もののふ」はこの場合は原文(萬葉仮名)に「武士」とあり、皇居を警備する武官を念頭に置いた。天皇の神の御門は現御神信仰に基づく言葉。

 

 「さもらふ」は様子を伺い機を待つという意であるが、この「さもらひ」の女性語が「さむらふ」(目上の人に側に仕えること)。この言葉から「さむらひ」(武士)という言葉が生まれた。

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千駄木庵日乗一月十二日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、資料の整理、明日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備。

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国難と和歌

 蒙古襲来は中世における一大国家危機であった。蒙古は文永十一年(一二七四)と弘安四年)一二八一)の二回にわたって来襲したが、いずれも日本軍の奮戦と暴風雨(これを世の人は神風と信じた)によって撤退した。これにより日本国民はナショナリズムを燃え立たせ神国意識を益々強固ものとした。

 

そして、

 

「西の海寄せくる波も心せよ神の守れるやまと島根ぞ」(春日若宮者の神職中臣祐春の歌。『異国のこと聞こえ侍るに神国たのもしくて』との詞書がある。日本国が神国であるとの信念を吐露した歌)

 

「勅として祈るしるしの神風に寄せ来る浪ぞかつくだけつる」(藤原定家の孫藤原為氏が亀山上皇の勅使として蒙古撃退・敵国降伏を祈願するためにお参りした時の歌)

 

という歌が生まれた。外来宗教の仏教の禅の僧侶宏覚も蒙古襲来という国難の時期にあって六十三日間蒙古撃退の祈願を行いその祈願文の最後には、

 

「末の世の末の末まで我国はよろづの国にすぐれたる国」

 

という歌を記した。

 

こうしたナショナリズムの勃興がやがて建武中興へとつながっていくのである。 

 

このように日本民族は古代から平安朝そして中世と脈々と愛国心及びそれと一体のものとしての尊皇心を継承してきているのである。徳川時代の末に至りペリーの来航から明治維新の断行までの内憂外患大変革の時期は、その愛国心・日本ナショナリズムは火の如く燃え上がり、数々の歌に表現された。

 

幕末の動乱期に「尊皇攘夷」の戦いに挺身した人々の述志の歌はそれぞれに憂国の至情が表白され、「魂の訴え」という和歌の本質そのものの歌ばかりである。特に「君が代」「国」を思う心を直截に歌った歌を挙げてみる。

 

藤田東湖(水戸藩主徳川斉昭と肝胆相照らし熱烈な尊皇攘夷論を主張し尊攘運動に大きな影響を与えた)の歌。

 

「かきくらすあめりかひとに天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや」(心をかき乱すよ うなアメリカ人がやっ て来たが、天日が照り輝く日本の國風を  見せてやればよい、という意)

 

 伴林光平(文久三年(一八六三)攘夷断行・天皇親政実現のために挙兵した天忠組に参加し敗れて刑死した)の歌。

 

「君が代はいはほと共に動かねばくだけてか へれ沖つ白浪」(天皇国日本は巌のように不動であるから  日本を侵略しようとする国々は沖の白波  のように砕けて帰ってしまえ、という意)

 

梅田雲濱(若狭国小浜藩士。尊皇攘夷運動を行い安政の大獄で捕えられ獄死した)の獄中で病気になった時に詠んだ歌。

 

「君が代を思ふ心のひとすぢに吾が身ありとはおもはざりけり」

 

吉田松陰は、

「討たれたるわれをあはれと見む人は君を崇めて夷攘へよ」

 

と詠み、

 

平野國臣は、

「君が代の安けかりせばかねてより身は花守となりけむものを」

 

という歌をのこしている。

 

明治維新断行後、近代日本は堂々の歩みを開始したのであるが、やがて東亜解放の大義を掲げて大東亜戦争を戦うこととなる。この戦争は有史以来未曾有の国難であった。「一億一心火の玉だ」という言葉があったように、従軍兵士のみならず国民全てが参加して戦った。この時も大いに「国を愛する心」の歌が歌われた。専門歌人の歌よりも戦線に赴いた軍人兵士たちの歌や一般国民が口ずさんだ戦時歌謡・軍歌に胸を打つ「国を愛する歌」が多い。

