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2015年11月30日 (月)

太古の共同體統合の精神が高度文化の時代に國家変革の原基となり得たのは日本のみ

明治維新は尊皇攘夷といふ國民的自覚によって行はれたが、この國民的自覚は「日本は天皇を祭祀主・君主と仰ぐ神國である」とする精神にもとづき、この精神は伊勢皇大神宮に祀られてゐる皇祖天照大御神への崇拝に根ざしている。太古における宗教的な共同體統合の精神が高度文化の時代になほ國家変革の原基となり得たといふ現象は、日本のみに起ったのであり、世界に類がない。

 

明治維新で封建制度は顛覆され、天皇を君主と仰ぐ一君萬民の國家が復興した。畏れ多いことながら江戸時代を通じて事實上京都御所に軟禁状態にあった天皇は、國民の全體性統一性を體現される真正権威を有しておられたのである。太古以来の傳統的國柄即ち日本國體信仰は決して死んではいなかった。

 

これが重要である。中世近世を通して天皇の宗教的神聖権威はなくなっていなかった。薩長閥を中心とした勢力の武力・権力によって明治日本・近代日本が形成されたのではない。

 

明治維新は「神武創業」への回帰を理念とした。「神武創業への回帰」とは具體的には如何なることを意味したのか。それは、富國強兵・殖産興業・四民平等・廃藩置県であった。さらに議會開設・憲法発布も行なはれた。

 

日本國民の國民的自覚・國民精神は、近世國学や水戸学そして吉田松陰の思想など明治維新を導いた思想の芽生へ、西欧列強の圧迫、徳川幕府への抵抗などによって醸成されたといはれる。そして、日清・日露の戦ひを中心とする時代にもますます燃え上がった精神とされる。

 

日本の近代化は、外圧に対する独立の維持のために行はれたと言っても過言ではない。そしてその近代化は、西洋に学ぶことによって進行した。西洋の文物を輸入しそれに学んだことは、学ぶ主體としての日本にその基盤と能力があったから出来た事であるのは言ふまでもない。それが日本の強靭性であり柔軟性である。それこそが大和魂であり民族の正気である。

 

外圧によって國内を革新した先駆は、長州と薩摩である。長州は馬関戦争、薩摩は薩英戦争の後、藩内改革が進行し、明治維新の大動力となった。それにしても「薩英戦争」とは何とも日本民族の気宇壮大さを示す呼称である。日本の一藩と世界中に植民地を有する大英帝國とを同等と認識してゐたのである。

 

ともかく維新の大激動期に、日本國は、西洋の文明を学ぶことが西洋の植民地にならない道であると認識したのである。それが「和魂洋才」である。この「和魂」を「大和魂」「やまとごころ」「日本精神」と言ひ換へもいいと思ふ。

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千駄木庵日乗十一月二十九日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。三日ぶりなり。

帰宅後も、資料の整理・原稿執筆など。

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2015年11月28日 (土)

<天皇尊崇の心・現御神信仰>の回復こそ日本の道義的再生の道

「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に いほらせるかも」

 

柿本朝臣人麻呂

 

 

 柿本朝臣人麻呂は『萬葉集』の代表歌人にして和歌史上屈指の歌人。生没年未詳。持統天皇の御代に活躍。「大君は神であられるので、天雲の雷の上に仮の廬を結んでおられることだ」というほどの意。持統天皇が雷の丘にお出ましになった時に、人麻呂が現御神信仰(天皇は現実にあらわれたもうた神という信仰)を高らかにうたいあげた歌。

 

 「雷の丘」は奈良県高市郡明日香村にある雷神が祭られている丘。雷神が住んでいたという伝説のある神の山・聖なる山である。「いかづち」とは「厳槌」の義で、雷鳴は神が巨大な槌を転ばす音であると信じられた。「いほらせるかも」とは、直訳すれば「仮の庵を結ぶ」意であるが、この歌の場合は、天皇が祭り主として聖なる神の山・雷の丘で國見をされ祭事を齋行されることをいう。つまり、「いほり」とは中世の「庵」とは違って「齋」(いつき・斎戒<心身を清めて言行・飲食などの行為をつつしむこと>して神をまつること)の意味である。雷の丘に離宮があったともいわれている。

 

 「國見」とは、単に國土を望見されるというのではなく、天皇が國土を眺望され國土の繁栄と五穀の豊饒を祈る祭祀儀礼であり、天皇が國見をされることにより國土は新生する。古代人にとって「見る」とは魂の結合を意味した。

 

 この歌は、「聖なる山の上でまつりごとをされる天皇は、この世における神であられ、あらゆる神霊を従えたもう御稜威(神聖なる霊的威力)輝く御存在である」といふ現御神信仰即ち天皇信仰を歌っている。この信仰は人麻呂個人のものではなく、萬葉人即ち古代日本人に共通する信仰であった。神を祭られる天皇はこの世における神であるというのが日本人の現御神信仰である。

 

 また、自然を神として拝んだ古代日本人は「雷」も神として仰いだ。それが後世の天神(菅原道真の御霊を祭った神社)信仰につながる。「神」という漢字は、祭りの対象の意味を表す「示」(神への捧げ物を置く台の象形文字)と、音を表す「申」(稲光の象形文字)とからなる形声字である。つまり、古代支那においても、雷を天の神と考えたのである。

 

 人麻呂はまた別の歌で「やすみしし わが大君 高光る 日の御子」と歌っている。「四方八方をやすらけく御統治あそばされるわが大君、高く光る日の神の御子」というほどの意で、天皇は天照大神の御子という信仰を高らかにうたいあげている。

 

 天皇を「日の御子」「天津日嗣日本天皇」と申し上げるのは、天皇が日の神の御神威を継承して日本國を統治されるお方であるということである。そして、天皇は血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するのであるが、信仰上は御歴代の天皇お一方お一方が天照大神の「生みの子」であらせられる。皇祖・天照大神との御関係は、邇邇藝命・神武天皇・今上天皇も同一である。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

 この尊い事実を會澤正志斎は、「神州は太陽の出ずる所、元気の始まる所にして、天日の之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず」(新論)と言ったのである。日蓮も「日本國の王となる人は天照大神の御魂の入代らせ給ふ王なり」(高橋入道殿御返事)と言っている。現御神信仰・現人神信仰は決して近代日本において人為的オロギーとして作られたものではないのである。   

 

 日本の神々の中で最尊・最貴の神と仰がれる天照大神の御子であられる日本天皇は、雨の神・雷神などの自然神を従えられる御存在であるというのが萬葉人以来の日本人の信仰であった。

 

 昭和天皇は、昭和三十五年に「さしのぼる朝日の光りへだてなく世を照らさむぞわがねがひなる」と歌われ、同三十四年には「あなうれし神のみ前に日の御子のいもせの契り結ぶこの朝」と詠ませられている。この二首の御製は天皇および皇太子は「天照大神の生みの子」即ち「日の御子」であるという御自覚を歌われているのである。これらの御製を拝すれば、昭和天皇が「昭和二十一年元旦の詔書」においていわゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどという説が大きな誤りであることが分かる。

 

 國家には独自の道徳観と理念が内在する。それにしたがって國民を教育し、共同体の正義を実現する。倫理観のない國家は本当の國家ではなく、多くの人の集合体を権力で統制する機構に過ぎない。これでは國民に道義心も愛國心も湧いて来ない。今日の日本はまさにそういう國家になろうとしている。

 

 日本民族は、神聖君主日本天皇を道義の鏡として仰いできた。天皇は至高の道徳(日本人としての『道』)の体現者であらせられる。日本國民は古代以来天皇の神聖な権威を鏡として道義心を自覚した。

 

 「敬神崇祖」は日本人の道義の根幹であるが、それを身を以て実践されて来られたお方が「祭祀」を最大の使命とされる日本天皇であらせられる。日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そして「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる祭祀の大御心に回帰する以外にない。

 

 日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志にまつろう(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。

 

 現御神信仰の公的表現は、宣命詔勅に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の「御鏡」であらせられるのである。

 

 戦後日本は誤れる「民主主義思想・人権思想」によって人と國家の神聖性・道義性の破壊してきた。人間の尊厳性はその人間の生活する國家の尊厳性と不離一体の関係にある。國家をあしざまに罵り続け、天皇の神聖性を隠蔽し、自分さえ良ければいいという観念が横溢したところに、今日の日本の頽廃と混迷の根本原因があると考える。 

 

 今日のわが祖國日本の道義の頽廃はまさに末期的である。これを打開することが緊急の課題である。日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

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千駄木庵日乗十一月二十八日

先程、歴史探訪旅行より帰宅致しました。

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2015年11月26日 (木)

武士道の淵源

  日本神話は「神名」に重要なる意義がある。須佐之男命のスサは、勇み進む・荒む意とされる。

須佐之男命の御歌

  「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」

  (おびただしい雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を  造る。ああその八重垣よ)                      

 この御歌は、高志の八俣遠呂知(八岐大蛇)を退治されて櫛名田比売を助け、ともに住まわれる須賀の宮を造られた折り、雲が立ちのぼったので詠まれた歌。須佐之男命こそ、日本の武士の祖であり無類の勇者にして無類の詩人にまします。

  この須佐之男命の御精神を受け継がれた方が景行天皇の皇子・日本武尊である。日本武尊をして焼津での難を乗り越えられしめた剣は、須佐之男命が八岐の大蛇から得られた神剣(草薙の劔)であった。もののふのこころ・ますらをぶりとは、清明心と表裏一體の精神であり、天皇のため國のためにわが身を捧げるという「捨身無我」の雄々し精神でもある。その精神の体現者が日本武尊であらせられる。「たけるのみこと」とは猛々しさを表す御名である。

  こうした戦闘的恬澹・捨身無我の精神は後世の武士にも強く生かされる。日本武尊は、武士道精神・日本倫理思想の祖であらせられる。

日本武尊御歌

  「孃女(おとめ)の 床の辺(へ)に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや」      (乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ)

 これは、日本武尊は天皇の命により九州の熊襲建を平定して大和に帰られるが、さらに東國平定を命令され、それを終えた帰りに、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)に、叔母君であった倭姫命から授けられた草薙の劔を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市という)で急病になった時の辞世の御歌である。愛する美夜受姫に預けた守護霊たる神剣から離れていく自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。慎みの欠如・傲慢さから剣を置いて素手でも勝てるといって出発したのが間違いのもとという神話傳説である。この御歌は乙女への愛と武の心が渾然一體となっている。そしてその奥に天皇への戀闕の心がある。日本武尊の悲劇の根本にあるのは、武人の悲劇である。神との同居を失い、神を畏れなくなった日、神を失って行く一時期の悲劇である。

  これらの歌には、恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和して現れている。この精神こそ、戦いにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性で、日本武士道の本源となっている。これを「剣魂歌心」という。日本武尊は、上代日本の武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた。日本の英雄は歌を愛した。ますらをぶりは優美さを否定するものではない。

  新渡戸稲造氏は、吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、國民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。新渡戸稲造氏はさらに、「(注武士道」については)精々口傳により、もしくは数人の有名なる武士や學者の筆によって傳えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる立法たることが多い。不言不文であるだけ、實行によって一層強き効力が認められているのである。……道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じであろう。」(『武士道』)と論じている。

  日本武士道の教義書はないが、新渡戸稲造氏の言う「心の肉碑」=日本人の魂の奥底の思いを表白する文藝である「和歌」によってもののふの心が傳えられてきた。萬葉歌は飛鳥奈良時代のもののふの道=武士道を傳えている。

  理論・理屈を好まない日本人らしい道徳律が武士道なのである。日本の傳統の根幹たる和歌も祭祀もそして武道も理論・理屈ではない。「道」であり「行い」である。そして一つの形式・「型」を大切にし「型」を學ぶことによって傳承される。學ぶとはまねぶである。理論理屈ではないがゆえに「道」(歌道・武道・茶道・華道)という。

  そして武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は封建時代において國民の道義の標準を立て、自己の模範によって民衆を指導した。義経記・曽我兄弟の物語・忠臣蔵などの民衆娯楽の芝居・講談・浄瑠璃(平曲・謡曲から発した音曲。語り物)小説などがその主題を武士の物語から取った。明治維新の志士たちの歌も近代日本の武士道教育の手本となった。

  和歌などの藝術によって武士道が継承され教育されたことは、武士道が情感・感性によって継承され實行されてきた「道」であり、理知によって継承されてきた教条や独善的観念體系(イデオロギー)ではないということを証しする。

  武士は、日本國民の善き理想となった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが國の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。
神武天皇の武の御精神

  「ますらをぶり」とは、日本民族の基本的道義精神である「清明心」は、一度戦闘となれば神武天皇御製に歌われたような「そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ」という雄々しさ・勇気・戦闘心となる。                        

神武天皇御製 

 

  「みつみつし 久米の子らが 粟生(あはふ)には 臭韮一茎(かみらひともと) そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ」(威勢のよい久米の人々の、粟の畑には臭い韮が一本生えて いる。その根のもとに、その芽をくっつけて、やっつけてしまうぞ)

 

 九州日向(宮崎)の美々津の浜を出発され、十年かかって橿原の地に至り、建國を宣言された。反抗した長髄彦を討たれる際に、皇軍を激励して詠まれた御歌である。烈々の攻撃精神が充満している。天皇の大御心は「和」「仁慈」だけではない。剣の精神・戦いの精神もあった。上御一人日本天皇はもののふの道の體現者であらせられた。

 

  ただし、神武天皇の御東征の御精神は、『日本書紀』に「…神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮(ゐやま)ひ祭(いは)ひて、日の神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひたてまつりて、影(みかげ)のままに壓躡(おそひふ)まむには。かからば則ち曾て刃に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自らに敗れなむ…」と記されている。御東征の戦いは神を祭り、神の霊威を背負い神の御心のままの戦いであり武であった。故に武は神武であり、剣は神剣であり、戦いは聖戦となるのである。

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千駄木庵日乗十一月二十五日

午前は、諸雑務。

午後からは、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、明日からの旅行の準備など。

明日から、二泊三日で歴史探訪旅行に出かけます。

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2015年11月25日 (水)

三島由紀夫氏は文字通り文武両道・剣魂歌心の実践者であった

 人に圧倒的な感動を与える永遠の価値のある美を、死を免れることのできない地上に生きる人間が創造することは、超人間的な力・神秘的な力・肉体人間以上の力を借り、それにとりつかれることによって可能となる。

 

 語部(日本で上代、朝廷に仕えて、古い伝承を暗唱して語るのを職とした人)はそういう神秘的な存在がとりついて物語った。

 

