« 千駄木庵日乗十月二十五日 | トップページ | 千駄木庵日乗十月二十六日 »

2015年10月26日 (月)

崇徳上皇の御事

 香川県の白峰山に、第七五代崇徳天皇御陵が鎮まりまします。崇徳天皇は、鳥羽天皇第一皇子。諱(いみな)を顕仁(あきひと)と申し上げる。元永二年(一一一九)五月二八日御生誕。保安四年(一一二三)御年五歳にして御即位。崇徳天皇を寵愛された曾祖父君の白河法皇が大治四年(一一二九)に崩御され、さらに保延五年(一一三九)に、父君・鳥羽上皇に第九皇子・體仁親王が生まれられた。そして、崇徳天皇は永治元年(一一四一)、わずか三歳の體仁親王(第七六代・近衛天皇)に皇位を譲られた。父君・鳥羽法皇の御意向によるという。しかしその近衛天皇は久寿二年(一一五五)御年十七歳で崩御されたので、鳥羽天皇の第四皇子で崇徳天皇の同母弟であられる雅仁親王が御年二九歳で皇位につかれた。後白河天皇であらせられる。

 

 以上のような皇位継承の流れの中で、近衛天皇崩御の後、御自分の皇子(重仁親王)に皇位が譲られると思われていた崇徳上皇と、後白河天皇とが鋭く対立されるようになった。このことについて『保元物語』(鎌倉時代に成立した軍記物語。作者未詳)は「近衛院に位を押し取られて、恨み深くて過ぎし処に、先帝(近衛天皇)隠れ給ひぬる上は、重仁親王こそ帝位に備はり給ふべきに、思ひの外にまた四の宮(後白河天皇)に越えられぬるこそ口惜しけれ」と傳えている。また、この対立には藤原氏内部の対立が関係していた。

 

 保元元年(一一五六)鳥羽法皇が崩御されると、ついに武力戦争になった。これを保元の乱という。骨肉相争う戦いであったが、後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に御遷幸あそばされた。仁和寺を御出発。途中父君・鳥羽法皇御陵に参拝されようとしたが許されず、讃岐の御所でも、四方に垣をめぐらし、監視兵付きで過ごされた。

 

 「日本の歴史は天皇受難史であり、皇室哀史である」と言う人がいるが、まさにその通りである。しかし、そうでありながら常に、天皇及び皇室がわが國の文化・政治・宗教の中心であった。これがわが國體の有難くも不思議なところである。

 

 崇徳上皇は、長寛二年(一一六四)、御年四六歳で崩御されるまで九年間讃岐で過ごされ、終生京都への還幸を許されなかった。崇徳上皇の御陵は御遺詔によってこの白峰山に営まれた。讃岐で崩御されたので讃岐院と称されることとなった。

 

 崩御後、崇徳上皇の霊威甚だしくかつ峻厳にして、大火などの様々な奇瑞が都に起こった。そこで、御歴代の天皇・公家・武家は、霊威を鎮め奉るため努力した。治承元年(一一七七)七月、崇徳院の号を奉った。

 

 平治・治承・寿永の戦乱は、崇徳上皇の祟りによると信ずる人が多かった。『保元物語』にはいわゆる<崇徳院説話>が語られている。それによると、崇徳上皇は、配流の地で、御自分の罪の償いと後生菩提のために深爪をして血判で大乗経を書写し、鳥羽天皇御陵にお納め申し上げようと京に送られたが、弟君・後白河天皇は信西入道の進言により、「罪人の手跡を、京に入れてはならぬ」と許されず讃岐に返送された。これに激怒された上皇は、「日本國の大魔縁(悪魔のこと)となり、皇を取りて民となし、民を皇となさん」と血書し、そのお経を海底に沈められたという。のみならず上皇は髪を刈らず、爪も切らず、お召し物も着替えられず、「生きながら天狗の姿にならせ給ふ」て憤怒の體を通されたという。そして、保元の乱の後、武家の力が強くなり、秩序が転倒した世となったのは「大魔縁」となられた崇徳上皇の呪いによるものだと信じられた。 

 

実際、慈円著の歴史書『愚管抄』(承久二年・一二二〇成立)には「安元元年(一一七五注)七月廿九日讃岐院に崇徳院と云う名をば宣下せられけり。かやうの事ども怨霊をおそれたりけり」と記されている。また長寛二年(一一六四)から建仁三年(一二0三)にわたる九条兼実という人の日記『玉葉』には「天下の乱逆。連々として了る時無し。是偏に崇徳院の怨霊たるべし」と記されている。そして、後白河法皇の院宣により寿永三年(一一八四)四月十五日、京都粟田口に、崇徳上皇を神霊としてお祀りする神殿を建立し御霊を鎮めた。

 

 第百代後小松天皇は、応永二一年(一四一四)、御陵のそばの崇徳上皇の御廟(崇徳上皇の近習が法華堂を建てて上皇御自筆の御画像を奉安し御菩提を祈っていた)に、頓證寺(頓證とはすみやかに悟りを開くこと。追善回向の功徳によって亡者が成仏するよう祈る言葉を『頓證菩提』という)の御追号勅額を奉納し給い尊崇の意を表された。

 

 崇徳上皇が怨霊となられたというのはあくまでも傳説であって全て事実かどうかは分からない。しかし、崇徳上皇の悲運な御生涯を悲しむ多くの人々の心が、源平の戦いなどの世の乱れ・武士の台頭などの社會の変動と関連させて、こうした傳説を生んだといえよう。