 

昭和二十年(一九四五)六月二十三日未明、沖縄第三十二軍司令官として摩文仁岳にて自刃した牛島満陸軍大将の辞世歌。

 

「矢彈盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國護らむ」

 

さらに昭和二十三年十二月二十三日、東京巣雅も拘置所にて絞首刑に処せられた東條英機元首相は、

 

「例へ見は千々にさくとも及ばじな栄えし御世を墮せし罪は」 

 

という歌をのこしさらに

 

「苔のした待たるゝ菊の花ざかり」

 

という句をのこした。どちらの歌もすでに身を国に捧げつつも死してなお国家(皇國・御世)の行く末を思う真心が切々と歌われている。

 

「腕をたたいて 遥かな空を 仰ぐ眸に雲が飛ぶ 遠く祖国を はなれ来て しみじみしった 祖国愛 友よ来て見よ あの雲を」

 

 藤田まさと作詞大村能章作曲『麦と兵隊』の一節である。東海林太郎が歌って大ヒットし長く兵士や庶民によって歌われ続けた軍歌である。ここにあらわれているのは祖国のために外地へ行った時にこそ祖国への愛がしみじみと生まれてくるという実感である。遠い萬葉の昔にも遣唐使たちがそういう歌を詠んでいる。 

 

大東亜戦争に敗北した後、愛国心・尊皇心が「反動」だとか「軍国主義」だとか言って批判されてきた。しかし、戦後日本・現代日本においても魂を打つ愛国歌が生まれている。それは愛国運動に身を捧げた人々の歌である。

 

 昭和三十五年(一九六〇)十月十二日、当時の浅沼稲次郎日本社会党委員長を刺殺した山口二矢氏は、自決に際して、

 

「国の為神州男児晴れやかにほほえみ行かん死出の旅」

 

という辞世をのこしている。

 

さらに昭和四十五年十一月二十五日、東京市ヶ谷の陸上自衛隊内で三島由紀夫氏と共に割腹自決を遂げた森田必勝氏は、

 

「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみか」

 

という辞世をのこした。

 

そして昭和五十四年五月二十五日大東神社にて割腹した影山正治氏は、

 

「身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに」

 

という辞世をのこしている。

 

 愛国尊皇の心を張りつめた精神で歌う時、やはり日本伝統の文学形式即ち和歌で表現されることが多かった。(漢詩にもすぐれたものもあるが)和歌が日本人の真心を表現するのに最も適した文芸であるからである。

 

 今日の日本はまさしく亡国の危機に瀕している。今こそその危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が祖国への愛・至尊への恋闕の思い歌いあげる和歌の復興なのである。

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千駄木庵日乗一月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。有り難し。

帰宅後も、資料の整理。

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2016年1月11日 (月)

萬葉古代史研究會のお知らせ

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 一月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

 

東京都豊島区南大塚二-三六-一 ☎〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

 

 

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防人の心

 萬葉集巻二十には、九十三首の防人の歌が収められている。防人とは、唐・新羅のわが国への侵攻に備えるために、筑紫・壱岐・対馬に配置された兵士のことで、わが国が百済に送った救援軍が白村江で敗北した翌年の天智天皇二年(西暦六六三)に配置された。諸国の軍団の正丁(せいてい・二十一歳から六十歳の公用に奉仕した男子)のうちから選ばれて三年間の任務についた。天平二年以降は、特に勇壮を以て聞こえた東国(遠江以東の諸国)の兵士が専ら派遣された。大陸及び朝鮮半島との緊張関係は、約千三百年前から今日まで変わらずに続いているということである。

 

