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2015年10月31日 (土)

『第十六回・先哲に学ぶ会』における日本学協会理事・永江太郎氏の「多くの人々から信頼された維新の英傑と西郷隆盛」と題する講演内容

七月十八日に行われた『第十六回・先哲に学ぶ会』における日本学協会理事・永江太郎氏の「多くの人々から信頼された維新の英傑と西郷隆盛」と題する講演内容は次の通り。

 

「徳川幕府は徳川至上主義。徳川あるを知って国家を知らず。直参旗本が威張っていた。『恩を忘れて王臣となるか、義を全うして陪臣となるか』が幕臣としての身の処し方。将軍家そのものが天皇の臣即ち王臣。将軍は天皇に任命される。内政は幕藩体制。外政は鎖国主義。内治は各地に大名を配置。今の言葉で言えば地方分権。国防もバラバラであった。

 

国防軍は国家単位。天皇の下に中央集権国家をつくる。そのために幕府を打倒しなければならない。日本の領地の半分以上が幕府の支配下(譜代・親藩・御三家を入れて)。朝廷は十万石。小御所会議で、德川に辞官・領地返納を要求。徳川を倒さねば中央集権はできない。八百万石の徳川は国内最大の軍閥。

 

西郷隆盛は五十年の生涯。大久保利通は西郷より三歳年下。西郷は司々の意見を尊重して政治を行う。大久保は明治初期日本国内の最も優秀な実務家。大久保は計画によって近代国家をつくろうとした。それを邪魔する者は許さない。西郷は和魂洋才、開国進取の考え。西郷は王政復古に力を入れた。大久保は文明開化に力を入れ欧米に早く追いつこうとした。『器械芸術彼に取れ、仁義忠孝我に存す』が橋本左内の持論。西郷も同じ。

 

大久保は文明開化に集中。岩倉視察団に木戸・大久保が加わった。海外出張中に新規事業をするな、新しい人事もするなという約定書を作った。留守の実務は西郷しかいなかった。そして次のことを行った。参議に江藤新平を任命。学制改革。徴兵制を行った。大久保にとって心外であった。

 

西郷の目的は天皇を中心とする道義国家。大久保の文明開化とは合わない。感情的対立は、留守中に西郷が勝手なことをしたと大久保が思ったことによる。大久保は富国強兵のための文明開化、欧米との格差縮小を狙った。

 

戊辰戦争の時、御用盗事件(四宮註・薩摩藩による江戸撹乱工作・資金獲得手段)があった。江戸の薩摩藩邸に浪士を集め、商家に対して金品強奪し、薩摩藩邸に逃げ込んだ。幕府は庄内藩が先頭になって薩摩藩邸を焼き討ち。鳥羽伏見の戦いの原因は、辞官・領地返納である。八百万石を返納したら、幕臣を養えなくなる。薩長が悪いとして、京都に攻めのぼろうとする。十倍の幕府軍に対して薩長軍が勝つ。装備は薩長が勝っていた。官軍は士気高揚のために錦の御旗を持ち出した。天皇の軍には弓を引きにくくなる。この頃の人々の手紙には『皇国』という言葉が多く出てくる。

 

江戸開城に際して、高輪における会談に、徳川慶喜は高橋泥舟の義理の弟・山岡鉄舟を立てる。山岡は『徳川慶喜の備前お預けは承服できない』と言った。西郷隆盛は情理を尽くせば受け入れる人であった。既決の事項を変えることが出来るほど西郷には力があった。庄内藩は西南戦争で西郷に味方しようとする。庄内藩は『大西郷遺訓』を筆記した。西郷は人気が高かった。家賃三円の家に住んだ。陸軍大将の給料は五百円だった。大久保は麹町に二千五百坪の邸を買った。日本初の洋館を建てた。

 

西郷隆盛と共に下野した人々は鹿児島に帰った。生活に困った。私学校は生活保護の面もあった。村田新八・桐野利秋・篠原國幹が私学校を支えた。村田は砲兵学校校長。賞典学校は士官学校。吉野開墾社は農業学校。薩摩は反政府の拠点化する。

 

札幌農学校は農業振興の先頭に立つと共に、ロシアが攻めて来た時に戦うための軍事教練も行った。森有礼は札幌農学校卒業生。クラーク教授は南北戦争に参加した。日本の安全にとって朝鮮は重要。腹に突き付けられた匕首。大院君は国内改革はやったが攘夷論者」。

 

 

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