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2015年11月26日 (木)

武士道の淵源

  日本神話は「神名」に重要なる意義がある。須佐之男命のスサは、勇み進む・荒む意とされる。

須佐之男命の御歌

  「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」

  (おびただしい雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を  造る。ああその八重垣よ)                      

 この御歌は、高志の八俣遠呂知(八岐大蛇)を退治されて櫛名田比売を助け、ともに住まわれる須賀の宮を造られた折り、雲が立ちのぼったので詠まれた歌。須佐之男命こそ、日本の武士の祖であり無類の勇者にして無類の詩人にまします。

  この須佐之男命の御精神を受け継がれた方が景行天皇の皇子・日本武尊である。日本武尊をして焼津での難を乗り越えられしめた剣は、須佐之男命が八岐の大蛇から得られた神剣(草薙の劔)であった。もののふのこころ・ますらをぶりとは、清明心と表裏一體の精神であり、天皇のため國のためにわが身を捧げるという「捨身無我」の雄々し精神でもある。その精神の体現者が日本武尊であらせられる。「たけるのみこと」とは猛々しさを表す御名である。

  こうした戦闘的恬澹・捨身無我の精神は後世の武士にも強く生かされる。日本武尊は、武士道精神・日本倫理思想の祖であらせられる。

日本武尊御歌

  「孃女(おとめ)の 床の辺(へ)に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや」      (乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ)

 これは、日本武尊は天皇の命により九州の熊襲建を平定して大和に帰られるが、さらに東國平定を命令され、それを終えた帰りに、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)に、叔母君であった倭姫命から授けられた草薙の劔を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市という)で急病になった時の辞世の御歌である。愛する美夜受姫に預けた守護霊たる神剣から離れていく自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。慎みの欠如・傲慢さから剣を置いて素手でも勝てるといって出発したのが間違いのもとという神話傳説である。この御歌は乙女への愛と武の心が渾然一體となっている。そしてその奥に天皇への戀闕の心がある。日本武尊の悲劇の根本にあるのは、武人の悲劇である。神との同居を失い、神を畏れなくなった日、神を失って行く一時期の悲劇である。

  これらの歌には、恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和して現れている。この精神こそ、戦いにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性で、日本武士道の本源となっている。これを「剣魂歌心」という。日本武尊は、上代日本の武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた。日本の英雄は歌を愛した。ますらをぶりは優美さを否定するものではない。

  新渡戸稲造氏は、吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、國民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。新渡戸稲造氏はさらに、「(注武士道」については)精々口傳により、もしくは数人の有名なる武士や學者の筆によって傳えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる立法たることが多い。不言不文であるだけ、實行によって一層強き効力が認められているのである。……道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じであろう。」(『武士道』)と論じている。

  日本武士道の教義書はないが、新渡戸稲造氏の言う「心の肉碑」=日本人の魂の奥底の思いを表白する文藝である「和歌」によってもののふの心が傳えられてきた。萬葉歌は飛鳥奈良時代のもののふの道=武士道を傳えている。

  理論・理屈を好まない日本人らしい道徳律が武士道なのである。日本の傳統の根幹たる和歌も祭祀もそして武道も理論・理屈ではない。「道」であり「行い」である。そして一つの形式・「型」を大切にし「型」を學ぶことによって傳承される。學ぶとはまねぶである。理論理屈ではないがゆえに「道」(歌道・武道・茶道・華道)という。

  そして武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は封建時代において國民の道義の標準を立て、自己の模範によって民衆を指導した。義経記・曽我兄弟の物語・忠臣蔵などの民衆娯楽の芝居・講談・浄瑠璃(平曲・謡曲から発した音曲。語り物)小説などがその主題を武士の物語から取った。明治維新の志士たちの歌も近代日本の武士道教育の手本となった。

  和歌などの藝術によって武士道が継承され教育されたことは、武士道が情感・感性によって継承され實行されてきた「道」であり、理知によって継承されてきた教条や独善的観念體系(イデオロギー)ではないということを証しする。

  武士は、日本國民の善き理想となった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが國の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。
神武天皇の武の御精神

  「ますらをぶり」とは、日本民族の基本的道義精神である「清明心」は、一度戦闘となれば神武天皇御製に歌われたような「そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ」という雄々しさ・勇気・戦闘心となる。                        

神武天皇御製 

 

  「みつみつし 久米の子らが 粟生(あはふ)には 臭韮一茎(かみらひともと) そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ」(威勢のよい久米の人々の、粟の畑には臭い韮が一本生えて いる。その根のもとに、その芽をくっつけて、やっつけてしまうぞ)

 

 九州日向(宮崎)の美々津の浜を出発され、十年かかって橿原の地に至り、建國を宣言された。反抗した長髄彦を討たれる際に、皇軍を激励して詠まれた御歌である。烈々の攻撃精神が充満している。天皇の大御心は「和」「仁慈」だけではない。剣の精神・戦いの精神もあった。上御一人日本天皇はもののふの道の體現者であらせられた。

 

  ただし、神武天皇の御東征の御精神は、『日本書紀』に「…神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮(ゐやま)ひ祭(いは)ひて、日の神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひたてまつりて、影(みかげ)のままに壓躡(おそひふ)まむには。かからば則ち曾て刃に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自らに敗れなむ…」と記されている。御東征の戦いは神を祭り、神の霊威を背負い神の御心のままの戦いであり武であった。故に武は神武であり、剣は神剣であり、戦いは聖戦となるのである。

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