 防人の歌を収集し後世にのこすという偉大な事業を行ったのは大伴家持である。家持が、防人に関する事務を管掌する兵部少輔(ひょうぶのしょうふ・兵武賞の次官)の任にあった天平勝宝七年(七五五)に、筑紫に派遣される諸国の防人たちが難波に集結した。家持は防人たちの歌を収集しようと考え、諸国の部領使(ぶりょうし・防人を引率した役人)たちを煩わして防人たちの出発の日の詠、道中での感想を詠んだ歌を提出してもらった。中には、妻などの家族の歌を記憶していて、それを提出する防人もいたという。 

 

 防人の歌は、防人の率直な心境や東国庶民の生活感情を知り得る貴重な歌である。天皇国日本の永遠を願いながら遠く旅立つもののふの決意を表明した歌であり、生きて故郷へ帰ることができない覚悟した者たちの歌である。当時における辺境の地の素朴な歌ではあるが、日本文化・文学の基本である宮廷文化(みやび)への憧れの心があり、君への忠、親への孝、人への恋心が表白されている。

 

 一人一人がそれぞれの立場で個性的表現をしているが、全体として国のため大君のためにわが身を捧げるという共通の決意が歌われている。天皇への無限の尊崇・仰慕の念と敬神の心、そして愛する父母や妻子への思いが生々しい情感として歌われている。

 

 つまり、日本人の最も基本的にして永遠に変わることなき道義精神・倫理観を切々と歌っているのである。東国の庶民は都に生活する貴族などと比較すれば教養や学識においては劣るものがあるかもしれないが、天皇・国家・家族を思う心は純真で深いものがある。東国の庶民である防人の歌には、古代日本の豊かな精神・純粋な感性がある。

 

「今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」 (防人の任を仰せつかった今日よりは、一切を顧みる事なく、不束ながら大君の尊い御楯として出発致します。私は)

 

 下野の(今日の栃木県)火長今奉部與曾布(かちょういままつりべのよそふ)の歌。火長とは十人の兵士を統率する長。

 もっとも代表的な防人の歌である。「醜」とは醜いという意ではなく、大君に対し奉り自分を謙遜して言った言葉で、「不束ながら」或いは「数ならぬ」という意。葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ・大己貴神の別名)の「醜」と同じ用法で、「力の籠った、荒々しい強さを持ったものの意」とする説もある。

 

 「御楯」は楯は矢・矛・槍から身を守る武具であるが、大君及び大君が統治あそばされる日本国土を守る兵士のこと。大君にお仕えする兵士であるから「御」という尊称をつけた。

 

 出征する時の勇壮・凜然とした固い決意を格調高く歌っている。この歌の心は一言で言えば上御一人に対する「捨身無我」である。そうしたきわめて清らかにして篤い尊皇の心がふつふつと伝わってくる。しかも、押し付けがましいところがない、さわやかな堂々たる歌いぶりの重厚な歌、と評価されている。                   

 

「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に吾は來にしを」(鹿島の社に鎮まります建御雷神に武運長久を祈り続けて天皇の兵士として私は来たのだ)

 

 常陸の國那珂郡の防人・大舎人部千文(おおとねりべのちぶみ)の歌。「あられ」は鹿島に掛る枕詞。あられが降る音はかしましいので鹿島に掛けた。「鹿島の神」は鹿島神宮に祭られている武神・建御雷神(たけみかづちのかみ・武甕槌神とも書く)の御事。建御雷神は、天孫降臨に先立って出雲に天降られ、大国主命に国譲りを交渉せられた神であらせられる。鹿島神宮の御創祀は、神武天皇御即位の年と伝えられる。「皇御軍」は天皇の兵士という意味。天皇の兵士・皇軍という意識は、近代になってつくり上げられたのではなく、千三百年の昔よりわが日本の庶民に受け継がれてきているのである。

 

 この鹿島神宮は、初代徳川頼房以来、水戸徳川家が崇敬の誠を捧げていた。今に残る日本三大楼門の一と言われる楼門は寛永十一年に頼房公が寄進したものである。幕末の徳川斉昭は、『大日本史』を奉納し、安政四年には、鹿島神宮の御分霊を水戸弘道館に勧請し、鹿島神社を創建した。

 

 