 

 崇徳上皇に関しては、怨霊となられたという傳説ばかりが強調されるが、崇徳上皇の御天性は史書『今鏡』(作者未詳。嘉応二年・一一七0年成立)に「御こころばへ、絶へたる事を継ぎ、古き跡を興さんと思召せり」「幼くおはしましけるより歌を好ませ給ひて、……」と記されているように、上皇は國の傳統を尊ばれ、宮廷の歌壇の中心として活躍されたと傳えられる。側近から俊成、西行、寂然などの大歌人が輩出した。

 

 崇徳上皇御自身も次のような御歌に代表される数々の名歌を残された。

 

「御軍(みいくさ)敗れて 後、御室(みむろ)の寛 遍法務が房に入らせ   給ひて

 

思ひきや身を浮雲になしはてゝ嵐の風にまかすべしとは

 

 讃岐の松山の津につかせ たまひて、廳野大夫高遠 の御堂に三年過ごし   給へる時、その柱にかき つけさせたまへる

 

こゝもまたあらぬ雲居となりにけり空ゆく月の影にまかせて

 

 杉山へおはしまして後、 都なる人のもとにつかは せ給ひける

 

思ひやれ都はるかにおきつ浪たちへだてたる心ぼそさを     

 

 讃岐國にて隠れさせ給ふ とて皇太后宮太夫俊成( 平安末期鎌倉初期の歌人・ 歌學者藤原俊成のこと注) にみせよとて書きおかせ 給ひける

 

夢の世になれこし契朽ちずしてさめむ朝にあふこともがな         」

 

悲しみ深き御心を表白された御製である。天皇は「天の下しらしめすすめらみこと」「一天萬乗の君」と讃えられる日本の統治者であらせられるのであるが、かくの如き境遇になられる天皇も数多くおられた。そして後鳥羽上皇・後醍醐天皇を拝しても明らかな如く、そういう天皇様方はみな素晴らしき御歌をのこされている。

 

 特に、崇徳上皇が崩御の際藤原俊成に贈られた「夢の世に」といふ御製はきわめて穏やかな御歌であり、とても怨霊になられたとは思えない。

 

 明治天皇は、御即位式を挙げられる直前の明治元年八月二十四日、「御こころばへ、絶へたる事を継ぎ、古き跡を興さんと思召せり」という崇徳上皇の御遺徳を追慕して、讃岐から御神霊をお遷して京都飛鳥井に白峰宮を建立された。武家による政権簒奪の端緒となった保元の乱のために讃岐に御遷幸あそばされた崇徳上皇を御神霊を、武家政権打倒・王政復古の大変革であった明治維新に際して、京の都に祀られるようになったのは意義深きことである。

 

 上皇の御陵は、とても怨霊になられた天皇の御陵とはとは思えぬ清らかさ、静けさである。

 

崇徳天皇御陵の近くに、上皇御廟所・頓證寺がある。「崇徳天皇」と謹書された『勅額』が奉掲されている。今日の建物は、延宝元年(一六八〇)初代讃岐藩主・松平頼重(水戸初代藩主・頼房の子)及び二代藩主・松平頼常(水戸二代藩主・光圀の子)の再建である。

 

 御廟所の奥には、西行の歌碑がある。仁安元年(一一六六)神無月(陰暦十月)の頃、すなわち崇徳上皇が崩御されてから二年後に、西行がこの地を訪れ、御陵及び御廟に参拝している。西行は平安末期から鎌倉初期の歌人。出家前は佐藤義清という北面の武士であった。保元の乱が起きた時、三十九歳の西行は高野山を下り、戦乱の巷で崇徳上皇をお見舞申し上げている。上皇が讃岐に遷られてからは、三回にわたって院との間に往来歌がある。

 

 西行が四國を旅したのは四七歳の時で、崇徳院御陵参拝及び真言宗開祖・弘法大師生誕地参拝がその目的であった。西行がこの御廟に参拝した時、御廟が振動して、

 

「松山や浪に流れてこし船のやがて空しくなりにけるかな」

 

 という御製があったので、西行は

 

「よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん」

 と返歌申し上げたという。この西行の返歌は『山家集』に収められている。西行の歌碑にはこの歌が刻まれている。

 

 さらに崇徳上御製の御歌碑も建立されている。それには、

 

「浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞなく」

 

 と刻まれている。この御製は、崇徳上皇が讃岐に御到着になった直後、未だ御所が造営されていなかったので、松山というところにお入りになった時に詠ませられた御歌である。

 

                 ◎

拙歌を掲載させていただく。

 

白峰に鎮まりましますすめらぎの清き御霊にぬかづきにけり

 

怨霊となり給ひしと傳はれど清く明るきこれのみささぎ

 

あなかしこ霊威激しきすめろぎの御陵は今ぞ清く鎮まる

 

瀬戸内の美しき景色見はるかす白峰山に鎮まります君

 

崇徳帝の御霊鎮まるみささぎは春の光に静かなるかも

 

萬乗の大君ながらこれの地に幽閉されし悲しみの極み          

 

心細き御境涯にて神あがりましたる君を伏し拝みたり

 

瀬戸内の海見はるかす白峰に悲しきみかどは神づまります

|

« 千駄木庵日乗十月二十五日 | トップページ | 千駄木庵日乗十月二十六日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/62550323

この記事へのトラックバック一覧です: 崇徳上皇の御事:

« 千駄木庵日乗十月二十五日 | トップページ | 千駄木庵日乗十月二十六日 »