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2015年11月 8日 (日)

わが国と支那の国柄の違い

わが國は、「葦原中國(あしはらなかつくに)」即ち「中國」なのである。山鹿素行の『中朝事實』という著書がある。これは徳川時代初期に著されたもので、「日本は神國なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。

 

平泉澄氏は次のように論じている。「山鹿素行先生は…日本こそ他國にすぐれたる國であり、正しく中華といひ、中國といひ、中朝といふべき國であるとして、ここに日本の歴史を述べて、これに題して中朝事實といはれたのであります。…中朝事實こそは、長く外國の學問に耽り、外國の思想に惑ひたる後に、一朝目覺めて日本を發見し、日本の偉大に驚歎し、ここに眞の學問として日本學を樹立組織せんとしたる先哲の偉大なる足跡といふべきであります」(『日本學叢書 中朝事實』解説)と。

 

山鹿素行は我が日本こそ文化概念としての「中國」であって、支那は「中國」にあらずとの前提に立っている。『中朝事實』には「皇祖高皇産霊尊、遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵命を立てて、葦原中國の主(きみ)と爲さんと欲(おぼ)す。…是れ、本朝を以て、中國と爲すの謂(いひ)なり」「本朝の 神代、既に 天御中主尊有り、二神(ふたはしらのおほんかみ)國の中の柱(みはしら)を建つれば、則ち、本朝の中國たるや、天地自然の勢なり」と記されている。 

 

支那大陸では色々な民族が混在したり融合したりして来たし、種々の國が相次いで興亡を繰り返してきた。それはヨーロッパにおいてギリシアやローマが相次ぎ、種々の民族が混在したり融合して来たのと同じである。

 

和辻哲郎氏は「同じシナの地域に起こった國であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝國と神聖ローマ帝國と近代ヨーロッパ諸國とが相違するほどに相違している…ヨーロッパに永い間ラテン語が文章語として行われていたからと言って、直ちにそれがローマ文化の一貫した存続を意味するのではないように、古代シナの古典が引き続いて読まれ、古い漢文が引き続いて用いられてきたからと言って、直ちに先秦文化や漢文化の一貫した存続を言うことはできない。」(孔子)と論じられている。

 

支那大陸を統一したといわれる秦、そしてそのあとの漢の大帝國も、人倫を喪失した権力機構なのであり、「天子」と言われる君主も實質は権力者・覇者であって、支那大陸の王朝はわが日本のような天皇を中心にした同一の文化と信仰と傳統をもって統一され継承された信仰共同體・人倫國家ではなかった。強いもの勝ちの覇道(権力・武力・経済力・権謀術数の力)が支那を制して来たのである。またそうした覇道でなければあの広大な大陸を統一できなかった。

 

従って支那大陸に生活する人々は親子・夫婦・兄弟といった家族関係即ち血縁共同體たる「家」を大切にしても、國家観念はきわめて希薄であった。支那の古典『十八史略』に「日出て作り、日入りて息ふ、井を鑿りて飲み、田を耕して食ふ。帝力我に何かあらむや」という言葉があるのでも分かる通り、支那大陸に住む人々の生活は家を中心としていて國家の保護や干渉は否定していたのである。それだけ権力者が好き勝手は事をして民衆を苦しめてきたということである。それは今日の共産政権も同じである。

 

要するに支那大陸は様々な氏族が覇を競い様々な王朝が興亡を繰り返した来た地域であって、全體が一貫した文化傳統を有する統一した國家ではあったことはなかった。天皇を中心に時間的連続性地域的統一性を連綿として維持し続けてきた信仰共同體國家たるわが日本とは、全くその性格を異にする地域が支那なのである。

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