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2015年10月31日 (土)

『第十六回・先哲に学ぶ会』における日本学協会理事・永江太郎氏の「多くの人々から信頼された維新の英傑と西郷隆盛」と題する講演内容

七月十八日に行われた『第十六回・先哲に学ぶ会』における日本学協会理事・永江太郎氏の「多くの人々から信頼された維新の英傑と西郷隆盛」と題する講演内容は次の通り。

 

「徳川幕府は徳川至上主義。徳川あるを知って国家を知らず。直参旗本が威張っていた。『恩を忘れて王臣となるか、義を全うして陪臣となるか』が幕臣としての身の処し方。将軍家そのものが天皇の臣即ち王臣。将軍は天皇に任命される。内政は幕藩体制。外政は鎖国主義。内治は各地に大名を配置。今の言葉で言えば地方分権。国防もバラバラであった。

 

国防軍は国家単位。天皇の下に中央集権国家をつくる。そのために幕府を打倒しなければならない。日本の領地の半分以上が幕府の支配下(譜代・親藩・御三家を入れて)。朝廷は十万石。小御所会議で、德川に辞官・領地返納を要求。徳川を倒さねば中央集権はできない。八百万石の徳川は国内最大の軍閥。

 

西郷隆盛は五十年の生涯。大久保利通は西郷より三歳年下。西郷は司々の意見を尊重して政治を行う。大久保は明治初期日本国内の最も優秀な実務家。大久保は計画によって近代国家をつくろうとした。それを邪魔する者は許さない。西郷は和魂洋才、開国進取の考え。西郷は王政復古に力を入れた。大久保は文明開化に力を入れ欧米に早く追いつこうとした。『器械芸術彼に取れ、仁義忠孝我に存す』が橋本左内の持論。西郷も同じ。

 

大久保は文明開化に集中。岩倉視察団に木戸・大久保が加わった。海外出張中に新規事業をするな、新しい人事もするなという約定書を作った。留守の実務は西郷しかいなかった。そして次のことを行った。参議に江藤新平を任命。学制改革。徴兵制を行った。大久保にとって心外であった。

 

西郷の目的は天皇を中心とする道義国家。大久保の文明開化とは合わない。感情的対立は、留守中に西郷が勝手なことをしたと大久保が思ったことによる。大久保は富国強兵のための文明開化、欧米との格差縮小を狙った。

 

戊辰戦争の時、御用盗事件(四宮註・薩摩藩による江戸撹乱工作・資金獲得手段)があった。江戸の薩摩藩邸に浪士を集め、商家に対して金品強奪し、薩摩藩邸に逃げ込んだ。幕府は庄内藩が先頭になって薩摩藩邸を焼き討ち。鳥羽伏見の戦いの原因は、辞官・領地返納である。八百万石を返納したら、幕臣を養えなくなる。薩長が悪いとして、京都に攻めのぼろうとする。十倍の幕府軍に対して薩長軍が勝つ。装備は薩長が勝っていた。官軍は士気高揚のために錦の御旗を持ち出した。天皇の軍には弓を引きにくくなる。この頃の人々の手紙には『皇国』という言葉が多く出てくる。

 

江戸開城に際して、高輪における会談に、徳川慶喜は高橋泥舟の義理の弟・山岡鉄舟を立てる。山岡は『徳川慶喜の備前お預けは承服できない』と言った。西郷隆盛は情理を尽くせば受け入れる人であった。既決の事項を変えることが出来るほど西郷には力があった。庄内藩は西南戦争で西郷に味方しようとする。庄内藩は『大西郷遺訓』を筆記した。西郷は人気が高かった。家賃三円の家に住んだ。陸軍大将の給料は五百円だった。大久保は麹町に二千五百坪の邸を買った。日本初の洋館を建てた。

 

西郷隆盛と共に下野した人々は鹿児島に帰った。生活に困った。私学校は生活保護の面もあった。村田新八・桐野利秋・篠原國幹が私学校を支えた。村田は砲兵学校校長。賞典学校は士官学校。吉野開墾社は農業学校。薩摩は反政府の拠点化する。

 

札幌農学校は農業振興の先頭に立つと共に、ロシアが攻めて来た時に戦うための軍事教練も行った。森有礼は札幌農学校卒業生。クラーク教授は南北戦争に参加した。日本の安全にとって朝鮮は重要。腹に突き付けられた匕首。大院君は国内改革はやったが攘夷論者」。

 

 

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千駄木庵日乗十月三十一日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

午後四時より、池之端の東天紅にて、『青年思想研究会 先憂を偲ぶ会』開催。国民儀礼の後、緒方孝名議長が挨拶。山口申・阿形充規・犬塚博英の各氏そして小生などが挨拶を述べた。多くの同志と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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『第九五回東京財団フォーラム歴史和解は可能かー日中・日韓路日米の視座から』における登壇者の発言

〇七月六日に行われた『第九五回東京財団フォーラム歴史和解は可能かー日中・日韓路日米の視座から』における登壇者の発言は次の通り。

 

川島真東京大学大学院総合文化研究科教授「日本の殆どの歴史研究者は、歴史の認識には関わらない。日中間の歴史認識は、政府レベル、メディアレベル、社会レベルでは違う。そこで歴史学者は何ができるのか。『和解とは相手を許すが忘れない』というレベルに到達していない。『許さない。忘れない』というレベル。昨日は、台湾で軍事パレードが行われた。それをめぐって台湾で大きな議論が巻き起こっている。台湾でも引き裂かれている。日中でも、『村山談話』『小泉談話』を温家宝は高く評価した。日中間の和解は一定の水準に達した。日清戦争までは日中は対等。その後不平等の関係になる。一九二〇年にGDPでも日中は逆転。中国は日本から近代を学んだ。満州事変の後は、日中の歴史観は大きくずれる。中国は『戦争で日本に大勝利した』と言う。日本はアメリカに負けたと思っている。日中では国連への見方が違う。『国連は戦勝国の組織だから日本が常任理事国に入るのはおかしい』というのが中国の認識。戦後は、北京と台北が対峙した。台北は日本の承認が欲しかった。蒋介石は軍民二元論。『軍国主義に罪があり、国民に罪はない』という立場をとった。蒋介石は賠償を放棄した。日本に『蒋介石恩義論』が出て来た。それが一定の機能を果たしてきた。中共も日本が台北と結びつくことを嫌い『日本人民に罪はない』というロジックを用いた。しかし、中国国内、台湾国内では相当強い反日教育を行った。台湾と中国の教科書の戦争・歴史問題に関する記述・内容はそんなに違っていない。一九五二年の『日華条約』、一九七二年の『日中条約』の時、相手は民主化していない。相手の政府とは条約は結べても、相手の国民は入っていない。これが日本の直面する問題。一九八〇年、鄧小平は『日本は経済の師であるが歴史を忘れるな』と言った。南京記念館は鄧小平が作った。日本の経済力が弱くなると、ODAが縮小。そして日中関係は歴史問題が全てになってしまう。世論調査では八割が中国に親しみを感じない。沖縄でも然り。中国側も同じ。二〇〇九年から中国の対日外交は敏感になった」。

 

西野純也慶応義塾大学法学部准教授「第二次大戦で日韓は交戦国ではない。韓国の観点では植民地支配を受けたということ。一九一〇年から四五年までをどう評価するのかということが日韓における歴史和解のポイント。日韓国交正常化の時、植民地支配に玉虫色の決着をつけた。『条約に基づいて植民地統治をした』というのが日本側の見解。一九九八年の『日韓共同声明』で形式的には日韓の歴史的和解が成しとげられた。金大中大統領(当時)は、戦後日本の平和外交を高く評価した。『何回謝れば良いのか』というのが日本国内の雰囲気。韓国には戦争に参加できなかった残念さがある。『一九一九年にできた大韓民国臨時政府が参戦を準備していたが、参戦する前に日本は降伏した。参戦していたら別の歴史があった』という考え方が韓国にはある。しかし、『臨時政府は亡命政権とは言えない』という位置づけが国際的にはある。一九六五年の条約では玉虫色の決着。二〇〇〇年代に入ってから一九六五年の条約は正しくなかったと言われるようになった。『朴正煕政権は権威主義であり、戒厳令をしいて反対運動を押さえつけた。日本からの援助も少なかった』という認識が強い。完全な歴史和解は難しい。朝鮮が統一すると韓国のナショナズムのあり方は変わってくる。この時、日本はどう対処するかを考えるべし。日本は統一朝鮮とどういう関係を作るべきかをしっかりと考えるべし。冷戦時代、韓国では、経済の論理、安保の論理が優先され、歴史問題は後回しにされた。日韓の利害一致のもとに日韓国交正常化した。二〇〇〇年代、歴史問題がクローズアップした。小泉氏の靖国神社参拝によって一九九八年の精神は傷ついた。菅直人の『総理談話』は日本国内では評価されていないが、重要な取り組みであった。『菅談話』をどう評価するかが問題。日本の対韓認識が悪くなっている。六三%以上が韓国に親近感を感じていない。韓国も同じ。二〇一二年の李明博大統領の竹島上陸、天皇陛下に関する発言によって、日韓関係は益々難しくなった。民主党政権は、日本での評価は失敗だったが、韓国デは鳩山政権への評価が高い。民間レベルでお互いにレッテル貼りをしないことが必要。『韓国は反日国家』『日本は右傾化している』というのはどちらもレッテル貼り。認識の一致は無理。朴韓国大統領が国際社会で日韓関係悪化を訴えるのはやめてもらいたい。朴大統領が行く先々で日本批判をするのはやめてもらいたい」。

 

渡部恒雄東京財団上席研究員「欧米のリベラル系のメディアから、『安倍は歴史修正主義』という批判がある。日本は周辺諸国の脅威になるような軍事拡大をしているわけがない。日本を批判している中国が軍事拡大をしている。現状の秩序の維持しているのはアメリカであることを忘れてはいけない。歴史認識にはよほど気を付けなければいけない。ドイツの対処の仕方に学ぶべし。日中・日韓と比べると日米は複雑ではない。日本は戦争に負けたのだから仕方がないという考えがある。原爆・大空襲は国際法違反という問題はどう考えるべきか。日本の『右』は、日米同盟は支持しているが反米の部分がある。安保法制反対は、アメリカにどこまでついて行くのかという反米ナショナリズムがある。この左右の反米ナショナリズムをどう整理するか。日米で歴史総括をするとパンドラの箱を開けることになる。アメリカも日本も民主主義国家。自由にものが言える伝統がある。民間では議論できる場がある。ここが日中・日韓と日米の違うところ。アメリカはイラク戦争で重荷を背負った。国内の左右の対立が固定化。しかし、アメリカは復元力があり、混乱はどこかで収まる。歴史問題で、日本とアメリカが自己正当化を進めれば、日本とアメリカはぶつかる。それを喜ぶ勢力がある」。

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千駄木庵日乗十月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿の校正など。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、千駄木にて、友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2015年10月29日 (木)

この頃詠みし歌

老夫婦の住みゐし家は人気無し かくて知り人は少なくなりゆく

 

賑やかな会話をしてゐる女性群の傍らに坐してどら焼きを食す

 

大声で鳴きゐるカラス 好かれざる鳥であることは知らざる如し

 

谷中霊園秋空清く澄みわたる下に立ちゐる澤正の墓

 

島田辰巳緒形拳すらすでに亡く遠くなりゆく新国劇の舞台

 

多くの人が行き交ふ虎ノ門交差点小さき虎の像置かれゐる

 

きらきらと輝く如き絵が並ぶ会場に坐す時の華やぎ(深見東州選りすぐり絵画展)

 

あどけなき幼子(をさなご)の笑顔を見てうれしそれその父は我の甥っ子

 

わが部屋に愛らしき幼子とその父が来たり遊ぶ秋の朝かな

 

秋晴れに坂道登りまた下る人生といふもそのやうなものか

 

低く浮かぶ三日月に向かひ歩み行く異界への道を辿る如くに

 

東天の光が次第に強くなる明方時に命漲る

 

食欲の秋とは言ふも我はしも春夏秋冬食を楽しむ

 

わけの分からぬ言葉の羅列の短歌作品 謎解きの如くに讀みてゐるなり

 

スプーンにてお粥を母の口へ運ぶ時 親子の強き絆を思ふ

 

思ひ出を友と語らふこの夜は楽しくもあり悲しくもあり

 

佳き人の思ひ出を友と語らひて秋の夕べを酒酌み交はす

 

亡き父は故郷に帰らず東京の墓地に静かに眠りたまへる

 

父の故郷徳島眉山を父上と共に登りし思ひ出の旅

 

遠き日の思ひ出の中をさまよひし夢から覚めれば朝が来てをり

 

逢ひ得ざりし歌人(うたびと)の歌集をひもときて吉野熊野の山河を思ふ

 

穏やかな顔をして我と語らへる母は心も体も強し

 

明るき声で我を迎へる店の主(あるじ)それその妻も明るき笑顔

 

秋の夜の風に吹かれて街を行く もうこの年もあと二月(ふたつき)

 

線香を手向けて御霊をなぐさめる来島恒喜氏の墓の御前で

 

頭山翁の力強き書が刻まれし来島恒喜氏の御墓(みはか)拝ろがむ

 

さはやかに秋の大空広がれる谷中霊園に友ら集ひぬ

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千駄木庵日乗十月二十九日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

午後六時より、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者の打ち合わせ。

帰宅後は、原稿執筆など。

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天皇の国家統治について

古代日本の統一は祭祀的統一

 

 古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神の祭祀によって聖化された。日本神話には、神武天皇が御即位あそばされる前に、大和地方の國魂がこもっていると信じられた天香具山の埴土(はにつち)を以て天平瓮(あめのひらか)・厳瓮(いつへ)を作り、大和地方の神を祀って大和地方を平定されたと書かれている。

 

 大和朝廷の祭祀は、当時の各部族・氏族そして首長の率いる共同體の祭祀を統一したのである。各部族の持っていた信仰(地方神への信仰や神話伝承)は、大和朝廷の信仰に包摂された。

 

 崇神天皇の御代には、天神地祇をお祀りする社(やしろ)を定め、その神領や奉仕する神戸(かんべ)を定められて、各地の産土神および各氏神を篤く祭られた。大和朝廷は、祭祀的統一とは、各氏族・部族の尊崇していた神々を抹殺して大和朝廷の尊崇する神のみを祭ることを強制したのではない。各氏族・部族が尊崇する神々をそのままお祭りすることによって、精神的信仰的統一を実現したのである。これが中東や西欧と日本との大きな違いである。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

 天皇による日本の祭祀的統一という歴史を背景として成立した日本神話には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られた時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されている。

 

 それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の子孫が統治すべき地である。なんじ子孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう、というほどの意)と示されている。この神勅は、天照大神の神霊をそのまま受け継がれた生みの子たる天皇が永遠に統治される國が日本であるということを端的に表現しているのである。

 

祭政一致とはいかなることか

 わが國古代においては、祭祀と政治は一體であった。だから祭祀も政治も「まつりごと」という。祭祀とは、五穀の豊饒と國民の幸福を神に祈る行事である。政治とは、規則と制度と行政によって國民の幸福を実現することである。祭祀と政治は本来その目的は一つである。これを「祭政一致」というのである。「祭祀」が「政治」と一體であるのは古代からの伝統である。祭祀によって國家國民の平和と繁栄を祈ることと具體的な施策や制度(すなわち政治)によって國家國民の平和と繁栄を実現することとは分かちがたいものであった。

 

日本國の祭り主であられる天皇は、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。天皇は、「無私」になって神のまつろい奉る御方であり、神のみ心を伺い、それを民に示される御方である。また民の願いを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。だから民から天皇を仰ぐときにはこの世に生きたもう神すなわち現御神(あきつみかみ)あるいは現人神(あらひとがみ)と申し上げるのである。

 

天皇の日本國家統治の本質

 「無私」が祭祀の本質であるから、神のみ心のままの政治、私を無くした政治、これが祭政一致であり、天皇の日本國家統治の本質である。だから、日本國はその長い歴史において、多くの競争が行われ戦いがあったが、「無私」の御存在であられる天皇は、唯一神聖不可侵な御存在として絶対的な御位におられ続けた。

 

 武力によるいかなる覇者も、天皇の「親任」を得ることによってその地位の正当性を得ることができた。天皇を廃して自らが日本國の最高君主になることはなかった。徳川幕藩體制下では、行政権・司法権ともに幕府が掌握していたが、祭祀を根本にした日本國の君主すなわち最高の統治者としての権威は天皇にあった。

 

 これは現代においても同じである。今日の日本の政治制度も、國会において多数を制した勢力の長が与党として内閣を組織するが、天皇の「親任」を得ることによってはじめて「内閣総理大臣」の地位につき國務を執行することができるのである。

 

 細川内閣においては、「天皇制打倒」を主張したりあるいは「天皇制」に否定的であった日本社会党の幹部も、天皇の認証を得て大臣に就任するのみならず、天皇から勲章まで授けられているのである。神話の世界から発する天皇の神聖性はそれほどに重大なのである。

 

日本における「生きた神話」・<天皇の祭祀>が現代を救う

 日本においては、日本神話の「神聖な歴史の物語」は、今日ただ今も<天皇の祭祀>に生きている。神話の世界で、天照大神が行われたと同じ祭祀(新嘗祭)を、今上陛下は今日も行われている。よその國では滅びてしまった「神話の世界」が、日本においては、仏教やキリスト教といった世界宗教が日本に入ってきた後もそして、近代科学技術文明が入ってきた後も、<天皇の祭祀>として今も現実に生きている。日本の國の素晴らしさはここにある。つまり<天皇の祭祀>は日本における「生きた神話」なのである。

 

 神話と祭祀とは、日本民族の固有の精神の在り方を示すものであり、日本という國の根底にある精神的道統・価値観・國家観・人間観を・文化観・宗教観を體現している。であるがゆえに、日本國家の統合・安定・継承・発展の基礎である。

 

 これまでの日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。特に、今世紀の日本は、世界の中でめざましい変化と発展を遂げた國である。しかし、日本は進歩し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥にある不動の核があった。それが日本天皇であることはいうまでもない。

 