「天地の神を祈りて幸矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫の島をさして行く吾は」(天神地祇に祈りを捧げ、武具を整えて筑紫を目指して行くのだ。私は。)

 

下野の國の防人の歌。「幸矢」は、山の幸を獲る矢すなわち狩猟に用いる矢のこと。「貫き」は、矢を靫(ゆぎ・矢を入れて背に負う器具)に入れること。

 この歌は、「あられ降り鹿島の神を祈りつつ」と同じく、敬神愛国の精神を吐露した歌である。防人の歌は、尊皇敬神の志を述べながら、同時に父母を慕い妻子を愛する自然の人間感情を素直に歌っている。ここに古代日本人らしい「まことごころ」の大らかさ・深さがある。

 

日本武士道の淵源は、記紀に記された須佐之男命・神武天皇・日本武尊の御事績にある。この御精神の継承し踏み行ったのが防人たちだったのである。

 防人の歌に限らず萬葉歌は、理論・理屈ではなく、日本人の魂に訴える「歌」によって、日本人の中核精神・伝統信仰・倫理観を今日の我々に教えてくれているのである。まことに有難きことと言わねばならない。また、当時は既に聖徳太子の時代の後であるから仏教がわが国に浸透していたはずであるが、萬葉集全体、特に防人の歌には、崇仏の歌が全く無い。                                    

 

 尊皇愛国・国のために身を捧げることが日本人の道義の基本である。萬葉集とりわけ防人の歌には、日本民族の道義精神・倫理観の中核たる、「天皇仰慕・忠誠の精神」「神への尊敬の思い」「父母への孝行の心」が素直に純真に高らかに歌われている。現代日本の混迷を打開し、道義の頽廃を清め祓い、祖国を再生せしめる方途は、萬葉の精神への回帰にあると確信する。

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千駄木庵日乗一月十日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化須情報』の原稿執筆など。

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2016年1月 9日 (土)

笹川平和財団主催『日本の安全保障のジレンマー日本の進むべき道は何か?』における登壇者の講演内容

九月二十九日に開催された笹川平和財団主催『日本の安全保障のジレンマー日本の進むべき道は何か?』における登壇者の講演内容は次の通り。

インド政策研究センター教授・プラーマ・チェラニー氏「日本で日本について話すのは大きなチャレンジ。日本は近代史において他のアジアの国にインスピレーションを与えて来た。日本が近代のサクセスストーリーになったのは、日本が日清・日露戦争に勝利したことによる。アジアは列強によって植民地になった。日本がロシアに勝ったのは、アジアにとって励みになった。

 

第二次大戦後、日本は復興発展した。付加価値の高い供給を送り出している。日本は非常に豊かな国。一人あたりのGDPは三万九千ドル。日本国民は中国国民より五倍の収入を得ている。二十年の間深刻な経済的苦難に遭ったが、一人あたりの所得は英国より急上昇している。平均寿命も先頭を走っている。近代史の中で日本は輝かしい発展を遂げて来た。日本はアジア最大の民主主義国家。

 

安保環境は急速に変化。日本は四百の島によって形成されている。人口は中国の四分の一。日本は厳しい選択を迫られている。日本は安全保障の能力を高めねばならない。

 

日本は世界がうらやむ歴史を持っている。アジア諸国に経済援助して来た。日本国内の制約で安保上不確実性が高まっている。憲法の縛りを受けた日本。憲法は一回も改正されていない。日本の憲法は安保上厳しい条件が含まれている。日本で国家安保上の動きがあったからと言って日本が平和主義から脱皮するという疑問は誤り。日本自身の力を強化するとともに、アジアの力を強化する。

 

大多数の日本人は自国の憲法を変えることは出来ないと考えている。アメリカは日本における安保政策をサポートしている。日本の自衛隊は洗練されている。イギリス・フランスはアメリカと最も親しい同盟国なのに、この国々は防衛安保をアメリカに頼っていない。日本は平和のための貢献国にならねばならない。安全で競争力のある国になるべし。均衡を生みだすことが必要。

