« 千駄木庵日乗十月十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗十月十三日 »

2015年10月13日 (火)

高山彦九郎・蒲生君平の、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」

高山彦九郎、蒲生君平両大人の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇討幕運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へた。

 

高山彦九郎は次の歌をのこしてゐる。

 

「東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處」

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

 

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

 

「一天萬乗の聖天子」「上御一人」が住まはれるにしては、余りにも質素で小さい京都御所を拝しての實感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと傳はってくる。

 

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は非常に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

 

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野國新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として名をはせたといふ。

 

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

 

もう一人の「志士仁人」蒲生君平は次の歌をのこしてゐる。

 

「比叡の山 見おろすかたぞ あはれなる 今日九重の 數し足らねば」

 

歌意は、「比叡山より見おろす方向を拝すると悲しい。平安時代には九重(支那の王城は門を九重につくったところから、御所、宮中のことを言ふ)と歌はれた数には足らない狭小な御所なので」といふほどの意。

 

蒲生君平は、明和五年(一七六八)下野國宇都宮新石町の生まれ。『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの尊皇精神に感激する。ロシア軍艦の出現を聞き、寛政七年(一七九五)陸奥への旅に出る。さらに寛政十一年(一七九九)、三十二歳の時、天皇御陵の荒廃を嘆き、皇陵調査の旅に出る。享和元年(一八〇一)『山陵志』を完成する。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができたといふ。さらに、文化四年(一八〇七)には、朝廷の官職についてまとめた『職官志』を著した。翌五年、北辺防備を唱へた『不恤緯(ふじゅつい)』を著す。そし文化十年(一八一三)江戸で四十六歳の生涯を閉じた。

 

この歌は、年代的に考へて、高山彦九郎の歌の志を継承し倣って詠んだと思はれる。その「志」とは言ふまでもなく、徳川幕府専横の時代にあって、上御一人、一天萬乗の君がをられる京の御所が余りにも狭小であることに慟哭し、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」である。

 

川田順氏はこの蒲生君平の歌について、「勿體なくも宮闕は荒廢して天子の歴史的御座所たる舊観を備へない。九重の數は足らずして、てのひらほどの大宮所と拜せられる。山陵の荒廢を慨して志を立てた君平である。況んや、現に至尊まします所の宮殿が此の御有様なるを見て、涙滂沱たらざるを得んや」(『幕末愛國歌』)と論じてゐる。

 

徳川幕府専横の時代に、尊皇の志を立て、且つ實践した高山彦九郎・蒲生君平の御所の狭小さを嘆く歌は、大きな悲痛と慟哭が巨大な悲しみを以て讀む者の

胸に迫って来る。

 

|

« 千駄木庵日乗十月十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗十月十三日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/62464186

この記事へのトラックバック一覧です: 高山彦九郎・蒲生君平の、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」:

« 千駄木庵日乗十月十二日 | トップページ | 千駄木庵日乗十月十三日 »