 天皇は、権力政治面・経済面・軍事面ではいかに非力であっても、常に日本國の統一と調和と安定の核であり続けてきた。源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱、戦國時代、戊辰戦争、そして大東亜戦争の敗北と、日本國の長い歴史において、國が内戦によって分裂し疲弊し、國土が爆弾や原爆で破壊された時期があった。しかし、天皇および皇室が日本民族の精神的核となってその危機から立ち直り、國を再生せしめてきた。そして日本民族は常に國家的・民族的統一を失うことはなかったし、國が滅びることもなかった。これは、世界の何処の國にもなかったところの日本の誇るべき歴史である。日本がどのような危機にあっても、再生のエネルギーを発揮したのは、日本という國家が権力國家ではなく、天皇を中心とする信仰共同體であるがゆえである。

 

 混迷する現代日本は、崩壊の危機にあるといわれている。よほどの変革が行われなければならない。しかし、上に天皇がいますかぎりは、この危機を見事に乗り切るための変革を断行することができる。古来日本の変革思想は、祭政一致の理想國家への回帰がその根本にあったのである。

 

 今日の日本の危機を打開し救済するためには、「現代に生きる神話」すなわち<天皇の祭祀>への回帰しかないのである。具體的に言えば、政治権力を掌握した人のみならず我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心を、道義的倫理的規範としてならい奉るということである。それが理想的な國家実現の基礎である。 

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千駄木庵日乗十月二十八日

朝は、諸雑務。

午前十一時半より、日暮里のホテルラングウッドにて、『呉竹会幹事・評議員会』開催。頭山興助会長・藤井厳喜幹事長が挨拶。討議。休憩の後、小生が「吉田松陰と来島恒喜」と題して講演。

この後、谷中霊園の「来島恒喜氏墓所」に赴き、拝礼・焼香。

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来島恒喜氏墓所

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後は、資料の整理・原稿執筆など。

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2015年10月28日 (水)

明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」「復古即革新」

明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐといふ精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるといふ「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといはれる所以である。鎌倉幕府以来の武家政治・強いもの勝ちの覇道政治を否定し天皇統治の皇道政治の回復を目指した変革が明治維新である。

 

かうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』のに示されてゐる。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されてゐる。天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。

 

また、明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されてゐる。

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。日本傳統信仰即ち天神地祇への祭祀を根本とし、神武創業の精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ふのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」である。

 

「復古即革新」といふ明治維新の精神は、公卿や武士や學者といふ当時の指導層のみが志向したのではない。全國民的な傳統回帰精神の勃興でありうねりであった。山口悌治氏は、「伊勢参宮運動が、明和八年には、四月八日から八月九日までの間に、二百七萬七千四百五十名。文政十三年には三月から五月までの三ヶ月間に四百萬人を超えたといふのである。明治維新は勤皇の志士達を中心とする下級武士達と私は思ってゐたが、實はこのやうな一般庶民の圧倒的な伊勢参宮運動が、覇道政権への抵抗として全國にその土台をすでに充分成熟せしめてゐたのである」(『萬葉の世界のその精神』)と論じてゐる。

 

さらに、慶応三年(一八六七)七、八月頃、には「ええじゃないか」といふ民衆運動が起こった。これは、伊勢神宮の神符等が降下したことを発端として乱舞を伴ふ民衆信仰的な民衆運動である。名称は、民衆が踊りながら唱へた文句が「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」等があったことに由来するといふ。発生地は、畿内、東海道を中心とした全國約三十カ國である。囃し言葉は、「日本國の世直りはええじゃないか」「今年は世直りええじゃないか」といふやうな世直しを期待する文句であった。伊勢参宮運動=お蔭参りの傳統を継承した世直しを希求する民衆運動である。

 

このやうな民衆の復古的・信仰的な世直し運動が明治維新の原動力の一つだったのである。まさに明治維新は全國民的な「復古即革新」運動だったのである。

 

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

 

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

 

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)てい天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

 

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

復古の精神即ち祭政一致の精神は具體的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

 

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

 

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

 

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道學」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

この自由な発想の「生みの親」は實に、洋學者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國學者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ。」

「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだった。

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千駄木庵日乗十月二十七日

午前は、諸雑務。

午後は、明日行われる呉竹会幹事会における講演の準備。

午後六時半より、春日の文京シビックセンターにて、「國體政治研究会 第六十九回例会」開催。小生が司会。田尾憲男氏(皇學館大學特別招聘教授・神道政治連盟主席政策委員)が「國體から見た大御心と臣民の道」と題して講演。質疑応答。

この後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、原稿執筆なと゜。

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2015年10月26日 (月)

西郷隆盛・大久保利通について

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保利通は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚えたる。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転して来た。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川の東側で育ったからである。

 

 この加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

 大西郷と大久保甲東の二人こそ、わが日の本の近代の二つの道を示したる人である。この二つの道は「王道」「覇道」といわれるが、西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

 

 明治十年(一八七七)九月二四日午前三時五五分、政府軍によって西郷軍が立て籠もる城山総攻撃が開始された。城山に籠った西郷軍はわずか三七0人、包囲する政府軍は五万人を超えていた。西郷軍は奮戦したが敗れ、西郷隆盛は午前七時過ぎ別府晋介の介錯によって満四九歳八ヵ月の生涯を閉じた。

 

 南洲墓地には城山における最後の戦いおよび各地の戦いにおける西郷軍の戦死者二千二三人(西郷軍全戦死者六千二百三九人の約三分の一)が埋葬されている。墓の殆どは錦江湾に向いている。戦死者には若者が多く、十歳代の若者が数百人数えられる。これらの若者は郷中教育・私學校などにおいて教育を受けた優秀な人が多かったであろうから、天寿を全うしたとしたら國家のために大きな働きをしていたであろう。鹿児島県のみならず國家にとって大きな損失であった。

 

 城山を攻めた政府軍首脳には、川村純義・大山巌(西郷の従兄弟)など薩摩出身の人も数多くいた。また参軍の山県有朋も西郷の恩顧を受けた人物である。政府軍は西郷たちの遺体に無礼を働くことはなかった。また政府の派遣した岩村通俊県令は、西郷隆盛をはじめとした二千二三名の西郷軍戦死者たちをここに手厚く葬った。

 

 佐賀の乱鎮圧の時、その首謀者とされた江藤新平を梟首(晒し首)の刑に処したのとは大きな違いである。西郷隆盛が死してもなお政府は西郷の影響力を恐れたからともいわれている。ただし末端の政府軍兵士には西郷軍の遺体に無礼を働くものもいたという。

 

西郷等の墓所は埋葬直後から鹿児島市民の参拝が絶えず献花は墓標を埋めて盛り上がったという。墓所には西郷隆盛を中心に桐野利秋(西郷軍総指揮官)・辺見十郎太・池上貞固などの墓が数多く並んでいる。 

 

また、墓地の正面の下の方には、勝海舟の

 

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

 

という歌碑が建てられている。説明書きには「私學校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。…西南戦争を引き起こした…幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私學校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです」と書かれている。

 

 果たしてこの見方は正しいであろうか。西郷はただ私學校の生徒にかつがれただけなのか。勝海舟のこういう見方は西郷を政府への反逆者・賊徒にしたくないという意思に基づくものである。西郷は相当の決意を持って軍を率いて上京しようとしたと私は思う。大久保・山県・伊藤等が主導する政府の非を問責するため兵を率いて上京しようとしたのは西郷自身の強い意志であると思う。

 

 警視庁から西郷暗殺団が送り込まれたという事実を勘案すれば、陸軍大将の地位にある者として兵を率いて上京するのは当然である。それはまた島津斎彬・久光が維新前に徳川幕府を威圧するために行った『率兵上京』を見習ったことなのかもしれない。

 

 ただし、西郷軍は最初から武力戦を想定していたのではなく、政府軍は西郷軍到着前に熊本城下を焼き払い、熊本城に籠った政府軍の方が先に発砲した来たのである。

 

 また、 南洲墓地には、常夜燈がある。西郷と勝との會談により江戸城が無血開城され江戸が兵火から免れたことへの感謝のため、昭和十四年東京市によって建立されたという。「江戸ノ開城セラルルヤ西郷南洲勝海舟両翁ノ折衝ニ依テ兵火ノ厄ヲ免レ以テ大東京殷盛ノ基ヲ成セリ茲ニ奠都七十年記念トシテ感謝祭ヲ行ヒ常夜燈ヲ建ツ 昭和十四年五月 東京市」と刻まれている。

 

 さらに『岩村縣令紀念碑』と刻まれた石碑がある。岩村通俊は、土佐藩士として維新の戦いに加わり、維新後は北海道開拓、佐賀の乱・萩の乱鎮定に功をたてた。西南戦争後、鹿児島県令として戦後処理に当たり西郷を手厚く葬り、南洲神社の前身である参拝所を建てた。このことに対する鹿児島県人の感謝の意をとどめた碑である。通俊はその後、農商務大臣・宮中顧問官などを歴任した。

 

 通俊の弟は岩村高俊というが、高俊も維新戦争に挺身し、東山道総督として信越に出征、小千谷において長岡藩家老河合継之助と會談し、高圧的態度で挑み談判を決裂させ、長岡藩を抗戦させた。また、佐賀の乱では佐賀県令としてこれまた高圧的な態度で挑発し、佐賀県氏族を決起させたといわれている。弟は兄と違って多くの悪評を持つ人物である。この兄弟の墓は東京谷中墓地にある。

 

 城山は西南戦争最後の西郷軍司令部のあったところ。城山に立て籠もった西郷軍兵士はわずか三百七十余名。西郷隆盛が自決するまでの最後の五日間を過ごした岩崎谷の洞窟(間口三m、奥行五m)がある。政府軍の総攻撃が開始されるや、西郷がこの洞窟を出て百㍍ほど歩いたところで、政府軍の弾丸が西郷の太股を貫いた。そこで西郷は従っていた別府晋助に「晋どん、もうこの辺でよかろ」と言って介錯を命じたという。こうして西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。西郷軍の戦死者は士族四九一九名、平民二九八名。政府軍の戦死者は四六五三名であったという。

 

明治維新の歴史は、薩摩の國の人たちが都(京都と江戸)に踊り出で、築きたるものと言うべきか。西郷南洲・大久保甲東は共に、薩摩隼人の気性を背負いて近代日本の礎を作りし人である。

 

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千駄木庵日乗十月二十六日

午前は、諸雑務。

昼、若き知人と懇談。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。共に歌を歌う。

帰宅後は、原稿執筆・校正など。

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崇徳上皇の御事

 香川県の白峰山に、第七五代崇徳天皇御陵が鎮まりまします。崇徳天皇は、鳥羽天皇第一皇子。諱(いみな)を顕仁(あきひと)と申し上げる。元永二年(一一一九)五月二八日御生誕。保安四年(一一二三)御年五歳にして御即位。崇徳天皇を寵愛された曾祖父君の白河法皇が大治四年(一一二九)に崩御され、さらに保延五年(一一三九)に、父君・鳥羽上皇に第九皇子・體仁親王が生まれられた。そして、崇徳天皇は永治元年(一一四一)、わずか三歳の體仁親王(第七六代・近衛天皇)に皇位を譲られた。父君・鳥羽法皇の御意向によるという。しかしその近衛天皇は久寿二年(一一五五)御年十七歳で崩御されたので、鳥羽天皇の第四皇子で崇徳天皇の同母弟であられる雅仁親王が御年二九歳で皇位につかれた。後白河天皇であらせられる。

 

 以上のような皇位継承の流れの中で、近衛天皇崩御の後、御自分の皇子(重仁親王)に皇位が譲られると思われていた崇徳上皇と、後白河天皇とが鋭く対立されるようになった。このことについて『保元物語』(鎌倉時代に成立した軍記物語。作者未詳)は「近衛院に位を押し取られて、恨み深くて過ぎし処に、先帝(近衛天皇)隠れ給ひぬる上は、重仁親王こそ帝位に備はり給ふべきに、思ひの外にまた四の宮(後白河天皇)に越えられぬるこそ口惜しけれ」と傳えている。また、この対立には藤原氏内部の対立が関係していた。

 

 保元元年(一一五六)鳥羽法皇が崩御されると、ついに武力戦争になった。これを保元の乱という。骨肉相争う戦いであったが、後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に御遷幸あそばされた。仁和寺を御出発。途中父君・鳥羽法皇御陵に参拝されようとしたが許されず、讃岐の御所でも、四方に垣をめぐらし、監視兵付きで過ごされた。

 

 「日本の歴史は天皇受難史であり、皇室哀史である」と言う人がいるが、まさにその通りである。しかし、そうでありながら常に、天皇及び皇室がわが國の文化・政治・宗教の中心であった。これがわが國體の有難くも不思議なところである。

 

 崇徳上皇は、長寛二年(一一六四)、御年四六歳で崩御されるまで九年間讃岐で過ごされ、終生京都への還幸を許されなかった。崇徳上皇の御陵は御遺詔によってこの白峰山に営まれた。讃岐で崩御されたので讃岐院と称されることとなった。

 

 崩御後、崇徳上皇の霊威甚だしくかつ峻厳にして、大火などの様々な奇瑞が都に起こった。そこで、御歴代の天皇・公家・武家は、霊威を鎮め奉るため努力した。治承元年(一一七七)七月、崇徳院の号を奉った。

 

 平治・治承・寿永の戦乱は、崇徳上皇の祟りによると信ずる人が多かった。『保元物語』にはいわゆる<崇徳院説話>が語られている。それによると、崇徳上皇は、配流の地で、御自分の罪の償いと後生菩提のために深爪をして血判で大乗経を書写し、鳥羽天皇御陵にお納め申し上げようと京に送られたが、弟君・後白河天皇は信西入道の進言により、「罪人の手跡を、京に入れてはならぬ」と許されず讃岐に返送された。これに激怒された上皇は、「日本國の大魔縁(悪魔のこと)となり、皇を取りて民となし、民を皇となさん」と血書し、そのお経を海底に沈められたという。のみならず上皇は髪を刈らず、爪も切らず、お召し物も着替えられず、「生きながら天狗の姿にならせ給ふ」て憤怒の體を通されたという。そして、保元の乱の後、武家の力が強くなり、秩序が転倒した世となったのは「大魔縁」となられた崇徳上皇の呪いによるものだと信じられた。 

 

実際、慈円著の歴史書『愚管抄』(承久二年・一二二〇成立)には「安元元年(一一七五注)七月廿九日讃岐院に崇徳院と云う名をば宣下せられけり。かやうの事ども怨霊をおそれたりけり」と記されている。また長寛二年(一一六四)から建仁三年(一二0三)にわたる九条兼実という人の日記『玉葉』には「天下の乱逆。連々として了る時無し。是偏に崇徳院の怨霊たるべし」と記されている。そして、後白河法皇の院宣により寿永三年(一一八四)四月十五日、京都粟田口に、崇徳上皇を神霊としてお祀りする神殿を建立し御霊を鎮めた。

 

 第百代後小松天皇は、応永二一年(一四一四)、御陵のそばの崇徳上皇の御廟(崇徳上皇の近習が法華堂を建てて上皇御自筆の御画像を奉安し御菩提を祈っていた)に、頓證寺(頓證とはすみやかに悟りを開くこと。追善回向の功徳によって亡者が成仏するよう祈る言葉を『頓證菩提』という)の御追号勅額を奉納し給い尊崇の意を表された。

 

 崇徳上皇が怨霊となられたというのはあくまでも傳説であって全て事実かどうかは分からない。しかし、崇徳上皇の悲運な御生涯を悲しむ多くの人々の心が、源平の戦いなどの世の乱れ・武士の台頭などの社會の変動と関連させて、こうした傳説を生んだといえよう。

 

 崇徳上皇に関しては、怨霊となられたという傳説ばかりが強調されるが、崇徳上皇の御天性は史書『今鏡』(作者未詳。嘉応二年・一一七0年成立)に「御こころばへ、絶へたる事を継ぎ、古き跡を興さんと思召せり」「幼くおはしましけるより歌を好ませ給ひて、……」と記されているように、上皇は國の傳統を尊ばれ、宮廷の歌壇の中心として活躍されたと傳えられる。側近から俊成、西行、寂然などの大歌人が輩出した。

 

 崇徳上皇御自身も次のような御歌に代表される数々の名歌を残された。

 

「御軍(みいくさ)敗れて 後、御室(みむろ)の寛 遍法務が房に入らせ   給ひて

 

思ひきや身を浮雲になしはてゝ嵐の風にまかすべしとは

 

 讃岐の松山の津につかせ たまひて、廳野大夫高遠 の御堂に三年過ごし   給へる時、その柱にかき つけさせたまへる

 

こゝもまたあらぬ雲居となりにけり空ゆく月の影にまかせて

 

 杉山へおはしまして後、 都なる人のもとにつかは せ給ひける

 

思ひやれ都はるかにおきつ浪たちへだてたる心ぼそさを     

 

 讃岐國にて隠れさせ給ふ とて皇太后宮太夫俊成( 平安末期鎌倉初期の歌人・ 歌學者藤原俊成のこと注) にみせよとて書きおかせ 給ひける

 

夢の世になれこし契朽ちずしてさめむ朝にあふこともがな         」

 

悲しみ深き御心を表白された御製である。天皇は「天の下しらしめすすめらみこと」「一天萬乗の君」と讃えられる日本の統治者であらせられるのであるが、かくの如き境遇になられる天皇も数多くおられた。そして後鳥羽上皇・後醍醐天皇を拝しても明らかな如く、そういう天皇様方はみな素晴らしき御歌をのこされている。

 

 特に、崇徳上皇が崩御の際藤原俊成に贈られた「夢の世に」といふ御製はきわめて穏やかな御歌であり、とても怨霊になられたとは思えない。

 

 明治天皇は、御即位式を挙げられる直前の明治元年八月二十四日、「御こころばへ、絶へたる事を継ぎ、古き跡を興さんと思召せり」という崇徳上皇の御遺徳を追慕して、讃岐から御神霊をお遷して京都飛鳥井に白峰宮を建立された。武家による政権簒奪の端緒となった保元の乱のために讃岐に御遷幸あそばされた崇徳上皇を御神霊を、武家政権打倒・王政復古の大変革であった明治維新に際して、京の都に祀られるようになったのは意義深きことである。

 

 上皇の御陵は、とても怨霊になられた天皇の御陵とはとは思えぬ清らかさ、静けさである。

 

崇徳天皇御陵の近くに、上皇御廟所・頓證寺がある。「崇徳天皇」と謹書された『勅額』が奉掲されている。今日の建物は、延宝元年(一六八〇)初代讃岐藩主・松平頼重(水戸初代藩主・頼房の子)及び二代藩主・松平頼常(水戸二代藩主・光圀の子)の再建である。

 