 彫刻・絵画・文芸など偉大なる芸術作品は、一個の肉体人間の能力以上のものがその人を通して発現して創造される。わが國文学史上、神々の御稜威・日本の文化意志を身を以て発現した人々がいる。古代における稗田阿禮・柿本人麻呂・額田王、中古における紫式部、近世における松尾芭蕉、近代における斉藤茂吉・折口信夫などはそういった人々であろう。戦後日本においては三島由紀夫氏である。

 

 さらに言えば、三島氏における神々の御稜威の発現は、文芸創作の範疇を超えてしまった。文芸創作ではなし得ないことを肉体的行動によって成就した。三島氏は、小説・戯曲や評論という「文」のみではなく「行動」を以て神々の御稜威が発現を行われたのである。三島氏は文字通り文武両道・剣魂歌心の実践者であった。

 

 三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。三島氏は自己の実人生でそれを実現した。

三島氏の自決は日本の文化意志の発現だった

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であった。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下の三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ている。

 

 三島氏は「文士」という言葉をよく使った。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文人」を「文士」ということはあるが、「商人」を「商士」とはいわない。「士」とは立派な男子という意味である。「文士」とは文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として自殺するのではなく、また、作家として自殺するのでもなく、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。この「身分の高貴さ」とは、死を恐れない武士のことである。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える散華の美とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへ命を捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。

 

 割腹自決は名誉ある死であると共に、克己心が必要な苦しい死である。三島氏が理想とした美の極致としての自決は、絶望と苦しさからの逃避のための自殺である現代日本の自殺の横行とは全く別次元のものである。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。三島由紀夫氏が、鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の三島氏の「源泉の感情」が死を決意させ実行させたと言える。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現したのが三島氏の自決であった。

 

 三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。

 

 戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。

 

 「生命尊重のみで魂が死んでしまっている戦後日本」においては、三島由紀夫氏自身が疎外者だった。文学もそして変革も、疎外者・流離者から生まれる。現実から受け入れられない人、疎外された人、あるいは自ら現実から脱出した人がすぐれた文学を創造し変革を行う。

 

 三島由紀夫氏は、戦後日本の救済・革新のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは前述したとおり、三島氏の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。

 

 三島氏は歴史の中に生きた高貴な魂であった。日本の文化意志・日本の神々の御稜威を、身を以て体現した三島氏の魂は、今日の日本の日本人の魂を奮い立たせ覚醒せしめる今日的存在である。三島氏自身もまた日本の神々になられたのである。

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千駄木庵日乗十一月二十四日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。意見交換。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時半より、高田馬場のホテルサンルートにて、『三島由紀夫・森田必勝両烈士顕彰祭』(斎主・島田康夫氏)執行。祭詞奏上・『英霊の声』拝聴・『檄文』奉読・遺詠奉唱・玉串奉奠などが行われた。この後、木村三浩氏が主催者挨拶。続いて、田母神俊雄氏(第二十九代航空幕僚長)が講演。小生の発声で聖壽万歳を三唱し、終了した。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年11月24日 (火)

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十七年十二月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十七年十二月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十七年十二月号(平成二十六年十一月二十日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

 

國學についてー日本傳統精神の復興

國學は實行と変革を目指す學問

 

日本における「道」とは

 

「日本の道」は祭祀・神話・和歌・物語によって傳へられてゐる

 

日本は「神ながら 言擧せぬ國」

 

日本人は物事を「あげつらふ」ことを嫌った

 

古代日本人の基本的な姿勢を甦らせやうとしたのが近世國學である

 

千駄木庵日乗

渡辺利夫拓殖大學総長「歴史の連続性・民族の永続性は皇室と伊勢神宮に象徴される。これが日本人の名誉。その國柄を守る」

 

平沢勝栄自民党衆院議員「「憲法の素人というのは大切。憲法は憲法學者のものではない。憲法は國民のもの。憲法があって國があるのではなく、國があって憲法がある。憲法學者の一部は憲法至上主義」

 

前川清成民主党参院議員「七十年経っている憲法をこれからも指一本触れないで良いとは思わない」

 

足立昌勝関東學院大學名誉教授「検察警察へのチェック機構を確立すべし。立法府は追認機関。法務大臣の位は一番、力は最低」

 

黒田勝弘産経新聞ソウル駐在特別記者兼論説委員「加藤君(注・『産経新聞』の加藤達也前ソウル支局長)の事件は、韓國政府は國内メティアとは喧嘩できないが、日本メティアはいじめやすいから起きた。韓国は欧米メディアとも喧嘩できない」

 

この頃詠みし歌

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靖国神社に対する破壊活動について

 靖国神社南門付近の男子トイレ内で爆発があり、天井に数10センチの穴があき、壁が焼けるという事件が起こった。一体誰がこの様な事をしたのか。國體破壊を目指す日本人か、あるいは、反日外国人か、いずれかであろう。小生は一昨日、靖国神社に参拝し、南門を通って退出した。神社は、靖国神社に限らず、多くの人々が自由に参拝できる。一昨日も、多くの人々が参拝に来ていた。特に警備が厳しいということは感じられなかった。また、近隣国家の外国人も来ていた。かかる破壊活動は、これまでも起った。実に憂えるべき事態である。小生が編集している発行したばかりの『伝統と革新』第二十二号の「編集後記」に次のようなことを書かせていただいた。この文章は、以前「千駄木庵日乗」に書いた文章に加筆したものである。

 

                〇

 

近年、神社を対象とした破壊行為が多発してゐる。全國の神社には基本的には塀も無ければ門も無い。鳥居は閉じられることはない。昼間は殆ど出入り自由である。日本伝統信仰には「門」といふ制約はない。禅宗には「葷酒山門に入るを許さず」といふ言葉があり、『聖書』には「狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広く、これより入る者多し。命にいたる門は狭く、その道は細く、これを見出す者少なし」と説かれてゐる。どちらも「門」の重要性を説いてゐる。ここが日本の神社と寺院やキリスト教会との違ひである。日本神道は大らかで寛容性が高いといふ事であらう。伊勢の皇大神宮・明治神宮も特に警備が厳しいと感じることはない。靖國神社に参拝する度に思ふのは、神殿の奥の、庭園、靖國会館、遊就館もほぼ出入り自由である。そして支那人が境内を何人かで歩いてゐたり、ベンチで話してゐるのを度々見かける。さういふ支那人は、護國の英霊に報恩感謝の真心を捧げに来たわけではないであろう。何かするのではないかと少し心配になる。しかし、大らかで開かれてゐるのが神社であると思ふと、出入りを禁止することは出来ないとも思ふ。また神社に門をつくることもできないであらう。神社仏閣への「油まき事件」などを見ると、反日外國人には、日本伝統信仰のおほらかさは通じないとも言へる。難しい問題である。

                ○

『神門』『南門』があるではないかと言うご意見もあるかと思いますが、この門も昼間は開きっぱなしです。そして、鳥居は閉じられることはありません。そもそも閉じるという発想もないし、そういう構造になっていないのです。

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千駄木庵日乗十一月二十三日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。

午後四時より、千代田区富士見区民会館にて、『第三十二回  新嘗をを祝ふ集日』開催。杉本延博奈良県御所市議会議員が「わがふるさと大和」と題して講演。つついて祭事が執行され、祝詞奏上・『古事記』天孫降臨の段奉読・三大神勅奉読・御製奉読・玉串奉奠・大祓詞奏上などが行われた。清々しくも厳粛なる「みまつり」であった。

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帰宅後は、原稿執筆・資料の整理など。

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2015年11月23日 (月)

『笹川平和財団 日米交流事業主催 講演会・中東湾岸地域の重要性と日米協力の可能性』におけるケント・E・カルダー博士(ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)、エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究所所長)の講演内容

八月五日に開催された『笹川平和財団 日米交流事業主催 講演会・中東湾岸地域の重要性と日米協力の可能性』におけるケント・E・カルダー博士(ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)、エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究所所長)の講演内容は次の通り。

 

「日本には石油は殆どない。中東からのシーレーンは七千から八千キロある。日米関係は重要。エネルギーの世界は変化している。日本のようなエネルギー依存国家にとって湾岸地域は戦略的に重要。中國さでえ必要な原油の八五%を輸入している。過去二十五年間アジアの地政学が大きく変わった。アジア諸国の石油依存度は上がっている。アメリカはシェールによって依存度は減っている。日本は八五%依存している。アジアは以前にもまして湾岸に依存。欧州の依存度は下がっている。世界に不均衡がある。二〇三五年を見通すと湾岸地域のシェアは上がる。

 

アメリカの石油化学産業の自給津は上がっている。アメリカからの輸出はあるが、それほど大きくはない。基本的にアジアは中東に依存。金融も同じ。外貨準備のシェアは石油危機で急激に上がった。外貨準備高は北東アジアが七〇%。アメリカにはドルという基軸通貨がある。

 

日本の天然ガスの最大の輸入国はカタール。オマーンは戦略的に重要。インド洋では当面アメリカの方が中国より優位。ヨルダン、オマーンは潜在的に安定している。こういう場所での日本の役割は重要になる。ホルムズ海峡が鍵。オマーンの領域がホルムズ海峡に突き出ている。ホルムズ海峡を通るアクセスがアジアと日本にとって重要。世界経済にとっても重要。

 

中国は湾岸諸国に対して輸出国。中国のプレゼンスが大きくなっている。イランとの核合意はアメリカにとって理想的とは言えない。イスラエルにとって危険だから批准すべきではないという意見があるが、合意が無いよりは良い。合意がないとイランの核を抑制できない。イランとの貿易を再開する。イエメンはかなり危険。イランへ制裁の効果はあった。だから今回合意した。イラン人は、『制裁があるので中国の粗悪品を買っている』と言う。

 

忘れてはいけないのは、日本のもっている強み。貴重な強みを放棄してはいけない。日本は信頼されている。イラン・トルコでは、日本が日露戦争に勝ったことを大喜びした。中東には、日本経済のダイナミズム・繁栄が実効性ある関与をして来たという印象がある。湾岸の安定が日本にとって重要。日本は機雷掃海で最も高い能力を持っているので、その面で協力してほしい。日本は中東で貢献しているのに、経済分野での協力なので、目立たない印象がある。

 

中国は急速に台頭している。中国はジブチに拠点を持っている。九十五年に、アメリカはベトナムと外交関係樹立。中國とのバランスを考えるとそうなった。アメリカはペルシャ湾・アラビア湾では大きな安定を図った。イランとの友好の始まり。オバマは長期的視点に立って決定した」。

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千駄木庵日乗十一月二十二日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。原稿執筆など。

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2015年11月22日 (日)

維新とは神の回復であり、信仰共同體日本・祭祀國家日本の回復である

明治二十三年十月三十日に渙発された『教育勅語』は、日本傳統精神がその基盤にある。

 

「我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」の「皇祖」は伊邪那岐命伊邪那美命二神及び天照大神の御事であり、「皇宗」は邇邇藝命そして神武天皇をはじめとする歴代の天皇の御事である。「國ヲ肇ムル」とは、國生み及び天孫降臨と神武建國の御事である。「國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」と示されてゐる以上そのやうに拝するのが自然である。しかし、『教育勅語』渙発に際して、さうしたことに否定的な見解を示した人がゐた。

 

新田均氏はその著において大要次のやうに論じてゐる。「『教育勅語』発布後文部省は解説書を井上哲次郎(注・東京大學教授。哲學者)に依頼した。井上の草案では、勅語の『皇祖』は『天照大御神』、『皇宗』は『神武天皇』であると説明していた。井上(注・井上毅。大日本帝國憲法制定に参画、法制局長官となり、『教育勅語』など詔勅・法令を起草。枢密顧問官・文相などを歴任。)は文句をつけて『皇祖は神武天皇、皇宗は歴代天皇』とするよう求めた。彼は、君臣関係の力点を、神話よりも、神武建國以降の『歴史』に置こうとしたのだと言えよう。」(『「現人神」「國家神道」という幻想』)

 

葦津珍彦氏は次のやうに論じてゐる。「勅語には『皇祖皇宗』の道とあり『祖先』の遺風とある。これをもって、皇祖皇宗を初めとして各地の神社の民族祖神の『神靈』の意と解すれば、勅語は神道の強力な一拠点となり得る。明治天皇の勅語としては、かく解するのは決して無理ではない。しかしそれを神宮神社の『神靈』と結びつけることには『神道を國教化するもの』としての強い反抗の底流があった。その反抗の強力なことを知ってをればこそ、井上毅は、とくに厳重な前提条件として尊神とか敬神とか『神靈』を意味する語を絶対に避けねばならないとし、神靈存否の論は、各人の解釈に任せて、勅語そのものの関知せざるところとした。この明治的合理主義官僚が、神社局の思想となる時には、『神靈については当局は関知せず』として、神道独自の精神を放棄して、一切の合法的宗教、哲學との妥協にのみ神経を労して、神宮神社をもって、歴史的偉人の記念堂(モニュメント)と同視して、神道精神を空白化することになる。」(『國家神道とは何だったのか』)

 

新田氏によると加藤玄智(大正・昭和期の宗教學者)は「わが國明治以来教育界の通弊は、その實証主義、科學萬能主義で在り、それに加ふるに、迎合外交と追随教育の幣は、教育勅語に仰せられた皇祖皇宗を解するに、単なる人間としての祖宗、すなわち人祖人宗に外ならないものとして、これを解し奉ってをった。…」と批判していたといふ。私は加藤玄智の批判は正しいと思ふ。

 

「皇祖」を神武天皇のみとし、「肇國」を神武建國のみとすることは、『天壌無窮の御神勅』の否定につながる考へ方であり、神話の精神を隠蔽するものである。日本國體は神話を基礎とするのだから、神靈への信を無視し否定した國體精神・國家主義は真の國體精神ではない。神霊への信仰を排除し神社を歴史的偉人の記念堂のごときものとするのは、明らかに傳統信仰の隠蔽であり、祭祀國家の破壊である。今日の「靖國神社を排除した國立戦没者追悼施設建設」につながる思想である。ここに葦津氏のいふ「明治的合理主義官僚」の日本傳統信仰に対する無理解といふ大きな欠陥が表れてゐる。かうしたことが、祭祀國家・皇道國家日本の本姿を晦ませて日本を覇道化させた原因だと言ひ得る。

 

村上重良氏らの「國家権力が神道を人民支配のイデオロギーとするためのバイブル・経典が『教育勅語』であった」といふ主張は誤りである。むしろ國家権力による神道精神の隠蔽が行はれたことが近代日本の過誤の根本原因であったと考へる。

 

