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2015年10月25日 (日)

本駒込の神社仏閣

千駄木の隣町の本駒込には、富士神社が鎮座する。富士神社は天正元年(一五七三)本郷村の名主・木村万右衛門、牛久保隼人の二人が夢に木花咲耶姫命(霊峰富士の御神霊)のお姿を見たので、翌年駿河の富士浅源間神社の御神霊を勧請した。寛永六年(一六二九)加賀藩が現在の東京大學のあるところに藩邸を作るにあたり、その地にあった浅間神社をこの地にお移しした。故にこの付近は住居表示改定までは「駒込富士前町」と言われていた。また東京大学のあるところは住居表示改定まではもと富士神社のあったところということで「本富士町」と言っていた。オウム事件で話題になった本富士警察署は東大の隣にある。

 

 富士神社は山岳信仰特に江戸において盛んであった富士山への信仰によって建てられ今日まで信仰が続けられているのである。小生は中学時代一年間だけこの神社の近くの文京九中に通ったので、体育の授業のマラソンでこの神社の回りを走ったりしたため懐かしい思い出のある神社である。

 

 神殿は小高い丘の上にある。この丘は塚であり前方後円墳であるという説がある。加賀藩に縁があるため江戸時代加賀藩の特設消防隊『加賀鳶』(大名火消し)が奉納した大きな石がある。そうした関係からかこの丘には東京の消防体制の基礎を作った人物(薩摩藩士にして警視庁幹部)の顕彰碑が建てられていた。

 

 さらに近くには天祖神社が鎮座する。この神社は、文治五年(一一八九)七月、源頼朝が奥州藤原泰衝征討の砌りこの地を過ぎる時、霊夢によって伊勢の大神(天照大神)への祈願の地を求めたところ、この地の松の枝に大麻(伊勢の神宮の神札)かかったのをかしこみ、神祠をお祀りしたのが淵源であると伝えられている。以来駒込神明宮と称えられ、駒込の総鎮守として住民に信仰されている。御祭神は天照大神。明治の御代に天祖神社と改称された。このあたりの町名を駒込神明町と言った。

 

小生の幼少の頃には都電の車庫があり、銀座から神明町まで四0番の電車が走っておりよく乗ったものである。中学一年の頃小生はこの天祖神社境内を通り抜けて九中に通った。境内は当時のままのたたずまいであり懐かしい。

 

 すぐ近くの駒込名主屋敷がある。東京山手線内で唯一江戸時代の名主(村長のような役職)の役宅の遺構をよく残している建物であるという。高木という表札が掛かっている。この高木家の御祖先に当たる高木将監(しょうげん)は元和元年(一六一五)豊臣氏の残党としてこの地に来たて駒込の開拓を許され、名主となった。現在の建物は享保二年(一七一七)に再建されたものという。旗本以上の屋敷しか許されない式台付きの玄関があるという。しかし、現在も高木家の人がお住まいになっているので中に入ることは出来ない。門(宝永年間、一七0四~一一の建造。薬医門形式)だけを見る。また大きな倉や家屋が眺められる。

 

本郷通りに出ると、、諏訪山吉祥寺がある。吉祥寺は太田道灌が江戸城築城の時、井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので、現在の和田倉門のところに「吉祥寺庵」を建てたのが淵源であるという。徳川家康の時に水道橋際に移り、明暦の大火(一六五七)で焼け現在地に移った。このとき水道橋際の門前にいた人たちが移って新田開拓したところが現在の武蔵野市吉祥寺である。

 

 享和二年(一八0二)再建の見事なる山門(四脚門)を潜って境内に入る。参道の左右が墓地になっている。右手に眉山・川上亮の墓がある。川上眉山は明治時代の小説家。硯友社同人。また鳥居耀蔵(江戸末期の幕臣。渡辺華山ら洋学者グループを弾圧。江戸町奉行となり水野忠邦を助けて天保の改革を推進)の墓があった。

 

向かい側に二宮尊徳の墓がある。二宮尊徳は江戸末期の農政家。小田原藩・相馬藩・日光神領などの復興につとめ、その思想と行動は農政のみならず近代日本の教育にも大きな影響を与えた。お墓の横に尊徳の少年時代の読書像が建てられている。何故江戸駒込吉祥寺にお墓があるのかその由来を知りたいと思っている。

 

榎本武揚(江戸末期の幕臣。函館五稜郭に立て籠もり新政府軍と戦ったが、維新後は海軍卿、文部大臣、外務大臣、枢密顧問官などを歴任)の墓もある。

 

文化元年(一八0四)に再建された古く大きな経蔵がある。新しい墓地の方には鹿島守之助・卯女夫妻の墓がある。

 

この吉祥寺は、曹洞宗のお寺で、栴檀林という坊さんが学ぶ学寮があった。千余名の学僧が仏教や漢学などを学んでいたという。この後身が現在の駒沢大学である。江戸中期以後は縁故のある旗本の子弟も聴講した。吉祥寺の栴檀林は幕府官学の昌平坂学問所と並んで江戸における大きな学問・教育施設と言える。そのどちらも現在の文京区内にあった。明治以後今日に至るまでの文京区は教育機関の多いところとなっている。

 本郷通りをさらに少し進んで左に折れると、左側に『栴檀林寄宿寮』という表札のある門があったがその奥には何も無かった。その先に『原氏墓所』がある洞泉寺がある。原氏とは、江戸中期・後期の儒学者原氏のことでここのには双桂・敬仲・念斎・徳斎の四代の墓があるという。

 

 すぐそばには『浅香社跡』がある。浅香社とは明治時代の短歌結社で、落合直文が主催。落合直文は仙台出身の歌人・國文学者。一高教授。和歌革新を唱え近代短歌の基礎をつくった人。『大楠公』(青葉茂れる櫻井の……)の作詩者として知られている。浅香社という名はこのあたりの町名が浅嘉町であったことに由来する。浅香社には与謝野鉄幹・大町桂月・樋口一葉などが関係した。直文がこの家で詠んだ歌の一つに「庭に散る花にも音の聞ゆなり いかにしづけきゆうべなるらむ」がある。小生は和歌文学の道統の継承と革新が我が故郷の地で起こったことを誇りに思うものである。

 

「秋の日に経巡りにけりわが生まれ育ちし里の寺と神社を」    

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