 御廟所の奥には、西行の歌碑がある。仁安元年(一一六六)神無月(陰暦十月)の頃、すなわち崇徳上皇が崩御されてから二年後に、西行がこの地を訪れ、御陵及び御廟に参拝している。西行は平安末期から鎌倉初期の歌人。出家前は佐藤義清という北面の武士であった。保元の乱が起きた時、三十九歳の西行は高野山を下り、戦乱の巷で崇徳上皇をお見舞申し上げている。上皇が讃岐に遷られてからは、三回にわたって院との間に往来歌がある。

 

 西行が四國を旅したのは四七歳の時で、崇徳院御陵参拝及び真言宗開祖・弘法大師生誕地参拝がその目的であった。西行がこの御廟に参拝した時、御廟が振動して、

 

「松山や浪に流れてこし船のやがて空しくなりにけるかな」

 

 という御製があったので、西行は

 

「よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん」

 と返歌申し上げたという。この西行の返歌は『山家集』に収められている。西行の歌碑にはこの歌が刻まれている。

 

 さらに崇徳上御製の御歌碑も建立されている。それには、

 

「浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞなく」

 

 と刻まれている。この御製は、崇徳上皇が讃岐に御到着になった直後、未だ御所が造営されていなかったので、松山というところにお入りになった時に詠ませられた御歌である。

 

                 ◎

拙歌を掲載させていただく。

 

白峰に鎮まりましますすめらぎの清き御霊にぬかづきにけり

 

怨霊となり給ひしと傳はれど清く明るきこれのみささぎ

 

あなかしこ霊威激しきすめろぎの御陵は今ぞ清く鎮まる

 

瀬戸内の美しき景色見はるかす白峰山に鎮まります君

 

崇徳帝の御霊鎮まるみささぎは春の光に静かなるかも

 

萬乗の大君ながらこれの地に幽閉されし悲しみの極み          

 

心細き御境涯にて神あがりましたる君を伏し拝みたり

 

瀬戸内の海見はるかす白峰に悲しきみかどは神づまります

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千駄木庵日乗十月二十五日

午前は、諸雑務。

午後は、本日行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京シビックセンターにて、『第五十六回 日本の心を学ぶ会」開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が挨拶。小生が、『憲法守って國滅ぶ』と題して講演。活発な質疑応答・意見発表が行われた。

帰宅後は、原稿執筆の準備。

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2015年10月25日 (日)

本駒込の神社仏閣

千駄木の隣町の本駒込には、富士神社が鎮座する。富士神社は天正元年(一五七三)本郷村の名主・木村万右衛門、牛久保隼人の二人が夢に木花咲耶姫命(霊峰富士の御神霊)のお姿を見たので、翌年駿河の富士浅源間神社の御神霊を勧請した。寛永六年(一六二九)加賀藩が現在の東京大學のあるところに藩邸を作るにあたり、その地にあった浅間神社をこの地にお移しした。故にこの付近は住居表示改定までは「駒込富士前町」と言われていた。また東京大学のあるところは住居表示改定まではもと富士神社のあったところということで「本富士町」と言っていた。オウム事件で話題になった本富士警察署は東大の隣にある。

 

 富士神社は山岳信仰特に江戸において盛んであった富士山への信仰によって建てられ今日まで信仰が続けられているのである。小生は中学時代一年間だけこの神社の近くの文京九中に通ったので、体育の授業のマラソンでこの神社の回りを走ったりしたため懐かしい思い出のある神社である。

 

 神殿は小高い丘の上にある。この丘は塚であり前方後円墳であるという説がある。加賀藩に縁があるため江戸時代加賀藩の特設消防隊『加賀鳶』(大名火消し)が奉納した大きな石がある。そうした関係からかこの丘には東京の消防体制の基礎を作った人物(薩摩藩士にして警視庁幹部)の顕彰碑が建てられていた。

 

 さらに近くには天祖神社が鎮座する。この神社は、文治五年(一一八九)七月、源頼朝が奥州藤原泰衝征討の砌りこの地を過ぎる時、霊夢によって伊勢の大神(天照大神)への祈願の地を求めたところ、この地の松の枝に大麻(伊勢の神宮の神札)かかったのをかしこみ、神祠をお祀りしたのが淵源であると伝えられている。以来駒込神明宮と称えられ、駒込の総鎮守として住民に信仰されている。御祭神は天照大神。明治の御代に天祖神社と改称された。このあたりの町名を駒込神明町と言った。

 

小生の幼少の頃には都電の車庫があり、銀座から神明町まで四0番の電車が走っておりよく乗ったものである。中学一年の頃小生はこの天祖神社境内を通り抜けて九中に通った。境内は当時のままのたたずまいであり懐かしい。

 

 すぐ近くの駒込名主屋敷がある。東京山手線内で唯一江戸時代の名主(村長のような役職)の役宅の遺構をよく残している建物であるという。高木という表札が掛かっている。この高木家の御祖先に当たる高木将監(しょうげん)は元和元年(一六一五)豊臣氏の残党としてこの地に来たて駒込の開拓を許され、名主となった。現在の建物は享保二年(一七一七)に再建されたものという。旗本以上の屋敷しか許されない式台付きの玄関があるという。しかし、現在も高木家の人がお住まいになっているので中に入ることは出来ない。門(宝永年間、一七0四~一一の建造。薬医門形式)だけを見る。また大きな倉や家屋が眺められる。

 

本郷通りに出ると、、諏訪山吉祥寺がある。吉祥寺は太田道灌が江戸城築城の時、井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので、現在の和田倉門のところに「吉祥寺庵」を建てたのが淵源であるという。徳川家康の時に水道橋際に移り、明暦の大火(一六五七)で焼け現在地に移った。このとき水道橋際の門前にいた人たちが移って新田開拓したところが現在の武蔵野市吉祥寺である。

 

 享和二年(一八0二)再建の見事なる山門(四脚門)を潜って境内に入る。参道の左右が墓地になっている。右手に眉山・川上亮の墓がある。川上眉山は明治時代の小説家。硯友社同人。また鳥居耀蔵(江戸末期の幕臣。渡辺華山ら洋学者グループを弾圧。江戸町奉行となり水野忠邦を助けて天保の改革を推進)の墓があった。

 

向かい側に二宮尊徳の墓がある。二宮尊徳は江戸末期の農政家。小田原藩・相馬藩・日光神領などの復興につとめ、その思想と行動は農政のみならず近代日本の教育にも大きな影響を与えた。お墓の横に尊徳の少年時代の読書像が建てられている。何故江戸駒込吉祥寺にお墓があるのかその由来を知りたいと思っている。

 

榎本武揚(江戸末期の幕臣。函館五稜郭に立て籠もり新政府軍と戦ったが、維新後は海軍卿、文部大臣、外務大臣、枢密顧問官などを歴任)の墓もある。

 

文化元年(一八0四)に再建された古く大きな経蔵がある。新しい墓地の方には鹿島守之助・卯女夫妻の墓がある。

 

この吉祥寺は、曹洞宗のお寺で、栴檀林という坊さんが学ぶ学寮があった。千余名の学僧が仏教や漢学などを学んでいたという。この後身が現在の駒沢大学である。江戸中期以後は縁故のある旗本の子弟も聴講した。吉祥寺の栴檀林は幕府官学の昌平坂学問所と並んで江戸における大きな学問・教育施設と言える。そのどちらも現在の文京区内にあった。明治以後今日に至るまでの文京区は教育機関の多いところとなっている。

 本郷通りをさらに少し進んで左に折れると、左側に『栴檀林寄宿寮』という表札のある門があったがその奥には何も無かった。その先に『原氏墓所』がある洞泉寺がある。原氏とは、江戸中期・後期の儒学者原氏のことでここのには双桂・敬仲・念斎・徳斎の四代の墓があるという。

 

 すぐそばには『浅香社跡』がある。浅香社とは明治時代の短歌結社で、落合直文が主催。落合直文は仙台出身の歌人・國文学者。一高教授。和歌革新を唱え近代短歌の基礎をつくった人。『大楠公』(青葉茂れる櫻井の……)の作詩者として知られている。浅香社という名はこのあたりの町名が浅嘉町であったことに由来する。浅香社には与謝野鉄幹・大町桂月・樋口一葉などが関係した。直文がこの家で詠んだ歌の一つに「庭に散る花にも音の聞ゆなり いかにしづけきゆうべなるらむ」がある。小生は和歌文学の道統の継承と革新が我が故郷の地で起こったことを誇りに思うものである。

 

「秋の日に経巡りにけりわが生まれ育ちし里の寺と神社を」    

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千駄木庵日乗十月二十四日

午前は、諸雑務。

この後、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には、週明けにはお届けできると存じます。

夕刻、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日行われる『日本の心を学ぶ会』における講演の準備など。

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第五十六回日本の心を学ぶ会

 

「安保法案と憲法を考える」

 

919日、未明に参院において安全保障関連法案が賛成多数で可決されました。

厳しさを増す日本の安全保障環境に対応するための法案でありますが、激しい議論を呼んでおります。

この法案は同盟国が攻撃を受けた際に日本の武力行使を可能にすることで同盟関係を強化し戦争を未然に防ぐ力である抑止力を高めることを目的としております。

しかしながらこの法案がこれまでの「保持はしているが憲法九条の制限によって行使はできない」という政府見解を変更し、「集団的自衛権」の行使を認めたことが、「憲法違反」であると批判が起こりました。

そして、国会周辺は数多くの人たちの抗議の声に囲まれました。「憲法違反である」「平和を守れ」といった声は、法案の可決後の現在も全国各地で反対の声は続いております。

さらに反対派は来年の参院選へ向けた落選運動を呼びかけており、安保法案にまつわるせめぎ合いはまだ続きそうです。

 

そこで今回の勉強会では、「安全保障法案」と憲法について考えてみたいと思います。

 

今回の安保法案がこれまでの安全保障政策から大きな転換となることは事実です。

 

しかしながら、今回の安保法案が問いかけた問題は単なる安全保障政策にとどまりません。

 

戦後七十年の節目に当たる年に、憲法問題、戦後の欺瞞的な平和主義、偏向メディアの世論誘導、共産支那の脅威など、様々な問題が関連しているといえます。

このような問題についても議論してみたいと思います。

みなさんのご参加をお待ちしております。

 

 

【日 時】平成271025日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室B

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

 

「憲法守って國滅ぶ」 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

せと弘幸先生は調整中です

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-73

 

         〇

この告知文は、主催者が作成したものです。

 

 

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2015年10月24日 (土)

国学とは日本民族の倫理精神と日本の国の歴史と文学を研究し、結合した学問を築こうとする学問である

 日本民族の倫理精神と日本の国の歴史と文学を研究し、結合した学問を築こうとする学問が、国学である。そしてその学問は徳川時代中期に発生し幕末という国難の時期に大成した。外圧という有志以来未曾有の危機をどう打開するかという情熱・慷慨の志の上に立っている学問であって単なる知識を求める学問ではない。実行と変革を目指す学問である。もっとも日本らしい学問といっていい。

 

 日本民族の生活を対象とし、日本人の生活の奥底に流れている倫理観というか道義精神というものを探求する学問が国学である。つまり日本の文学・歴史・国語の中から理想を見出し、さらに理想を今日において実現しようとするのである。

 

 しかもその理想は日本一国に限定されるものではなく、世界に通用する理想として学問的に樹立しようとしたのである。国学が外国からの侵略をどう防ぐかという国家的状況の中で生まれた学問だからそれは当然のことであろう。つまり、日本の伝統的な精神によって世界に寄与しようという広大な精神によって打ち立てられた学問が国学なのである。そういう意味で、国学は日本の独自性を探求する学問であると共に、その普遍性をも目指したといっていい。

 

 理想を求めるということは、現状の変革を目指すということである。ゆえに、国学は変革の学問である。実際国学は水戸学と共に明治維新の変革の原理となった。

 

 国学が日本人の生活の奥底に流れている倫理観というか道義精神というものを探求したということは、言い換えれば、日本の『道』を求めたということである。神話の世界から発する日本民族の『道』というものを探求した学問が国学なのである。その『道』とは、古代日本人の生活における「しきたり」といってもよいかもしれない。国学はそうしたことを対象とする学問である。

 

 神話の世界から発する日本民族の『道』は、今日、「神道」という言葉で表現されている。神道とは、日本本来の信仰精神・生活規範であり、国学はそのことを学ぶのである。日本民族のみならず世界各民族の文学も芸術も道徳もそして生活全般も、その民族の信仰生活がその起源となっている。

 

 近世国学者は、抽象的・概念的な考え方に陥った儒教や仏教の教条万能・議論偏重の思想傾向を排撃した。そして素直なる心を持って我らの祖先の行いを見、自分もそれに身を以て実行しようという志を持つ生活観を持つべきだと主張した。 

 

 それでは、国学における「道」、「神道」の「道」とはいかなる道であろうか。それは「教条」や「掟」ではない。「神のみ心のままに行う」ということである。日本の神の「行い」をそのまま踏み行うことである。

 

 小林秀雄氏は次のように論じておられる。「『道といふこと』とは、論(あげつら)はうにも論ひやうもない、『神代の古事(ふるごと)』であった。『古事記』といふ『まそみの鏡』の面にうつし出された、『よく見よ』と言ふより他はない『上つ代の形』であった。…『上つ代の形』とは、たゞ『天つ神の御心』のまゝであらうとする、『上つ代』の心の『ありやう』、『すがた』た他ならず…。」(本居宣長)

 

 つまり、神のみ心のままであろうとする「かたち」の継承が「道」といっていいのかもしれない。

 

 日本語には古来、西洋でいう「知識」とか「認識」という名詞は存在しなかったという。日本人は、単に知識を求めたのではなく、「道」を求めたのである。それが日本の学問だったのである。「道を学び問う」事を大切にしたのである。 

 

 「道」とは人が歩む道である。人が歩むという具体的な行いが、学問という精神的な事柄を言い表す場合にも用いられたという事は、日本人はそれだけ「実践・行い」ということを重んじたということである。具体的に道を歩むという行いの姿を以て精神的な道を探求することを表現したのである。知行合一の『陽明学』が日本人に好まれたのはこういうことが原因になっているのかもしれない。

 

 日本民族は、思想や精神を理屈として言挙げしなかった。『日本思想とはこういう思想である』と説明しがたいから、理解に苦しむという人が多い。しかし、日本の思想とは「道」であるから、日本の文芸や武道や茶道などあらゆる行為に自然に現れているのである。言葉で説明できる思想精神はそれだけ狭く限定されたものである。

 

 

 したがって、日本の道すなわち倫理精神・信仰精神は、教条的な形で理論として伝えられているのではなく、言葉の芸術である文芸(和歌や物語)によって伝えられている。『萬葉集』はその典型である。

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2015年10月23日 (金)

千駄木庵日乗十月二十三日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備、書状執筆、資料の整理など。

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 近世国学は明治維新の思想的基盤

明治維新の思想的基盤である近世国学は、それまでの日本で重んじられていた儒教や仏教という外来思想に抗して、それとは別なる日本独自の「道」を主張した。そこに近世国学の特質があった。

 

 日本独自の道とは、日本民族が古来より持ち続けている信仰精神である。国学とは、古代日本精神の復興による当時の時代思潮への批判思想である。

 

 そして国学は政治思想という狭い範疇に属するものではなく、文献学であり、和歌の学問であり、国語学・国文学であり、神道学である。

 

 そして外来の思想や文化を「からごころ」(からとは支那のことであり支那を通して日本に伝来した思想や学問そしてそれをもととした思考のこと)批判を展開した。

 

 十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジア西洋列強の侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

 したがって、国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 国学は幕末期の日本に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。危機的状況を迎えんとしていた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないという精神が国学運動を起こしたのである。

 

 そしてその底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないという悲憤慷慨の思いであった。そういう思いは、次に挙げる国学者たちの歌に表れている。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の跡を見るのみ人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿に依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の道ふみそけて横さらふいづくにいたる汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。

 

 春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に息吹きやらはれしづきつつ後悔いむかもおぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。日本人の伝統精神の復興

 

 このように近世国学者は、幕末期日本の思想状況及び國内外の危機的状況を深く憂うる心、そして憤りの心を持っていたのである。つまり、近世国学は変革の思想だということである。

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2015年10月22日 (木)

千駄木庵日乗十月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き母に付き添う。介護福祉士との方と相談。

午後六時より、湯島にて、同志二氏と懇談。

帰宅後も、発送準備。

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満洲事変はわが國による侵略では絶対にない

 侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪い取ること」と定義される。満洲は支那・中國ではないし満洲は独立主権國家ではなかった。満洲は、諸民族が混在する無主の地であった。したがって、満洲事変は日本による中國侵略ではない。

 

 もともと満洲は満洲民族など北方民族の住む土地であった。『後漢書東夷伝』に、九夷ということが書かれているが、朝鮮・満洲・日本がその中に入っている。満洲は支那にとっては朝鮮・日本と同じく「東夷」であり「中華」ではないのである。清朝時代に完成した大百科『四庫全書』には、支那の黄帝開國以来、清は支那歴代王朝と並存する國家だったと書かれているという。萬里の長城の内と外とは有史以来、敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那・中國ではない。したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならないる。               

 

 満洲人は一七世紀初頭、萬里の長城を越えて支那大陸を征服した。清朝は支那大陸(萬里の長城の内側)への征服王朝であり、満洲は漢民族の地ではない。日本が尊敬を抱いていた文化國家・明が、東夷の満洲族によって滅亡の運命に瀕していることに深い同情の念を寄せた徳川光圀は、日本に援助を乞いに来朝した儒者・朱舜水を師として厚く遇した。近松門左衛門は明朝遺臣・鄭成功の反清復明を旗印にした大陸反抗を『國姓爺合戦』の劇に仕組んで、大阪町人の喝采を博した。清朝時代の支那は、清によって征服された植民地だったのである。満洲族の清朝が漢民族の住む支那全土を支配したことによって、満洲が支那の一部になったわけでは決してない。 

 

 一九○五年八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人に対する蔑称)を追い払い、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。         

 

 革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じような異民族と断じた。満洲を外地・外國と考えていた。日本人に対しては孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

 孫文はまた、「余は人民自ら己を治むるを以て政治の極則なるを信ず。故に政治の精神に於ては共和主義を執る。…況や清虜(満洲人への蔑称)政柄を執る茲に三百年。人民を愚にするを以て治世の第一義となし、その膏血を絞るを以て官人の能事となす。…試みに清虜の悪政に浴せざる僻地荒村に到り見よ。彼等は現に自ら治むるの民たるなり」と論じた。(宮崎滔天の『三十三年之夢』)

 