神靈への信を忘れ天皇を祭り主と仰ぐ信仰共同體から遊離した國家至上主義は誤りである。維新とは神の回復であり、信仰共同體日本・祭祀國家日本の回復である。宗教対立・宗教戦争が繰り返され、宗教裁判・魔女狩り・聖戦といふ名のテロが行はれてきてゐる一神教の世界では、まったく考へられないことだらうが、神社神道・日本傳統信仰は、佛教あるいはキリスト教ですら共存させる寛容さ・柔軟さそして強靭さを持ってゐる。それが日本人の当たり前の宗教感覚であり、信仰文化であった。

 

日清戦争、日露戦争の勝利は、「脱亜入欧路線」の勝利ではない。日本精神を保持して西洋傳来の武器を使用して戦ひ勝利したのである。まさに「和魂洋才」の勝利だった。ところがその後の日本は、「和魂」を忘却し、上滑りな「洋才國家」の道を歩むこととなった。西郷隆盛の言った「野蛮」を尊しとするやうになった側面がある。「明治維新の精神」は日露戦争勝利の後、國民精神の弛緩によって矮小化されもわが國は西洋覇道の道を歩んだのである。日露戦争の勝利は、それまで西欧列強によって支配されていた有色民族・アジアアフリカ諸國諸民族を感激させ希望を与へた。しかし、日本自身は、勝利に奢り、明治維新の精神を忘却してしまったのである。

 

明治中期以後、金銭営利を求める風潮が横溢し、明治維新の理想、清潔なる國體精神は混濁し、「文明開化」の悪しき側面即ち欧米追従・強い者勝ちの西洋覇道精神・近代合理主義が世を支配するやうになった。近代日本において、「文明開化」「近代化」のために傳統信仰が晦まされてしまった。

 

勿論、西欧諸國との拮抗、とりわけ帝國主義との戦ひをしなければならない時代に於いて、わが國の独立の維持とは、武力的拮抗でなければならなかった。日本が「富國強兵」の道を歩まねばならなかったのは当然であるし、否定することは出来ない。「富國強兵」を實現するために西洋の文物を學び取り入れることも大切であった。しかし、その根底に日本傳統精神・倫理観がしっかりと確立してゐなければならなかった。「和魂洋才」とはかかることを意味したのだと考へる。欧米近代の國家の侵略による植民地化を跳ね除けるために富國強兵政策がとられたのは正しい選択であった。しかし、「脱亜入欧」は誤りであった。

 

天皇國日本には、「侵略」「排外」などといふ事はあり得ない。傳統信仰を無視した近代化・富國強兵は日本魂を消失したものであるがゆゑに大きな矛盾を抱へ失敗を招来した。だからこそ、神の回復・信仰共同體日本・祭祀國家日本の回復を目指した昭和維新運動が起ったのである。

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千駄木庵日乗十一月二十一日

午前は、諸雑務。『政治文化情報』発送作業。

昼は、施設に赴き、母の食事の介助。

午後二時より、靖国神社啓照館にて、『先哲に学ぶ会』開催。梅田昌彦氏(梅田雲浜玄孫・元大阪芸術大学教授)が「明治維新を彩る幕末の志士-梅田雲浜」と題して講演。質疑応答。

帰宅後、『政治文化情報』発送の作業、完了・送付。購読者の皆様には連休明けにお届けできると存じます。

この後、呉竹会機関紙『青年運動』連載原稿執筆、脱稿。送付。資料の整理など。

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「オピニオン雑誌『傳統と革新』第二十一号」のお知らせ

オピニオン雑誌『傳統と革新』第二十一号 

たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)          定価本体1,000円

特集 「戦後平和主義」と國家安全保障――「新安保法制」と「終戦七十年総理談話」を考える――

巻頭言 立憲主義と『現行占領憲法』             四宮正貴 

[インタビュー]
安全保障の要諦。それはリーダーの確かな判断と決断力です  佐々淳行 
日本の安全と存立のため、「安保関連法」は   
その許容範囲の中で成立した                平沢勝栄 
わが國の安全保障、平和・独立を考える【前編】
確固たる安保法制と憲法改正で「隙間のない防衛体制」を整えよ    百地 章 
海洋に本格進出する中國 日本は戦略的外交で自主防衛を確立すべし 石 平

《論文》  
〔佐藤優の視点〕 袋小路に陥った日露外交         佐藤優  
國家の自衛権とは何なのか、如何に行使するのか       西村眞悟 
集団的自衛権行使は違憲、ゆえに憲法改正          高乗正臣 
護憲派が犯した罪と罰                   潮匡人  
安倍談話と「歴史戦」の課題                藤岡信勝 
七十年首相談話における歴史解釈の問題           吉原恒雄 
戦後レジームの解消は左翼が握っている           佐藤和夫 
守るべき本質とは何か ―日本國・安全保障の構築―     蓮坊公爾 

《提言・直言》
國家の主体性なき安全保障論議への違和感          松木謙公 
新安保法制の問題点をどう考えるのか            伴野豊  
歴史の中の内閣総理大臣談話                松崎哲久  
新安保法制の問題を考える  ―自主防衛体制についてー   北神圭朗 
安保法案の成立で國民の國防意識は高まるのか?       木村三浩 

《連載》

 『やまと歌の心』                千駄木庵主人 
『石垣島便り』最大瞬間風速71メートルの台風と格闘、   中尾秀一 
第20回 我が体験的維新運動史 
右翼は生き方であり、死生観である           犬塚博英 
編集後記
 定価 本體価格1000円+税。 168頁
〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル
 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348 

四宮 正貴さんの写真

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オピニオン雑誌『傳統と革新』第二十一号 

 

たちばな出版発行(四宮正貴責任編集) 定価本体1,000円

 

特集 「戦後平和主義」と國家安全保障

 

――「新安保法制」と「終戦七十年総理談話」を考える――

 

巻頭言 立憲主義と『現行占領憲法』             四宮正貴 

 

[インタビュー]

 

安全保障の要諦。それはリーダーの確かな判断と決断力です  佐々淳行 

 

日本の安全と存立のため、「安保関連法」は   

 

その許容範囲の中で成立した                平沢勝栄 

 

わが國の安全保障、平和・独立を考える【前編】

 

確固たる安保法制と憲法改正で「隙間のない防衛体制」を整えよ   百地 章 

 

海洋に本格進出する中國 日本は戦略的外交で自主防衛を確立すべし 石 平

 

《論文》  

 

〔佐藤優の視点〕 袋小路に陥った日露外交         佐藤優  

 

國家の自衛権とは何なのか、如何に行使するのか       西村眞悟 

 

集団的自衛権行使は違憲、ゆえに憲法改正          高乗正臣 

 

護憲派が犯した罪と罰                   潮匡人  

 

安倍談話と「歴史戦」の課題                藤岡信勝 

 

七十年首相談話における歴史解釈の問題           吉原恒雄 

 

戦後レジームの解消は左翼が握っている           佐藤和夫 

 

守るべき本質とは何か ―日本國・安全保障の構築―     蓮坊公爾 

 

《提言・直言》

 

國家の主体性なき安全保障論議への違和感          松木謙公 

 

新安保法制の問題点をどう考えるのか            伴野豊  

 

歴史の中の内閣総理大臣談話                松崎哲久  

 

新安保法制の問題を考える  ―自主防衛体制についてー   北神圭朗 

 

安保法案の成立で國民の國防意識は高まるのか?       木村三浩 

 

連載 『やまと歌の心』                千駄木庵主人 

 

『石垣島便り』最大瞬間風速71メートルの台風と格闘、   中尾秀一 

 

第20回 我が体験的維新運動史 

 

右翼は生き方であり、死生観である           犬塚博英 

 

編集後記

 

 定価 本體価格1000円+税。 168頁

 

〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

 

 

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2015年11月21日 (土)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 十二月九日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 ☎〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することが維新の真精神

橘曙覧は次の歌を詠んでゐる。

 

「天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ」

 

「天下の汚れを祓ひ清めて、神武肇国のまつりごとに還ることを喜ぼう」といふほどの意。

 

清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の伝統的道義精神である。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することが日本的変革即ち維新の真精神である。

 

橘曙覧が、維新実現を素直に純真に喜んだ歌がこの歌であり、維新すなはち復古即革新の精神を見事にうたひあげてゐる。この曙覧の歌の心が、維新=日本的変革の根本精神であると思ふ。

 

慶應四年十二月九日の(『王政復古の諭告』『王政復古御沙汰書』とも申し上げる)に、天皇国日本の真姿すなはち日本國體を回復することによって、現状の悪・穢れを祓ひ清めといふ明治維新の理念及び構想が如実に示されてゐる。

『王政復古の大号令』には次のやうに示されてゐる。「徳川内府、従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般、断然と聞こしめされ候。・・・(中略)之に依りて、叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基、立たせられ候間、自今摂関、幕府等廃絶、総裁・議定・参与の三職を置かれ、万機を行はせらるべく、諸事神武創業之始めに原(もとづ)き、縉紳・武弁・堂上・地下の別なく、至当の公議を竭(つく)し、天下と休戚を同じくあそばさるべき叡慮に付、各々勉励、旧来の驕惰之汚習を洗ひ、盡忠報国之至誠を以て奉公致すべく候事」。

橘曙覧が歌った「上古(いにしへ)の 御まつりごと」とは、「時間的過去」の政治形態をとり戻すことではない。民族の歴史と道統を、変革の原理とするといふことである。

 

「復古」とは、「古きがゆゑに良い」といふ骨董趣味ではないし、時間を過去に戻すことでもない。日本の理想的姿を単なる「時間的過去」に求めるのでもない。「元初の時」「物事の始まりの時」に回帰し復興するといふことである。新たなる復活・発見である。

 

「諸事神武創業の始めに原(もとづ)き」とは、「復古」の精神であり、「至当の公議を竭(つく)し」「旧来の驕惰の汚習を洗ひ」とは、「革新」の精神である。

 

さらに、「至当の公議を竭(つく)し」とのお言葉に、議会政治を開き民意をきこしめす精神が示されてゐる。そしてここに、外国の革命とは全く異なる日本的変革すなはち維新の根本がある。

 

国学は、決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではない。むしろそれまで日本が外国から受容し学んできた学問的成果・思想的遺産を素直に継承してゐる。国学はイデオロギーや教条ではないのだからそれは当然である。

 

近世国学者が、外圧の危機に中で行ったやうに、古代日本の歴史精神として今日まで伝へられてきている『道』を学び、今日において明らかにすることによって、現代の危機を打開することが大切である。

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千駄木庵日乗十一月二十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時半より、渋谷の国学院大学院友会館にて『森田忠明著「論語のやぶにらみ」刊行を祝ふ会』開催。多くの同志・友人が集った。

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謝辞を述べる森田忠明氏

帰途、赤坂にて、友人ご夫妻と懇談。

帰宅後は、呉竹会機関紙『青年運動』連載の「幕末維新の歌」原稿執筆など。

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2015年11月19日 (木)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』について

 水戸藩弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

 

 徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与えた人物である。自ら先頭にたって藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終えるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

 弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救うための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもこうした教育振興策が講じられた。佐幕の立場に立った会津藩も然りである。

 

しかし、水戸藩内保守派は弘道館建設に反対した。水戸藩には七代藩主・治紀(はるとし)の頃から深刻な内部対立があった。幕末期にも、その延長として改革派(尊皇攘夷派)と保守派(徳川宗家への忠誠を第一とする佐幕派=門閥派)との対立が続いた。尊攘派には家格の低い藩士、門閥には家格の高い藩士が多かったという。しかも尊攘派も激派と鎮派とに二分するという複雑さだった。

 

 弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。水戸學は尊皇ではあるが、徳川家康そして幕府を否定する考えはなかった。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べている。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

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千駄木庵日乗十一月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後は、発送準備、原稿執筆など。

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日本傳統文化は現代文明の欠陥を是正し新たなる文化を形成する

 現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となっている。現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行うようになった文明のことであるが、それは、産業革命以来機械技術の発達と資本主義そしてそれに反発するものとしての共産主義の発展を促し、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。

 

 そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかっている。現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本傳統文化へと回帰しなければならない。

 

 自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で體験する農耕民族たる日本民族の信仰精神が、世界の真の平和を作り出すであろう。

 

 日本傳統信仰は、大自然を尊ぶ。それは、大自然から、人生を学び、生き方を学び、國の平和と人の幸福の道を学ぶ心である。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」なのである。一人一人が「日子(ひこ・日の神の御子)」であり「日女(日の神の姫御子)」なのである。

 

 日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないと考えた。人も國土も神から生まれた、神が生みたもうたと考える日本民族の信仰は、神が人間と自然を造ったと考える西洋一神教の創造説とは全く異なる。神と人間と自然とは対立し矛盾した存在ではなく、調和し、融和し、一體の存在であると考える。こうした精神は排他独善の精神ではない。あらゆるものから学ぶべきものは学ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

 闘争戦争と自然破壊を繰り返す現代世界においてこそこの日本伝統精神が大きな役割を果たすと考える。一切の自然や人に神が宿るという大らかにして健全なる信仰精神たる日本傳統精神が、世界を救い、統合し融和して調和するのである。

 

 西洋精神は、キリスト教もイスラム教もマルクスレーニン主義も、一人の教祖の説いた教義・一つの書物に書かれた教義を絶対的なものと信ずる。一神教的ものの考え方が、いかに世界に闘争を持ち来たしたかは、ロシアや支那や朝鮮やカンボジアなどにおける共産主義思想による殺戮、欧米そして中東などにおける宗教戦争を見れば明らかである。

 

 大らかなる日本傳統精神は、教条的で固定的な西洋思想・文化・文明に訂正と活性化を与える。

 

 日本という國家には日本の長き歴史の中から生まれてきた立國の精神というものがある。日本國體精神・日本の道統を勃興せしめ、それに基づく変革が断行されなければならない。

 

 大東亜戦争後、日本傳統精神が衰微し、今日の日本も、國民精神の面でも政治體制の面でも、日本國の本来の姿が失われている。

 

 民族の傳統への誇りを忘却した民族には未来はない。しかし、上に天皇おわします限り、民族の命は必ず新生し甦る。そして、民族の歴史の流れ、民族の道統に立脚した変革が行われなければならない。日本國體精神こそが永遠の維新の原理である。

 

 天地自然に神の命が生きているという信仰が日本の傳統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同體が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する唯一の方途である。

 

 我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければならない。 

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千駄木庵日乗十一月十八日

午前は、諸雑務。『伝統と革新』編集の仕事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆など。

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2015年11月18日 (水)

