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2015年10月 5日 (月)

阿南惟正氏による『終戦の御聖断と父・阿南惟幾」と題する講演内容

六月二十日、赤坂の乃木神社にて開催された『中央乃木會主催講演会』における阿南惟正氏による『終戦の御聖断と父・阿南惟幾」と題する講演内容は次の通り。

 

「評価すべきことは評価し、反省すべきことは反省することが戦後七十年の意義。

 

私の祖父即ち阿南惟幾の父・阿南尚は内務官僚として各地に転勤。東京に勤務した時、父・惟幾が生まれた。祖父が徳島県警察部・徳島県書記官をしていた時、善通寺の第十一師団長しておられた乃木大将が、丸亀連隊を視察された帰途、徳島に来られた。その時に父は乃木大将にお目にかかった。小学生だった父は、体は小さいが元気一杯だった。乃木大将から『是非幼年学校を受けるように』と勧められた。乃木大将のこの言葉によって、父は広島の陸軍幼年学校に入った。父は、『自分は乃木大将を尊敬しているが、自分にはあのような自分に厳しい生き方は出来ない』と言っていた。

 

私の父は、一家団欒を旨としていた。しかし『艱難汝を玉にす』『失敗は成功の母』という言葉を教えられた。

 

明治三十八年に陸軍士官学校卒業(十八期)。明治三十九年 陸軍歩兵少尉に任官。一上の先輩までは日露戦争に参加できた。歩兵第一連隊附。明治四十三年から四年間、陸軍中央幼年学校生徒監をつとめた。陸軍大学の受験に三回失敗した。面接で自説を曲げなかったためである。四回目に合格。

 

大正五年に結婚。大15年軍令部参謀となる。昭和二年ヨーロッパに出張。第一次大戦を詳しく見学。昭和四年侍従武官となる。昭和八年まで、昭和天皇のお仕えする。その時の侍従武官長が、鈴木貫太郎。父かは鈴木貫太郎氏を深く尊敬。この時の信頼関係が終戦時の二人の意思疎通につながる。

 

昭和八年近衛歩兵第二連隊長。昭和九年東京陸軍幼年学校長となる。昭和十一年の二・二六事件直後の三月二日の幼年学校全生徒に『如何なる忠君愛国の赤誠も、その手段方法を誤れば大御心に反し、大義名分にもとる。憂国の情があれば自己の本分に邁進すべし。目的が善ならば法律を破るのは止むを得ないというのは国家の紊乱を招く』と訓示した。これは終戦時の父の姿勢につながる。

 

昭和十一年陸軍省兵務局長、昭和十二年陸軍省人事局長となる。軍人として政治には無縁。統制派・皇道派のいずれにも属さなかった。

 

昭和十三年三月陸軍中将。第一〇九師団長に補せられ、支那の山西省太原へ出征した。自決の時、『大君の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言ひ遺こすへき 片言(かたこと)もなし』という辞世をのこしたのは、父が出征する時、昭和天皇から食事を賜ったという感激があったからである。

 

華北戦線で中國軍を殲滅。千数百名の捕虜に対して父は『それぞれの祖国為に敵味方となって戦った。個人としては何らの怨恨があるのではない』と訓示した。

 

昭和十四年陸軍次官。東條大将と性格が合わなかった。昭和十七年第二方面軍司令官としてチチハルに行く。昭和十九年航空総監兼軍事参議官。昭和二十年四月七日鈴木貫太郎内閣陸軍大臣。五月二十五日、皇居・陸軍大臣官邸炎上。北海道から九州まで視察。

 

六月十八日の最高戦争指導会議における戦争継続は難しいとの判断が下され、ソ連の仲介による和平のために近衛元首相をソ連に送ることになったが、ソ連から応答なし。

 

沖縄の組織的戦闘終了。七月二十六日、『米英支共同宣言』。鈴木内閣はこれを黙殺。原爆投下、ソ連参戦。八月九日。父は、國體護持の条件を強く主張、『これが受け入れられなければ本土決戦も辞さず』と主張した。昭和天皇は終戦の御聖断を下された。父は、若い将校たちのクーデター案を否定。そして、陸軍全体の責任を取って自決した」。

 

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この報告は、小生のメモと記憶によるものですので、きわめて不完全です。文責は言うまでもなく小生にあります。

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