 明治四四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行われた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲は正に化外の地であった。それは日本統治下に入る以前の台湾と同じである。孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考えていなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命していた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだろうか。

 

 したがって、日本がいかなる手段・方法によって満洲に軍事的に進出しても、わが國が支那・中國を侵略したことにはならないのである。

 

 わが國軍民は満洲事変が起こる以前から「ポーツマス条約」に基づいて合法的に満洲に在留していたのだし、満洲事変によって満洲の土地・財物を不当不法に奪取していないのだからそれは当然である。それどころか日本軍によって満洲の治安が回復したのである。

 

 また、満洲事変はデッチあげでも侵略でもない。自存自衛のための作戦行動である。満洲事変の結果、五族協和・王道楽土の理想國家が建國され、満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらし、かつ、ソ連の南下・侵略を食い止めた。まさに、自存・自衛の戦略に基づいて、満洲の独立・建國を日本が主導して実現させたのが満洲事変である。

 

 「ワシントン条約」は欧米列強の植民地支配と搾取を正当化する欺瞞的な発言であり条約であって、これを根拠にして満洲事変・支那事変を日本の侵略だなどと言うのは、全く祖國の光輝ある歴史に対する冒涜である。

 

 欧米諸國特にアメリカが支那の大陸門戸の開放を主張したのは、アメリカ自身が支那大陸に進出するためであって、正義に基づくものではない。当時、アメリカもフィリッピン植民地化・ハワイ併合というアジア侵略を行い、支那大陸、特に満洲への進出を目指した。昭和二年(一九二七)、満洲軍閥の張作霖は、日本を裏切りアメリカと結託して満洲鉄道平行線を建設するなどアメリカの満洲進出に手を貸した。アメリカはイギリスなどと結託して対日包囲網を形成した。当時世界の四分の一を植民地としていた大英帝國と強大國アメリカによる、閉鎖的なブロック経済による対日経済封鎖の動きは、わが國を圧迫し大不況に追い打ちをかけた。わが國は、文字通り日本國及び日本民族の自存・自衛のために、満洲に資源・原料・國外市場を求め、日本を中心とする経済ブロックを作るしかなかった。大東亜戦争は米英によるわが國への経済的圧迫が大きな原因である。

 

 「ワシントン条約」も欧米列強が自分の植民地支配を正当化し既成事実とした上で、日本のアジアへの進出を規制しようという、身勝手な条約であり、正義の条約ではない。米英は口先では「平和」「軍縮」を唱えながら、自己の侵略と植民地支配と搾取を正当化し、自己の優越的地位の保持を図った。それがワシントン条約なのである。米英の優越維持と日本抑圧を意図した「ワシントン条約」を根拠にして歴史を裁き祖國日本を侵略國家呼ばわりをする歴史観は全く誤っている。

 

 昭和七年(一九三二)三月、満洲國建國宣言が発表された。昭和九年に、清朝の元皇帝・愛新覚羅溥儀を満洲國皇帝として擁立し、<五族協和>の理想國家を目指す満洲國が建國されたのである。満洲國では、各種の改革が実行され、土地の農地化・重工業の発展・治安の向上が実現し、混乱の続く支那大陸をはるかにしのぐ安定した國家建設が行われた。

 

 満洲事変以後、治安が回復し「五族協和」「王道楽土」の理想を掲げた満洲國建國が行われるようになると、他の地域にいた年間百萬人前後の民衆が満洲に移住してきた。満洲事変前の人口は三千萬人であったのに、十年後の一九四一年(昭和一六年)には四千三百萬人に急増している。満洲という地域が、日本軍によって侵略され、日本によって植民地支配され、搾取され、民衆は虐待され、虐殺され、酷い目に遭ったという説が、全くの嘘出鱈目であることを証明する数字である。

 

 満洲事変は、その手段に謀略(自存自衛のための戦争にも謀略は必要である)があったとしても、満洲におけるわが國の合法的権益と朝鮮人を含むわが國民を守るための自存自衛の戦いだったのである。石原氏が柳条湖の満鉄線を爆破したのは祖國の自存自衛のための戦略として行ったのである。

 

 「満洲事変は侵略であった、自存自衛の戦いではなかった」としていつまでも当時の関東軍および日本陸軍を非難攻撃する誤れる歴史観を國際社會に通用させてはならない。日本の行った大東亜戦争即ち満洲事変から日米戦争までの戦いは、自存自衛・東亜解放の正義の戦いであったということを國際社會に認めさせなければならない。

 

 ともかく、満洲事変はわが國による侵略では絶対にないし、満洲建國はわが國による搾取が行われた植民地支配では絶対にない。西欧列強がアジア・アフリカ・中南米などで行ってきた植民地支配・収奪・搾取とは全く異なる。近代國家建設の理想と情熱で満洲を開発し、十三年半という短期間に近代國家を作り上げたのはまさに奇跡である。わが民族は、満洲事変は自存・自衛のための止むを得ざる作戦であると認識し、満洲建國を誇りとしなければならない。

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千駄木庵日乗十月二十一日

午前は、諸雑務。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、「大行社幹部会」開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、原稿執筆、『政治文化情報』発送準備など。

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2015年10月20日 (火)

今日、わが国民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない

わが國には、対外的危機感が伝統精神の復活・回帰の熱望を呼び覚まし国家を変革してきた歴史がある。

徳川時代の末に至りペリーの来航から明治維新の断行までの内憂外患大変革の時期は、その愛国心・日本ナショナリズムは火の如く燃え上がり、数々の和歌に表現された。わが国は、外圧がきっかけとなって変革を成し遂げて来た。大化改新は唐新羅連合軍侵攻の危機があった時に行なわれた。元寇の時は神国思想が興起し建武中興へとつながった。明治維新は欧米列強の侵略の危機があった時に尊皇攘夷思想が根幹となって断行された。今日もまた外圧の危機に晒されている。今こそ、大変革を成し遂げなければならない。

 

今日の政治家も維新とか変革・改革という言葉を連発しているが、危機を脱出するためには、単に政治体制の変革だけでなく、国民精神の革新・日本伝統精神の復興が行なわれなければならない。

 大化改新・明治維新がそれである。現代もさうした時期である。わが國の伝統の根幹は「天皇中心の國體」である。「天皇中心の國體」とは、神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治といふことである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)である。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。

 日本伝統精神は文献としての「神話」によって伝へられているだけではない。天皇は神話の世界からの道統である祭祀を今日においても行ってをられる。天皇の祭祀は「生きてゐる神話」であり、天皇は「日本伝統精神の生きませる体現者」であらせられる。だから、天皇は生きたまふ神・現御神と申し上げて尊崇されてきたのである。

そして、國家的危機において國體の本来の姿・あるべき姿に回帰する運動が必ず勃興した。これが日本におけるナショナリズムである。元寇の時には「神國思想」が謳歌され、欧米列強の侵略の脅威を感じた幕末においては「尊皇攘夷思想」が謳歌された。

 このようにペリーの来航は、徳川幕府の弱体化・権威の失墜を天下に示し、日本國は天皇中心國家であるという古代以来の國體を明らかする端緒となった。これが明治維新の原理たる「尊皇倒幕」「尊皇攘夷」の精神の生まれた事情である。そして、徳川幕府を打倒し天皇中心の日本國本来の在り方に回帰する変革即ち明治維新によって日本は救われたのである。

 「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を打ち払うということである。そしてそれは、アメリカやロシアの軍艦の来航という國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 徳川幕府は開設以来鎖國政策を取り、頑なに外國との接触を拒否していたにもかかわらず、アメリカの恫喝に遭遇すると、屈辱的な開港を行ってしまった。明治維新の志士たちはこうした徳川幕府の軟弱な姿勢を批判し否定したのであって、外國との交渉・開港を一切否定したのではない。ここが徳川幕府の封建的な鎖國政策と維新者の攘夷精神との決定的な違いである。

 吉田松陰や坂本龍馬らは、日本の自主性を保持し日本の真の発展に資する外國との交渉を望んだのである。だから、松陰や龍馬など多くの維新の志士たちは外國の文物を学ぶことに熱心であった。松陰などは下田港から黒船に乗り込み密航してまで外國に渡ろうとした。

 だからこそ、徳川幕藩体制が崩壊し、明治維新が断行された後の日本では、外國との交際を一切行わないという頑なな攘夷論は姿を消し、外國の侵略を撃退し日本の自主独立を守るために西欧の文物を学ばなければならないという強い意志を持った。これを「開國攘夷」という。ここに日本民族の柔軟性・優秀性があると言える。 

 

 今日も、政治の混乱・経済の停滞・道義の低下・外圧の危機が顕著になっている。にもかかはらず人々の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主体性が大事になってくる。

 

 共産支那の「傲慢無礼」な反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されている今日、わが国民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

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千駄木庵日乗十月二十日

午前は、諸雑務。

昼は、施設に赴き、母と過ごす。昼食の介助。

午後二時より、『笹川平和財団 笹川日中友好基金主催 講演会』「中国の現状と課題」開催。

関山健「笹川日中友好基金」事業室長がモデレーター。吉田文彦「笹川平和財団」常務理事が挨拶。中国側代表の周志興共識メディアグループ総裁が挨拶。雷頤(中国社会科学院近代史研究所研究員)、劉澎(北京普世社会科学研究所所長)、簫功秦(上海師範大学人文学院教授)、任剣涛(中国人民大学政治学部教授)、周為民(中国共産党中央党学校マルクス理論教育研究部主任)、華生(東南大学経済管理学院名誉院長)が講演。質疑応答が行われた。尾形武寿「笹川日中友好基金」運営委員長が閉会の挨拶を行った。

後日報告します。

帰宅後は、原稿執筆・校正など。

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2015年10月19日 (月)

山村明義氏による「朝鮮カルトによる神社・寺毀損事件を考える」と題する講演

六月二十八日、春日の文京シビックセンターにて開催された『第五十二回日本の心を学ぶ会』における山村明義氏による「朝鮮カルトによる神社・寺毀損事件を考える」と題する講演の内容は次の通り。

 

「日本人一般は無宗教と戦後は教わって来た。これは大きな間違い。神道は四、五千年の歴史を持つ。一昨年、神社の放火事件が起きた。日本人なら余程の人間でなければこういう事はやらない。高山彦九郎を祀った高山神社(高崎)の本殿・拝殿が全焼。そのそばの新田義貞を祀った新田神社でも火災が起こった。靖國神社の鎮霊社が放火された。精神的におかしい青年がやった。全国に広がっている。糸島市の志登神社の本殿拝殿全焼、静岡県沼津市咳気神社全焼、静岡県三島市の滝川神社全焼、厚木市厚木町の厚木神社の神楽殿放火などがあった。こうした神社放火が前段になって、油撒き事件が起きている。宗教施設を狙った宗教テロ。何をしでかすか分からないというのが世界の常識。昭和四十年代は反日的左翼・過激派という日本の敵視して来た人がやった。秋田県護国神社は平成二年に革マル派によって全焼。護国神社を狙っているのは反日左翼活動家。

 

寺社連続油被害事件の容疑者は、昭和五十四年に帰化した元在日韓国人。インターナショナル・マーケットプレイス・ミニストリー(英語: International Marketplace Ministry ; IMM)の代表。深川で育った。三人兄弟で、遺産相続で揉めている。家業は金融業。韓国のプロテスタント系教団と密接につながっている教団は日本人にとって極めて危険。寺社連続油被害事件の容疑者によって油をつけられた場所は十六都道府県・四十八カ所(被害届が出されたところ)。容疑者はニューヨーク在住の医師。法津で立件するために物証が必要。犯行を待ってからでないと警察は動けない。世界布教をしている。聖書には『偶像を破壊せよと書いてある』と指令を出している。『日本には悪霊が住んでいる。悪霊を追い出さないと不況が出来ない。悪霊は神社仏閣に住んでいる。追い出すために油を撒く』と言う。

 

韓国系キリスト教は危ない。韓国はもともと儒教国家。その前は原始宗教。トーテム棒を立てたところに神が降りて来るというシャーマニズム信仰。戦後、アメリカ軍が入って来た時、プロテスタントが入って来た。勝手な解釈をする。キリストの生まれ変わりという人が百人くらい出た。自分たちが優れた民族だと思い込んでいる。それを日本に持ち込んでいる。早稲田にある日本基督教団のびるがある。ここにきて四十数団体が反日教団化している。大韓キリスト教会も入っている。日本を貶めている。平成十七年に発覚したキリスト教系新興宗教団体である聖神中央教会事件は、在日韓国人の主管牧師が信者の少女七人に対して計二二件の性的暴行を繰り返したとされる事件。韓国人は日本人に対し何をしてもいいと思っていると思う。

 

神社は寛容。監視カメラを置きたくない。何があっても受け入れるしかない。八万ある神社のうち日本伝統信仰は大らか。一万しか監視カメラはない。『大日本帝国憲法』第二十八條には『日本臣民ハ安秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス』とある。GHQは日本をキリスト教化したかった。いざと言うときの日本人の結束力にアメリカは恐れを為した。神社仏閣をバラバラにした。しかしキリスト教徒は人口の二%を超えていない。

 

神職は二千人いる。私は五、六千人の神職に会い話を聞いた。神職と雖もアメリカ化された部分あり。文化・思想の自由を享受している。『神社の行事を堅苦しくやっていると人が集まらない。奉納金も集まらない。緩やかなところを見せないと神社は成り立たない』と言う神職もいる。京都の上賀茂神社・下鴨神社は二千年くらい前からある。下賀茂神社の近くにマンションを建てる計画がある。共産党・プロ市民が反対運動をやっている。二十一年に一度の式年遷宮が行われる。二十四億円かかる。十憶円も集まっていない。マンション建設反対運動をしている左翼は一銭も出していない。こいつ等こそ叩きのめすべし」。

 

           〇

千駄木庵主人曰く。この記録は小生のメモと記憶によるものですのできわめて不完全です。文責は言うまでもなく小生にあります。

 

神社には塀無ければ門も無い。伊勢の皇大神宮・明治神宮も特に警備が厳しいということはない。そこがキリスト教会や寺院との違いである。それだけ日本神道は大らかで寛容性が高いという事であろう。靖国神社に参拝する度に実感するのは、神殿の奥の、庭園、靖國会館、遊就館もほぼ出入り自由である。そして支那人が何人かで歩いていたり、ベンチで話しているのを度々見かける。そういう支那人は、靖國神社に祀られている護国の英霊を報恩感謝の真心を捧げに来たわけではないであろう。何かするのではないかと少し心配になる。しかし、大らかで開かれているのが神社であると思うと、排除することは出来ないとも思う。難しい問題である。

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千駄木庵日乗十月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、業者が来宅して、パソコンのメンテナンス。

この後、原稿執筆の準備、原稿執筆なと゜。

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『萬葉集』について

 「古事記」「日本書紀」「「萬葉集」など日本の古典を研究して、わが国の伝統的な思想・精神を究めようとする学問を国学といふ。江戸中期に興った学問である。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の四人がその代表的な学者とされ「国学三大人」と呼ばれた。

 

 近代になって国文学は西洋的学問方法で研究された。文献学を重視したといって良いと思ふ。学問を自然科学・人文科学・社会科学といふやうに分類し、国文学は人文科学の中に入れられた。

 

 和歌には「古今集」以来の伝統があった。近世まではこの「古今集」以来の伝統が非常に重んじられた。

 

 明治以後になって、西洋の自然主義文学が入って来て、和歌の世界でも、自然をありのままに描写する写生歌が尊重されるやうになった。その代表が、正岡子規である。子規は、優雅さを尊び言葉の遊び的な面も出ていた古今集以来の伝統を否定した。子規は、「古今集はくだらない歌集だ」とまで言った。これを「短歌革新」といふ。

 

 そして子規およびその系列の「アララギ派」の歌人たちは、「萬葉に戻れ」と唱へた。この場合、「萬葉」といっても、大伴家持などの優美な世界ではなく、天地自然の美しさを雄大に歌ひあげる柿本人麻呂などの初期萬葉の世界を良しとした。

 

 しかし、「萬葉集」から始まるわが国の和歌文学・敷島の道は、大らかさと優雅さを兼ね備へたものである。どちらだけが良いといふのではない。

 

 「言葉の遊び」に過ぎるやうになった和歌を変革した「短歌革新」は否定されるべきではないが、「古今集」の美学である優雅さ・みやびの伝統を全く否定してしまったのはやはり良くない。「初期萬葉」には「初期萬葉」の、家持には家持の、「古今集」には「古今集」の良さがあるのである。 

 

 明治以後の自然主義の影響を受けた和歌文学に対抗するものとして、与謝野晶子・鉄幹夫妻等の浪漫主義的な和歌文学が生まれる。

 

 写実を重んじる自然主義でなければ駄目だとか、情緒・西洋の文学概念・方法論でわが国の文学を研究することは全然誤りではないけれども、わが国の文学特に和歌は西洋にはないものだから、やはりわが国伝統の考へ方を尊重して研究し、創作すべきである。

 

 三十七文字の短歌(和歌)、十七文字の俳句といった短詩形で定型文学は外国にはない。芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の川」という俳句は、雄大な景色をわずか十五文字に歌ひあげてゐる。わが国文学の素晴らしさは、そこにある。                        

 

 「萬葉集」には、天皇国日本が様々苦難を経ながら国家体制が確立した時期である大和時代から飛鳥奈良時代を経て平安朝初期にかけての「時代精神」「国民精神」が歌はれてゐる。上は天皇から下万民に至るまでの歌が収められてゐる。

 

 雄略天皇の御製から始まり、大伴家持の賀歌を以て終わる「萬葉集」は、天皇の御代を讃える歌集であるとともに、わが国の永遠の栄えを祈る歌集である。実におめでたい歌集なのである。そして、天皇中心の日本の国家体制確立の中核精神があますところなく表白されてゐるのである。

 

 「萬葉集」という名称は、色々な説がある。萬(よろづ)の葉を集めたといふ説がある。「葉」とは「言の葉」のことであるとして「多くの人の言葉を集めた」といふ説である。一方、「葉」を時代と解釈して、「萬代まで天皇の御代が続くことを祈る」といふ意味であるといふ説がある。いづれにしてもめでたい歌集であるといふ意味であるには変りはない。この頃は和歌を「言の葉」といふことはなかったといはれてゐるし、「萬葉集」の歌の内容や配列などを見ると、後者の説が有力である。

 

 「萬葉集」といふ名称は、国民の表白した歌を祝福すると同時に、天皇の御代・天皇国日本を祝福する意義を持ってゐるといふことである。

 