『第二回 秋に燃ゆる国民のコンサート!』を鑑賞して

一昨日鑑賞した『第二回 秋に燃ゆる国民のコンサート!』は、「秋は芸術の季節。まばゆい紅葉の色は、音楽の陶酔を誘い、知らぬ間に人を劇場に運びます。オペラもいいが、オケと合唱とソリストが奏でるヘンデルの「メサイア」も、人を紅葉のように燃えさせます。100人の合唱とオーケストラ、優れたソリストが歌う「メサイア」の演奏。英語のメサイアを、ネイティブが美しい発音で歌います。そして、日本歌曲やオペラの名曲を、心ゆくまで楽しむ秋の宴です。あまり、マニアックな曲は歌いません。『国民が聞きたいと思う、国民的名曲を歌う』コンサートです。だから、『国民のコンサート』と呼ぶのです。また、日本屈指の実力派オペラ歌手と評される深見東州と 優れたソリストも出演します。 退屈な曲はありません。秋の夜長に、国民の芸術マインドを呼び覚まします」(案内文)との趣旨で開催された。

 

最初に深見東州氏(バリトン)が『国歌君が代』を独唱した。観客全員が起立し、唱和した。私も数多くのコンサートを鑑賞したが、冒頭に「国歌」を斉唱するコンサートは今回が初めてである。まさに「国民のコンサート」であった。

 

《第一部》大貫裕子(ソプラノ)、ロリーナ・ゴア(ソプラノ)、ジョン・ロングミュア(テノール)、タニア・フェリス(メゾソプラノ)の各氏によって、「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」より・ヴィオレッタのアリア『花から花へ』、「カルメン」より『ハバネラ(恋は野の鳥)』『セギディーリャ』、「リゴレット」よりマントヴァ公爵のカンツォーネ『女は気まぐれ(女心の歌)』、「ドン・ジョヴァンニ」よりドン・ジョヴァンニのセレナーデ『窓辺においで』などが演奏された。

私もよく聞く曲が多かった。

 

続いて、深見東州・大貫裕子両氏により、日本歌曲『もみじ』『月の沙漠』『朧月夜(おぼろづきよ)』『椰子の実(やしのみ)』『赤とんぼ』『早春賦』『ふるさと』などが演奏された。どの歌も、心が豊かになる文字通り佳き歌ばかりである。『ふるさと』『朧月夜』は施設にいる母とよく歌う歌である。

 

《第二部》出演者全員とアルプス合唱団による「メサイア」が演奏された。中学校の音楽先生は、日比野箕之介というキリスト教の牧師の資格のある人立った。「ハレルヤコーラス」を何回も授業で聴かされた。私が西洋音楽に興味を覚えたのは「ハレルヤコーラス」を聞いたからである。家では時々聴くが、生の演奏を聴いたのは今日が初めてなので感激した。

 

「メサイア」は、ヘンデルが作曲したオラトリオ(大規模な宗教的楽曲)である。「メサイア」は「メシア」(救世主)の英語読みに由来するという。聖書から歌詞を取りイエス・キリストの生涯を題材とした独唱曲・重唱曲・合唱曲で構成されている。イエス・キリストの降誕を讃える宗教音楽である。

 

たしかに聞いていると宗教的恍惚感を覚える。生の演奏であるからなおさらである。西洋音楽は、キリスト教と切り離すことは出来ない。キリスト教と共にあると言っても過言ではない。音楽だけではない。絵画・彫刻・建築も然りである。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、全体が巨大な美術館と言ってもいい。

 

わが国の絵画・彫刻・音楽も宗教と切り離すことは出来ない。近世以前のわが国の彫刻の歴史は、仏像の歴史である。寺院建築は日本の建築史の大きな位置を占める。法隆寺は世界最古の木造建築物である。日本傳統信仰の「神楽」はわが国音楽芸術・舞台芸術の原点であろう。洋の東西を問わず、芸術と宗教は一体である。

 

パリで、イスラム過激派により凄まじいテロが勃発した日に、西洋音楽それもバッハの「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」と並ぶキリスト教音楽作品「メサイア」を鑑賞できたのは何か不思議な因縁を感じる。

 

パリにおけるテロ事件で、犯人たちは「アラーは偉大なり」と叫びながら、無辜の民を銃撃し殺戮した。宗教とは、人間に安穏と平和をもたらすものである筈なのだが、このように恐ろしい側面を持つのである。

 

パリのテロは衝撃的であり、何とも許し難い行為である。イラク・シリアなどの中東地域に於いては、今回のような凄まじいテロは数多く繰り返されている。パリだけではないことを確認しなければならない。

 

イスラム教が戦闘的だとか、排他的だとか、残忍だという批判もあるが、私は、宗教全体が、天使的な側面と悪魔的な側面を持つと考える。

 

「神は愛なり」「全世界に福音を宣べ伝えよ」と言っているキリスト教も、異端者への迫害は凄まじいものがあった。仏教とて、絶対的に大人しい、平和的とは言えない。

 

人類の歴史は、宗教戦争の歴史であったという側面を持つ。宗教戦争はいつまで続くのであろうか。今世紀に入って益々熾烈になり、多くの犠牲者が出ている。これを止める手立てはないのであろうか。

 

崇高なる『メサイア』を聴きながらそうを思った。そういう意味でも『秋に燃ゆる国民のコンサート!』は、意義深いコンサートであった。

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千駄木庵日乗十一月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、『大吼』連載の「萬葉集」講義原稿執筆・脱稿・送付。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、町屋斎場にて執行された、子供の頃からお世話になった方の「通夜」に参列。心よりご冥福を祈らせていただいた。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事・原稿執筆など。

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2015年11月17日 (火)

日本伝統精神の価値は今日まことに大切なものとなっている

 

 我が國は古来、東方の君子國といわれ、我が國民は、道義心篤く、勤勉であり、建國以来統一國家を保ち、隆々と発展して来た。しかるに、今日の我が國は、國民の道義心が頽廃し、祖國への愛も、親への尊敬心も、國民同士の信頼感も喪失しつつある。そして自國の歴史と伝統を軽視あるいは蔑視している。まさにわが國は亡國の危機に瀕している。それは文字通り世紀末的状況であるといわれている。

 

 しかし、世紀末というのはキリスト紀元に基づく考え方であり、わが國の伝統には本来なじまない。むしろ、最悪の事態においてこそ國家民族の維新を断行し起死回生して来たのが我が國の歴史であった。

 

 祖國日本を起死回生せしむるにはどうすればいいのか。これまで終末そして救済・革命を説いてきた宗教運動や政治運動は、かえって闘争と殺戮を生んできた。共産主義革命運動やオウム真理教がその典型である。これは絶対に避けなければならない。誤った宗教教義や政治思想の教条に支配されることなく、自然に國民を正しき道を歩ましめることが必要である。

 

 現代日本は、一億二千万という人間が日本列島に集団的に生きているに過ぎない状況になりつつある。個々人がバラバラにされて集団の中に埋没し、それぞれの欲望を満たすために生きていることが、「自由で民主的な社會」ということになっているのだ。個人は利己主義、企業は営利至上主義に陥っている。行政府の官僚も腐敗し堕落している。そして言論機関=マスコミもまた世を正しき方向に導く事なく偏向報道と俗悪出版・放送を垂れ流している。

 

 今日における「自由で民主的な社會」とは、利己主義者集団の生きる社會のことである。そして國家・國民という観念は否定され、市民社會・市民という國籍不明の観念が肯定されている。こうしたことが今日の混迷の大きな原因になっていると考える。

 

 わが國の麗しい山河、かけがえのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。我が國は神話時代(神代)以来の伝統精神すなわち日本國民の歩むべき道というものがある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。それ以外に道はない。

 

 それでは我が國伝統精神=日本人の歩むべき道とは何か。それを今日の正しく把握し歩むことが亡國的状況からの脱却すなわち現代の救済への道があると確信する。

 

 わが國の伝統精神は、一人の教祖が説いた教義・教条ではない。教条的で固定的な教義を絶対的なものと信じてこれを、信じ込ませるというのではない。日本伝統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先を尊ぶ心である。つまりきわめて自然で自由で大らかな精神なのである。

 

 我々日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、我が國の後世や外國に見られるような誰かが説いた知識として独立的に存在しているのではなかった。神とか罪悪に関する考え方が、全て祭祀という実際の信仰行事と不可分的に生まれてきたように、抽象的な論理や教義として我が國伝統信仰の精神即ち神道を理解することはできない。我が國においては生活そのものの中に伝統信仰が生きているのである。

 

 わが國の伝統精神における最も大切な行事は祭祀である。祭祀は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の実践なのである。祭祀が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。日本伝統精神の価値は今日まことに大切なものとなっている。

 

 天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇は建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来ている。天皇の御使命は、地上に稲作の栄える瑞穂の國を作られることにある。これが天皇中心の日本國體の根幹である。稲作生活から生まれた神話の精神を、祭祀という現実に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきておられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。

 

 その天皇の無私の祭祀の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。その天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。天皇中心の道義國家の本姿を回復する以外にない。

 

 天皇の祭祀において、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行われているのである。

 

 わが國の神は天津神、國津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。 

 

 今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。我が國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。我が民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。

 

 それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿ってると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。

 

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。

 

 我が國伝統信仰すなわち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。

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千駄木庵日乗十一月十六日


午前は、諸雑務。

 午後一時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『笹川平和財団 日米交流事業主催 講演会地域の視点、市民の視点から読み解く日米関係の今』開催。サトゥ・リマイェ氏(イースト・ウエストセンターワシントンD.C.事務所長)、ブルース・ストークス氏(ピュー・リサーチセンター国際経済世論調査部長)が講演。モデレーターは中山俊宏氏(慶應義塾大学総合政策学部教授)。質疑応答。

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帰宅後は、「伝統と革新」編集の仕事。『大吼』連載の「萬葉集」解釈原稿執筆など。

 

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2015年11月16日 (月)

「第五十七回 日本の心を学ぶ会」のお知らせ

 

 

大東亜戦争の意義を考える。

 

 

自民党は新組織を設置してGHQによる占領政策や東京裁判や現行憲法の成立過程を

 

検証するようです。首相直属のこの組織は谷垣幹事長をトップとして結党60年を迎える11月中に発足するようです。

 

このような動きには戦後レジームからの脱却を掲げる安倍首相のつよい意志が働いていることと思われます。

 

言うまでもないことですが、戦後レジームの原点と成っているのはGHQによる占領政策です

 

GHQは各種の検閲とメディアの統制を行い日本の弱体化を目指した心理作戦を行いました。

 

「真相はこうだ」「太平洋戦史」といった各種のメディアを通じた宣伝工作や、30項目にも上った報道規制を行い

 

さらに「東京裁判」を行うことで日本が悪辣な侵略国家であったことを日本人にすり込もうとしました。。

 

これらの心理作戦の目的は、大東亜戦争の意義を見失わせ、二度とアメリカに刃向かえない国家に日本を改造することです。

 

そしてGHQの目的は「東京裁判史観」としてその結実し、今現在も日本を拘束しています。

 

我々は本来の日本を取り戻すため大東亜戦争の意義を学ばなければなりません。

 

そこで大東亜戦争開戦の12月8日を前にした今年最後の勉強会では大東亜戦争の意義について考えてみたいと思います。

 

 

(今回の勉強会は日時と場所が若干変則的になっていますのでご注意ください。)

 

(勉強会終了後は忘年会を予定しております。こちらもご参加ください)

 

【日 時】平成27126日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 五階 会議室A

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

 

「大東亜戦争の意義と戦後体制打倒」四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

せと弘幸先生は調整中です。

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

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この告知文は主催者が作成しました。

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天皇信仰が高らかにが歌われている『國歌君が代』

『國歌君が代』には日本國民の伝統的天皇信仰が高らかに歌いあげられている。

 

「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで」

 

 元歌は、平安朝初期から知られていた詠み人知らず(作者不明)の古歌(『古今和歌集』巻第七及び『和漢朗詠集』に賀歌として収録)の一首「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千年も八千年も、小さな石が巌となって苔が生えるまで、末永くお健やかでいて下さい、というほどの意)である。初句の「わが君」は、尊敬する目上の人という意味であり、天皇を指す場合あるしそうでない場合もある。

 

 『古今和歌集』の「賀歌」とは、人が一定の年齢に達したときに行う行事に際して、他人が詠んで贈る歌である。祝いの調度としての屏風に書く歌として詠進されたものであるが、口誦(注声をあげてよむこと)として披露されたものであって公的性格が強い。

 

 『君が代』は、平安時代にかなり普及した賀歌(祝い歌)である。その後、中世に第一句が「わが君は」を「君が代は」(あなた様の寿命は)に改められて、今日の「國歌」と同じ形になった。中世から近世にかけて全國に広がり、謡曲や神楽歌そして小唄・浄瑠璃・薩摩琵琶などに取り入れられ、貴族だけでなくあらゆる階層の人々に身近な祝い歌として広く親しまれ歌われてきた。

 

 『君が代』はめでたい歌として貴族から庶民に至るまで自然発生的に全國民的に歌われ続けた歌である。

 

 江戸初期には、堺の町の美声の歌い手に隆達という人がいた。その『隆達節』にもこの『君が代』が最初に挙げられて、広く庶民の間に親しまれたという。薩摩琵琶(注薩摩で発達した琵琶、およびそれによる歌曲)の『蓬来山』という曲にも取り入れられた。

 

 明治初期に『君が代』が國歌として制定された時、薩摩の大山巌は、「わが國の國歌としては、よろしく宝祚の隆昌、天壤無窮ならん子とをり奉るべきである」として「平素愛誦する薩摩琵琶の中から『君が代』を選び出した」と語っている。

 

 以来、今日まで『君が代』の「君」は天皇の御事として歌われてきている。國歌『君が代』の「君」は天皇の御事である。反対勢力の「國民主権」の憲法に違反するという批判を恐れて、『君が代』の「君」は天皇のことではなく「僕・君」の「君」すなわち國民同士のことだなどと主張するのは大きな誤りである。

 

 また、「さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」という歌句をとらえて、小さな石が大きな岩に成長するということはあり得ないから非科學的な歌であるという議論があるが、これは『國歌君が代』を否定するための屁理屈である。

 

 石が成長して大きくなり巌となるというのは日本人の古来からの信仰的真実である。古代日本人は、石が成長すると信じた。『君が代』の歌の根底にはこの信仰がある。単なる比喩ではない。これは石や岩という自然物が生きているという自然神秘思想から来ている。 全てを命あるものとして見る自然信仰は、祖霊信仰とともに日本伝統信仰の大きな柱である。

 

 石や岩などの自然物に魂が宿っているという古代信仰は『萬葉集』の次の歌に表れている。

 

