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2015年9月11日 (金)

明治維新の基本精神と第二維新運動

明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主と仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐといふ精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるといふ「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといはれる所以である。鎌倉幕府以来の武家政治・強いもの勝ちの覇道政治を否定し天皇統治の皇道政治の回復を目指した変革が明治維新である。

 

かうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』に示されてゐる。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道學」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

この自由な発想の「生みの親」は、洋學者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國學者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ」。「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだった。しかし、明治維新後、日本は西欧列強と対峙日本の独立を守るために、近代化・西洋化・工業化を促進することが急務となった。そして、明治新政府は、「殖産興業富国強兵」「脱亜入欧」の国策の実現を目指し、「文明開化」の時代が現出した。かうした事は、当時の状況を考へると、全面否定することは出来ない。

 

岩倉具視の諮問に対して、王政復古の基礎を「諸事神武創業ノ始ニ原カム」すべしと答へた國學者・玉松操は、維新後堂上に列せられたが、明治新政府の欧化政策を批判し、「我不明にした奸雄の為め誤られたり」と嘆息し、明治三年、官を辞し閉居した。

 

幕末の動乱期に國學関係の多くの著書をあらはし、國學を講じてその振興に努めながら、京都を中心に王政復古運動に専念し、維新後は國家構想をまとめた意見書『献芹詹語』を岩倉具視を通じて明治政府へ提出し、政治の改革にも功績を残した國學者矢野玄道(やのはるみち)は、明治新政府の「文明開化」「欧化政策」を憂慮し、次のやうな歌を詠んだ。

 

「事により彼が善き事もちふともこゝろさへにはうちかたぶくな」

「其のわざを取り用ふれば自ら心もそれにうつる恐れあり」

「潔き神國の風けがさじとこゝろくだくか神國の人」

「橿原の宮に還ると思ひしはあらぬ夢にてありけるものを」

 

葦津珍彦氏は、「維新後、二、三年のわづかの間に、神道精神を国の基礎として固めようとする志をもって、政府を動かしたのは確たる事実である。しかし間もなく権力の主流の中には『神道的維新コースは、文明開化の妨げとなり、国際外交上も著しく不利となる』との思想が強大となる。仏教、とくに真宗のブレーンは(熱烈な愛国者であったが反神道の信があり)権力との結合を固めて、神道の無精神化、空洞化の政策を進める」「明治国家と神道との関係史で、初めに大きな役割を果たした玉松操、矢野玄道以下の多くの国学系主要人物のほとんどは、明治四年までに政府の開明派によって追放され…明治維新に際し『祭政一致』『神仏分離』『大教宣布』の国策決定に大きな働きを主要人物や活動家は、明治三年には…政府の中枢と対決を生じて、その後十年の激流時代に、ほぼ追放されたり、刑死したり戦没したりしてゐる」(『国家神道とは何だったのか』)と論じてゐる。

 

明治維新の後、「維新の理想未だ成らず」との思ひで展開された戦ひを明治第二維新運動といふ。明治新政府は、欧米列強のアジア侵略植民地化を目のあたりにして、わが國の独立を維持し発展せしめるべく、「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」の政策を推し進めた。さらに、大久保利通を中心とした一部の人々によるいわゆる「有司専制政治」が行はれた。しかし、維新日本において最も大切な事、即ち神代以来の日本の伝統への回帰・神武創業の精神の恢弘といふ大命題との大きな矛盾をもたらした。この矛盾を解決し、維新の理想をあくまでも貫徹せんとする運動が明治第二維新運動である。その具体的な動きが、西南戦争・佐賀の變・神風連の変をはじめとした各地の蜂起であった。

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