 全二十巻の「萬葉集」が、何時、誰によって編纂されたかといふことはなかなか断定しがたい。「萬葉集」の原本は一巻づづ巻物でできてゐて、途中から読むには不便であるが挿入削除には便利である。糊と鋏で歌を入れればいいので、ある程度形が整った後もまた新たに歌が加えられたり、削除された可能性があるので、全体が今の形に完成した時期を特定するのは難しい。

 

 今日、伝へられてゐる「萬葉集」が完成したのは平安朝の初期といはれてゐる。秘府(図書寮・宮中の書庫)に「萬葉集」が収められたのが、天平宝字三年(七五九)から宝亀二年(七七一)迄の十三年間のいずれかの年であると推定されてゐるので平安初期に完成したとされるのである。結局、「萬葉集」は一時に成立したのではなく長い年月の間に次第に成立していったと見るべきである。

 

 「萬葉集」に収められた歌で、年代的に一番古い歌は、第十六代・仁徳天皇の皇后であらせられる磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の御歌である。しかし、この御歌は伝承歌とされてゐてる。故に、作者が確実にはっきりと判明してゐる歌は、もっと後世の大化改新の頃の歌が最も年代的に古い歌であるとされてゐる。

 

 最も新しい歌は、前述の天平宝字三年(七五九)の正月に大伴家持が詠んだ「新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重け吉事」であるとされてゐるが、「萬葉集」には作られた年代がはっきりしない歌が収められてゐるので、この家持の歌が最も新しいと確実に断定することもできない。

 

 「萬葉集」には、大化改新(西暦六四五)頃から天平宝字三年(七五九)までの約百二十年間に詠まれた歌が収められてゐることのなる。

 

 初期の「萬葉」と後期の「萬葉」とではその歌の性質が異なってゐるのは当然である。文化面も、白鳳文化と天平文化とでは大きく異なったものがあるし、政治面も大化改新の時期と奈良朝初期とでは大きく異なってゐる。

 

 編者にも色々の説があって確定できない。全二十巻が一人の人によって編纂されたとは考へられず、また、巻毎に別人によって編纂されたとも考へにくい。少なくとも五、六人、多ければ十数人の手によって、時を異にして編纂されたと見るべきである。しかし、「萬葉集」には大伴一族のことについての記述が多く、大伴家持の歌が「萬葉集」四千五百首の十分の一を占めてゐることから、家持が編纂に大きく関ったことは確実である。

       

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千駄木庵日乗十月十八日

朝は、諸雑務。

午前集十時より、谷中の上聖寺にて、『憂国烈士之碑追善供養の儀』執行。本堂においてご住職による読経と共に、焼香が行われた。そして、墓苑にある憂国烈士之碑拝礼。

この後、施設に赴き、母に付き添う。母と共に歌を歌う。

午後は、湯島天満宮に参拝。宝物殿参観。近衛信尹・金地院崇傳・橋本雅邦が描いた「渡唐天神像」、谷文晁が描いた「綱敷天神像」、安田靭彦が描いた「恩賜の御衣」などの絵画、そして出目長吉作「天神面」、「富くじ金箱」などを参観。

帰宅後は、資料の整理など。

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2015年10月17日 (土)

『国歌君が代』の信仰的意義

 「家(イヘ)」は「いはふ」(神を畏敬し、神に祈るために家に忌み籠ること)の音韻が変化した言葉である。そして、人が籠る所を家(イヘ)といふようになった。「イハ」は「イヘ」と同根の言葉である。岩(イハ)は「魂の籠るところ」といふ意味である。大きな石のことを「巖(いはほ)」と言ふ。

 

 つまり、古代人は石や岩には魂が籠ってゐると信じたのである。その信仰が歌はれた歌が『萬葉集』の「東歌」(東國庶民の歌)の

 

「信濃なる筑摩の川の細石(さざれし)も君しふみてば玉と拾はむ」(三四〇〇・信濃の千曲川の小石でも恋しいあなたが踏んだのなら玉として拾ほふ、といふ意)である。

 この場合の玉は単に宝石といふ意味ではなく愛する人の魂が籠ってゐるといふ意である。

 

 古代日本では、石には魂が籠ってゐるのでそれが次第に成長していって小さな石がだんだん成長していって巖になると信じられてゐた。その信仰が歌はれた歌が、『國歌君が代』である。

 

「君が代は千代に八千代にさゞれ石の巌となりてこけのすまで」(天皇の御代は千年も八千年も続き小さな石がだんだん成長していって巌となるまで永遠に続く、といふ意)

 である。

「さゞれ石の巌となりてこけのすまで」は、決して比喩ではなく実際の信仰だったのである。

 

 さらに、イシ(石)・イハ(岩)・イツク(齋く)・イハフ(齋ふ)・イノル(祈る)の「イ」は、生命力・靈力を意味する名詞であり生命力の強い自然物(植物や岩)の称辞として用いられると共に、物事を神聖化することを意味する動詞にも用いられてゐる。            

 

 何故日本人は石や岩に魂が籠ると考へるやうになったかといふと、石は地上にありながら、石の下即ち地下から湧出する深く大きな生命力と威力を包含し、地下の精靈や魂の具象であり象徴である考へたのであるといはれてゐる。つまり石とりわけ巨岩は神靈の依り代(よりしろ・憑代とも書く。神靈が現れる時に宿ると考へられてゐる物、樹木・岩石・御弊など)であると信じられた。古墳をはじめ、墓を石で造るのは、それが地下の死の世界にゐる死者の魂が表出する依り代であるからである。この信仰は石器時代に発してゐるといふ。

 

 このやうに『國歌・君が代』は古代日本から今日まで続く伝統信仰が歌はれてゐるのであり、「石が大きくなって岩になるなどといふのは非科學的である」といふ批判は全く誤りなのである。

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千駄木庵日乗十月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、たまりにたまった資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、資料の整理。

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 『萬葉集』防人の歌には、尊皇愛國・敬神崇祖の精神が表白されている

「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に吾は來()にしを」

 

 那賀郡上丁大舎人部千文(なかのこほりかみつよぼろおほとねりべのちぶみ)の歌。那賀郡は今日の茨城県那珂郡及び那珂湊市・勝田市・水戸市の一部を含む一帯。

 

 「あられ降り」は鹿島の枕詞。霰がバラバラ落ちるのがかしましいから掛けたといふ説がある。あまりにもこじつけたやうに思へるがそれが通説なのである。

 

「鹿島の神」は茨城県鹿島町に鎮座する鹿島神宮に祀られてゐる神の御事。鹿島神宮は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を主神として祀り、経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)が合せて祀られてゐる。

 

武甕槌命は、天照大神の命を受けて、天孫・邇邇藝命の降臨の前に高天原から出雲に降られ、大國主命と談判して大國主命に國譲り(國土奉還)を為さしめられた神であり、古代より武神として尊崇されたので、防人たちもこの神に特に武運長久を祈ったのである。

 

「皇御軍」は天皇の兵士。天皇の御命令で出征した兵士なので「御」といふ尊称を付けた。「すめら」といふのは最高・もっとも尊いといふ意で、「すめらみこと」(天皇の御事)とは最高に貴い命といふ意である。「吾は來にしを」の「を」は「よ」と同じ感動の助詞。

 

 通釈は「鹿島の神に祈りつつ天皇の兵士として私は来たのぞ」といふ意。

 

 防人の代表的な歌である。憂ひも悩みも超越して、ただひたすら立派な防人となって天皇陛下のお役に立とうといふ、防人としての決意と感激と誇りを歌った歌。かうした心情は、明治維新の志士たちにも、そして日清・日露の両戦役、大東亜戦争に出征した皇軍兵士にも共通してゐるものである。神への信仰と天皇への忠誠心を歌ってゐる。

 

 旅行に出発・出帆することを「鹿島立ち」といふ如く、古来、わが國民は鹿島の神に安全を祈って旅立ちした。

 

 鹿島神宮は、利根川の下流、東に鹿島灘、西に霞ヶ浦、潮来を控へた地に鎮座する。御東征の途次、鹿島の神(武甕槌命)から神剣を与へられた神武天皇によって皇紀元年にこの地に祀られたと伝へられてゐる。この神社は古来中臣氏(後の藤原氏)によって祭祀が行はれて来たが、藤原氏が奈良に春日大社を創建した際、鹿島から武甕槌命を祭神として迎へた。その時、御祭神の宿る榊は白鹿で運ばれた。故に今日も奈良公園には神の使ひと信じられる鹿が多く生息してゐる。

                         

「今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」       

 

 火長今奉部与曾布(くわちやういままつりべのよそふ) の歌。「火長」とは『養老令』に「およそ兵士十人を以て一火となす」とあり、兵士十人の長のこと。帝國陸軍でいへば伍長が軍曹の位といふ。

 

「今日よりは」の「今日」は門出・出征の日を指す。「顧みなくて」は自分自身の私事は一切顧慮しないといふ意。「醜」は醜悪の意であるが、自らへりくだって言ってゐる。「御楯」は國の守りの任のことを具体的に表現した言葉。「大君の醜の御楯」で「天皇陛下の兵士」といふ意味になる。

 

 「防人としての任務につく今日からは、最早我が身のことは一切顧みないで、ふつつかながら大君にお仕へ申し上げる兵士として私は出発致します」といふほどの意。

 

 これも防人の代表的な歌。東國の一兵士の出征に当たっての決意が、決して力むことのない謙虚で静かな調べで表白されてゐる。それでゐて確固とした尊皇愛國の精神が歌はれてゐる。自分に言ひ聞かせるやうな簡潔で明快で清潔な表現である。騒々しい歌ではない。天皇への忠誠心・尊皇精神が、権力の強制によるものでは決してないことは、この防人歌の歌ひぶりをよくよく味はってみれば分かる。萬葉時代の東國庶民はごく自然な感情として尊皇精神を抱いてゐたのである。

 

 「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に吾は來にしを」の歌にあらはれた東國庶民の日本の神への純真な信仰、この歌にあらはれた自然な尊皇心は、天皇を中心とするわが國の統一が精神的・信仰的・文化的な統一であったことを示してゐる。尊皇愛國・敬神崇祖の精神は、決して近代日本において権力によって醸成されたのではなく、わが國生成の太古に自然に発生し今日まで綿々と伝わってきたところのわが民族の中核精神であり、わが國存立の基本なのである。

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2015年10月16日 (金)

千駄木庵日乗十月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、セントラルミュージアム銀座で開催中の『第一回深見東州選りすぐり絵画展』参観。

帰宅後も、原稿執筆。

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深谷隆司氏の正論

深谷隆司氏の正論を紹介します。

              ◎

深谷隆司の言いたい放題第633

 「ユネスコ分担金をやめよ」

 

ユネスコ(国連教育科学文化機関)が、世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺の記録」を登録した。これはとんでもないことだ。

ユネスコの創設趣旨は、人の心の中に平和のとりでを作ることである。当然公正でなければならない筈なのに、日本の反対を押し切って、中国が主張する歴史問題にお墨付きを与えてしまったのだ。これでは国や人々の対立を深めるだけで、まさにユネスコは死んだ、と私には思えてならない。

そんなところに莫大な負担金など払うべきでない。日本政府は駆け引きではなく、本気で直ちに分担金停止を通告すべきだ。

負担率は国連総会で決まる国連予算の分担率とほぼ同じで、2014年度では10.8%、約371800万円、世界で2番目だ。この他にも多くの追加拠出に応じ50億円を越える。アメリカは22%でトップだが、パレスチナ加盟に反発して11年秋から分担金の支払いを止めている。

国連負担金も問題だと思っているが、日本はどうも外国の批判を恐れて、いつも莫大な国民の税金を払いながら言うべきことを控えて来た。アメリカのように時には毅然たる態度を示すことも大事なのだ。ユネスコの存続が必要なら、政治利用されないような制度改革を断行させることが急務なのである。

 

 南京事件については中国と日本と意見は全く対立している。私は様々な資料を調べてきたが、中国が主張する30万人虐殺など、全くのでたらめだと思っている。彼らの主張は世界に向けての強大なプロパガンダであり、国内に向けては反日扇動の最大の材料なのである。

 当時、南京の人口は約100万人といわれていたが、193712月、日本軍の進撃で8割が脱出して、残った人は約20万人であった。この地域には英、米、仏、独、伊の居留民がいて、非戦闘員を保護するジュネーブ条約に基づいて安全地帯が公表されていたが、ここに南京市民があふれていた。

 南京陥落後も域内通行禁止になって孤立していたが、人口は一向に減っていなかったという。これでは30万人虐殺説など何の整合性もないではないか。

東京裁判でマイナー・ベック師は域内で15千人が殺されたと証言していたが、時代と共に「犠牲者」の数は増え、ついに中国の言う30万人になってしまったのである。

「南京事件の証拠写真を検証する」との本が草思社から出されている。この本は虐殺の事実があったか否かを検証したものでなく、あくまで証拠写真として使われているものが証拠写真として通用するかどうかを検証したものである。

実際に調べたものは12万以上に及ぶが、その結果は、日本軍が南京で6週間にわたって大虐殺を行ったという証拠写真は1枚もなかった。

南京事件については、様々な意見に分かれている。日本国内の学者間でも意見の相違は大きい。今後もしっかりした検証が求められるが、そういう状況の中で中国だけの言い分に沿って「記録遺産」に登録させることは断じて許すべきではない。

韓国も今政府の支援で元慰安婦の支援団体が登録を目指している。ここで放置すれば同じことが繰り返されること必定だ。

重ねて政府の断固たる姿勢を促したい。

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 「剣魂歌心」がわが國の武人・詩人の伝統

劒刀(つるぎたち) いよよ研ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負ひて 來にしその名ぞ   

 

 大友家持の歌。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」といふほどの意。「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じやうに大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないやうにすべきだといふ意がある。

 

 「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」といふやうに極めて断定的な強い表現になってゐるところに家持の毅然たる態度と意志がある。

 

わが國には「ますらをぶり」といふ言葉がある。男性的・男らしいといふ意味である。武士の心と言っても良い。『萬葉集』には「ますらをぶり」を歌った歌が多い。

 

 日本の武士は常に剣・太刀を持ってゐる。そして、剣を持ったますらをは「やまとうた」を詠む。武門の名門の棟梁たる大伴家持はその典型である。

 「剣魂歌心」とは日本の武士のあるべき姿を言った言葉であって、剣を持つ者の魂と歌を詠む者の心は一つであるといふほどの意である。剣を持つ者は歌を詠まねばならないし、歌を詠む者は剣を持たねばならないと言ってもよいであらう。

 

 この「剣魂歌心」の元祖的御存在が、須佐之男命であらせられる。そしてその次が景行天皇の皇子・日本武尊であらせられる。

 

 天照大神の御弟君であらせられる須佐之男命は、出雲の國で八俣の大蛇を退治されて、稲田姫をお助けになり、お二人が結ばれて共にお住まひになる宮を造られた時、

 

八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を

 

 といふ御歌を詠まれた。「おびただしい雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を造る。ああその八重垣よ」といふほどの意であるが、この歌は和歌の発祥といはれてゐる。須佐之男命は猛々しい武人であらせられると共に、わが國の伝統文芸である和歌の元祖的御存在でもあらせられるのである。

 

 日本武尊は、御父君・景行天皇の御命令で東夷の反乱を水火の難を冒して平定し給ひ、その御東征の帰途、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)のもとに、草薙の剣を置いて来る。そして、伊服岐山(いぶきやま)の神を平定されようとするのだが、剣を置いてきたことが命の運命を悲劇にする。そして、能煩野(のぼの・今日の三重県鈴鹿郡)で病となられ薨じられる時、

 

孃子(をとめ)の 床の辺()に 吾()が置きし つるぎの大刀(たち) その大刀はや   

 

 といふ歌を詠まれた。「乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ」といふほどの意。その草薙の剣を美夜受姫は永く祭られる。その神社が熱田神宮である。

 

 日本武尊のこの御歌について、萩原朔太郎氏は、「ホーマー的ヒロイックな叙事詩(英雄詩)の情操と、ハイネ的スヰートな叙情詩(恋愛詩)の詩操と、二つの對蹠的な詩情が、一つに結合融和して現はれてゐる。そしてこの一つの精神こそ、所謂『戰にも強く戀に持つ良い』天孫大和民族の原質的な民族性で、奈良朝以後に於ける日本武士道の本源となってゐる。」(朔太郎遺稿)と論じ、保田與重郎氏は、「武人としてのその名顕な日本武尊の辞世にむしろ耐へがたい至情を味ふのである。わが神典期の最後の第一人者、この薄命の武人、光栄の詩人に於ては、完全に神典の自然な神人同一意識と、古典の血統意識とが混沌してゐた。」(戴冠詩人の御一人者)と論じてゐる。

                      

 須佐之男命も日本武尊もわが國の武人の典型であられると共に、わが國の詩人の典型であらせられた。まさしく「剣魂歌心」がわが國の伝統なのである。そしてその心は皇室によって継承されてきたのである。

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千駄木庵日乗十月十五日

午前は、諸雑務、『政治文化情報』編集の仕事。

 

午後は、施設に赴き、母に付き添う。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『笹川平和財団 日米交流事業主催 講演会 「不安定化する世界と日米パートナーシップ」』開催。茶野順子笹川平和財団常務理事が挨拶。船橋洋一氏(日本再建イニシアティブ理事長)がモデレーター。ストローブ・タルボット氏(ブルッキングス研究所所長)が講演。質疑応答。講演後、ストローブ・タルボット氏はウクライナのイーホル・ハルチェンコ駐日大使と抱き合って再会を喜んでいた。余程親しい仲なのであろう。会場となった笹川平和財団ビルは、以前は船舶振興会のビルだった。昭和四十年代、笹川良一氏在世中、ここで月一回くらいの頻度で民族運動青年学生活動家の勉強会が開かれたのでよく来た。懐かしいところである。建て直されていた。

 

帰宅後も、原稿執筆など。

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2015年10月15日 (木)

『元寇』という唱歌について

日本国はこれまで数々の国難を経験して来ました。内憂外患という言葉もあります。今の日本はまさにそうした状況下に置かれていると思います。

 

私が「国難」という言葉をはっきりと意識したのは中学時代に『元寇』という唱歌を覚えた時です。この歌は、永井建子(ながいけんし・男性・陸軍軍楽隊長)作詞・作曲で、「四百余州を挙る 十万余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃」という歌い出しです。日清戦争の時に作られたと聞いております。

 