 「信濃なる 筑摩の川の 細石(さざれいし)も 君しふみてば 玉と拾はむ」(萬葉集巻十四・三四〇〇)

 

 東歌(萬葉集巻十四・古今集巻二十にある、東國方言で庶民が詠んだ和歌)である。「信濃の千曲川の小石もあなたがお踏みになったのなら玉と思って拾いましょう」というほどの意。恋人が踏んだ石には魂が籠っているという歌である。石に魂が籠るというのは古くからの民俗信仰であった。 さらに、柿本人麻呂が石見の國において亡くなる時、妻・依羅娘子がこれを嘆き悲しんで詠んだ歌では、

 

 「今日今日と 我が待つ君は 石川の かひにまじりて ありと言はずやも」(萬葉集巻二・二二四)

 

 と詠まれている。山の谷間の貝塚などに遺骸を葬る風習が古代にはあり、川に臨んだ貝塚群の底から、人骨が出土する例が報告されている。「石川のかひ」は、死者を葬った川のそばにあり水に浸された貝塚のことである。石川と名づけられたのも、小さな石(すなわちさざれ石)には霊が籠っていて、霊の憑依物・霊的なものとして考え、「玉」とも呼ばれた長い信仰がこの歌の底にはある。

 

 石と岩の違いは、石が成長した岩には魂が籠っているということである。「いは」の語源は「いはふ」である。「いはふ」は「いへ」と同根の言葉で、霊魂を一処に留めて遊離させないして霊力を賦活させ神聖化することである。そして「いはふ」は神を祭る意にもなった。神を祭る人(神主)を「斎主」(いはひぬし)、神を祭る宮を「斎宮」(いはひのみや)と呼ぶようになった。

 

 家に籠ることを「いはむ」という。「いはむ」とは忌み籠ることである。「忌む」とは、不吉(ふきつ) なこと、けがれたことをきらって避けること。特に、ある期間、飲食・行為を慎んで、身体をきよめ不浄を避けることをいう。「斎」(いつき・心身を清めて飲食などの行為をつつしんで神をまつる。いみきよめる。いわう。いつく。ものいみする、という意)と同じ意である。  「いつき・いつく」の「いつ」とは清浄・繁茂・威力などの意を包含している神聖観念である。天皇の神聖権威を意味する御稜威(みいつ)はこの言葉から来ている。

 

 このように、「いへ」「いは」「いむ」「いつく」は語根が同じくし、深い関係がある。ゆえに、魂の籠っている「石」を「岩」と言うといっていい。天照大神が籠られた「天の岩戸」は大神の神霊が籠られたところなのである。

 

 人々は、亡くなった人の遺体を石の下に埋める。わが國は古墳時代から墓に石を置いた。特に偉大な人の墓の場合は巨大な岩を置いた。墓を石で造るのは、石に魂が籠められるという信仰に基づく。石や岩に霊魂が籠ると信じた日本人は、石は地上にありながら、地下から湧出する生命・霊魂の威力を包み込んだ存在で、地下に眠る霊魂の象徴であり、よりしろ(憑代・依り代。神霊が宿るところ)と考えた。 

 

 日本の「家」(いへ)はそれを構成する人々つまり家族の魂が一処に籠っているということである。したがって、君が代(天皇の御代)は「石」が「岩」になるまで続くということは、天皇國日本は魂の籠っている永遠の國家であるということになる。岩を霊的なものとしてとらえ、それを永遠無窮・天壤無窮の象徴としたのである。そういう信仰を歌っている歌が『君が代』なのである。

 

「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に いほらせるかも」

 

という柿本人麻呂の歌の「いほらせる」は、「いほりする」の尊敬語である。「いほる」とは、「斎」(いつき)の意義が込められている。人麻呂は、天皇が神聖なる雷丘に忌み籠られて五穀の豊饒を祈る祭りをせられたことを詠んだのである。

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千駄木庵日乗十一月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後後六時半より、初台の新国立劇場に開催された『第二回秋に燃ゆる国民のコンサート』鑑賞。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年11月14日 (土)

三輪山信仰について

 三輪山は奈良県桜井市にある。大和盆地の東南にある山。麓に古道・山辺の道が通っている。海抜四六七㍍。周囲十六㎞。紡錘形の美しい山。麓に大物主神を祭る日本最古といはれる大神(おほみわ)神社が鎮座する。この神社の御神体が三輪山である。したがって大神神社には神殿は無い。大物主神は三輪山の御神霊である。大物主命は出雲に祭られてゐる大國主命の和魂であり別名とされてゐる。大國主命は皇孫命が大和に都を遷されることを知り、御自らの和魂を大物主と名前を変えて大和の神奈備(注地域社会・共同体ごとに信仰の対象になる神の山)である三輪山に鎮まられたとされる。

 

 三輪山にはつぎのやうな古来からの伝承がある。崇神天皇の御代に悪疫が流行した時、大物主神が、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト・孝霊天皇皇女)に神憑りし、また、崇神天皇の夢枕にあらはれ、「意富多多泥古命(大田田根子命とも書く・オホタタネコノミコト)に私を祭らせなさい」といはれたので、天皇がそれを実行されると悪疫はなくなったといふ神話がある。

 また、意富多多泥古命の三代の祖の活玉依姫(イクタマヨリヒメ)が、男性が通って来た様子もないのに妊娠した。両親が「どうして子供を身ごもったのか」と聞いたところ、夜、夢の中に眉目秀麗な若者が訪ねて来ると答へた。そこで両親はその男の身許を知るために男の衣服の裾に麻糸を通した針を付けさせた。朝になってその親子が男が帰って行った跡を、糸でたどって追って行くと三輪山に着いた。そこでその男は三輪山の神であることが分かった。                

 

 御神体になってゐる山には必ず磐座(イハクラ)がある。京都の岩倉にも磐座があり神社がある。巨石信仰は世界共通である。巨石信仰を英語ではストーンサークルといふ。大きな石を幾つか置いてそこに神が降って来るといふ信仰である。

 

 三輪山には頂上・中腹・三号目の三ヵ所に石群が山を取り巻く輪になってるゐる磐座がある。だから三輪山と名付けられたといふ説もある。

 

 三輪山はわが國の原始信仰が今日において生きてゐる山である。わが國には地域社會・共同体ごとに信仰の対象になる神の山があった。これを神奈備(かむなび)信仰といふ。そして神奈備山には磐座といはれる巨石がある。特に大和盆地の東南に美しい形で横たはってゐる三輪山を大和地方の人々はの姿を毎日仰ぎながら生活して来た、そして、神奈備とし古くから崇めて来た。大和地方の人たちにとって三輪山は信仰の対象なのである。

                   

 わが國は三輪山信仰などの太古からの信仰が今日唯今も生きてゐる。それも現代生活と隔絶した地域で生きてゐるのではなく、今日唯今の生活の中に生きてる。これが日本伝統信仰のすばらしさである。世界でも類ひ稀なことである。

 

 三輪山が大和地方の神奈備であるといふことは、三輪山はその地に都を置いてゐた大和朝廷の権威の象徴でもあったわけである。だから、敏達天皇の御代に、蝦夷の反乱を討伐して蝦夷の酋長を大和に連れて来た時、泊瀬川(はつせがわ)で体を清めさせて、三輪山の神の御前で大和朝廷への服従を誓はせたといふ。

 

 なぜ三輪山が大和の神奈備になったのかといふと、山の姿そのものが美しかったことにもよるが、それと共に大和盆地の東南に位置する三輪山の方角から太陽が昇って来たからである。そして大和盆地の上を太陽が渡って二上山の方角に沈んだ。故に太陽信仰・日の神信仰の象徴として三輪山が仰がれた。三輪山信仰は、山そのものを御神体として拝むと共に、三輪山の背後から昇って来る日の神への信仰・太陽信仰でもあったのである。

 

 三輪山の麓には檜原神社がある。ここは大和笠縫邑(ヤマトカサヌイノムラ)といはれ伊勢の神宮に祭られる前に天照大神が祭られた場所である。だから檜原神社を元伊勢と申し上げる。天照大神は最初に三輪山の麓に祭られた後、各地を経巡られて、最後に大和盆地の直線上東方に位置する伊勢の地に鎮まられたのである。

 

 また、三輪山の麓から真直ぐ西に行ったところに天皇御陵のやうに大きな大きな箸墓といふ古墳がある。倭迹々日百襲姫命の墓といはれてゐる。『書紀』には、この倭迹々日百襲姫命に大物主神が神懸りしたと伝へられてゐる。つまりこの墓は三輪山の神を祭った巫女の墓といふことである。

 

 邪馬台國畿内説をとる人は、この古墳を太陽神を祭った祭祀王である卑弥呼(ヒミコ)の墓であると言ってゐる。卑弥呼(ヒミコ)とは支那人が日本を蔑視してこのやうな漢字をあてたのであって、正しくは「日の御子」である。邪馬台國(ヤマタイコク)はいふまでもなく「大和の國」である。                     

 

 何故、日本最尊・最貴の神であられ、御皇室の御祖先神であり太陽神であられる天照大神が女性神であられるかといふと、太陽神を祭る祭り主が女性であったから、祭る神が祭られる神になったからであるといふ。太陽神が祭り主と合体合一したのである。

 

 大和盆地をはさんで三輪山の向かひ側(即ち大和盆地の西方)にある二上山には、刑死された大津皇子(天武天皇の第三皇子)の御陵がある。二上山の麓には当麻寺といふ寺がある。この寺はわが國最初の浄土信仰の寺であり、浄土を描いた有名な『当麻曼荼羅』がある。つまり二上山は夕陽が入る山であるので他界(西方極楽浄土)の入り口と考へられたのである。

 

 そして二上山の向かふ側には数多くの天皇御陵が鎮まっている。さらに西へ真っ直ぐに直線を伸ばすと、國生みの神であられる伊耶那岐命・伊耶那美命を祭った神社がある淡路島に至る。

 

 伊勢の神宮起源の地といはれる伊勢の齋宮から、大和盆地の三輪山・檜原神社(元伊勢)・倭迹々日百襲姫命墓・二上山を経て、仁徳天皇御陵などの天皇御陵の鎮まる大阪府堺市百舌鳥、そして國生みの神を祭る淡路島に至るまで、東西に走る直線で結ばれる、まことに不思議な事実がある。これは太陽の移動する線と共に神々を祭る地があるといふことである。この線は北緯三四度三二分である。

 

 三輪山の麓には、このほかにも崇神天皇・景行天皇の御陵もある。三輪山とその周辺が大和朝廷の祭祀の場所であったことは明らかである。

 

 『日本書紀』は、神武天皇と崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」(國を初めて統治された天皇といふほどの意)と称へてゐる。崇神天皇の御代に、それまで天照大神を宮中の大殿に祭ってゐたのを、大和笠縫邑(今日の檜原神社が鎮座するところ)にお祭りするやうになった。

 

 大和盆地に大和朝廷の都を置くといふのは、神武天皇以来の伝統であった。『日本書紀』に、神武天皇が塩土老翁(しほづちのをぢ)といふ航海・海路の神の御託宣により、大和橿原の地に都を開かれることを御決意あそばされた時の御言葉が記されてゐる。それには、 「東(ひんがし)に美(うま)し地(くに)有り。青山四周(あおきやまよもにめぐ)れり。…彼の地は、必ず以て大業を恢弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心(もなか)か。…就(ゆ)きて都つくるべし。」 と示されてゐる。

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千駄木庵日乗十一月十四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、書状執筆、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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2015年11月13日 (金)

「ジョルジュ・ルオー展」を参観して

 

今日参観した「ジョルジュ・ルオー展」は、「20世紀を代表するフランスの画家、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)。 重厚なマティエールと透明な輝きに包まれた神秘的な光の描写を特徴とし、敬虔なカトリック信者としての信仰に根ざした深い精神性をたたえた作品は、国や時代、信仰の違いを越えて多くの人々を魅了してきました。人間の苦悩、愛や希望を鋭く描き出したルオーの崇高で深遠なる世界を出光コレクションより厳選した作品でご堪能ください。本展覧会では、油彩・水彩による絵画作品および版画作品の中で、類型化され繰り返し描かれた人物表現に注目し、サーカスの人々・貧しい人々と驕れる人々・キリストと聖者たち・多彩な人物表現の各章に分けて紹介します。ルオーの同時代社会への観察者としてのまなざしと人間存在への深い洞察を手がかりとして、この画家が今なお私たちに訴え続けるメッセージを探り、その魅力に迫ります。作品総数約400点を誇る出光美術館のルオー・コレクションは世界屈指と言われています。しかし、東洋古美術を中心とした展覧会を主とする出光美術館では、ルオーの作品は連作油彩画《受難》シリーズを入れ替えながら紹介するルオー室での展示を中心に行ってきました。このため、本展は、没後50年の大回顧展以来7年ぶりにルオーの代表作を厳選して展示することになります。ルオー芸術の醍醐味を堪能することのできる貴重な機会をどうぞお見逃しなく」(案内書)との趣旨で開催された。

『ミセレーレ』(神よ、われを憐れみたまえ、あなたのおおいなる慈しみによって 1923)、『受難』 1935年、『裁判官』1912年、『辱めを受けるキリスト』1912年頃、『キリストの顔』1930年代、『正面を向いた道化師(半身像)』1939年、『ピエロ』1938-39年、『秋の終り』1952年、『たそがれ あるいは イル・ド・フランス』1937年、などが印象に残った。

イエス・キリストを描いた絵画を一時にこんなに数多く見たのは初めてである。所謂宗教画なのだが、神聖な威厳を描いた絵ではなく、悩める人、苦難に耐える人としてのイエス・キリストを描いているように見えた。イエスキリストは、人間の罪に対する贖いとして捧げられた『神の子羊』といわれるのだからそれは当然かもしれない。

総じて暗い作品が多かった。ただ『たそがれ あるいは イル・ド・フランス』などの風景画も展示されていた。暗い表情のキリスト像を数多く見たからであろうか、風景画には癒される思いがした。全体としてルオーの信仰者としての真摯な姿勢が感じられた。

 

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千駄木庵日乗十一月十三日

午前は、諸雑務。

昼は、施設に赴き、母に付き添う。

午後は、丸の内の出光美術館にて開催中の「ジョルジュ・ルオー展」参観。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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日本伝統信仰の自然崇拝の精神こそが、一神教同士の闘争による滅亡の危機を救う原基となる

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三大一神教の対立と闘争の歴史は、人類の歴史に計り知れない惨禍と殺戮をもたらした。

 