 

陸上・海上の利権の尊重は必要。紛争になったら深刻。既存の領土・海洋の尊重。過去を直視できないとお互いのナショナリズムが出てくる。歴史が将来への障壁になってはならない。過去の虜になり続けるのか。過去が未来を人質にするのか。これがアジアが直面している問題。過去にあまりこだわると平和は来ない。

 

新しい地政学的現実が出て来ている。中国が軍事力をつけて来た事で日本が安保省の備えをしたのは当然。防衛の方が攻撃よりも容易。軍事力が十分の一でも日本は大きな力を発揮できる。非同盟運動は現在でも適切であるかは疑問。インドは多国的同盟にシフトしている。日本も多数との同盟を策することが出来る。日印関係は急成長している。日中印の三国が協力すれば大きな力になる。これがアジア安保にとって重要。

 

集団的自衛権は国連憲章で認められている。日本は行使しないということになっていたが、行使できることとなった。日本が他国他国民と同様に台頭するには、安保を改革しなければならない。それは憲法に関わってくる。日本は軍ではなく自衛隊と呼ばれている。防衛目的の武器を配備するだけでいいのかどうか。世論の反対がある事に日本の政府は怯えている。次のステップが見えてこない。次の動きがどういうものであるかを議論してほしい。憲法のどこの条項を改正するか削除するかを議論すべきだ。日本は何故議論すらしないのか。

 

日本は核武装しても意味がない。戦略的にも軍事的にもナンセンス。新しい技術は二、三十年が賞味期限。しかし核兵器は七十年保っている。サイバースペースが重要になっている。日本はサイバースペースに対して洗練された能力を持っている。日本は攻撃的兵器を持つべきか。防衛的兵器で良いのか。議論すべきだ。アジアは経済の牽引力である。コンテナ輸送の八十五%がアジアを通っている。アジアでは中東のような紛争は起らない」。

 

 

佐藤丙午拓殖大学教授「日本はアジア全体の経済発展において多額の投資をしてきた。アジアへの戦略への強烈なる反省もあった。冷静な計算もあった。アジア諸国と共に安保を考えるという時代になった。インドとの関係をどう構築するかが問題。中国は我々にとって敵ではないが、味方でもない。国際関係においてパワーバランスの変化に注意を払わねばならない」。

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千駄木庵日乗一月九日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。痛みのこっているが、食欲はある。

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆、資料の整理。

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「天皇の祭祀」について

新嘗祭は、宮中においては、大嘗祭を行う年を除いて、毎年陰暦十一月中の卯の日に行われる。その年の新穀を諸神に供え、天皇ご自身も食されると承る。新穀には、皇祖=日の神=天照大御神の霊が籠っている。その稲穂を食されるということは、皇祖の霊威を身に体し、大御神とご一体になられ、御稜威・霊威の更新をはかられる。それが新嘗祭である。天皇は、毎年新嘗祭を繰返されることによって、再生復活され新しい御稜威をおびられるのである。

 

今上天皇が「祭」について詠ませられた御製を掲げさせていただく。

 

昭和三十二年

歌会始御題 ともしび

ともしびの 静かにもゆる 神(しん)()殿(でん) 琴はじきうたふ 声ひくく響く

 

昭和四十五年

新嘗祭

松明(たいまつ)の 火に照らされて すのこの上 歩を進め行く 古(いにしへ)思ひて

 

新嘗の 祭始まりぬ 神嘉殿 ひちきりの音 静かに流る

 

ひちきりの 音と合せて 歌ふ声 しじまの中に 低くたゆたふ

 

歌ふ声 静まりて聞ゆ この時に 告(つげ)(ぶみ)読ます おほどかなる御声(みこえ)

 

 

平成二年

大嘗祭

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ 

 

いかなる時代にあっても日本の伝統文化は、天皇・皇室によって正しく継承されている。皇室におかせられては、今日も、祭祀と和歌という日本伝統の核となるものを正しく継承されている。

 

