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2015年10月19日 (月)

『萬葉集』について

 「古事記」「日本書紀」「「萬葉集」など日本の古典を研究して、わが国の伝統的な思想・精神を究めようとする学問を国学といふ。江戸中期に興った学問である。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の四人がその代表的な学者とされ「国学三大人」と呼ばれた。

 

 近代になって国文学は西洋的学問方法で研究された。文献学を重視したといって良いと思ふ。学問を自然科学・人文科学・社会科学といふやうに分類し、国文学は人文科学の中に入れられた。

 

 和歌には「古今集」以来の伝統があった。近世まではこの「古今集」以来の伝統が非常に重んじられた。

 

 明治以後になって、西洋の自然主義文学が入って来て、和歌の世界でも、自然をありのままに描写する写生歌が尊重されるやうになった。その代表が、正岡子規である。子規は、優雅さを尊び言葉の遊び的な面も出ていた古今集以来の伝統を否定した。子規は、「古今集はくだらない歌集だ」とまで言った。これを「短歌革新」といふ。

 

 そして子規およびその系列の「アララギ派」の歌人たちは、「萬葉に戻れ」と唱へた。この場合、「萬葉」といっても、大伴家持などの優美な世界ではなく、天地自然の美しさを雄大に歌ひあげる柿本人麻呂などの初期萬葉の世界を良しとした。

 

 しかし、「萬葉集」から始まるわが国の和歌文学・敷島の道は、大らかさと優雅さを兼ね備へたものである。どちらだけが良いといふのではない。

 

 「言葉の遊び」に過ぎるやうになった和歌を変革した「短歌革新」は否定されるべきではないが、「古今集」の美学である優雅さ・みやびの伝統を全く否定してしまったのはやはり良くない。「初期萬葉」には「初期萬葉」の、家持には家持の、「古今集」には「古今集」の良さがあるのである。 

 

 明治以後の自然主義の影響を受けた和歌文学に対抗するものとして、与謝野晶子・鉄幹夫妻等の浪漫主義的な和歌文学が生まれる。

 

 写実を重んじる自然主義でなければ駄目だとか、情緒・西洋の文学概念・方法論でわが国の文学を研究することは全然誤りではないけれども、わが国の文学特に和歌は西洋にはないものだから、やはりわが国伝統の考へ方を尊重して研究し、創作すべきである。

 

 三十七文字の短歌(和歌)、十七文字の俳句といった短詩形で定型文学は外国にはない。芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の川」という俳句は、雄大な景色をわずか十五文字に歌ひあげてゐる。わが国文学の素晴らしさは、そこにある。                        

 

 「萬葉集」には、天皇国日本が様々苦難を経ながら国家体制が確立した時期である大和時代から飛鳥奈良時代を経て平安朝初期にかけての「時代精神」「国民精神」が歌はれてゐる。上は天皇から下万民に至るまでの歌が収められてゐる。

 

 雄略天皇の御製から始まり、大伴家持の賀歌を以て終わる「萬葉集」は、天皇の御代を讃える歌集であるとともに、わが国の永遠の栄えを祈る歌集である。実におめでたい歌集なのである。そして、天皇中心の日本の国家体制確立の中核精神があますところなく表白されてゐるのである。

 

 「萬葉集」という名称は、色々な説がある。萬(よろづ)の葉を集めたといふ説がある。「葉」とは「言の葉」のことであるとして「多くの人の言葉を集めた」といふ説である。一方、「葉」を時代と解釈して、「萬代まで天皇の御代が続くことを祈る」といふ意味であるといふ説がある。いづれにしてもめでたい歌集であるといふ意味であるには変りはない。この頃は和歌を「言の葉」といふことはなかったといはれてゐるし、「萬葉集」の歌の内容や配列などを見ると、後者の説が有力である。

 

 「萬葉集」といふ名称は、国民の表白した歌を祝福すると同時に、天皇の御代・天皇国日本を祝福する意義を持ってゐるといふことである。

 

 全二十巻の「萬葉集」が、何時、誰によって編纂されたかといふことはなかなか断定しがたい。「萬葉集」の原本は一巻づづ巻物でできてゐて、途中から読むには不便であるが挿入削除には便利である。糊と鋏で歌を入れればいいので、ある程度形が整った後もまた新たに歌が加えられたり、削除された可能性があるので、全体が今の形に完成した時期を特定するのは難しい。

 

 今日、伝へられてゐる「萬葉集」が完成したのは平安朝の初期といはれてゐる。秘府(図書寮・宮中の書庫)に「萬葉集」が収められたのが、天平宝字三年(七五九)から宝亀二年(七七一)迄の十三年間のいずれかの年であると推定されてゐるので平安初期に完成したとされるのである。結局、「萬葉集」は一時に成立したのではなく長い年月の間に次第に成立していったと見るべきである。

 

 「萬葉集」に収められた歌で、年代的に一番古い歌は、第十六代・仁徳天皇の皇后であらせられる磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の御歌である。しかし、この御歌は伝承歌とされてゐてる。故に、作者が確実にはっきりと判明してゐる歌は、もっと後世の大化改新の頃の歌が最も年代的に古い歌であるとされてゐる。

 

 最も新しい歌は、前述の天平宝字三年(七五九)の正月に大伴家持が詠んだ「新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重け吉事」であるとされてゐるが、「萬葉集」には作られた年代がはっきりしない歌が収められてゐるので、この家持の歌が最も新しいと確実に断定することもできない。

 

 「萬葉集」には、大化改新(西暦六四五)頃から天平宝字三年(七五九)までの約百二十年間に詠まれた歌が収められてゐることのなる。

 

 初期の「萬葉」と後期の「萬葉」とではその歌の性質が異なってゐるのは当然である。文化面も、白鳳文化と天平文化とでは大きく異なったものがあるし、政治面も大化改新の時期と奈良朝初期とでは大きく異なってゐる。

 

 編者にも色々の説があって確定できない。全二十巻が一人の人によって編纂されたとは考へられず、また、巻毎に別人によって編纂されたとも考へにくい。少なくとも五、六人、多ければ十数人の手によって、時を異にして編纂されたと見るべきである。しかし、「萬葉集」には大伴一族のことについての記述が多く、大伴家持の歌が「萬葉集」四千五百首の十分の一を占めてゐることから、家持が編纂に大きく関ったことは確実である。

       

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