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2015年12月13日 (日)

『MOMAT コレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示』を参観して

昨日参観した『MOMAT コレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示』は「戦後70年にあたる今年は、 4階、3階の2フロア、約1500㎡を使い、所蔵する藤田嗣治の全作品25点と特別出品の1点、計26点を展示します。特に戦争画14点の一挙展示は初の機会です。藤田が監督をつとめた貴重な映画もギャラリー内で常時上映します。藤田旧蔵の挿絵本や、藤田の言葉を伝える当時の雑誌なども加え、藤田のしごとをさまざまな側面からご紹介します。1920年代、パリで成功を収めた理由は何だったのか。なぜ日本に戻り、戦争画を制作したのか。戦後フランスに渡り、何を考えていたのか。藤田をめぐるさまざまな問いは、いまもわたしたちに未解決のまま残されています。この秋、藤田の魅力/魔力と『MOMATコレクション』の底力をどうぞ感じてください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

藤田嗣治が描いた《自画像》1929年、《猫》1940年、《アッツ島玉砕》1943年、《サイパン島同胞臣節を全うす》1945年、《ソロモン海域における米兵の末路》1963年、《十二月八日の真珠湾》1942、《シンガポール最後の日》1942、《血戦ガダルカナル》1944、《神兵の救出到る》1944、などを参観。何とも凄まじい絵ばかりであった。

わが国における「戦争画」とは、特に、支那事変期から大東亜戦争期に、陸海軍の委嘱により画家たちが描いた絵画のことを指すという。戦争画とは言っても、藤田嗣治のそれは、戦争をただ賛美しているのではない。恐ろしさ、むごさを強調して表現しているように見えた。

 

あの美しくも魅惑的な乳白色の美人画や、猫を描いた絵、そして晩年に描いた可愛らしいフランスの子供たちを描いた絵とは全く異なるものであった。一体藤田嗣治はどういう心境で戦争画を描いたのであろうか。軍に協力したというのなら、これほどまでにむごたらしい作品にならなかったと思うのだが。なんとも不思議である。戦時下に、藤田の戦争画を見た人は感動した。《アッツ島玉砕》という作品の前では、戦死した人々を慰霊する心を表白してお賽銭を供え,涙を流して拝む人々がいた。これを見た藤田は深く感動したという。宗教画ではないのに、それほどまでに人を感動させた絵画はあまりないと思う。藤田の戦争画はそれだけ価値のある作品なのである。私も絵の前に立ちつくし、国の為に身命を捧げた人々の御霊に頭を垂れた。

 

戦後の昭和二十一年、アメリカ進駐軍は戦争画150点あまりを接収し、二六年、講和発効の直前に、作品をアメリカに運び出した。昭和三十六年、「日米修好100年」を機に日本国内で戦争画返還を求める声が高まり、外交交渉の末、昭和四五年、作品は「永久貸与」の形で日本に戻ってきたという。以来、東京国立近代美術館が保管している。

 

藤田嗣治は、終戦後、「戦争責任」なるもの追及され、画壇の一部から「責任を負ってくれ」と強要されたという。嫌気がさした藤田はフランスに行き、亡くなるまで祖国に帰ることはなかった。

 

小生がご指導を受けた作家・中河与一氏も、戦後文壇から「戦争協力者」として指弾を受け、文壇から追放された。その中河氏は、藤田嗣治と若い頃からの親友であった。フランスに藤田を訪ねて行ったこともある。『天の夕顔』『萬葉の精神』『愛恋無限』という中河氏の文藝作品も多くの人々に感動を与えた。藤田と中河はよく似た境遇であったと言えよう。中河幹子夫人は小生に、「うちの人も画家だったら、フランスへ行くという事も出来たかもしれないが、小説家はそうはいかなかった」と語っていたこと思い出す。

 

 

 

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