天地自然に神の命が生きているという信仰が日本の伝統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同体が日本國の本姿である。祭祀主日本天皇をに対し奉り、畏みの心を持つことが、道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する最高の方途である。

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千駄木庵日乗一月八日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。レントゲン検査の結果、肋骨に異常はないとのこと。痛みも和らいでいるようである。しかしそれは薬の服用によるものという。副作用がなければいいが…。食欲はある。

帰宅後も、資料の整理。

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2016年1月 8日 (金)

自然の中に神の命を拝ろがむ心、祖先の霊を尊ぶ心が日本人の基本的信仰精神

日本人の伝統信仰において祭られる神は、自然に宿る神と祖霊神であった。日本人の信仰の基本は「敬神崇祖」と言われる。「敬神」とは自然に宿る神を敬う事であり、「崇祖」とは祖霊を崇めることである。

 

わが國の神々は、天津神、國津神、八百萬の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。わが國伝統信仰は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一体となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。

 

その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。

 

自然を大切にし自然の中に神の命を拝ろがむ心、そして祖先を尊ぶ心が日本人の基本精神である。それはきわめて自然で自由で大らかな精神である。

 

今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。我が民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。

 

さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。

 

わが國の麗しい山河、かけがえのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。我が國は神話時代(神代)以来の伝統精神すなわち日本國民の歩むべき道がある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。

 

わが國の伝統信仰における最も大切な行事は祭祀である。祭祀は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の實践である。

 

天皇は日本国の祭祀主として、新嘗祭、春季皇霊祭、秋季皇霊祭などの多くの祭祀を行わせられている。そしてその祭祀は、自然に宿る神々と皇祖皇宗のご神霊へのお祭りである。天皇は、敬神崇祖の最高の実践者であらせられるのである。

 

祭祀は、自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。日本伝統精神の価値は今日まことに大切なものとなっている。天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家の本姿を回復することが現代の救済につながる。

 

天地自然に神の命が生きているという信仰が日本の伝統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同体が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する唯一の方途である。

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千駄木庵日乗一月七日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

施設から電話があり、母が脇腹に強い痛みを訴えたので、病院に行ったとのこと。施設に赴き、病院から帰りベッドに横たわる母に会う。体を動かすと痛みを訴える。共に過ごす。夕食の介助。施設職員の話によると、朝起床した時から痛みを訴えたという。肋骨を痛めた可能性があるという。どうしてこんなことになったのであろう。明日もう一回病院に行き精密検査を受けるとのこと。一昨年の暮れも、寝室で転倒し、左手を痛めた。心配なり。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事。

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2016年1月 6日 (水)

満洲事変は日本による「中國侵略」ではない

 

安倍晋三総理は『終戦七十年談話』で、「満洲事変、そして國際連盟からの脱退。日本は、次第に、國際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい國際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」といふ見解を示した。

 

「昭和六年に起こった満洲事変は、十五年に及ぶ日中戦争の発端となった」「十五年にわたる支那への侵略戦争の開始が満州事変だった」といふ見方が定説になってゐるやうである。

 

「支那への侵略」とは、もともと支那人が居住してゐた土地を侵略したことを言ふ。しかし満洲は支那・中國ではなかったし満洲は独立主権國家ではなかった。満洲は、諸民族が混在する無主の地であった。従って、満洲事変は日本による「中國侵略」ではない。

 

満洲は元来、満洲民族など北方民族の住む土地であった。『後漢書東夷伝』(支那の後漢朝について書かれた歴史書)に「九夷」(漢民族が東方にあると考へた九つの野蛮国)ことが書かれてゐるが、朝鮮・満洲・日本がその中に入ってゐる。満洲は支那にとっては朝鮮・日本と同じく「東夷」であり「中華」ではないのである。

 

満州はもともと支那人が居住してゐた所ではない。その証拠が「万里の長城」である。支那大陸を初めて統一した秦の始皇帝は、満州や蒙古に住む民族が支那に侵入して来るのを防ぐため、三海関から西域地方まで六千四百キロの巨大な壁を作った。つまり、満州は蒙古と同様、支那人(漢民族)の居住地でも支配地でもなかったのだ。