この歌は、学校の音楽教育で教わったのではなく、当時売られていたソノシートで聞いたと記憶します。日本人の魂を鼓舞する歌であると思いますが、私たちの世代では学校教育で教わることはありませんでした。『国歌・君が代』すら教わらなかったのですから当然であります。

 

石原慎太郎氏が都知事当選直後の記者会見でこの歌を披露した時には思わず拍手しました。今こそ、日本国民はこの歌の心意気を発揮しなければならないと思います。

 

このように書くと如何にも好戦的・排外的という誤解を受けるかもしれませんが、決してそうではありません。飛行場で唐辛子を撒いたり、他国の国旗を焼くなどという乱痴気騒ぎをするというのではなく、国難に際会した時には、国粋精神・愛国心を強固にして対処しなければならないということであります。

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千駄木庵日乗十月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が、皇極天皇御製などを講義。質疑応答。

帰途、出席者の方と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年10月14日 (水)

わが国の仏教受容について

 インドに始まった仏教は、南方に伝わったもの(南伝)が小乗仏教を形成し、北方に伝わったもの(北伝)が大乗仏教を形成したという。そして日本には支那・朝鮮を経由して大乗仏教が伝えられたのである。

 

 『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的な伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じた時であると記されている。しかし、別の資料ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされている。

 

 『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝えられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 

 日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を信仰しているのであるから、神は姿を見せない。というよりも自然そのものが神であり、祖霊が神なのである。仏像などのような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを神の像として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした仏像を見て、その美しさに驚嘆したのである。仏教への驚異の念はその教義に対してではなく、仏像に対する驚異だったと言える。

 

 またここで注意すべきことは、『日本書紀』において日本の仏教を伝えた支那や朝鮮を「西蕃」と表現していることである。欽明天皇が仏教を採用するかどうかを群臣に諮問した際に、仏教受容を支持した蘇我稲目(仏教を日本に伝えた百済系の渡来人といわれている)は「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答えた。

 

 先進文明や文物を伝えてくれた相手の国を「西の蛮人(西方の未開人というほどの意)の国」などと言っているのである。日本が支那の中華思想を受け容れさらに自己のものとして、中華思想の本家本元を「蛮人」と見なしているのである。日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那から多くの文化・文明を輸入していた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那の属国意識を持ってなかったことの証拠である。ここが支那と朝鮮の関係との大きな違いである。

 

 外国文明の輸入に熱心であり、渡来諸氏族を背景にしたいわゆる国際派の蘇我氏ですら「西蕃」と言っている。そして仏教に対しても「外国も拝んでいるから日本も拝んだらよいだろう」と言った程度で、深い宗教的自覚に基づいて仏教を受け容れるべきだと主張しているわけではない。宗教を何か流行物と同じように考えている。

 

 また仏教輸入に反対した物部尾輿と中臣鎌子にしても「わが国家(みかど)、天の下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝(いわいおが)むことを、事(わざ)と為す。方(まさ)に今、改めて、蕃神(となりのくにのかみ)を拝むこと、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむことを」(日本書紀)と主張して反対した。

 

 この奉答も、日本国の自主性と純粋性を保たんとする国粋的立場から、「外国の神を拝むと日本の国土の神が怒る」と言っているのみである。格別の宗教的論議を組み立てて仏教の受容を拒否しているわけではない。

 

 ともかく、当時の日本は、欽明天皇が、「仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」と仰せられたことに象徴されるように、朝鮮(百済・新羅)から仏像の美しさ即ち仏教芸術において大きな影響を受けたのである。特に仏像は不思議な容貌をしているだけに、何か不思議な御利益がありそうに思われ、礼拝するようになったのであって、仏教の深遠にして煩瑣な教義を学びそれを信じたというわけではない。日本人の大多数は、大乗仏教の煩瑣な教義や哲学体系を論理的に修得するなどということは嫌いであった。神道には、神への強靱にして純粋な信仰心はあっても、煩瑣な教義・教条はない。 

日本には民族を二分する宗教戦争が起こる余地はなかった

 

 仏教は、皇室に公伝したと言われる時期よりも以前に、渡来人によって日本に伝えられていたはずで、飛鳥地方などに定住していた渡来人たちは仏像を祀っていたに違いないといわれる。欽明朝初期の調査によると、渡来人の戸数は七0五三戸に及んでいる。

 

 日本の一般庶民も、欽明天皇と同じように、渡来人たちが拝んでいる仏像を見てその美しさというかめずらしさにいたく驚嘆したに違いない。そして仏像の美しさにひかれるとともに、渡来人たちに信じられる仏像に災害の防止や病気の治癒を祈祷するようになったと思われる。そして「仏教」という外来の新宗教を受け容れ、渡来人以外の人々にも仏教を信じる人が次第に増えていったのだろう。こうした仏像への祈祷によって現世安穏を願う信仰的態度は、のちに「密教」を生み出すのである。

 

 本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としている。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像こそ、まさにそうした外来の「神」であった。だからこそ、『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

 「蕃神」と名付けられた「仏」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」とそう矛盾するものではなかった。『日本書紀』に言うところの「異国の蕃神」も、世の常にない徳と力があるのだから崇拝してもいいではないかというのが日本人の基本的な態度であった。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたという感覚であったと思われる。したがって、国家民族を二分する宗教戦争が起こる余地などなかったのである。

 

 庶民の間に仏像への祈祷が行われるようになると共に、皇室においても公式に仏教を受け容れるか否かが問題になったと推測される。

 

 用命天皇の御代における仏教の公的な受容の決定も、用命天皇が仏教の祈祷によって御病を癒されようとしたことに発する。『日本書紀』によると、用明天皇二年(五八七)に用明天皇が病の治癒のため仏教に帰依されようとして、「朕、三宝によらむと思ふ、卿等議(はか)れ」(日本書紀)と群臣に諮問されたという。この時、仏教否定派の物部氏及び中臣氏と仏教擁護派の蘇我氏(この二勢力は当時政治的にも対立関係にあった)が対立抗争し、蘇我氏が勝利をおさめる。そして仏教が日本に受け容れられるようになったという。物部氏は神事と軍事を司って皇室に仕えて来た氏族であり、中臣氏も日本固有信仰の祭祀に関わって来た氏族である。

 

 しかし、抗争に敗れた後、物部氏や中臣氏が殲滅され根絶やしにされたわけではない。もちろん、仏教の教義から見ると外道として排斥されるはずの日本固有信仰=祭祀が滅ぼされたわけでもない。仏教の公的な受容後も、国家行事・皇室の公的行事は神式によって執り行われ続けた。

 

 物部氏と共に仏教の受容に反対した中臣氏は、中臣(藤原)鎌足の頃になると積極的に仏教を崇拝するようになった。中臣氏は皇室祭祀に関わってきたので、持統天皇が崩御された時にも、中臣朝臣大嶋という人物は「天神の寿詞」を奏上した。ところが、草壁皇子が薨去された時には、栗原寺伽藍建立を発願したのである。このように古代日本人には神と仏の間に厳しい理論的な区別などはありはしなかったのである。

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千駄木庵日乗十月十三日

午前は、諸雑務。伝統と革新編集の仕事。

午後は、明日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2015年10月13日 (火)

高山彦九郎・蒲生君平の、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」

高山彦九郎、蒲生君平両大人の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇討幕運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へた。

 

高山彦九郎は次の歌をのこしてゐる。

 

「東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處」

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

 

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

 

「一天萬乗の聖天子」「上御一人」が住まはれるにしては、余りにも質素で小さい京都御所を拝しての實感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと傳はってくる。

 

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は非常に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

 

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野國新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として名をはせたといふ。

 

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

 

もう一人の「志士仁人」蒲生君平は次の歌をのこしてゐる。

 

「比叡の山 見おろすかたぞ あはれなる 今日九重の 數し足らねば」

 

歌意は、「比叡山より見おろす方向を拝すると悲しい。平安時代には九重(支那の王城は門を九重につくったところから、御所、宮中のことを言ふ)と歌はれた数には足らない狭小な御所なので」といふほどの意。

 

蒲生君平は、明和五年(一七六八)下野國宇都宮新石町の生まれ。『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの尊皇精神に感激する。ロシア軍艦の出現を聞き、寛政七年(一七九五)陸奥への旅に出る。さらに寛政十一年(一七九九)、三十二歳の時、天皇御陵の荒廃を嘆き、皇陵調査の旅に出る。享和元年(一八〇一)『山陵志』を完成する。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができたといふ。さらに、文化四年(一八〇七)には、朝廷の官職についてまとめた『職官志』を著した。翌五年、北辺防備を唱へた『不恤緯(ふじゅつい)』を著す。そし文化十年(一八一三)江戸で四十六歳の生涯を閉じた。

 

この歌は、年代的に考へて、高山彦九郎の歌の志を継承し倣って詠んだと思はれる。その「志」とは言ふまでもなく、徳川幕府専横の時代にあって、上御一人、一天萬乗の君がをられる京の御所が余りにも狭小であることに慟哭し、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」である。

 

川田順氏はこの蒲生君平の歌について、「勿體なくも宮闕は荒廢して天子の歴史的御座所たる舊観を備へない。九重の數は足らずして、てのひらほどの大宮所と拜せられる。山陵の荒廢を慨して志を立てた君平である。況んや、現に至尊まします所の宮殿が此の御有様なるを見て、涙滂沱たらざるを得んや」(『幕末愛國歌』)と論じてゐる。

 

徳川幕府専横の時代に、尊皇の志を立て、且つ實践した高山彦九郎・蒲生君平の御所の狭小さを嘆く歌は、大きな悲痛と慟哭が巨大な悲しみを以て讀む者の

胸に迫って来る。

 

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千駄木庵日乗十月十二日

午前は、諸雑務。

午後一時半より、赤坂の乃木神社にて、『皇學祭と記念講演』開催。皇學祭・国民儀礼が行われた後、宮脇淳子氏(東洋史家・学術博士)が「日中韓の真実の歴史を知って、日本の未来を開かう!」と題して講演。質疑応答。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2015年10月12日 (月)

「きこしめす」「しろしめす」が、天皇の國家統治の基本

天皇の統治とは「世論や公論をよく聞く」ことであることは、天皇統治を「やまとことば」で「きこしめす」「しろしめす」と申し上げることによって明らかである。

 

三潴信吾氏は「帝國憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、國家・國民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ『統治』は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の傳統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである。」(『日本憲法要論』)と論じておられる。天皇が日本國を統治されることは、決して権力によって國家國民支配されることではない。

 

では、「やまとことば」の「きこしめす」「しろしめす」(「しらしめす」とも言ふ)とは一体いかなる意義なのであらうか。「きこしめす」とは「聞く」の最高の尊敬語である。「しろしめす」は「知る」の最高の尊敬語で、「聞こす」「知らす」にさらに「めす」といふ敬意を添へる語を付けた言葉である。

 

『續日本紀』に収められてゐる文武天皇の宣命には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代」と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでゐる。

 

この場合の「聞く」「知る」とは単に知識を持ってゐるといふ意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するといふほどの意であらう。

 

天下の一切の物事を「お聞きになる」「お知りになる」といふことは、祭祀を行ふ時の〈無私〉の境地で一切のことをお知りになるといふことであり、天下の一切の物事に対して深い〈慈愛の心〉を持たれてゐるといふことである。〈無私〉と〈慈愛〉の心が無くては、対象を深く認識し把握する事はできない。

 

「きこしめす」「しろしめす」は、天皇が鏡の如く「無私」の御存在であり、萬民を限りなく慈しみたまふ御存在であるから可能になる。天皇が鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを了知されることができるのである。天皇國家統治の「みしるし」である「三種の神器」の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐる。天皇は自己を鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

 

近代日本の哲學者・西田幾太郎氏は、「知と愛とは同じである」と言った。知ることと愛することは一体である。対象を愛することなくして、対象の本質を正しく知ることは出来ない。

 

愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできない。天皇陛下の國家統治は、ご自分を無にされて天下萬民を愛されることなのである。それは無私になって神を祭る心と一体である。

 

先帝昭和天皇陛下が、よく「あっそう」といふお言葉をお発しになられたのは、まさに無私と慈愛の心で國民の言ふ事をお聞きになられお知りになったといふことである。有難き限りである。

 

明治天皇は、『五箇条の御誓文』と共に発せられた『億兆安撫國威宣布ノ宸翰』において、「今般朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば、今日の事、朕、躬ら身骨を労し心志を苦め、艱難の先に立ち、列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じて,億兆の君たる所に背かざるべし」と仰せになってゐる。明治維新は、「一君萬民」の國體開顕、即ち國民を重んじ國民の幸福實現を最高の目的としたのである。

 

『大日本帝國憲法』において「しらしめす」「きこしめす」の漢語表現として「統治」といふ言葉を用いた。そしてこの「統」といふ言葉は統べる(統一する)といふ意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)といふ意である。「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」といふお言葉こそまさしく「治める」の本質である。無私と慈愛といふまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

國民の心をよく「きこしめす」「しろしめす」ことが天皇の國家統治の基本である。そしてそれは議會を開き、「公議を竭す」ことと同意義である。

 

「天皇中心の日本國體の回復」と「天下萬民の公議を竭す政治」が明治維新の目指した國家体制の二本柱であった。

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千駄木庵日乗十月十一日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2015年10月11日 (日)

 神と仏は日本人の生活の中で溶け合っている

 日本人は、外国からの文化・文明を自由に受容してきた。古代における仏教の受容はその典型といえる。日本人は仏教受容以来今日まで、神と仏を自然な形で融合させ、信仰してきている。神と仏は日本人の生活の中で溶け合っている。それは理論理屈の世界ではなく、生活の中で文字通り自然な形で神仏が融合している。

 

 稲作生活を基盤として生まれた日本の地域共同体には、自然を神と崇め祖霊を祭るという固有信仰が、太古以来今日までの脈々として生きてきている。日本人は「自然に宿る霊」と「祖先の霊」を八百万の神として尊崇した。そして八百万の神々に現世の幸福(五穀の豊饒・病気の治癒など)を祈するための祭りを行ってきた。

 

 そういった日本の固有信仰に仏教が融合したのである。仏教の受容については、多少の反対はあったものの、祈祷宗教として採用された。現世の幸福を仏に祈祷することは、日本の神々への祭りによって現世の幸福を祈祷するのことと同じである。というよりも、日本人の仏教信仰の実態は日本人の固有信仰が仏教という表皮をまとって形を変えたものなのである。

 

 日本の一般的な家庭では、家の中に神棚と仏壇が共存している。毎朝、神棚にお灯明をあげ柏手を打ってお参りする。次の仏壇にお灯明をあげ線香を立てて合掌礼拝する。神棚には国の主神である皇祖神(皇室のご先祖の神)である天照大神そしてその地域の産土神が祭られている。各家庭の仏壇には、その家が檀家になっているお寺の宗派の本尊が、安置されている場合もあるが、それは一般的ではない。それよりも仏壇には必ずその家の先祖の位牌が祭られている。各宗派の本尊は安置しなくても先祖の位牌だけ祭られている家が多い。

 

 つまり日本の家庭に安置されている仏壇の「仏」とは祖霊のことであり、仏壇とは祖霊の祭壇なのである。「近い先祖は仏様。遠い先祖は神様」といわれる所以である。また、結婚式などの慶事は神式で行い、葬式などの祖霊への慰霊は仏式で行っている。

 

 日本国は仏教国ともいわれているが、日本人の大多数は難解な仏教の教義を学び信じているのではなく、祖霊への崇拝と感謝を仏教祭壇の形態を借りて行い、現世の幸福を祈祷しているのである。日本の一般庶民が仏教の深遠な教義が日本人の実生活に知識として受け容れられたということではない。教義の研鑚・修得は出家した僧侶が寺院内で行うに止どまった。

 

 そもそも、人間に対して厳しい気候風土のインドに生まれた仏教は、現世を実在とは考えず苦界と見、人間が現世から超越して解脱の境涯に入ることを理想とする宗教である。本来厭世的な宗教といっていい。

 

 一方、明瞭な四季の変化があり、四方環海にして山が多く平地が小さい日本列島は、人間に対してやさしい気候風土である。そういうところに生まれた日本の固有信仰は、現世を肯定し、人間生活を謳歌するところの明るく大らかな信仰精神である。『古事記』を見てもわかるように日本人は厭世思想とは無縁である。仏教が大分浸透した後に編纂された『萬葉集』にも仏教の厭世思想に関係があると思われる歌はきわめて少ない。

 

 日本固有信仰(神道)と仏教は全く異なった性格を持つ二つの宗教である。しかし、日本人は仏教を生活の中で融合してしまっている。それは日本人が外来の仏教を日本人の精神生活に合致するように包み込んだということなのである。即ち、仏教の日本化であ。これは日本人の寛容性であり、包容力であると共に、日本人の強靱さといってもいいだろう。

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千駄木庵日乗十月十日

午前は、諸雑務。

午後は、「政治文化情報」の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、千駄木にて、若き友人と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年10月10日 (土)

この頃詠みし歌

七十年前の焼土も今日(こんにち)は高層ビルの林立する町

 

何時かまた焼土となるもはかりがたく永久の平和を祈りまつれり

 

朝風呂に身を清めつつ友どちと語らひをれば心和むも

 

マイク持ち得意の歌を歌ひたり「俵星玄蕃」「大利根無常」

 

スカイツリーの真上の空に仲秋の名月煌々と照る

 

流れゆく雲の上にぞ強き光放ちて照れるまんまるの月

 

朝毎に部屋の掃除をすることがこれ以上太らせぬ手立ての一つ

 

久しぶりに来たりし街の古書店に入りて見上げる書棚懐かし

 

わが母が守り来たりし観音堂 日毎に参り母を祈れり

 

澄み切りし青き空をば母上と眺めて過ごす丘の上の施設

 

母上は青き空眺めきれいだねとつぶやきたまふ秋の日の午後

 

もう少しゐてと言ふ母の言葉 聞きて切なき夕暮の施設

 

日々(にちにち)を健やかに過ごすわが母は今日も大声で歌うたひゐる

 

乃木大将祀れる宮に人ら集ひ大久保利通のことを学べり(中央乃木會講演會)

 

静かなる秋の日の午後 乃木神社の社頭さやかに秋風ぞ吹く

 

銀座の街歩み行きなば外つ国人が大き声出し群なして歩く

 

中河与一の『萬葉の精神』を讀みてより萬葉の世界を戀ほしみて来し

 

遠き日に論争せし人は老いてなほやまと歌をば論じゐるなり

 

我もまた若き日よりの情熱を絶やさず歌を読み続けをり

 

