« 千駄木庵日乗十一月二十八日 | トップページ | 千駄木庵日乗十一月二十九日 »

2015年11月28日 (土)

<天皇尊崇の心・現御神信仰>の回復こそ日本の道義的再生の道

「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に いほらせるかも」

 

柿本朝臣人麻呂

 

 

 柿本朝臣人麻呂は『萬葉集』の代表歌人にして和歌史上屈指の歌人。生没年未詳。持統天皇の御代に活躍。「大君は神であられるので、天雲の雷の上に仮の廬を結んでおられることだ」というほどの意。持統天皇が雷の丘にお出ましになった時に、人麻呂が現御神信仰(天皇は現実にあらわれたもうた神という信仰)を高らかにうたいあげた歌。

 

 「雷の丘」は奈良県高市郡明日香村にある雷神が祭られている丘。雷神が住んでいたという伝説のある神の山・聖なる山である。「いかづち」とは「厳槌」の義で、雷鳴は神が巨大な槌を転ばす音であると信じられた。「いほらせるかも」とは、直訳すれば「仮の庵を結ぶ」意であるが、この歌の場合は、天皇が祭り主として聖なる神の山・雷の丘で國見をされ祭事を齋行されることをいう。つまり、「いほり」とは中世の「庵」とは違って「齋」(いつき・斎戒<心身を清めて言行・飲食などの行為をつつしむこと>して神をまつること)の意味である。雷の丘に離宮があったともいわれている。

 

 「國見」とは、単に國土を望見されるというのではなく、天皇が國土を眺望され國土の繁栄と五穀の豊饒を祈る祭祀儀礼であり、天皇が國見をされることにより國土は新生する。古代人にとって「見る」とは魂の結合を意味した。

 

 この歌は、「聖なる山の上でまつりごとをされる天皇は、この世における神であられ、あらゆる神霊を従えたもう御稜威(神聖なる霊的威力)輝く御存在である」といふ現御神信仰即ち天皇信仰を歌っている。この信仰は人麻呂個人のものではなく、萬葉人即ち古代日本人に共通する信仰であった。神を祭られる天皇はこの世における神であるというのが日本人の現御神信仰である。

 

 また、自然を神として拝んだ古代日本人は「雷」も神として仰いだ。それが後世の天神(菅原道真の御霊を祭った神社)信仰につながる。「神」という漢字は、祭りの対象の意味を表す「示」(神への捧げ物を置く台の象形文字)と、音を表す「申」(稲光の象形文字)とからなる形声字である。つまり、古代支那においても、雷を天の神と考えたのである。

 

 人麻呂はまた別の歌で「やすみしし わが大君 高光る 日の御子」と歌っている。「四方八方をやすらけく御統治あそばされるわが大君、高く光る日の神の御子」というほどの意で、天皇は天照大神の御子という信仰を高らかにうたいあげている。

 

 天皇を「日の御子」「天津日嗣日本天皇」と申し上げるのは、天皇が日の神の御神威を継承して日本國を統治されるお方であるということである。そして、天皇は血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するのであるが、信仰上は御歴代の天皇お一方お一方が天照大神の「生みの子」であらせられる。皇祖・天照大神との御関係は、邇邇藝命・神武天皇・今上天皇も同一である。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

 この尊い事実を會澤正志斎は、「神州は太陽の出ずる所、元気の始まる所にして、天日の之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず」(新論)と言ったのである。日蓮も「日本國の王となる人は天照大神の御魂の入代らせ給ふ王なり」(高橋入道殿御返事)と言っている。現御神信仰・現人神信仰は決して近代日本において人為的オロギーとして作られたものではないのである。   

 

 日本の神々の中で最尊・最貴の神と仰がれる天照大神の御子であられる日本天皇は、雨の神・雷神などの自然神を従えられる御存在であるというのが萬葉人以来の日本人の信仰であった。

 

 昭和天皇は、昭和三十五年に「さしのぼる朝日の光りへだてなく世を照らさむぞわがねがひなる」と歌われ、同三十四年には「あなうれし神のみ前に日の御子のいもせの契り結ぶこの朝」と詠ませられている。この二首の御製は天皇および皇太子は「天照大神の生みの子」即ち「日の御子」であるという御自覚を歌われているのである。これらの御製を拝すれば、昭和天皇が「昭和二十一年元旦の詔書」においていわゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどという説が大きな誤りであることが分かる。

 

 國家には独自の道徳観と理念が内在する。それにしたがって國民を教育し、共同体の正義を実現する。倫理観のない國家は本当の國家ではなく、多くの人の集合体を権力で統制する機構に過ぎない。これでは國民に道義心も愛國心も湧いて来ない。今日の日本はまさにそういう國家になろうとしている。

 

 日本民族は、神聖君主日本天皇を道義の鏡として仰いできた。天皇は至高の道徳(日本人としての『道』)の体現者であらせられる。日本國民は古代以来天皇の神聖な権威を鏡として道義心を自覚した。

 

 「敬神崇祖」は日本人の道義の根幹であるが、それを身を以て実践されて来られたお方が「祭祀」を最大の使命とされる日本天皇であらせられる。日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そして「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる祭祀の大御心に回帰する以外にない。

 

 日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志にまつろう(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。

 

 現御神信仰の公的表現は、宣命詔勅に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の「御鏡」であらせられるのである。

 

 戦後日本は誤れる「民主主義思想・人権思想」によって人と國家の神聖性・道義性の破壊してきた。人間の尊厳性はその人間の生活する國家の尊厳性と不離一体の関係にある。國家をあしざまに罵り続け、天皇の神聖性を隠蔽し、自分さえ良ければいいという観念が横溢したところに、今日の日本の頽廃と混迷の根本原因があると考える。 

 

 今日のわが祖國日本の道義の頽廃はまさに末期的である。これを打開することが緊急の課題である。日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

|

« 千駄木庵日乗十一月二十八日 | トップページ | 千駄木庵日乗十一月二十九日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/62768630

この記事へのトラックバック一覧です: <天皇尊崇の心・現御神信仰>の回復こそ日本の道義的再生の道:

« 千駄木庵日乗十一月二十八日 | トップページ | 千駄木庵日乗十一月二十九日 »