 

満州族の清朝政府も、支那人が満州に移住するのを禁止し、自分たちの故郷に異民族たる漢民族が侵入するのを防いだ。

 

萬里の長城の内と外とは有史以来、敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那ではない。したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那を侵略したことにはならない。

 

満洲人は十七世紀初頭、萬里の長城を越えて支那大陸を征服した。清朝は支那大陸(萬里の長城の内側)への征服王朝であり、満洲は漢民族の地ではない。清朝時代の支那は、清によって征服された植民地だったのである。満洲族の清朝が漢民族の住む支那全土を支配したことによって、満洲が支那の一部になったわけでは決してない。

 

一九○五年八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人に対する蔑称)を追ひ払ひ、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。

革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じやうな異民族と断じた。満洲を外地・外國と考へてゐた。日本人に対して孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

明治四四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行はれた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲はまさに化外の地であった。孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考へてゐなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命してゐた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるといふのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだらうか。

 

従って、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならなかったのである。満州事変は断じて日本の侵略ではない。

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千駄木庵日乗一月六日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事。

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2016年1月 5日 (火)

歴史戦勝利への道

大東亜戦争は侵略戦争ではない。その目的においても實際の戦争においてもそして結果においても、自存自衛の戦ひであり、東亜解放の戦ひであった。

 

世界の中で、政府及び國会が、自國の歴史を侵略の歴史であったと表明した國はわが國のみである。

 

戦争犯罪の最たるものは非戦闘員を大量に虐殺した広島、長崎の原爆投下であり東京大空襲である。

 

わが國に対してのみ「植民地経営・帝國主義の糾弾」が行はれてゐるが、チベット・内モンゴル・東トルキスタンを見てもわかるやうに、歴史問題でわが國に謝罪しろと執拗に迫ってきてゐる共産支那こそ、帝國主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行ってゐる。

 

日本は、もっと積極的に大東亜戦争の正当性を明らかにすべきである。日本侵略國家論に対して思想的な反撃を大々的に展開すべきである。

 

大東亜戦争の歴史を考へる時、「鬼畜米英」といふ言葉は決して大げさではなかったと思ふ。アメリカは、日本の主要都市に爆撃へ敢行し、無辜の民を殺戮した。原爆二発の投下は、広島大虐殺・長崎大虐殺である。また、旧ソ連の侵略体質・火事場泥棒体質も許し難い。旧ソ連は日露戦争の敗北を恨みに思ひ、終戦直前に日本に対して侵略を開始し、南樺太全千島を奪ひ、多くの無辜の日本人をロシアに連行し死地に追ひやった。

 

アメリカ及びロシアのやったことは、文字通り「鬼畜の所業」であった。「鬼畜米露」といふ事になる。

 

「戦後」といふ言葉は何時まで続くのであらうか。日本が米英支蘇四國に対しその『共同宣言』を受け入れてからすでに七十年以上経過してゐる。戦後とは敗戦後といふことであり、屈辱的な時代といふ事だ。「戦後」といふ言葉はさういふ意味で陰鬱な響きを持ってゐる。我々はもういい加減に「戦後何年」といふ言葉を使ふのを止めるべきである。

 

私たち日本人は、「終戦以来何年たった」といふ事を意識することはもう止めにして、「開戦以来何年たったか」を意識すべきではなかろうか。

 

日本の行った大東亜戦争即ち満洲事変から日米戦争までの戦ひは、自存自衛・東亜解放の正義の戦ひであったことを國際社會に認めさせなければ、本当の歴史問題の解決にはならない。

 

今年は、開戦以来七十五年である。その事に思ひを致し、民族の誇りを取り戻すべきである。

 

パール判事は、「時が熱狂と偏見とをやはらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変へることを要求するであらう」と、判決文の最後に書いた。

にもかかはらず、日本國民自身が、戦後七十一年を経過した今日においても、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでゐる。

 

