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2015年11月 3日 (火)

古代日本人の霊魂観・死生観と大津皇子の辞世の御歌

「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱(がく)りなむ」

 

 大津皇子が、持統天皇より死を賜った時の辞世の御歌である。大津皇子は、天武天皇第三皇子。母君は天智天皇の皇女・大田皇女(持統天皇の同母姉君)。天武天皇崩御後二十五日目の、朱鳥元年(六八六)十月三日、皇位を窺ったといふ御謀反の罪によって処刑された。御年二十四歳。御年十歳にして壬申の乱で天智天皇のお供をした。大田皇女の薨去後、天智天皇に非常に愛されたと伝へられる。風貌たくましく音吐朗々として才学があり、文筆を愛し、弁舌もすぐれ、学問も好み、詩賦には大津皇子から起こったと『日本書紀』は記してゐる。

 

 『懐風藻』によると、多力にして剣を撃つことにも秀で、性放逸、人士と見れば身を低くして礼遇したため、諸人の支持が厚かったが、たまたま占星をよくする新羅僧行心といふ者に、臣下で終わる骨相ではないといって謀反を勧められ、ついにその身を誤ったといふ。

 

 「磐余の池」とは奈良県桜井市の西南部、天香具山の東北一帯にあった池といはれる。「般(つつみ)」は「堤」と同じ。「ももづたふ」は、「磐余」に掛る枕詞。「つぬさはふ」(同じく「磐余」に掛る枕詞)が正しいのではないかといふ説がある。「鴨」は、水鳥。種類がきはめて多い。夫婦仲の良い鳥とされる。「今日のみ見てや」は、今日を限りの見納めとして。「雲隱りなむ」は、死んでしまふことだなあといふ意。雲は人の霊魂を運ぶといふ信仰があった。「雲に隠れる」とは死ぬこと。人間の霊魂は死んだら雲になると信じた。

日本武尊は薨去される時、「はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も」(懐かしいわが家の方から雲が立ち上って来るよ)と歌はれた。すでに自分の魂は自分の家の方には帰ってゐると歌ったのである。

 

 柿本人麻呂が、溺れ死にした出雲娘子が火葬されたときの挽歌に、「山のまゆ 出雲の兒らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく」といふのがある。火葬のときの煙を見て、出雲娘子は霧になって天に昇っていったと歌った。「萬葉集」初期の頃に、火葬が始まった。

 

 雲に隠れるといふのは、自分の生命は死んだら雲の中に隠れて永遠の生命を保つといふ信仰である。自然の中に霊魂・精霊が宿るといふ信仰である。この世からいなくなるのは幽(かく)り世に行くことなのである。

 

 通釈は、「(ももづたふ)磐余の池に鳴いてゐる鴨を今日を限りの見納めとして死んで行くのであるなあ」といふ意。

 

 『懐風藻』には、大津皇子の辞世の漢詩として「金烏臨西舎、鼓声催短命、泉路無賓主、今夕誰家向」(金烏西舎に臨(のぞ)み、鼓声短命をうながす、泉路(せんろ)賓主(ひんしゅ)無し、この夕べ誰か家にか向かふ。太陽は西に傾き、命を刻む鼓の音、出迎へる人の無しといふ、この夕べあの世は何処こにあるのか、といふ意)が収められてゐる。

 

 大津皇子が処刑されに行く途上で、鴨の番(つがひ)を見て見納めとするといふの御歌。磐余の池に泳いでゐる鴨の番ひを見て見納めとするといふことは、愛する妻とご自分との別れを歌ってをられるのではないかといふ推測も生まれる。全生涯をこの一瞬に凝縮させてゐるといへる。

                               

 鳥は人間の魂を運ぶ鳥とされた。肉体を自由に離れる霊魂を象徴する動物である。日本武尊は薨去されたあと白鳥となって故郷の大和へ帰られる。それが人間の精神的自由の象徴ともなった。

 

 鴨といふ水鳥を「見る」といふことは、その鳥の持ってゐる生命力を自分のものにしたいなあといふ心があるといふことである。即ち、処刑される自分が今日を限りの見納めとして鳴く水鳥を見てその生命力を自分の身に付けて永遠の生命としたいといふ切なる願望を歌ったのである。

                           

 「見る」とは、単に視覚的の見るといふだけではない。天皇の「国見」も、単に国土の景色を視覚的に眺めるといふことではなく、国土の豊饒を祝福し祈るといふ意義がある。「見る」ことによって生命力が感染し自分の生命力が強化するといふ深い信仰心が込められてゐる。「見る」とはお互ひの魂の結合を感じるといふ意味も込められる。柿本人麻呂の旅の歌に「天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ戀ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ」がある。これも単に大和の景色が見えるといふのではなく、人麻呂の故郷である懐かしい大和の国の明石海峡から見えたなあといふ大和の国と人麻呂との魂的一体感・結合感を歌ったのである。

 

 鴨の姿は毎年見慣れてゐる。しかしもうすぐ黄泉路へ行く大津皇子にとって鴨を見ることは格別の感慨を抱かせたのである。

 

 大津皇子の妃であられる山辺皇女(天智天皇皇女)は、大津皇子が処刑されたとき、髪を振り乱して素足で刑場に走り行き殉死され、多くの人々が嘆いたといふ。

 

 天武天皇が崩御されて二十五日目に御謀反が発覚し、その翌日に処刑されたといふことは、それ以前から大津皇子を亡きものにしやうといふ計画があったといふ説がある。

 

 天武天皇には十人の皇子がをられた。草壁皇太子の一歳下の弟君が大津皇子であらせられる。天武天皇は、草壁皇子を皇太子とされたが、その一方、大津皇子は朝廷の政を聴かれる立場に立つやうにされた。しかし、天武天皇崩御の際、十人の皇子を枕頭呼ばれたとき、草壁皇子が代表されて天武天皇に対し奉り、「私たちは、腹違ひではありますが、ともに助け合ってまいります」といふ意味のことをお誓ひ申し上げた。天皇は、天下のまつりごとは大小を問はず皇后と皇太子に任せろといふ「詔」を出された。

 

 「今日のみ見てや 雲隱りなむ」は、今日を最後にして生涯を終へやうといふ意味である。この世と決別する自分のご生涯への追憶と共に、死に直面しても凜然たる矜持を持ってをられる。深い悲しみはあるが、慌てふためいてをられる御様子は微塵もない。さういふしらべがこの御歌にはある。大きな悲しみとともに決意と雄々しささへ感じられる歌である。

 

 切迫した歌ではあるが死を自明のこととして強く受け止めてゐる歌。萬葉挽歌の中でも傑作中の傑作といはれる。

 

 この御歌も漢詩も、悲しみ深いものがあるが、大津皇子がご自分の運命を泰然として受け入れられる潔さに胸を打たれる。

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