根津東映といふ映画館のありしところ未だ駐車場のままの空間

 

しもた屋といふ言葉も死語となるか マンションがどんどん立ち続く街

 

いただきし松茸を焼きて食すれば日本人と生まれし幸を思へり

 

戦国の覇者も近代の成功者も茶道具集めて喜びにけり

 

好かぬ人が目の前に坐る会合は早く退散するがよろしき

 

何時も通る道で会ふ人は何時もの人 交はす挨拶も何時もの言葉

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千駄木庵日乗十月九日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆の準備など。

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2015年10月 9日 (金)

「第五十六回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

第五十六回日本の心を学ぶ会

 

「安保法案と憲法を考える」

 

919日、未明に参院において安全保障関連法案が賛成多数で可決されました。

厳しさを増す日本の安全保障環境に対応するための法案でありますが、激しい議論を呼んでおります。

この法案は同盟国が攻撃を受けた際に日本の武力行使を可能にすることで同盟関係を強化し戦争を未然に防ぐ力である抑止力を高めることを目的としております。

しかしながらこの法案がこれまでの「保持はしているが憲法九条の制限によって行使はできない」という政府見解を変更し、「集団的自衛権」の行使を認めたことが、「憲法違反」であると批判が起こりました。

そして、国会周辺は数多くの人たちの抗議の声に囲まれました。「憲法違反である」「平和を守れ」といった声は、法案の可決後の現在も全国各地で反対の声は続いております。

さらに反対派は来年の参院選へ向けた落選運動を呼びかけており、安保法案にまつわるせめぎ合いはまだ続きそうです。

 

そこで今回の勉強会では、「安全保障法案」と憲法について考えてみたいと思います。

 

今回の安保法案がこれまでの安全保障政策から大きな転換となることは事実です。

 

しかしながら、今回の安保法案が問いかけた問題は単なる安全保障政策にとどまりません。

 

戦後七十年の節目に当たる年に、憲法問題、戦後の欺瞞的な平和主義、偏向メディアの世論誘導、共産支那の脅威など、様々な問題が関連しているといえます。

このような問題についても議論してみたいと思います。

みなさんのご参加をお待ちしております。

 

 

【日 時】平成271025日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室B

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

 

「憲法守って國滅ぶ」 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

せと弘幸先生は調整中です

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-73

 

         〇

この告知文は、主催者が作成したものです。

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「戦後」といふ言葉は何時まで続くのでせうか

「戦後」といふ言葉は何時まで続くのでせうか。敗戦以来すでに七十年も経過してゐます。戦後とは敗戦後といふことであり、屈辱的な時代といふ事です。しかも、日本は侵略戦争を行なったといふ歴史観が『憲法』の『前文』にも記されてゐます。即ち、「日本は侵略戦争を行なった悪い国だった」といふのが日本『国是』になってゐると言ふことも出来ます。

 

「戦後」といふ言葉はさういう意味で何となく陰鬱な響きを持ってゐます。戦争のことを忘却しろとか反省するなと言ってゐるのではありません。近代日本の歩みには多くの反省すべき点があったことは事実です。しかし、大東亜戦争は決して日本の一方的な侵略ではなかったこと、旧ソ連の謀略に引っかかり、アメリカによって追ひ込まれ挑発されて開始せざるを得なかったことを正しく認識すべきです。

 

今日わが國は、「人命尊重」「平和」といふ言葉が声高に叫ばれてゐます。しかし現実には「戦前」の日本にはあり得なかったような残虐なる殺人など凶悪事件が日常茶飯事になってゐます。道義の頽廃の根本原因は日本が「戦後」から抜け出せないところにあると思ひます。

 

本年は開戦以来七十年です。私たち日本人は、「終戦以来何年たった」といふ事を意識することはもう止めにして、大東亜戦争の歴史を正しく回顧し、民族の誇りを取り戻すべきだと考へます。

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千駄木庵日乗十月八日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事。

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2015年10月 8日 (木)

『根津青山の至宝ー初代根津嘉一郎コレクションの軌跡―』展参観記

本日参観した『根津青山の至宝ー初代根津嘉一郎コレクションの軌跡―』展は、「初代根津嘉一郎(号青山・18601940)は、明治から大正期にかけて、いにしえより大切にされてきた古美術品がかえりみられることなく、欧米に売られている状況を見てこれを憂い、一層蒐集に励みました。そしてその遺志をついで美術品を戦火からまもりぬいた二代。財団創立75周年を記念する特別展として、書画と茶道具の名品を中心に初代のコレクションの軌跡を辿ります」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「重文 花白河蒔絵硯箱日本・室町時代」 「国宝 那智瀧図 鎌倉時代」 「重文 青井戸茶碗 銘柴田 朝鮮時代」「国宝 鶉図 伝李安忠筆 南宋時代」 「重文 青磁袴腰香炉」 「国宝 根本百一羯磨 奈良時代」 「重文 石山寺蒔絵源氏箪笥」などを参観。

 

東武鉄道・南海鉄道などの経営者で、「鉄道王」と言われた根津嘉一郎氏が収集した美術品の展覧会である。この美術館も根津嘉一郎の邸があった所である。特に感銘を受ける作品は無かった。

 

今回の展覧会も茶道具が多かった。覇者・成功者は何故か、茶道を好む。そして茶道に関わる美術品を収集する。古くは、豊臣秀吉や徳川氏など、そして近代以後は、三井家や根津嘉一郎はその典型である。

 

常設展の支那の殷時代(紀元前十三世紀から十二世紀)の実に精緻な彫物がほどこされていて青銅器が見ごたえがあった。

 

また長屋王が、和銅五年に、文武天皇を追悼して発願書写させた「大般若経」(和銅経)と,神亀五年に、父母君である高市皇子・御名部皇女、そして聖武天皇をはじめとするとした歴代天皇のために発願して写経させた「大般若経」(神亀経)が展示されていた。どちらも重要文化財である。

 

長屋王は、天武天皇四年(六七六)-天平元年(七二九)。父君は高市皇子(天武天皇の皇子にして草壁皇子の兄君)。母君は御名部皇女(みなべのひめみこ。天智天皇皇女・元明天皇の同母姉君)。元明天皇の御信任を得て、宮内卿・右大臣・左大臣・大納言を歴任し、皇親政治家(皇親政治とは、皇族が大臣として政務をとられること)として重きを成したが、天平六年、聖武天皇の外戚であり政治的力が強かった藤原氏の讒言に遭って自決された。藤原氏にとって皇親政治は邪魔だったのである。長屋王は、漢詩文を好み、しばしば佐保の自邸に文人を招き宴遊を催した。

 

 昭和六十三年に、長屋王の宮殿が発掘された時に発見された木簡(字句などを木の札に書きしるしたもの。支那や日本の古代遺跡から出土する)に、「長屋親王宮」いふ字が書かれてゐた。長屋王は「長屋親王」と呼ばれてゐたことが明らかになった。すなはち長屋王には皇位継承権があったのである。

 

 また、長屋王の室・吉備内親王の御命令は「大命」(おほみこと)の名で出すことが許されてゐた。「大命」とは、「勅命」に等しい権威があったといふ。さらに、邸内には、鶴が飼はれ、牛乳・バター・チーズ・蜂蜜を作り、薬園・氷室があったといふ。ところが、外戚として権力を振ひたい藤原氏としては、長屋王は排除すべきで御存在であったのであらう。 

 

『萬葉集』には、長屋王の次の御歌が収められてゐる。

            

宇治間山 朝風さむし 旅にして 衣(ころも)()すべき 妹もあらなくに  

 

長屋王が文武天皇のお供をして吉野宮に行く途中で詠まれた御歌である。

 

【宇治間山】奈良県吉野郡吉野町上市の北約二キロあまりにある山。藤原宮から吉野へ行く途中にある。【衣借す】夫が妻の家を訪れて、朝、別れる時、寒い時には、妻が下着を貸すのが習ひとなってゐたことをいふ。旅情を歌ふ場合よく使はれる言葉。萬葉時代は貴族の多くは、妻問婚(つまどひこん・婚姻形態の一つで、夫婦が同居せず、夫が妻の家を訪れる形態)であった。【あらなくに】「ゐないのになあ」といふ詠嘆を表す。和泉式部の名歌「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り來むものならなくに」(ただ何となくさみしく空を見てしまふ。思ふ人が天から降ってくるわけでもないのになあ)の「ならなくに」と大体同じやうな意味である。

 

 通釈は、「宇治間山の朝風が寒い。旅先で衣を貸してくれさうな女性もいないのになあ」といふほどの意。豊かで重厚な格調の高い旅愁の歌である。豊かで重厚な格調の高い旅愁の歌である。

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根津美術館の庭園

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菩薩立像

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2015年10月 7日 (水)

千駄木庵日乗十月七日

朝は、諸雑務。

午前十一時より、赤坂茶寮にて、『ゆずり葉連句会』開催。

この後、青山の根津美術館にて開催中の『財団創立七五周年記念特別展・根津青山の至宝ー初代根津嘉一郎コレクションの軌跡―』参観。

帰宅後は、原稿執筆・『伝統と革新』編集の仕事。

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2015年10月 6日 (火)

大西郷遺訓・「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず」

「棍棒片手に猫なで声で外交をすれば、大体成功する」という言葉がある。日米開戦時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの言葉であるという。脅しと猫なで声が外交の基本ということである。わが国を開戦に追い込んだ人物らしい言葉である。ただし日米開戦直前のアメリカは、「猫なで声」どころではなく、日本を挑発する行動をとっていた。さらに、「外交は華麗に礼装した軍事である」という言葉もある。

 

やはり国家というものは、国軍を持たなければ駄目である。わが国には、自衛隊は存在するし、その能力は精強だと言われている。しかし、憲法上「国軍」と正しく規定されていない。領土問題・資源問題・拉致問題など色々なことで周辺諸国から馬鹿にされ、なめられ、主権を侵害されっぱなしなのは、「日本は何をやっても報復できない、反撃して来ない」と思われているからである。『現行占領憲法』があるかぎり、「戦争」「武力の行使」を放棄しているのである。これでは何処の国とも対等な外交はできない。まして、共産支那や北朝鮮や韓国という無法国家とわたりあう事はできない。

 

共産支那は敵性国家である。このような国との友好関係はあり得ない。南北朝鮮、共産支那のわが国に対する恫喝・内政干渉・主権侵害を跳ね除けるために、わが国は相当の覚悟を決めねばならない。『現行占領憲法』を破棄し、『国防』『国軍』を明記した自主憲法を制定すべきである。

 

支那人の対外優越意識・唯我独尊・大國主義・統一主義・侵略主義の思想體系を「中華思想」と言う。「中華思想」は、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と獣や虫けらのように呼んでこれを蔑視し侮る。この「中華思想」があの広大にして人口の多い支那大陸を一つの権力國家にまとめあげている唯一の原理である。「中華思想」は、対内的には少数民族の抑圧の原理、対外的には軍事的侵略による覇権確立の原理となっている。共産支那による理不尽極まりわが國への恫喝・内政干渉、そして、わが國外交官に対する不法行為が行なわれる根本原因は、「中華思想」である。支那の日本に対する侮蔑・差別観念は「中華思想」から来ている。

 

「中華人民共和國」という名の支那共産政府は、日本を「侵略國家」と非難攻撃し謝罪を要求し続けているが、支那漢民族こそアジア最大の侵略者であることは古今変わらぬ歴史的事實である。

 

わが國のいわゆる「媚中派」の政治家もメディアも、「わが國はかつて中國を侵略した悪い國である」という先入観を持っている。しかし、共産支那こそ、今日アジア最大の軍事大國であり、覇権國家であり、侵略國家である。 

 

それは西郷南洲翁が「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。」「國の凌辱せらるゝに當りては、縦令國を以て斃るゝとも、正道を踏み義を盡すは、政府の本務なり。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所申すものにて、更に政府には非ざる也。」と説かれている通りである。

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられたと言へる。

 

古代日本の大変革たる大化改新、そして近代日本の出発=明治維新も外国からの危機の下に行はれた。今日の危機的状況を維新変革の好機ととらえねばならない。

 

今日の日本は、内憂外患交々来るといった状況になってゐる。対外的には、教科書問題・靖國問題・領土領海問題・歴史問題など、支那や南北朝鮮から内政干渉と軍事的恫喝と侮りを受け、領土領海は侵され、國家としての自主独立性は失はれてゐる。

 

対内的には、売國政党の跳梁跋扈・教育荒廃・経済の停滞等々、文字通り内憂外患交々来たるといった状況である。特に許し難いのは、國家基本問題・歴史問題で外國からの内政干渉と追随し結託して祖國を内部から脅かす売國政治家・偏向マスコミの存在である。

 

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千駄木庵日乗十月六日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰途、湯島にて、二組の先輩ご夫妻と懇談。

帰宅後、原稿執筆・脱稿・送付。

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2015年10月 5日 (月)

阿南惟正氏による『終戦の御聖断と父・阿南惟幾」と題する講演内容

六月二十日、赤坂の乃木神社にて開催された『中央乃木會主催講演会』における阿南惟正氏による『終戦の御聖断と父・阿南惟幾」と題する講演内容は次の通り。

 

「評価すべきことは評価し、反省すべきことは反省することが戦後七十年の意義。

 

私の祖父即ち阿南惟幾の父・阿南尚は内務官僚として各地に転勤。東京に勤務した時、父・惟幾が生まれた。祖父が徳島県警察部・徳島県書記官をしていた時、善通寺の第十一師団長しておられた乃木大将が、丸亀連隊を視察された帰途、徳島に来られた。その時に父は乃木大将にお目にかかった。小学生だった父は、体は小さいが元気一杯だった。乃木大将から『是非幼年学校を受けるように』と勧められた。乃木大将のこの言葉によって、父は広島の陸軍幼年学校に入った。父は、『自分は乃木大将を尊敬しているが、自分にはあのような自分に厳しい生き方は出来ない』と言っていた。

 

私の父は、一家団欒を旨としていた。しかし『艱難汝を玉にす』『失敗は成功の母』という言葉を教えられた。

 

明治三十八年に陸軍士官学校卒業(十八期)。明治三十九年 陸軍歩兵少尉に任官。一上の先輩までは日露戦争に参加できた。歩兵第一連隊附。明治四十三年から四年間、陸軍中央幼年学校生徒監をつとめた。陸軍大学の受験に三回失敗した。面接で自説を曲げなかったためである。四回目に合格。

 

大正五年に結婚。大15年軍令部参謀となる。昭和二年ヨーロッパに出張。第一次大戦を詳しく見学。昭和四年侍従武官となる。昭和八年まで、昭和天皇のお仕えする。その時の侍従武官長が、鈴木貫太郎。父かは鈴木貫太郎氏を深く尊敬。この時の信頼関係が終戦時の二人の意思疎通につながる。

 

昭和八年近衛歩兵第二連隊長。昭和九年東京陸軍幼年学校長となる。昭和十一年の二・二六事件直後の三月二日の幼年学校全生徒に『如何なる忠君愛国の赤誠も、その手段方法を誤れば大御心に反し、大義名分にもとる。憂国の情があれば自己の本分に邁進すべし。目的が善ならば法律を破るのは止むを得ないというのは国家の紊乱を招く』と訓示した。これは終戦時の父の姿勢につながる。

 

昭和十一年陸軍省兵務局長、昭和十二年陸軍省人事局長となる。軍人として政治には無縁。統制派・皇道派のいずれにも属さなかった。

 

昭和十三年三月陸軍中将。第一〇九師団長に補せられ、支那の山西省太原へ出征した。自決の時、『大君の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言ひ遺こすへき 片言(かたこと)もなし』という辞世をのこしたのは、父が出征する時、昭和天皇から食事を賜ったという感激があったからである。

 

華北戦線で中國軍を殲滅。千数百名の捕虜に対して父は『それぞれの祖国為に敵味方となって戦った。個人としては何らの怨恨があるのではない』と訓示した。

 

昭和十四年陸軍次官。東條大将と性格が合わなかった。昭和十七年第二方面軍司令官としてチチハルに行く。昭和十九年航空総監兼軍事参議官。昭和二十年四月七日鈴木貫太郎内閣陸軍大臣。五月二十五日、皇居・陸軍大臣官邸炎上。北海道から九州まで視察。

 

六月十八日の最高戦争指導会議における戦争継続は難しいとの判断が下され、ソ連の仲介による和平のために近衛元首相をソ連に送ることになったが、ソ連から応答なし。

 

沖縄の組織的戦闘終了。七月二十六日、『米英支共同宣言』。鈴木内閣はこれを黙殺。原爆投下、ソ連参戦。八月九日。父は、國體護持の条件を強く主張、『これが受け入れられなければ本土決戦も辞さず』と主張した。昭和天皇は終戦の御聖断を下された。父は、若い将校たちのクーデター案を否定。そして、陸軍全体の責任を取って自決した」。

 

           〇

この報告は、小生のメモと記憶によるものですので、きわめて不完全です。文責は言うまでもなく小生にあります。

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千駄木庵日乗十月五日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

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靖國の英靈に対しわれわれ今に生きる日本國民が感謝と慰靈の誠を捧げることが、日本國及び日本國民永遠の平和の基礎である。

憲法二〇条で定める政教分離の原則をめぐっては、津市が市体育館の起工式を神道祭式で行ったことに対して、反日勢力が市長に工費返還を求めた訴訟で、最高裁が昭和五十二年に出した判決がある。そこでは、「國家と宗教との完全な分離を実現する事は、実際上不可能に近い」とした上で、憲法で禁止している「宗教的活動」とは、その「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に限られるとして、いわゆる<目的効果基準>を示した。妥当な判決である。

 

「政教分離」とは國や行政が宗教と全く関わってはいけないという事ではない。それは不可能である。そこにたとえ何らかの宗教的側面があったとしても、行為の本来の目的が別にあったならば、「政教一致」にはならない。

 

國家や行政が宗教と全く関わってはいけないと言うのなら、善通寺市・天理市・金光町という自治体名をつけることは違憲になる。また、刑務所で特定の教団宗教に属する僧侶などが行っている「教誨」は公共の施設の中で宗教活動を行うのであるから明白なる違憲行為となる。さらに、東京都慰靈堂(都有財産・関東大震災及び戦災で亡くなった方々を慰靈する施設)で都知事などが出席して仏式で行われる「慰靈大法要」も明確に違憲である。

 

