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2015年9月 1日 (火)

日本の伝統信仰と宗教的寛容性

 世界の歴史を見ると、異なる宗教の間で様々な對立と相克が見られた。それが戦争にまで発展した例も多い。それは歴史上のことではなく、唯今・今日においても熾烈に行われている。現代社會において本來人類を幸福にするはずの宗教が、逆に人類に不幸をもたらしているのである。

 

 日本民族の傳統的信仰精神は、大らかな宗教的寛容性を持っている。それは、日本固有の信仰と外來の佛教との融合という事實を見れば明らかである。こうした日本傳統信仰の寛容性が、今後の宗教對立や民族對立の解消即ち世界の平和に大きく貢献すると思う。  

 

 日本の宗教的寛容性の根本的な原因は何處にあるのか。言い換えれば日本民族の固有信仰は、何故、「宗教戦争」をする事なく、外來の佛教を受容したのか。それは、日本という國の麗しい自然環境(地形の美しさ・気候の規則正しさと穏やかさ・風土の優しさ・島國であること等々)が、温厚で包容力のある民族性・文化感覚を生み出したからである。砂漠でもなければ、暑すぎも寒すぎもしないという自然環境が、闘争的な宗教・排他的な宗教を生み出さなかったのである。これは日本人にとって實に有難いことである。ただし、戦後日本の精神的荒廃・自然の破壊は創価學會という排他的宗教教團の跳梁跋扈をもたらした。 

 

 古代日本の偉大な佛教美術即ち佛像と佛教建築は今日にのこされている。奈良の大佛や法隆寺・薬師寺などがそれである。佛の姿というものは、完全な人間、麗しき人間の姿の投影である。ゆえに佛像には日本人の描く理想的な像として作られる。それが白鳳時代の佛像である。外來宗教である佛教の礼拝の對象である佛像が日本的な麗しさを表現した姿に作られるのである。我が國の佛像とインド・支那・朝鮮の佛像とは明らかにその美しさに違いがある。

 

 こうした事實は、日本民族は外來の佛教を柔軟に受容はしたが、すぐにそれを日本の風土・傳統精神・文化感覚に適合させ、それに同化させていったことを証しする。日本民族は、柔軟に外來宗教・外來文化を包容したが、外來宗教・外來文化を日本の固有文化・宗教の適合するように造り替えてしまったのである。神佛習合思想であり垂迹思想などはそうしたことの理論的な営為である。そればかりでなく、日本の傳統文化・固有信仰とはどうしても相容れないものはそれを拒否した。キリスト教が日本において勢力を伸ばさなかった事實がそれである。そして、日本は外來宗教・外來文化の植民地にならず、しかも外來文化を摂取して日本人の宗教・文化・芸術が深みのある幅の広いものになったのである。

 

 寺院の境内に神が祀られている例は多い。寺院の建立にあたって境内に神を祀ることは、天台宗の開祖・最澄や真言宗の開祖・空海によって行われるようになったという。最澄は比叡山を開くと、日吉神社の神(比叡山の地主神)を祀ったし、空海が京都の清瀧に高雄寺を創立した時、清瀧権現を護法神として祀り、八幡神を地主神として祀った。

 

 神社の中にその神社に付属する寺院が建てられたのはもっと古い。和銅八年(七一五)には越前國気比神宮寺、天平勝宝年間(七四五~五六)には鹿島神宮寺、神護景雲元年(七六七)九月には八幡比売神宮寺が建立された。これは神が佛の供養を喜ばれるという考え方に基づいているという。つまり神に仕える寺院が神宮寺なのである。

 

 一般の日本國民の家庭においても、何處の家にもそれぞれに神棚と共に佛壇がある。この佛壇は佛を祀っているというよりは先祖の御霊を祀っているのであるが、何時頃から各家庭に佛壇を祀るようになったかというと、飛鳥時代の末の天武天皇の御代である。天武天皇は「家ごとに佛舎を作りて佛を礼拝供養せよ」との「詔」を発せられた。また、白鳳時代を代表する奈良の佛教建築物である薬師寺は天武天皇の発願によって建立されたのである。かくのごとく天武天皇は佛教を重んじられた。

 

 しかしその天武天皇は、我が國最初の日本傳統精神に基づく國家変革であり、佛教渡來を支持した蘇我氏を滅ぼした変革であるところの『大化改新』を、兄君・天智天皇と御協力あそばされて断行された天皇様であらせられる。また日本國生成の神話及び歴史が記された『古事記』の編纂を命じられた天皇様であらせられる。

 

 つまり、天武天皇は一方において外來宗教の受容を實践され、一方において日本民族の傳統精神の興隆に努力されたのである。こうした事實は、天武天皇は、日本民族信仰の寛容性及びそれと裏腹なものとしての強靱性の體現者であらせられるのである。

 

 純粋な日本傳統精神とは、外來宗教が入って來る前の精神ということである。それは埴輪(はにわ・古墳の外部に並べられた素焼きの土人形)や土偶(どぐう・縄文時代の遺跡から出土する土人形)に現れている純真で初々しい優しさの世界である。こうした世界を精神生活の奥底に日本民族は持ち続けて來ている。そしてそれは外來思想・宗教によっても決して破壊されることはなかった。

 

 そうした強靱性は、純粋なる日本傳統信仰を語っているところの神典『古事記』には、佛教傳來のことについて全然触れていないし、聖徳太子と蘇我氏を中心とする佛教受容の有様についても全く触れていないという事實にによく表れている。

 