 欧米社会で行われ来たユダヤ人差別と迫害は、キリスト教のドグマによる。キリスト教国で反ユダヤ感情の無い国は無いと言っていい。それはキリストを神の一人子として受け入れないユダヤ人に対するイエス・キリストの「あなたがたは……悪魔から出てきた者であってその父の欲望どおりを行おうと思っている。彼らははじめから人殺しであって、真理に立つ者ではない。」(『聖書・ヨハネ伝』八章四四節)という宣告に基づくのである。『聖書』こそが反ユダヤ思想の基礎文献なのだ。

 

 イスラム教のユダヤ教及びキリスト教に対する排撃思想は、イスラム教の聖典『コーラン』(マホメットが唯一神アラーから受けた啓示を集録したもの)に次のように記されている。「信ずる人々よ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を友としてはならない。彼らはお互い同士だけが友である。お前たちの中で彼らを友とする者がいれば、その者は彼らの同類である。神が無法の民を導きたもうことはない」。さらにコーランには、「命には命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、受けた傷は同じ仕返しを」と書かれている。

 

 ユダヤ教は、紀元前四世紀頃から発達し、ユダヤ(イスラエル)の砂漠で遊牧民の間に信じられたエホバ神(ヤーヴェ)が、多くの苦難を経て、モーゼという預言者によって「唯一最高絶対の神」とされた宗教であり、ユダヤ人を神に選ばれた選民と自覚する。

 

 キリスト教は、ユダヤ教の「唯一最高絶対の神」を信じ、さらにイエス・キリストを「神の一人子」=救世主と仰ぎ、エホバ神をユダヤの民族神から世界的な普遍神にまで高め、さらにギリシャを経てローマに入り、ゲルマンの狩猟民に信じられ、今日の天地の創造主・世界人類の唯一絶対神たるゴッドの地位を確立した。

 

 イスラム教もまた、「唯一最高絶対の神たるアラー」を信じる一神教である。西暦六一〇年にマホメットによって創唱された。マホメットこそが唯一絶対神のもっとも偉大に使徒であり預言者と仰ぎ、ユダヤ教の教師を否定し、イエス・キリストを「神の一人子」とは認めない。

 

 つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、砂漠の遊牧民に信じられた「唯一絶対神」を信じるということでは全く共通している。しかし、お互いに異端・異教徒として排撃し反目して来たのがこれまでの長い歴史であった。

 

 砂漠の宗教たる一神教は、「血」による贖い(罪滅ぼし)を求める。「血を流すこと無しには罪の許しはあり得ない」とする。ユダヤ教もイスラム教も神の祭壇に羊を供える。ユダヤ教の祭司たちは動物を裂き、その血を流してた身の罪をあがなってきた。

 

 イエス・キリストも自分の血を流すことによって人類の罪の許しを神に乞うた。だからイエスキリストは「神の子羊」といわれるのだ。キリスト教徒が神に捧げるパンと葡萄酒はイエスキリストの肉と血の象徴である。

 

 キリスト教国であるアメリカでは十七世紀に、マサチューセッツ州で清教徒による専制政治が行われ、「異端者」(非キリスト教)を絞首刑にしたり、「魔女」(民間信仰のシャーマン)を火炙り(焚刑・ふんけい)にした。

 

中川剛氏は、「近代アメリカは最も基本的に民主主義の制度は正にこの清教徒の専制政治の歴史的派生物であることをもし認識できないとすれば、それは歴史をひどく歪めることになるであろう。」(『憲法を読む』)と論じている。

 

キリスト教に限らず、一神教とはこのように排他独善的にして残虐な側面をもつ宗教なのである。

 

 一神教の神は、その意志に反する者を、全能の力を以て処罰し抑圧し征服する。そして、その神を信じ救いを求める者のみを救済する。この排他性によってお互いに攻撃し合っている。

 

 この三つの宗教の中で、キリスト教を信じた欧米社会が、高度な文明を築き上げ、地球上の他民族を征服して、植民地として隷属させた。その歴史の過程において様々な侵略や戦争が繰り広げられた。

 

 一神教同士の対立と抗争がどれだけ多くの人々を殺し、人類に生き地獄の苦しみに落とし込んだか。宗教とは人々に安心立命・真の幸福とやすらぎを与えるものであるはずなのだが、一神教の歴史は逆に人類に不幸と殺戮を与えていると言える。今日もまた、三つ大きな一神教の大戦争が今行われている。

 

 一神教国家ではなく多神教の国である日本の使命として、精神的宗教的に何を為し得るかを考えるべきであろう。

 

アメリカのアーミテージ国務副長官は、湾岸戦争の時に、柳井駐米大使(当時)に対して、「ショー・ザ・フラッグ(日の丸を見せろ)」と発言した。わが国の国旗・日の丸は太陽を形どっている。英語では、「the risingsun flag 」といわれている。わが国の伝統信仰たる神道は、太陽の神であられる天照大神を最尊・最貴の神と仰ぎ、皇室の御祖先神として崇めている。

 

 「日の丸が見える支援」とは、わが国の伝統信仰の精神で一神教の対決と闘争の歴史に終止符を打つ使命を果たすことである。        

             

 日本神話を拝すれば明らかなように、天照大神は、唯一絶対・全知全能を誇る神ではない。八百万の神といわれる日本の神々の使命・性格を生かし高める神である。一神教の神のような裁きの神、妬みの神、復讐の神ではない。

 

 日本神話では天地自然や人間は唯一絶対神によって造られた存在ではない。人も国土も君主も伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在である。

 

 さらに神の御命令によって地上に天降られた邇邇藝命の最大の御使命は、地上を瑞穂の国すなわちみずみずしい稲の穂が稔る国にするというきわめて平和的な信仰である。邇邇藝命という御名には、稲穂のにぎにぎしさを讃え稲穂に籠る霊への信仰が内包されている。

 

 生命の永遠の循環と共同体の相互扶助を身を以て体験する稲作生活から生まれた規範を大切にする日本民族の祭祀に、言葉の真の意味における平和の姿を見出すことができる。

 

 それは日本神話の言葉を以て言えば、「高天原を地上に実現する」ということである。この精神を発展させて、全世界を農作の栄える国とするという使命を日本が果たすべき時が来たといえる。お互いの神を排斥合うのではなく、同じ天地の神として尊重し合う精神を持たなければ宗教戦争は終焉を迎えない。否、終焉を迎えないどころか人類を滅亡に追いやる危険さえ含んでいる。日本伝統信仰の自然崇拝の精神こそが、一神教同士の闘争による滅亡の危機を救う原基となると信ずる。 

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2015年11月12日 (木)

千駄木庵日乗十一月十二日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・送付。『伝統と革新』編集の仕事など。

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『国見』について

 「國見」とはただ単に景色を眺めるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する行事である。

 

 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」と論じられてゐる。(『現御神考試論』)

 

 天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

 

 つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。           

 

 昭和五十四年十二月四日、先帝昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏の「昭和の國見ですね」とふ言葉に、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のやうな御製を詠ませられた。

 

 「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

 

 昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」といふ御題で賜った御歌が、

 

 「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」

 

である。

 

 農業國家・稲作國家であった古代日本は、國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願ひ感謝しそして自然災害が起こらないやうに神に祈る祭祀を行ふことがことが大きな使命であった。ゆゑに、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。日本においては宗教と政治、祭祀と政治は一体であるべきである。これを<祭政一致>といふ。

 

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2015年11月11日 (水)

千駄木庵日乗十一月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が、柿本人麻呂の歌などを講義。

帰途、出席者の方と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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この頃詠みし歌

参り来し如意輪観世音の姿見えず 御簾の奥にぞ鎮まりませば

見えぬが故に観音妙智力なほさらに強き光を発しゐるなり

父の魂肉体を離れ行きし時ベッドのそばに坐りゐし吾

横たはる父の遺体をぬぐひゐる看護師たちを見つめゐし吾

今はただ幽世より我を護りたまふ父の御霊に経誦するのみ

冬近し 街の銀杏の葉も落ちて裸木となる日は迫り来る

温風器のスイッチを入れセーターをまとへばすでに冬来たりしか

幼き日の甥を思ひ出す その甥が幼子と遊ぶ姿を見つつ

大慌てで靴を捜しゐし夢を見ぬ 何にせかるるこの頃の我

古き家は壊されてゆくさみしさよここに住みゐし人は何処に

幼き日より親しみし人もその家も消え去り行きしことのさみしさ

大乃国に似てゐる人が運び来しもつ焼きを食す小さき居酒屋

神に祈る時には姿勢を正すべしと自らに言ひ神前に坐す

姿勢を正し書を読むことの大切さ もの学ぶ時の心ととのふ

波風を立てずによろしく生きてゆくこと難きかな 今日のわが怒り

山の村に生きゐる老人を描きたる玉堂の絵に心やすらぐ

すがしくも朝を迎へし千駄木の街眺めつつ深呼吸する

秋の朝太陽に照らされし家々は明るく清くかがよひてをり

沸々と力湧き来る朝(あした)なり大日輪に照らされ立てば

(えにし)ありし人の遺詠を讀みにつつ遠き日の健やかな姿を偲ぶ

これの世を去りたる人の歌を讀み久方ぶりに会ひし心地す

少しだけの日本酒を呑み温かき心と体で家路へ急ぐ

友と共に小さき酒場で酌み交はす秋の夜の酒ほのうまきかな

母上と相撲中継を見てをれば懐かしき人が勝負審判

訥々と友は友は語れは我はまた滔々と語る今宵楽しき

 

問ひ詰めてはならぬことあり真向へる人の顔見てやっと気づけり

 

山の向ふに幸せの国があるものと言はれても山が見えぬわが町

 

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千駄木庵日乗十一月十日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

夕刻は、西日暮里にて、永年の同志と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年11月10日 (火)

満州事変は絶対に侵略ではない

 侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪い取ること」と定義される。満洲は支那・中國ではないし満洲は独立主権國家ではなかった。満洲は、諸民族が混在する無主の地であった。したがって、満洲事変は日本による中國侵略ではない。 

 

 もともと満洲は満洲民族など北方民族の住む土地であった。『後漢書東夷伝』に、九夷ということが書かれているが、朝鮮・満洲・日本がその中に入っている。満洲は支那にとっては朝鮮・日本と同じく「東夷」であり「中華」ではないのである。清朝時代に完成した大百科『四庫全書』には、支那の黄帝開國以来、清は支那歴代王朝と並存する國家だったと書かれているという。萬里の長城の内と外とは有史以来、敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那・中國ではない。したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならない。               

 

 満洲人は一七世紀初頭、萬里の長城を越えて支那大陸を征服した。清朝は支那大陸(萬里の長城の内側)への征服王朝であり、満洲は漢民族の地ではない。明が、東夷の満洲族によって滅亡の運命に瀕していることに深い同情の念を寄せた徳川光圀は、日本に援助を乞いに来朝した儒者・朱舜水を師として厚く遇した。

 

近松門左衛門は明朝遺臣・鄭成功の反清復明を旗印にした大陸反抗を『國姓爺合戦』の劇に仕組んで、大阪町人の喝采を博した。清朝時代の支那は、清によって征服された植民地だったのである。満洲族の清朝が漢民族の住む支那全土を支配したことによって、満洲が支那の一部になったわけでは決してない。 

満洲事変の結果、五族協和・王道楽土の理想國家が建國され、満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらした

 

一九○五年八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人に対する蔑称)を追い払い、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。         

 

 革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じような異民族と断じた。満洲を外地・外國と考えていた。日本人に対しては孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

孫文はまた、「余は人民自ら己を治むるを以て政治の極則なるを信ず。故に政治の精神に於ては共和主義を執る。…況や清虜(満洲人への蔑称)政柄を執る茲に三百年。人民を愚にするを以て治世の第一義となし、その膏血を絞るを以て官人の能事となす。…試みに清虜の悪政に浴せざる僻地荒村に到り見よ。彼等は現に自ら治むるの民たるなり」と論じた。(宮崎滔天の『三十三年之夢』)

 

 明治四四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行われた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲は正に化外の地であった。それは日本統治下に入る以前の台湾と同じである。孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考えていなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命していた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだろうか。

 

 したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならないのである。

 

 わが國軍民は満洲事変が起こる以前から「ポーツマス条約」に基づいて合法的に満洲に在留していたのだし、満洲事変によって満洲の土地・財物を不当不法に奪取していないのだからそれは当然である。それどころか日本軍によって満洲の治安が回復したのである。

 

 また、満洲事変は自存自衛・満州の平和のための作戦行動である。満洲事変の結果、五族協和・王道楽土の理想國家が建國され、満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらし、かつ、ソ連の南下・侵略を食い止めた。まさに、自存・自衛・満州の平和実現の戦略に基づいて、満洲の独立・建國を日本が主導して実現させたのが満洲事変である。

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千駄木庵日乗十一月九日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。有り難し。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年11月 9日 (月)

幕末国学者の憂国の歌

十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは、西洋列強・白色人種による侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、アジア各地において民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

国学運動の底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないといふ悲憤慷慨の思いであった。危機的状況を迎えんとしてゐた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないといふ精神が国学運動を起こしたのである。国学は幕末期の日本に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。

 

そしてさういふ思ひは、次に挙げる国学者たちの歌に表れてゐる。

最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

「ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは」 

 

「よく道を踏みわきまえて間違はないやうにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」といふほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

徳川幕府八代将軍・吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。さうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

「神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる 汝が名のらさね」

 

 と詠んでゐる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言ふのか、名乗ってみろ」といふほどの意。

 

雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨してゐるのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌ひあげてゐる。

 

この歌が歌はれた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示してゐるのである。

 

さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

「湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり」

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」といふほどの意。児童子供と雖も、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しというふことを歌ってゐるのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。

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千駄木庵日乗十一月八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2015年11月 8日 (日)

「萬葉古代史研究会」のお知らせ

四宮正貴が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 十一月十一日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

 會場 豊島区南大塚地域文化創造館

 東京都豊島区南大塚二-三六-一 〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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馬英九によるイタチの最後っ屁

馬英九・習近平という二人の「醜い中国人」は、「一つの中国」という原則のもと、関係の平和的な発展をめざすことを確認したという。

 

「中国」などという侵略国家・帝国主義国家・軍国主義国家が二つも三つもあったらたまらない。一つで結構。今更確認する必要はない。

 

馬英九は、蒋介石の遺訓を忘れたのか。蒋介石の遺言は、「光復大陸国土・実践三民主義・堅族守民主陣容・復興民族文化」である。大陸を支配する共産政権を打倒して失地を回復し、三民主義の国家を実現し、自由民主陣営に属し、民族文化を復興せよ、というのが蒋介石の遺言である。

