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2015年10月22日 (木)

満洲事変はわが國による侵略では絶対にない

 侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪い取ること」と定義される。満洲は支那・中國ではないし満洲は独立主権國家ではなかった。満洲は、諸民族が混在する無主の地であった。したがって、満洲事変は日本による中國侵略ではない。

 

 もともと満洲は満洲民族など北方民族の住む土地であった。『後漢書東夷伝』に、九夷ということが書かれているが、朝鮮・満洲・日本がその中に入っている。満洲は支那にとっては朝鮮・日本と同じく「東夷」であり「中華」ではないのである。清朝時代に完成した大百科『四庫全書』には、支那の黄帝開國以来、清は支那歴代王朝と並存する國家だったと書かれているという。萬里の長城の内と外とは有史以来、敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那・中國ではない。したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならないる。               

 

 満洲人は一七世紀初頭、萬里の長城を越えて支那大陸を征服した。清朝は支那大陸(萬里の長城の内側)への征服王朝であり、満洲は漢民族の地ではない。日本が尊敬を抱いていた文化國家・明が、東夷の満洲族によって滅亡の運命に瀕していることに深い同情の念を寄せた徳川光圀は、日本に援助を乞いに来朝した儒者・朱舜水を師として厚く遇した。近松門左衛門は明朝遺臣・鄭成功の反清復明を旗印にした大陸反抗を『國姓爺合戦』の劇に仕組んで、大阪町人の喝采を博した。清朝時代の支那は、清によって征服された植民地だったのである。満洲族の清朝が漢民族の住む支那全土を支配したことによって、満洲が支那の一部になったわけでは決してない。 

 

 一九○五年八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人に対する蔑称)を追い払い、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。         

 

 革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じような異民族と断じた。満洲を外地・外國と考えていた。日本人に対しては孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

 孫文はまた、「余は人民自ら己を治むるを以て政治の極則なるを信ず。故に政治の精神に於ては共和主義を執る。…況や清虜(満洲人への蔑称)政柄を執る茲に三百年。人民を愚にするを以て治世の第一義となし、その膏血を絞るを以て官人の能事となす。…試みに清虜の悪政に浴せざる僻地荒村に到り見よ。彼等は現に自ら治むるの民たるなり」と論じた。(宮崎滔天の『三十三年之夢』)

 

 明治四四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行われた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲は正に化外の地であった。それは日本統治下に入る以前の台湾と同じである。孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考えていなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命していた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだろうか。

 

 したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならないのである。

 

 わが國軍民は満洲事変が起こる以前から「ポーツマス条約」に基づいて合法的に満洲に在留していたのだし、満洲事変によって満洲の土地・財物を不当不法に奪取していないのだからそれは当然である。それどころか日本軍によって満洲の治安が回復したのである。

 

 また、満洲事変はデッチあげでも侵略でもない。自存自衛のための作戦行動である。満洲事変の結果、五族協和・王道楽土の理想國家が建國され、満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらし、かつ、ソ連の南下・侵略を食い止めた。まさに、自存・自衛の戦略に基づいて、満洲の独立・建國を日本が主導して実現させたのが満洲事変である。

 

 「ワシントン条約」は欧米列強の植民地支配と搾取を正当化する欺瞞的な発言であり条約であって、これを根拠にして満洲事変・支那事変を日本の侵略だなどと言うのは、全く祖國の光輝ある歴史に対する冒涜である。

 

 欧米諸國特にアメリカが支那の大陸門戸の開放を主張したのは、アメリカ自身が支那大陸に進出するためであって、正義に基づくものではない。当時、アメリカもフィリッピン植民地化・ハワイ併合というアジア侵略を行い、支那大陸、特に満洲への進出を目指した。昭和二年(一九二七)、満洲軍閥の張作霖は、日本を裏切りアメリカと結託して満洲鉄道平行線を建設するなどアメリカの満洲進出に手を貸した。アメリカはイギリスなどと結託して対日包囲網を形成した。当時世界の四分の一を植民地としていた大英帝國と強大國アメリカによる、閉鎖的なブロック経済による対日経済封鎖の動きは、わが國を圧迫し大不況に追い打ちをかけた。わが國は、文字通り日本國及び日本民族の自存・自衛のために、満洲に資源・原料・國外市場を求め、日本を中心とする経済ブロックを作るしかなかった。大東亜戦争は米英によるわが國への経済的圧迫が大きな原因である。

 

 「ワシントン条約」も欧米列強が自分の植民地支配を正当化し既成事実とした上で、日本のアジアへの進出を規制しようという、身勝手な条約であり、正義の条約ではない。米英は口先では「平和」「軍縮」を唱えながら、自己の侵略と植民地支配と搾取を正当化し、自己の優越的地位の保持を図った。それがワシントン条約なのである。米英の優越維持と日本抑圧を意図した「ワシントン条約」を根拠にして歴史を裁き祖國日本を侵略國家呼ばわりをする歴史観は全く誤っている。

 

 昭和七年(一九三二)三月、満洲國建國宣言が発表された。昭和九年に、清朝の元皇帝・愛新覚羅溥儀を満洲國皇帝として擁立し、<五族協和>の理想國家を目指す満洲國が建國されたのである。満洲國では、各種の改革が実行され、土地の農地化・重工業の発展・治安の向上が実現し、混乱の続く支那大陸をはるかにしのぐ安定した國家建設が行われた。

 

 満洲事変以後、治安が回復し「五族協和」「王道楽土」の理想を掲げた満洲國建國が行われるようになると、他の地域にいた年間百萬人前後の民衆が満洲に移住してきた。満洲事変前の人口は三千萬人であったのに、十年後の一九四一年(昭和一六年)には四千三百萬人に急増している。満洲という地域が、日本軍によって侵略され、日本によって植民地支配され、搾取され、民衆は虐待され、虐殺され、酷い目に遭ったという説が、全くの嘘出鱈目であることを証明する数字である。

 

 満洲事変は、その手段に謀略(自存自衛のための戦争にも謀略は必要である)があったとしても、満洲におけるわが國の合法的権益と朝鮮人を含むわが國民を守るための自存自衛の戦いだったのである。石原氏が柳条湖の満鉄線を爆破したのは祖國の自存自衛のための戦略として行ったのである。

 

 「満洲事変は侵略であった、自存自衛の戦いではなかった」としていつまでも当時の関東軍および日本陸軍を非難攻撃する誤れる歴史観を國際社會に通用させてはならない。日本の行った大東亜戦争即ち満洲事変から日米戦争までの戦いは、自存自衛・東亜解放の正義の戦いであったということを國際社會に認めさせなければならない。

 

 ともかく、満洲事変はわが國による侵略では絶対にないし、満洲建國はわが國による搾取が行われた植民地支配では絶対にない。西欧列強がアジア・アフリカ・中南米などで行ってきた植民地支配・収奪・搾取とは全く異なる。近代國家建設の理想と情熱で満洲を開発し、十三年半という短期間に近代國家を作り上げたのはまさに奇跡である。わが民族は、満洲事変は自存・自衛のための止むを得ざる作戦であると認識し、満洲建國を誇りとしなければならない。

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