総理の靖國神社参拝は、戦没者慰靈が目的である。靖國神社という宗教法人を援助し助長するためではない。また他の宗教法人を圧迫するためでもない。したがって現行憲法下においても、総理の靖國神社参拝は合憲である。今後も正々堂々と参拝は続けられるべきである。

 

しかし、現行占領憲法に重大な欠陥がある事も事実である。敬神崇祖の伝統、美風にそって全國民が等しく英靈に対して感謝と慰靈の真心を捧げるという最も大切なことを禁じていると解釈できる現行憲法は悪法である。そうした憲法は一日も早く否定しなければならない。

 

日本という國は祭祀國家であり信仰共同体である。ゆえに、日本國を神道と切り離すことは不可能である。政教分離などという原則をわが國の神道祭式による公的な慰靈行為に適用してこれを禁止しようとすることが大きな間違いなのである。

 

政教分離の原則というのは、激しい宗教戦争を繰り返してきた西欧や中近東の國々において、政治権力と特定の教会・教団が結びついて他の教会・教団を弾圧し圧迫する事のないようにするために考え出された原則である。

 

わが國には、歴史を紐解けば明らかなように、一神教の世界のような激しくも残虐なる宗教戦争はなかったし、特定の教団が政治権力を壟断して他の教団を弾圧したり圧迫した歴史はなかった。

 

わが國の長い宗教史・精神史・思想史においては、儒教などの支那思想や仏教そしてキリスト教における日本の伝統と著しく異なる思想は自然にすたれて行き、わが國傳統信仰と融合したというのが事実である。

 

大東亜戦争で散華した二百十三万余英靈の人柱の上に今日の日本がある。そして英靈たちは今日唯今も祖國日本を護って下さっているのである。靖國の英靈に対しわれわれ今に生きる日本國民が感謝と慰靈の誠を捧げることが、日本國及び日本國民永遠の平和の基礎である。

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千駄木庵日乗十月四日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰途、谷中にて、友人ご夫妻と一献。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年10月 4日 (日)

民主党は憲法を守って國を滅ぼそうとしている

「憲法守って國滅ぶ」という言葉があるが、民主党はまさに憲法を守って國を滅ぼそうとしている 衆院憲法審査会で、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案について、与党推薦を含む参考人全員が「憲法違反」との見解を示した。民主党は、自民党の「人選ミス」につけ込む形で「法案撤回が当然だ」(枝野幸男幹事長)と鬼の首でも取ったように廃案に追い込もうとした。「憲法守って國滅ぶ」という言葉があるが、民主党はまさに憲法を守って國を滅ぼそうとしているのだ。

弱肉強食・強い者勝ちが冷厳な國際社会の現實である。『現行占領憲法』の「前文」に書かれている「人間相互の関係を支配する崇高な理想」などというものは、少なくとも南北朝鮮・支那・ロシアは全く持ち合わせていない。力がない國は侵略され、滅ぼされる。 また、「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などということは、全くの空想・夢物語であるばかりでなく、きわめて危険な思想である。

わが國固有の領土南樺太・全千島を七十年近くも占拠したままのロシア、わが國固有の領土竹島を六十年以上に亙つて占拠している韓國、そしてチベット・東トルキスタン・満洲・蒙古などを侵略支配し、台湾を併呑せんとし、尖閣諸島・沖縄などのわが國固有の領土・領海を侵略せんとしている共産支那のどこに「公正と信義」があるのか。

さらに、「前文」の「日本國民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章は、「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが、二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様、ソ連様、支那様など戦勝國の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い國であるわが國とわが國民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」という「詫び証文」である。

この「詫び証文」の精神を實践してきたのが戦後日本の外交である。 「憲法守って國滅ぶ」という言葉はまことに真實である。極論すれば、國家基本問題においては『現行占領憲法』に違反してこそ、日本は正常な國になるのである。正統性が全くない押しつけ憲法である『現行占領憲法』に何が書かれていようと、一切これを無視するくらいの気持ちがなければ『憲法守って國滅ぶ』が現實のものとなる。  法治国家の国民である以上、法は守らねばならない。しかし、今日の日本は成文法の根幹たる「憲法」が正統性を失っているのである。現代日本の混迷と堕落と危機の根本原因の一つはここにある。

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千駄木庵日乗十月三日

午前は、諸雑務。

午後二時より、乃木神社尚武館道場にて、『中央乃木會主催講演会・近現代偉人の子孫が語る歴史秘話シリーズ第五回』開催。大久保利泰(としひろ)氏(大久保利通の曾孫)が「大久保利通が生きた明治時代」と題して講演。質疑応答。

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講演する大久保利泰氏

帰宅後は、書状執筆・原稿執筆など。

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2015年10月 3日 (土)

わが国には、国家的危機を伝統精神の復活・國體精神への回帰によって乗り越えてきた歴史がある

わが国は大東亜戦争という正義の戦いに敗北した後、戦勝国によって日本弱体化政策が行なわれた。戦後七十年を経過して、その日本弱体化政策が、花開き、実を結んでいる状況を呈しているのが今日の日本の体たらくである。

 

戦後日本は、戦勝国の「日本つぶし」の嵐の中にあっても、たくましくそしてしたたかに生き抜き、経済復興を立派に遂げてきた。この戦後日本復興の原動力は、つねに日本国民の幸福を願われてきた昭和天皇の大御心である。そして、戦前・戦中を生きぬいて来られた多くの先人・先輩の方たちの血と汗のにじむご努力をお蔭である。このことを私たちは忘れてはならない。

 

今日、日本国が存在し、日本民族が生きているのは、実に昭和天皇の仁慈の大御心によるのである。

 

 昭和天皇は、大東亜戦争末期、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦し、愈々以って本土決戦しか戦う道がなくなった時、「自分の身はどうなってもいい。ただ民を救いたい」との大御心から、決然として『ポツダム宣言』受諾の御聖断を下された。あのまま戦争を続けていたなら、本土が戦場となり、わが国土は文字通り焦土と化し、大多数の日本国民が死に絶えたであろう。それを救われたのが昭和天皇なのである。この尊い事実を我々日本国民は永遠に忘れてはならないと思う。 

 

その時の尊いご心境を昭和天皇様は次のように歌われている。

 

爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

 

身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて

 

国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 

 昭和天皇は、国のため民のためならご自身はどうなってもいい、というまさにまさに神のごとき無私のご心境で戦争終結をご決断あそばされたのである。ここに、つねに国の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇の御本質を仰ぐ事ができるのである。

 

さらに大事なのは、「国がらをただまもらんと」と歌われていることである。わが国は、ただ単に領土と国民と主権さえあればいいという、建国以来日の浅い普通一般の国家ではない。日本独自の国柄すなわち、神代以来・建国以来の天皇を中心とする國體が正しく継承されていなければ日本国とは言えない。

 

天皇中心の日本國體とは、天皇が政治的支配者として国家権力の頂点に立つ国家の在り様という事ではない。信仰的共同体としての日本の中核であられる天皇、祭祀国家日本の祭祀主としての天皇を上に戴いた長い歴史と伝統を持つ国柄のことをいう。

 

つねにご自分を無にして、国の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇は、権力や武力で国家・国民を支配と従わせるという覇者ではあらせられず、祭祀主としての信仰的権威と御徳によって国民をしろしめしてこられたのである。この「しろしめす」とは国民の意志や希望をよくお知りになるという意味である。

 

昭和天皇が「国柄をまもらん」とお歌いになったのは、このかけがえのない日本国の國體が護持するために、たとえどのような苦難があろうとも茨の道を進んでいくとのご決意を示されたものと拝察する。

 

「国柄を守る」とは、昭和天皇御一身の地位の安泰を意味するのでは全くないことは、「いばら道すすみゆくとも」と歌われていることで明白である。昭和天皇は、たとえ自分か退位させられても、あるいは「戦犯」として処罰されても、天皇中心の国柄・國體が護持されればよい、とのご信念で終戦を決意されたのである。

 

終戦の年の九月二十七日に、昭和天皇はマッカーサーをお訪ねになり、「私は、国民が戦争を成し遂げるにあたって、政治、軍事の両面で行なったすべての決定と行動に対する、全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁きにゆだねるためにお訪ねした。日本国民は現在、飢餓に瀕している。もうこれ以上日本国民を苦しめないでもらいたい。米国に是非食糧援助をお願いしたい。皇室財産の有価証券類を持参したので、その費用の一部に当ててもらいたい」と仰せになった。(マッカーサーの「回想記」による)

 

このお言葉にマッカーサーは「骨のズイまで揺り動かす」(マッカーサー自身の言)ほどの感動を覚え、占領政策に大きな影響を与えた。そして食糧援助が行なわれるようになった。実に戦争直後、国民が飢えから救われたのは、ご自分を無にして国民を思われる昭和天皇の御行動によるのである。

 

マッカーサーは後年、昭和天皇を讃嘆して「私ははじめて、神のごとき帝王を見た」「天皇陛下こそ新日本の生みの親である」と語っている。

 

このように、天皇によって日本は救われたのである。日本国及び日本民族が今日あるのは、これは歴史の真実である。

 

日本は、天皇中心の國體を護持しさらにその本当の姿を顕してこそ、正しく発展していく事が出来るのである。昭和の歴史だけでなく、元冦や明治維新など、これまで幾度か起った大きな国難の歴史を見てもそれは明らかである。 

 

経済的・物質的に復興を成し遂げた日本も、今日、民族の誇り・日本人の心を失ってしまった。その結果として、今日、政治は混乱し、教育は荒廃し、外圧の危機は高まっている。それは未曾有の危機と言っても言い過ぎではない。

 

こうした状況を打開するためには、日本國體の真の姿を正しく明らかにする以外にない。わが国には、国家的危機を伝統精神の復活・國體精神への回帰によって乗り越えてきた歴史がある。今日唯今もそうした時期にあると確信する。

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千駄木庵日乗十月二日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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2015年10月 2日 (金)

敗戦国意識を払拭し、日本の真の自立を断行せよ

わが国民が共産支那でスパイ容疑で不当に身柄拘束されても、何一つ抗議できない国、わが國近海で、共産支那の艦隊が示威を行っても、何一つ抗議できない国、それが今の日本である。

 

共産支那の日本に対する圧迫が熾烈になっている。沖縄近海における支那海軍の示威行動があっても、さして危機感をつのらせないのが今の日本人である。これは平和ボケなどという甘い言葉では片付けられない。

 

日米対等とか、東アジア共同体という言葉がある。しかしそんなことを言う前に、まず以て日本の敗戦国意識の払拭そして日本の真の自立が確立されなければならない。『友愛精神』や『国連中心主義』ではそれは実現できない。

 

日本がこのように情けない国になってしまった根本原因は、「わが國は侵略をした悪い國であり、中國や南北朝鮮からどんなに主権を侵害されても、内政干渉をされても、軍事的威圧を加えられても、文句を言ったり反撃してはならない」という観念が蔓延していることにある。この観念はまさに『現行占領憲法』の基本精神なのである。

 

『現行憲法』前文には「日本國民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し…平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。これは「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが、二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様、ソ連様、中國様など戦勝國の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い國であるわが國とわが國民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」という『詫び証文』である。

 

この『わび証文』の精神を実践しているのが今日の日本の外交である。「憲法守って國滅ぶ」という言葉はまことに真実である。『現行憲法』破棄なくして真の主権回復はあり得ない。

 

そもそも、対共産支那外交で日本が弱腰なのは、日本人の側に誤れる贖罪意識があるからである。イギリスは、かつて支那に対してアヘン戦争を仕掛けた侵略国家だったから、共産支那政府がイギリス国民に対して不当不法なことをしても許されるのか。アメリカの白人は、かつてアメリカ大陸やハワイを侵略したらか、アメリカ大陸やハワイの先住民は白人に対してどんなに不当不法なことをしても許されるのか。そんなことはあるまい。

 

何故、日本のみが、過去の歴史に対する贖罪意識を持ち、共産支那政府に対して遠慮しなければならないのか。私は、日本人の誤れる贖罪意識を払拭しないかぎり、支那との正常な関係を結ぶことはできない。それどころではない。共産支那のアジア侵略策謀・アジア軍事的覇権確立の動きに対して、毅然とした態度で臨めない。

 

共産支那及びその手先となっている日本人は、口を開けば「中国は日本に侵略された」と言う。しかし、漢民族国家こそ、過去においても現在においても、モンゴル・ウィグル・チベット・満州・朝鮮・ベトナムなど周辺諸国・諸民族を侵略し支配している。

 

台湾の台南にある鄭成功廟に参拝した時、鄭成功は「反清復明・滅満興漢の民族英雄」と讃えられていた。「清朝に反対し明朝の復興を目指し、満州族を亡ぼして漢族を興した民族英雄」という意味である。つまり、中華民国政府は、清朝及び満州をよその国・よその民族と思っているのである。それどころか、敵対民族と思っているのだ。わが日本が清朝最後の皇帝を擁立して、満州国を建国したことが、「支那への侵略」であろうはずがないのである。

 

祖国の歴史への正しい認識と國を守る心を常日頃持っていなければ道徳心は起ってこない。正しい祖国防衛意識も持てない。祖国への愛も持てない。近代以後のわが国の歴史を正しく認識し、子々孫々に語り伝え、「負け犬根性」から脱却することが緊急の課題である。

 

それは、日本が無反省で良いというのではない。「日本だけが悪かった」という自虐史観から脱却せよということである。

 

共産支那こそ、今日における最大の侵略国家である。また、共産支那政府こそ、自国民を大量に虐殺してきた悪逆非道の政権である。日本国の独立と安全を守るためには、日本人の支那に対する誤れる贖罪意識の払拭が大切である。

 

 

 

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2015年10月 1日 (木)

千駄木庵日乗十月一日

朝は、諸雑務。

午前十一時より、神田神保町の日本大学法学部研究室にて、百地章日本大学教授にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、久しぶりに神田古書店街を散策。

午後四時より、元赤坂の明治記念館にて、『第十二回日本酒で乾杯推進会議総会・フォーラム&懇親パーティ』開催。 石毛直道国立民族博物館名誉教授が代表挨拶・活動報告の後、大原弘信正暦寺住職・高田公理武庫川女子大学名誉教授・辻麻衣子辻本店杜氏・神崎宣武氏(民俗学者)による『清酒の発見・日本のかたち、日本のこころ」をテーマにしたパネルディスカッションが行われた。そして、懇親パーティが行われた。

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パネルティスカッション

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懇親パーティ

千駄木に戻り、地元の酒房にて酒友と一献。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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日本の朝鮮半島統治について

日本による韓國併合は、当時の日本にとって万止むを得ざる選択であったと共に、当時の韓國政府との正式な交渉のもとに行はれたことである。しかも、併合後韓國は、近代化を遂げ、あらゆる面で併合以前よりも発展し、國民は豊かになった。そして継承され護られるべき韓国の傳統文化は保護された。わが國は、韓國・朝鮮を一方的に侵略し支配したのではない。従って韓國に対してわが國が謝罪する必要は全くない。

 

朝鮮併合を『植民地支配』と言っているのは大きな間違いである。朝鮮は日本の植民地ではなかった。九州・四國と同じに考えられた合邦國家であった。だから朝鮮総督府は内閣に直属していた。

 

明治天皇の『韓國併合に付下し給へる詔書』(明治四十三年八月二十九日)に、「(朝鮮の注)民衆は朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべし。産業及び貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし。而して東洋の平和は之に依りて愈々其の基礎を鞏固にすべきは朕の信じて疑はざる所なり」と示されている通り、わが國には韓國・朝鮮を植民地する考えは全くなかった。

 

わが國が朝鮮半島において植民地搾取を行ったと言うなら、『数字』を根拠とするべきである。朝鮮統治三十六年間、朝鮮総督府の財政予算の一五~二0%は日本中央政府から補助を受けていた。『日本は朝鮮半島の土地を収奪し、人の命を収奪した』と言うが、日本統治時代に朝鮮の土地の利用価値・生産価値を高め、三十七年間の自然・社會環境の整備によって人口を倍増せしめた。

 

朝鮮、台湾、樺太を外地と呼ぶことはあったが、植民地と呼ぶことは政府によって排された。事実、民法、刑法を始め大半の法律は内地と同一内容で施行され、各種の開発や公共事業も進み、医療衛生制度や教育制度も整備され、内地の政府民間の負担も相当の額に達した。そして乱脈だった李朝末期の韓国社会を正し法治社会をもたらした。これは欧米列強の植民地支配・愚民政策・搾取行為とは全く異なるものであった。日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。

 

朝鮮半島の歴史は、「中華帝國」への隷属の歴史であった。文化的にも政治的にも軍事的にも支那の属國であり続けた。しかし、日清戦争の後の「下関条約」(明治二十八年)で、「清國は、朝鮮が完全無欠なる独立自主の國であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮國から清國に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)」事となった。すなわち、朝鮮は日本のお陰で支那からの独立を獲得したのだ。

 

ところが、日本が「三國干渉」に屈服したため、「日本弱し」と見た李氏朝鮮は、今度はロシアに接近しその属國となった。國王の高宗はロシア大使館で政務を執るという状況であった。こうした朝鮮の体質を「事大主義」(『以小事大』(小を以て大に事〈つか〉へる)という。強い者を背景に弱い者をいじめるという体質である。「事大主義」は、李氏朝鮮建國以来の國策であった。

 

日本に併合される以前の韓國は、ある時はロシアの属國となり、またある時は支那の属國になるという体たらくで、とても独立國と言える状況ではなかった。また國内の改革・近代化も全く進まず、経済的に破綻に近い状態にあり、権力者は腐敗し、政争を繰り返していた。そして國民は疲弊し李朝の圧政に苦しんでいた。  

 

そのままの状況で推移すれば、朝鮮半島は、きわめて不安定になった。これはわが國にとって重大な脅威であった。そこで、日露戦争に勝利した日本は、事實上ロシアの属國であった朝鮮を併合したのである。当時の國際感覚では当然の成り行きであり、文字通り致し方の無い選択であった。

 

一体今まで、日本は韓國に対して、そして支那に対して何回「謝罪」してきたのか。そしてそれによって日韓関係・日支関係が良くなったのか。断じて否である。何回謝罪しても、友好関係は確立していない。日本が韓国に謝罪すればするほど、わが國は益々韓國に対し畏縮した外交を続けねばならなくなり、竹島奪還・拉致問題の解決など韓国・朝鮮に対する正当な要求も出来なくなる。

 

日本の韓国統治は西洋列強がアジア・アフリカなどに対して行った「植民地支配」とは全く異なる。断じて謝罪する必要はない。

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千駄木庵日乗九月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事など。

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