 また『日本書紀』においても、佛事よりも神事を重視する姿勢が貫かれている。即ち、皇極天皇元年に旱魃が続いたので、大臣蘇我蝦夷が「寺々に大乗の経典を転讀(よ)みまつり、悔過(けか)すること佛の説きたまへるが如く、敬(つつ)しみて雨を祈(こ)ひまつるべし」と、大寺の庭に佛菩薩の像と四天王の像をまつり、僧を集めて「大雲経」を讀ましめ、自ら香を焼(や)いて雨を祈ったが、パラパラと降っただけで功を奏さなかった。そこで、皇極天皇が、飛鳥川の上流の南淵の川上にお出でになられて、「跪きて四方を拝み、天を仰ぎて祈ひたまひしに、すなはち雷なりて大雨降り……」、ついに五日間も雨が降り続け、天下が潤ったということが記されている。

 

 さらに、上御一人から下萬民にいるまでの魂の表白であるところの和歌が収録され、日本民族の中核的な思想精神がよく表現されている『萬葉集』には、佛教もしくは佛教思想に關係があると思われる歌はきわめて少ない。つまり外來の佛教思想は萬葉時代の日本の一般世人の思想精神を動かしていなかったということである。

 

 人の死を悼む歌である『挽歌』には、日本人の死生觀が最もよく表白されている。いうまでもなく人間の死生觀にはその人の宗教精神が最もよく表れる。しかるにその挽歌において全くと言っていいほど佛教思想の影響は見られず、日本民族獨自の死生觀が表白されている。神を讃え神に祈り神を祭る歌は實に多いが、佛に祈り佛を讃える歌は全くと言っていいほど『萬葉集』に収められていないのである。

 

 『萬葉集』の時代とは、佛教を篤く信仰した聖徳太子の時代から聖武天皇の御代にかけての時代である。換言すれば日本のおける佛教の第一次興隆期である。にもかかわらず佛教もしくは佛教思想に關係があると思われる歌はきわめて少ないということは、この時代には佛教思想が國民の思想精神に強い影響を及ぼさなかったということである。

 

 古代日本の一般國民は深遠な佛教理論を研究し學んで佛教を信じたのではない。極暑の風土において生活するインドで培われた原始の佛教思想は、一切の現象を實在ではないとし、現世を苦界とし、現世を脱して解脱を得ようという一種の厭世思想である。こういう思想が、麗しい自然環境の中で生活し現世を肯定する日本人に受け容れられず筈がない。日本佛教の僧侶も一応形の上では頭を丸めて出家するが決して現世から脱すること無い。古代日本人が佛教を受け容れたのは深遠にした厭世的な佛教思想に共感したのではない。有り體に言えば、不思議にして珍しく美しい佛像に驚嘆し、その佛像に祈れば願いが叶えられると思ったからなのである。

 

 また、神佛習合思想にしても本地垂迹論にしても、僧侶や神道學者という知識階級が論じたものであって、一般庶民はそんな理論には關係なく、ごく自然に神と佛を共に信仰した。日本人の生活の中に自然に行われるようになった神と佛への信仰を後から知識人が理論付けしたのである。日本民族の神佛への信仰は、天地自然への畏敬の念・先祖への感謝の思いがその根幹にあったのである。つまり佛様も神様と同様に祭りの對象であり祈りの對象なのである。

 

 一部の知識人や僧侶は別として、一般の民衆は、理論的に神とか佛とかを別けて考えることはあまりせず、一體のものとして考えていた。だから「神佛の御加護」という言葉も生まれたのである。全く異なった宗教の信仰の對象であるところの「神」と「佛」を一體に考えるなどということは、一神教の世界ではありえないことである。

 

 前述のごとく日本の多くの神社に神宮寺が建てられたりしたが、日本傳統信仰の中核的な聖地である伊勢の神宮は、神佛習合の影響を受けることは非常に少なかった。さらに、中世・近世を通じて佛教の影響を強く受けた皇室も、皇室の中心行事であり國家統治の基本である<天皇の祭祀>は、佛教の影響を強く拒否した。

 

 また佛教が日本において布教するに際して、皇室の権威に據るところが大きかった。寺院が多くの人々の崇敬を受ける場合、勅願寺という形式を得ることが必要だった。また僧侶の最高位は必ず皇室より賜った。真言宗は宗祖・空海は承和元年(八三四)真言院で「玉體安穏・國土安穏・五穀豊饒」を祈る密教の加持祈祷をして以來、真言宗各派管長は一年交代で東京に來たり、天皇の御衣を奉持して京都に戻り、御衣に祈を込めているという。天台宗は比叡山延暦寺の根本中堂で「玉體安穏・國家泰平」を祈する天台密教の修法を行っているという。これは毎年四月上旬、滋賀県知事が天皇の御衣を宮内庁から拝受し、これを奉持して根本中堂に安置して僧侶が加持祈を行い、祈が終わると宮内庁に返上するという。

 

 天皇は日本傳統信仰の祭主であらせられる。その神聖権威に據らずして佛教は日本國において布教し國民の信仰を受けることはできなかったのである。

 

 つまり、日本民族の外來宗教の融合・包摂は、日本民族の中核精神がきわめて強靱であったからこそ可能だったのである。欧米諸國はキリスト教を外來宗教とは呼んでいない。一神教であるキリスト教はその布教と共に布教した地の傳統信仰・民族信仰を滅ぼしてしまった。しかし、思想・文學・美術・建築など日本文化への佛教の影響は非常に大きいにもかかわらず、日本人は佛教をあくまでも外來宗教と呼んでいる。これは日本傳統信仰が滅ぼされることはなかったからである。

 

 日本における佛教は、既に千三百年の傳統を持っているが、日本傳統信仰に包容されつつ、日本において拡大再生産された宗教であると言っていいのである。

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