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2015年12月27日 (日)

『壬申の乱』について

 大海人皇子(後の天武天皇)は、天智天皇の御代に皇太弟であられた。しかし天智天皇には大友皇子といふ皇子がおられた。大友皇子は太政大臣の地位につかれた。

 

 『日本書紀』によると、天智天皇は天智天皇十年(西暦六七一)十月に崩御される二十日ほど前に、皇太子であられた大海人皇子を枕許に呼ばれて、「皇位を譲りたい」と仰せられた。そこで大海人皇子は、「天の下を挙げて皇后(倭姫)を附けさせたまへ。なほ、大友皇子を立てて、よろしく儲君(もうけのきみ・皇太子)としたまふべし」」と申し上げ、「私は出家して修道する」(皇后に皇位を継いで頂き大友皇子を摂政にしてほしい)と申し上げる。天智天皇はそれを許されお引き止めにならなかった。そして大海人皇子はすぐに剃髪されて吉野に向はれる。この時には鵜野皇女(後の持統天皇)と僅かな舎人がお供をした。ある人は大海人皇子が近江の都から吉野へ行かれることを「虎に翼を着けて放った」と言ったといふ。

 

 天智天皇が崩御され、大友皇子(弘文天皇)が皇位を継承された七ヵ月後に、天武天皇は吉野から兵を挙げられて近江朝廷を滅ぼされる。これを「壬申の乱」といふ。近江朝廷側が兵を準備して吉野におられた大海人皇子を攻めようとしたので大海人皇子が立ち上がられたと『日本書紀』には記されてゐる。

 

 「壬申の乱」は萬葉時代の最大の事件であり、初期萬葉はこの「壬申の乱」をテーマにした歌が多い。萬葉集は決して平和な時代の太平楽な歌集ではない。

            

 この頃は必ずしも長子が皇位を継承されるという決まりごとはまだ無かった。天皇の弟君や皇后などが皇位を継承される場合があった。

 

 大化改新の後に、天智天皇が、神武天皇が神の御託宣によって都を開かれて以来都が置かれゐた地である大和から近江に都を遷し、支那風の法律・行政制度を取り入れたことに対する反発は非常に大きかった。これが大海人皇子によって近江朝廷が滅ぼされた最も大きな原因であるといふ説がある。

 

大海人皇子は吉野に籠られた時に祭祀をされる。そして伊勢の神宮を遥拝して近江朝廷を攻められた。そして天孫降臨以来の皇臣である大伴氏も大海人皇子に従ふ。そして近江朝廷が滅びると都はすぐに明日香清御原宮に遷された。

 

 萬葉時代の人々が如何に大和地方の重要性を認識してゐたかは、萬葉集の巻一の歌の配列を眼光紙背に徹して読むとよく分かる。巻一冒頭の歌は、雄略天皇の御製で、「そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ…」(そらみつ大和の國はことごとく私が統べゐる國だ、すみずみまで私が治めてゐる國だ…」と歌はれており、大和の國は天皇が統治される國であることを高らかに歌ひあげられてゐる。第二首目は、舒明天皇の國見歌で、「うまし國ぞ あきづ島 大和の國は」(本当に結構な國だあきづ島大和の國は)と歌はれて、大和の國を讃へられてゐる。

 

 萬葉集巻一の編者は大和の國は大切な國であり、大和の國を捨てて近江に遷都したことへの批判が強かったことをそれとなく訴へてゐるように思へる。

 

 「壬申の乱」とは単なる皇位継承争ひ・権力闘争ではなく、もっと深いわが國の伝統信仰に関はる問題があったとされる。神話の世界・古墳時代からの伝統を守ることと律令國家建設・天皇中心の中央集権國家建設の矛盾の中から起こった悲劇が「壬申の乱」である。

 

 天武天皇の御命令によって編纂された『日本書紀』には、大伴皇子即ち弘文天皇の御即位の事は記されてゐない。平安時代の『扶桑略記』『大鏡』などが大友皇子の御即位を認め、江戸時代の『大日本史』において定説となった。そして明治三年(一八七〇)七月二三日に、大友皇子は、第三十九代・弘文天皇と追諡(ついし・おくりなのこと)された。

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