明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦ひ即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦ひの延長であった。このことをわが國民は正しく認識し理解し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。それこそが「歴史戦勝利への道」である。

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千駄木庵日乗一月五日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事など。

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満洲事変について

「昭和六年に起こった満洲事変は、十五年に及ぶ日中戦争の発端となった」「十五年にわたる支那への侵略戦争の開始が満州事変だった」と言ふのが定説になってゐる。

 

 

 

侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪ひ取ること」と定義される。満洲は支那・中國ではないし満洲は独立主権國家ではなかった。満洲は、諸民族が混在する無主の地であった。従って、満洲事変は日本による「中國侵略」ではない。 

 

 

 

もともと満洲は満洲民族など北方民族の住む土地であった。『後漢書東夷伝』に、九夷ということが書かれているが、朝鮮・満洲・日本がその中に入っている。満洲は支那にとっては朝鮮・日本と同じく「東夷」であり「中華」ではないのである。萬里の長城の内と外とは有史以来、敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那・中國ではない。したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならない。満洲人は一七世紀初頭、萬里の長城を越えて支那大陸を征服した。清朝は支那大陸(萬里の長城の内側)への征服王朝であり、満洲は漢民族の地ではない。

 

 

 

一九○五年八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人に対する蔑称)を追い払い、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。         

 

 

 

革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じような異民族と断じた。満洲を外地・外國と考えていた。日本人に対しては孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

 

 

明治四四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行われた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲は正に化外の地であった。それは日本統治下に入る以前の台湾と同じである。孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考えていなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命していた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだろうか。

 

 

 

したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならないのである。

 

 

 

わが國軍民は満洲事変が起こる以前から『ポーツマス条約』に基づいて合法的に満洲に在留していたのだし、満洲事変によって満洲の土地・財物を不当不法に奪取していないのだからそれは当然である。それどころか日本軍によって満洲の治安が回復したのである。

 

 

 

また、満洲事変は自存自衛のための作戦行動である。満洲事変の結果、五族協和・王道楽土の理想國家が建國され、満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらし、かつ、ソ連の南下・侵略を食い止めた。まさに、自存・自衛の戦略に基づいて、満洲の独立・建國を日本が主導して実現させたのが満洲事変である。

 

 

 

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千駄木庵日乗一月四日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆など。

この後、施設に赴き母と過ごす。機嫌良し。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2016年1月 4日 (月)

旅で詠みし歌

眠らんとすれば潮騒の音聞こえ来て子守唄のごときその響きかな

 

一人して海辺の宿にくつろげば眠りへといざなふ潮騒の音

 

久方ぶりに日本海を眺めつつ元旦の朝を迎へたるかな

 

広らけき日本海を眺めつつ海岸に建てば潮風の吹く

 

潮風の吹き来る岸に朝立ちて静かなる海を眺めゐるかな

 

テトラボットに砕ける白き波眺め 永久に止まらざる時を思へり

 

大社(おほやしろ)太しく建てる出雲の國 新しき年の息吹満ち満つ

 

あまたの人参り来れるみあらかは大国主の大神の宮

 

出雲なる大きみやしろを仰ぎつつ日の本の国の榮えを祈る

 

宮柱太しく建てるみあらかを仰げば心もなごみたるかな

 

新しき年を迎へし今日の朝 大国主の大神を拝す

 

大国魂大国主の大神を拝ろがみまつる元旦の朝

 

大国主の大神様の広らけくあたたかき御稜威を畏みまつる

 

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千駄木庵日乗一月三日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

東都北鎮・根津神社に初詣。多くの人々が行列していた。近年、初詣をする人々が増えてきているようである。

この後、施設に赴き、母と過ごす。三日ぶりなれど元気なり。母から叱咤激励をいただく。有り難し。

夕刻、地元の友人氏懇談。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事。

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2016年1月 2日 (土)

ご挨拶

皆様、新年あけましておめでとうございます。

皇國の彌榮を心より祈念し奉ります。

今年は、出雲大社に初詣をしてまいりました。

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