 

他国他民族を侵略支配し、民主主義を全く無視し、蹂躙し、国民を弾圧している支那共産党と妥協し、握手すること自体、蒋介石の遺言を頭から否定する行為である。

 

死に体となった馬英九の「イタチの最後っ屁」を問題にする必要もないかもしれないが、以上の感想を抱きました。

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わが国と支那の国柄の違い

わが國は、「葦原中國(あしはらなかつくに)」即ち「中國」なのである。山鹿素行の『中朝事實』という著書がある。これは徳川時代初期に著されたもので、「日本は神國なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。

 

平泉澄氏は次のように論じている。「山鹿素行先生は…日本こそ他國にすぐれたる國であり、正しく中華といひ、中國といひ、中朝といふべき國であるとして、ここに日本の歴史を述べて、これに題して中朝事實といはれたのであります。…中朝事實こそは、長く外國の學問に耽り、外國の思想に惑ひたる後に、一朝目覺めて日本を發見し、日本の偉大に驚歎し、ここに眞の學問として日本學を樹立組織せんとしたる先哲の偉大なる足跡といふべきであります」(『日本學叢書 中朝事實』解説)と。

 

山鹿素行は我が日本こそ文化概念としての「中國」であって、支那は「中國」にあらずとの前提に立っている。『中朝事實』には「皇祖高皇産霊尊、遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵命を立てて、葦原中國の主(きみ)と爲さんと欲(おぼ)す。…是れ、本朝を以て、中國と爲すの謂(いひ)なり」「本朝の 神代、既に 天御中主尊有り、二神(ふたはしらのおほんかみ)國の中の柱(みはしら)を建つれば、則ち、本朝の中國たるや、天地自然の勢なり」と記されている。 

 

支那大陸では色々な民族が混在したり融合したりして来たし、種々の國が相次いで興亡を繰り返してきた。それはヨーロッパにおいてギリシアやローマが相次ぎ、種々の民族が混在したり融合して来たのと同じである。

 

和辻哲郎氏は「同じシナの地域に起こった國であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝國と神聖ローマ帝國と近代ヨーロッパ諸國とが相違するほどに相違している…ヨーロッパに永い間ラテン語が文章語として行われていたからと言って、直ちにそれがローマ文化の一貫した存続を意味するのではないように、古代シナの古典が引き続いて読まれ、古い漢文が引き続いて用いられてきたからと言って、直ちに先秦文化や漢文化の一貫した存続を言うことはできない。」(孔子)と論じられている。

 

支那大陸を統一したといわれる秦、そしてそのあとの漢の大帝國も、人倫を喪失した権力機構なのであり、「天子」と言われる君主も實質は権力者・覇者であって、支那大陸の王朝はわが日本のような天皇を中心にした同一の文化と信仰と傳統をもって統一され継承された信仰共同體・人倫國家ではなかった。強いもの勝ちの覇道(権力・武力・経済力・権謀術数の力)が支那を制して来たのである。またそうした覇道でなければあの広大な大陸を統一できなかった。

 

従って支那大陸に生活する人々は親子・夫婦・兄弟といった家族関係即ち血縁共同體たる「家」を大切にしても、國家観念はきわめて希薄であった。支那の古典『十八史略』に「日出て作り、日入りて息ふ、井を鑿りて飲み、田を耕して食ふ。帝力我に何かあらむや」という言葉があるのでも分かる通り、支那大陸に住む人々の生活は家を中心としていて國家の保護や干渉は否定していたのである。それだけ権力者が好き勝手は事をして民衆を苦しめてきたということである。それは今日の共産政権も同じである。

 

要するに支那大陸は様々な氏族が覇を競い様々な王朝が興亡を繰り返した来た地域であって、全體が一貫した文化傳統を有する統一した國家ではあったことはなかった。天皇を中心に時間的連続性地域的統一性を連綿として維持し続けてきた信仰共同體國家たるわが日本とは、全くその性格を異にする地域が支那なのである。

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千駄木庵日乗十一月七日

午前は、諸雑務。

昼は、施設に赴き、母の食事の介助。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。田村秀雄産経新聞特別記者が「膨張する中国リスクと日米協調の行方ーTPPを主導する日米はAIIBを仕切る中国を包囲できるか―」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。高乗正臣平成国際大学名誉教授が「憲法九条解釈の限界」と題して講演。活発な質疑応答・討論が行われた。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2015年11月 7日 (土)

変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる

和歌は日本人の情念と思想を表現し訴へる文學形式である。そして和歌は日本の道統に則った現状変革を目指す志から生まれる。詠む者に維新変革への志があってこそ和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。現状に満足し変化を望まないといふ意味での「平穏な暮らし」の中からは和歌は生まれない。ここでいふ維新変革とは政治的変革だけではない。自己変革・人間の生活や精神の変革も含まれる。

 

「革命的ロマンチシズム」といふ言葉がある。現状を否定し永遠の理想を追求する、そのために命を懸けた戦ひをするといふ意味の言葉であらう。人間が命懸けになった時、素晴らしい歌が生まれる。それは明治維新の志士たちが大事を実行するにあたり決意を込めて詠んだ歌や、大東亜戦争の将兵たちが和歌に自分の最後の思ひを託して死地に赴ていったことを見ればわかる。和歌は「命懸け」の精神と行動の美的表現として歌はれる事が多い。

 

村上一郎氏は、文學および詩歌を定義して「詩的な言語表現をもってする人間の生き死にの道の表現である」(『明治維新の精神過程』)と語ってゐる。人間の「生き死にの道」の表現を言語で行ふことは、言葉の価値を最高に認めることである。

 

「いのち」が枯渇し「言靈」が失はれた「言語」が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。現代においても、和歌や俳句といふ日本傳統文藝は多くの人々によって継承され愛好されてゐる。しかし、いのちある言葉・言靈は不足してゐるのではないだらうか。

 

歌とは、神への「訴へ」をその起源とする。和歌は、元初から神聖なるものとして尊ばれてきた。その神聖感は近世に至るまで生きてゐた。『古今和歌集序』の「天地をも動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」といふことは、決して誇張ではなく真実にさう信じられてゐたのである。

 

近代とりわけ戦後になって、この魂の訴へとしての和歌が余り歌はれなくなったやうに思へる。西洋の影響下に展開して来た近代文學全般が日本古来からの言靈信仰を無視した。今こそ、魂のこもった和歌が多くの人々によって歌ひあげられなければならない。「言靈の幸はふ國」を回復しなければならない。

 

「愛國心」とは個人が運命共同體として結集し拡大された鞏固なる歴史的存在意識であるといふ。「愛國心」といふ言葉が使はれ出したのはおそらく明治以降であらう。「愛國心」極言して「ナショナリズム」といふ言葉は、明治以後外國との交渉や競争が激しくなってきてから顕在化したと言へる。これはいふまでもなく「やまとことば」ではない。漢語である。また國を愛する心は日本國民のみが持ってゐるものではない。

 

 日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 

 日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛國心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一體である。

 

 大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、言ふまでもなく愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 

 維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

 維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 

 伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言っている。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

 

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

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千駄木庵日乗十一月六日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』編集会議。終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2015年11月 5日 (木)

維新と和歌

 愛國尊皇の心を張りつめた精神で歌ふ時、やはり日本傳統の文學形式即ち和歌で表現されることが多かった。漢詩にもすぐれたものもあるが、和歌が日本人の真心を表現するのに最も適した文芸であるからである。

 

 明治維新において神武建國への回帰が新しい日本建設の基本理念になった如く、現代維新も復古即革新が基本である。日本の大いなる道と大いなる命にいかに目覚めるかが、今日の変革の基本である。その意味において、現代において維新を目指す者は、明治維新を目指して戦った先人たちの志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切なのである。そのためにも先人たちの詠んだ詩歌を學ぶべきであるし、自己自身も歌心を持つべきである。

 

近代においてわが國にも共産主義革命思想が流入し、共産主義革命運動が起った。しかし、共産主義革命運動においては、美しい日本の歌は決して生まれなかった。共産主義革命は日本の道統を否定した変革だからであらう。

 

民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新といふ。そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。

 

いにしへから傳へられた「五・七・五・七・七」といふ形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝である。 

 

現代日本においても和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指すわれわれは、和歌の力・言靈の力の偉大さを今こそ実感すべきである。

 

日本の傳統文芸の復興、日本文學の道統の回復とは、天皇皇室を中心として行れるべきである。とりわけ和歌は、古代より、「宮廷ぶり」を最も大切なものとしてきた。和歌の根底にあり続けたものは、御歴代天皇の御製である。和歌は、宮廷に始まり、その正統なる「しらべ」は宮廷の御歌にある。武家専横の時代にあっても、外来文化思想が隆盛をきはめた時代にあっても、日本民族の中核的な傳統精神・美感覚は宮廷において継承され保持されてきた。

 

阿部正路氏は、「日本の傳統の精神がもっとも荒れはてた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないのだろうか。それが具體化するかどうかに、日本の傳統の意志の行方が見定められることになるのだと考えられる。日本の和歌が、世界でもっとも長く傳統に輝き得たのは……勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具體化し得たのであった。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。まことに大切な主張である。

 

大化改新の時に『萬葉集』が生まれた。明治維新の時に勅撰和歌集が生まれなかったのはまことに持って残念といはざるを得ない。

 

今日の日本はまさしく亡國の危機に瀕してゐる。現代の余りに情けない頽廃を是正しなければならない。今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてそれは祖國への愛・至尊への恋闕の思ひを歌ひあげる和歌の復興によって実現するのである。

 

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千駄木庵日乗十一月五日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。

午後六時よ、笹塚にて、永年の友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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大御心にまつろひ奉ることが日本國民の道義心の根幹

天皇國日本存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と國民の「尊皇精神」である。神聖君主・日本天皇に「清らけき心」「明けき心」で随順したてまつることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の基礎である。私心なく天皇にお仕へする心がもっとも大切である。それは、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

 

日本人の倫理的道義的理想は、「捨身無我」である。和辻哲郎氏は、「『清き心』の伝統は、尊皇の道の一つの顕著な特徴として、この後の倫理思想の潮流の中に力強く生きている。…清さの価値は『私』を去ること、特に私的利害の放擲に認められる。しかるに私的利害は己の生の利害であるから、…自己を空しゅうすることにほかならない。それは生命に根ざす価値ではなくして、生命を請えた価値である。…日本武尊は典型的な英雄として描かれているが、領土とか富とかはおよそこの尊と関係のないものである。」(『尊皇思想とその伝統』)と論じている。

 

わが國道義精神の基本は「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」である。それは「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来からのわが國の尊皇精神である。わが國の道義精神の中核は、日本國の祭祀主として神聖なる御存在であられる天皇に對し奉り清らけく明らけく仕へまつる心=清明心である。わが國の道義精神の中核は、日本國の祭祀主であられ。

 

わが國における「尊皇精神」「忠義」とは、現御神日本天皇に對する絶對的な仰慕の心・戀闕の心をいふのである。一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることが最高の道義なのである。それを「清明心」といふのである。

 

「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

 

天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「然(しか)あらば、汝(みまし)が心の清く明きは何を以ちて知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

 

日本人の倫理道徳の根本は、「清明心」「正直」「まこと」「無私」にある。そして、祭り主日本天皇は、「清明心」「無私」の體現者であらせられる。

 

また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。

 

日本國民は古来、「清らけく明らけく」(清明心)を最高の価値として来たのである。清々しく明るい日本民族精神は、天皇の神聖性を讃嘆し、その大御心に従ひ奉る精神なのである。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが國の重要な道徳観念である。日本人は、「あいつは悪い奴だ」といはれるよりも、「あいつは汚い奴だ」といはれる方を厭ふ。

 

和辻哲郎氏は、「たとい激しい争闘の中に対立していてもなお敵手を同胞として感ずるというごとき、きわめて人道的な人間の態度を可能にする。敵を徹底的に憎むということは日本的ではなかった。ここに我々は、日本人の道徳思想の産み出されて来る生きた地盤を見ることができる。…人間の行為と心情は『貴し』『明(あか)し』あるいは『きたなし』『卑し』として評価せられる。かかる評価の内にすでに国民の特殊性が反映しているのである」(『風土』)と論じている。

 

わが國においては善悪よりも清いか汚いかが道徳基準となる。「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で体現されるお方である。日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。

 

天皇の「祭祀」そしてそれと一体のものとしての「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志に「まつろう」(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。 

 

今日の道義の頽廃はまさに末期的である。日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

 

尊皇精神・勤皇精神が希薄になればなるほど、日本國民の道義心・倫理感が希薄になる。なぜなら、天皇は、日本國民の道義感・倫理感の鏡であるからである。今日の皇室への尊崇の念の希薄化と道義心の低下とは相関関係にあると考える。日本民族が尊皇精神を喪失した時、日本國は崩壊の危機に瀕するのである。

 

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千駄木庵日乗十一月四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、原稿校正、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2015年11月 4日 (水)

仲代達矢の文化勲章を剥奪せよ

ある同志の方から次のようなメールが送られてきましたので紹介します。

               〇

仲代達矢が、 文化勲章の親授式に欠席した理由が、自分の劇団興行を出席よりも優先させたからだとテレビが伝えた。つまり文化勲章という国事行為も天皇陛下をもコケにした傲慢極まりない態度は、赦されざる一大事と言うべき大罪である。朝鮮人の出自である大江健三郎が怨念に満ちて反日的に育ったのとは異質のケースのように見えて、天皇の御稜威を蔑ろにしている点で同根そのものだ。寧ろ、自分が天皇の上位に在るかの如き振る舞いを全国民に見せた悪影響の罪、軽からず、だ。木を見て森を見ざる、否、森が見えざる奴バラに文化勲章は、そもそも似つかわしくは無い。即刻、剥奪すべきである。仲代達矢よ、驕る勿れ!

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 明治維新の思想的基盤としての国学

 明治維新の思想的基盤である近世国学は、それまでの日本で重んじられていた儒教や仏教という外来思想に抗して、それとは別なる日本独自の「道」を主張した。そこに近世国学の特質があった。

 

 日本独自の道とは、日本民族が古来より持ち続けている信仰精神である。国学とは、古代日本精神の復興による当時の時代思潮への批判思想である。

 そして国学は政治思想という狭い範疇に属するものではなく、文献学であり、和歌の学問であり、国語学・国文学であり、神道学である。

 

 そして外来の思想や文化を「からごころ」(からとは支那のことであり支那を通して日本に伝来した思想や学問そしてそれをもととした思考のこと)批判を展開した。

 

 十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジア西洋列強の侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

 したがって、国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学は幕末期の日本に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。危機的状況を迎えんとしていた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないという精神が国学運動を起こしたのである。

 

 そしてその底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないという悲憤慷慨の思いであった。そういう思いは、次に挙げる国学者たちの歌に表れている。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

「ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の跡を見るのみ人の道かは」 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

「神國の道ふみそけて横さらふいづくにいたる汝が名のらさね」

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。

 

 春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

「神風に息吹きやらはれしづきつつ後悔いむかもおぞの亞米利加」

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

「湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり」

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。

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千駄木庵日乗十一月三日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、新宿にて、遠来の友人ご夫妻の歓迎会。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年11月 3日 (火)

古代日本人の霊魂観・死生観と大津皇子の辞世の御歌

「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱(がく)りなむ」

 

 大津皇子が、持統天皇より死を賜った時の辞世の御歌である。大津皇子は、天武天皇第三皇子。母君は天智天皇の皇女・大田皇女(持統天皇の同母姉君)。天武天皇崩御後二十五日目の、朱鳥元年(六八六)十月三日、皇位を窺ったといふ御謀反の罪によって処刑された。御年二十四歳。御年十歳にして壬申の乱で天智天皇のお供をした。大田皇女の薨去後、天智天皇に非常に愛されたと伝へられる。風貌たくましく音吐朗々として才学があり、文筆を愛し、弁舌もすぐれ、学問も好み、詩賦には大津皇子から起こったと『日本書紀』は記してゐる。

 

 『懐風藻』によると、多力にして剣を撃つことにも秀で、性放逸、人士と見れば身を低くして礼遇したため、諸人の支持が厚かったが、たまたま占星をよくする新羅僧行心といふ者に、臣下で終わる骨相ではないといって謀反を勧められ、ついにその身を誤ったといふ。

 

 「磐余の池」とは奈良県桜井市の西南部、天香具山の東北一帯にあった池といはれる。「般(つつみ)」は「堤」と同じ。「ももづたふ」は、「磐余」に掛る枕詞。「つぬさはふ」(同じく「磐余」に掛る枕詞)が正しいのではないかといふ説がある。「鴨」は、水鳥。種類がきはめて多い。夫婦仲の良い鳥とされる。「今日のみ見てや」は、今日を限りの見納めとして。「雲隱りなむ」は、死んでしまふことだなあといふ意。雲は人の霊魂を運ぶといふ信仰があった。「雲に隠れる」とは死ぬこと。人間の霊魂は死んだら雲になると信じた。

日本武尊は薨去される時、「はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も」(懐かしいわが家の方から雲が立ち上って来るよ)と歌はれた。すでに自分の魂は自分の家の方には帰ってゐると歌ったのである。

 

 柿本人麻呂が、溺れ死にした出雲娘子が火葬されたときの挽歌に、「山のまゆ 出雲の兒らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく」といふのがある。火葬のときの煙を見て、出雲娘子は霧になって天に昇っていったと歌った。「萬葉集」初期の頃に、火葬が始まった。

 

 雲に隠れるといふのは、自分の生命は死んだら雲の中に隠れて永遠の生命を保つといふ信仰である。自然の中に霊魂・精霊が宿るといふ信仰である。この世からいなくなるのは幽(かく)り世に行くことなのである。

 

 通釈は、「(ももづたふ)磐余の池に鳴いてゐる鴨を今日を限りの見納めとして死んで行くのであるなあ」といふ意。

 

 『懐風藻』には、大津皇子の辞世の漢詩として「金烏臨西舎、鼓声催短命、泉路無賓主、今夕誰家向」(金烏西舎に臨(のぞ)み、鼓声短命をうながす、泉路(せんろ)賓主(ひんしゅ)無し、この夕べ誰か家にか向かふ。太陽は西に傾き、命を刻む鼓の音、出迎へる人の無しといふ、この夕べあの世は何処こにあるのか、といふ意)が収められてゐる。

 

 大津皇子が処刑されに行く途上で、鴨の番(つがひ)を見て見納めとするといふの御歌。磐余の池に泳いでゐる鴨の番ひを見て見納めとするといふことは、愛する妻とご自分との別れを歌ってをられるのではないかといふ推測も生まれる。全生涯をこの一瞬に凝縮させてゐるといへる。

                               

 鳥は人間の魂を運ぶ鳥とされた。肉体を自由に離れる霊魂を象徴する動物である。日本武尊は薨去されたあと白鳥となって故郷の大和へ帰られる。それが人間の精神的自由の象徴ともなった。

 

 鴨といふ水鳥を「見る」といふことは、その鳥の持ってゐる生命力を自分のものにしたいなあといふ心があるといふことである。即ち、処刑される自分が今日を限りの見納めとして鳴く水鳥を見てその生命力を自分の身に付けて永遠の生命としたいといふ切なる願望を歌ったのである。

                           

 「見る」とは、単に視覚的の見るといふだけではない。天皇の「国見」も、単に国土の景色を視覚的に眺めるといふことではなく、国土の豊饒を祝福し祈るといふ意義がある。「見る」ことによって生命力が感染し自分の生命力が強化するといふ深い信仰心が込められてゐる。「見る」とはお互ひの魂の結合を感じるといふ意味も込められる。柿本人麻呂の旅の歌に「天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ戀ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ」がある。これも単に大和の景色が見えるといふのではなく、人麻呂の故郷である懐かしい大和の国の明石海峡から見えたなあといふ大和の国と人麻呂との魂的一体感・結合感を歌ったのである。

 

 鴨の姿は毎年見慣れてゐる。しかしもうすぐ黄泉路へ行く大津皇子にとって鴨を見ることは格別の感慨を抱かせたのである。

 

 大津皇子の妃であられる山辺皇女(天智天皇皇女)は、大津皇子が処刑されたとき、髪を振り乱して素足で刑場に走り行き殉死され、多くの人々が嘆いたといふ。

 

 天武天皇が崩御されて二十五日目に御謀反が発覚し、その翌日に処刑されたといふことは、それ以前から大津皇子を亡きものにしやうといふ計画があったといふ説がある。

 

 天武天皇には十人の皇子がをられた。草壁皇太子の一歳下の弟君が大津皇子であらせられる。天武天皇は、草壁皇子を皇太子とされたが、その一方、大津皇子は朝廷の政を聴かれる立場に立つやうにされた。しかし、天武天皇崩御の際、十人の皇子を枕頭呼ばれたとき、草壁皇子が代表されて天武天皇に対し奉り、「私たちは、腹違ひではありますが、ともに助け合ってまいります」といふ意味のことをお誓ひ申し上げた。天皇は、天下のまつりごとは大小を問はず皇后と皇太子に任せろといふ「詔」を出された。

 

 「今日のみ見てや 雲隱りなむ」は、今日を最後にして生涯を終へやうといふ意味である。この世と決別する自分のご生涯への追憶と共に、死に直面しても凜然たる矜持を持ってをられる。深い悲しみはあるが、慌てふためいてをられる御様子は微塵もない。さういふしらべがこの御歌にはある。大きな悲しみとともに決意と雄々しささへ感じられる歌である。

 

 切迫した歌ではあるが死を自明のこととして強く受け止めてゐる歌。萬葉挽歌の中でも傑作中の傑作といはれる。

 

 この御歌も漢詩も、悲しみ深いものがあるが、大津皇子がご自分の運命を泰然として受け入れられる潔さに胸を打たれる。

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千駄木庵日乗十一月二日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿校正。『月刊日本』連載の「萬葉集」解釈原稿執筆・脱稿・送付。原稿執筆の準備など。

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2015年11月 1日 (日)

天孫降臨以来の薩摩の歴史と伝統

 南九州・薩摩の地は、天孫降臨から神武天皇御東征御出発までの神話が伝えられている地である。

 

 南九州は海に面している地なので、海の神への深い信仰が伝えられている。それが『海幸彦・山幸彦の神話』であり、『龍宮伝説』・『浦島太郎伝説』なのである。

 

 薩摩の地は、縄文・弥生時代から独自の文化が発達し、古墳時代には隼人と呼ばれる武力の秀で独立進取の気性が強かった人々がいた。五世紀前半以降には大和朝廷に服属したという。隼人族は宮門警衛や天覧相撲の力士として勇敢さが讃えられた。

 

 また南九州は、天照大神の御命令によって天孫・番(ほ・穂のこと)の邇邇藝命(ににぎのみこと・にきにぎしく穂が実ること)が降臨された地である高千穂峰(高く稲穂を積み上げた山のこと)がある。

 

『古事記』には、「天の日子番(ひこほ)の邇邇藝命(ににぎのみこと)天の石井(いはくら)を離れ、天の八重多那雲(やえたなぐも)を押し分けて、稜威(いつ)の道(ち)別(わ)き道別きて、天の浮橋に、浮じまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰に天降りましき。」(天の日子番の邇邇藝命は天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、浮洲にお立ちになって、筑紫の東方の高千穂の尊い峰に天降りさないました、というほどの意)と記されている。

 

 高千穂の峰は現在の鹿児島県の霧島山の一峰と、宮崎県西臼杵郡の二ヵ所がその伝承地である。天孫降臨神話の思想は大嘗祭の稲穂の上に穀霊神としての天皇の御霊が天降ったということである。

 

 『古事記』にはさらに、南九州とりわけ鹿児島がわが國本土最南端にあり、海に面した黒潮洗う地であり、明るい太陽に照らされた地であることを次のように表現している。天照大神が「此地(このち)は韓國に向ひ笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉(よ)き地(ところ)」(この地は海外に向かって、笠紗の岬に(良き國を)尋ね求めて通って来て、朝日が真っ直ぐに照り輝く國、夕日の輝く國である。こここそは大変良い所である、というほどの意)と詔りされたと記されている。「笠紗の岬」とは現在の鹿児島県河辺郡笠沙町の岬という。

 

 南九州の地には邇邇藝命などの御陵も鎮まっている。我が國生成の神話は薩摩を中心とする南九州の地から始まっている。ゆえに、薩摩人が戦いに強く、敬神・尊皇の念が篤いのは神代以来の伝統である。聖武天皇の御代に國分寺が立てられているということは、南端の地でありながら、律令國家に組み込まれたのが早かったことを証明している。

 

 御家人・島津氏は二階堂氏などと共に、十三世紀に鎌倉幕府の時代に地頭として薩摩に派遣された。島津氏は土着すると共に勢力を強め、第十五代・島津貴久は南九州(薩摩・大隅・日向)を統一し、第十六代・義久は九州全体を制覇せんとするが、豊臣秀吉に敗れる。その後、豊臣氏に忠節を尽くす。義久の弟の第十七代義弘は朝鮮出兵に戦功を立て、関ヶ原で徳川方と勇敢に戦う。

 

 徳川時代には徳川幕府の圧迫に遭った。薩摩藩は鎖國政策を取り、他藩との交通を厳しく制限し、隠密侵入を取り締まった。さらに領内に外城といわれる百十三の出城を築き、武士を土着させて兵農一致態勢を敷き、幕府側の侵攻に備えた。しかし、宝暦三年(一七五三)には幕府の圧迫政策の一環である木曾川の治水工事で四十万両の出費があり藩財政は逼迫した。

 

 幕末期には、薩英戦争では世界の超大國イギリスを相手にして戦い、その後イギリスと友好関係を結び、パリで開かれた万國博覧會では、幕府と同格の立場で参加し、ナポレオン三世に薩摩藩独自の勲章を与えている。そして明治維新の戦いでは、同じく関ヶ原で徳川氏と戦った長州と共に徳川幕府打倒の中心勢力となる。鎌倉時代から明治維新まで七百年の長きにわたって一貫して同じ領國を支配した大名は島津氏以外にはないという。維新後においてさえ薩摩は新政府に対抗して西南戦争を戦った。

 

 このように薩摩藩は敬神尊皇思想が篤かったが、独立進取の気象もまた旺盛であった。地理的にも外國との接触を早く受けやすい地であったため、中世においては坊津が倭寇の根拠地となり、近世においては明との交易も盛んとなり、鉄砲やキリスト教が我が國で最も早く伝来した。近代においては、多く人材を失った西南戦争の痛手が大きかったことは否めない。

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千駄木庵日乗十一月一日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆の準備など。

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四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十七年十一月号のお知らせ

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十七年十月号(平成二十六年十月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

半藤一利氏の吉田松陰批判について

悪意ある邪推による半藤氏の安倍晋三氏批判

 

吉田松陰の『幽囚録』における主張を「膨張主義」「侵略主義」と断定するのは誤り

 

わが國の先覚者は欧米列強の侵略に抗する國民的自覚を高めるために「アジア経綸の方策」を唱へた

 

明治初期における日本人の誇るべき「國民的気概」

 

わが國は日米戦争には敗れたが大東亜戦争の目的は達成した

 

半藤一利氏の数々の主張を批判する

 

日本の國家的危機を救ふ根本原理は「尊皇攘夷思想」である

 

千駄木庵日乗

ロリー・ミラー氏(ジョージタウン大學ドーハ校國際関係學科長)「アイシルが生物兵器をパリ・ロンドンで使用するか。それは悪夢。アイシルには道徳的自制力は無い」

 

サイモン・ワルドマン氏(キングスカレッジ講師)「アイシルはトルコの安保上の重大な脅威。一五〇萬のシリア難民がトルコにいる。テロの脅威もある」

 

渡邊啓貴氏(東京外國語大學大學院総合國際研究院教授)「ヨーロッパ近代文明が揺らいでいる。冷戦が終わり國際社會で異なった文化の交流が重要になっている」

 

王明理台湾独立建國聯盟日本本部委員長「伯父は二十八歳だった。無念だったと思う。『その無念を晴れるのはまだだ』と柯文哲台北市長は言った。私もそう思う」

 

何時宜早稲田大學大學院生「台湾独立のために何をしなければならないか。台湾の価値は何かを考えなければならない」

 

金美齢さん「建國には伝説と神話が必要と言われた。私が伝統と神話になる。私が台湾の伝統と神話を作っていきたい」

 

亀井静香衆院議員「村上正邦氏は五百%冤罪。ものつくり大學に予算をつけさせたのは私。特捜はバッチを挙げることが自分たちの使命」

 

村山富市氏「総理の時、アセアン諸國を回ったが、中國・韓國と違って私を歓迎してくれた。『日本民族は素晴らしい。日本の援助でわが國の開発が進んだ』と言われた」

 

西部邁氏「大東亜戦争はアメリカが日本を叩き潰したいために始まった戦争。アメリカが日本を戦争に引きずり込んだ。日本の自存自衛の戦争」

 

この頃詠みし歌

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