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2015年9月30日 (水)

日本神話に示された國體精神

日本国家の神話的起源思想の特色は、国家成立の三要素たる君主、国土、人民が、神霊的・血統的に一体であるところにある。即ち「皇祖神たる天照大神」と「国土」と「国民の祖たる八百万神」が、伊耶那岐命・伊耶那美命から生れでた「はらから」といふ精神にある。

 

『古事記』の「国生み神話」には次のやうに語られてゐる。伊耶那岐命は伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(註・かれ。だからの意)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

 

伊耶那岐命が「国土(くに)を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、国土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

 

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、国土の生成されたのである。太古の日本人は劫初から、国家意識が確立してゐたのである。世界の他の国よりも我が国は国家観念が強かったといへる。この場合の「国家」とは権力機構としての国家ではないことは言ふまでもない。

 

岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、国生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって国土が生成されたのである。国土ばかりではなく、日本国民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神の「むすび」よって生まれたのである。日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、岐美二神の「愛・むすび」によって国土が生まれたのである。日本といふ国家は、人の魂が結び合って生まれてきた生命体なのである。日本民族の農耕を中心とする伝統的生活のから培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命体が日本国なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本伝統信仰の祭祀主である天皇である。これが「祭祀国家」「信仰共同体」としての日本なのである。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といはれる通りである。つまり命が生まれることである。故に親から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)と言ひ、女の子を「むすめ」(生す女)と言ふのである。

 

「むすび」とは命と命が一体となり緊密に結合することである。米のご飯を固く結合させたものが「おむすび」である。そして日本伝統信仰ではその米のご飯には生命・魂が宿ってゐると信じてきた。

 

「庵を結ぶ」といふ言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集めこれらを結び合はせて作られた。結婚も男と女の結びである。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」と言ふ。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。日本の家庭も〈むすび〉によって成立しているのである。日本国土は、伊邪那岐命と伊邪那美命との「むすび」によって生成されたのである。

 

『古事記』にはさらに、「伊耶那伎大神…筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。…左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照大神」と語られてゐる。

 

皇祖神であらせられる天照大神は、伊耶那伎大神から生まれた神なのである。つまり、国土自然の神々、日本国の君主であらせられる天皇の祖先神たる天照大神も、日本国民の祖たる八百萬の神々と同じく伊耶那伎大神から生まれたのである。

 

日本神話では、神と、国・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、同じ神から生まれ、生命的・霊的に「はらから」の関係にあるのである。これが我が国太古からの国土観・人間観・自然観である。

 

ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地と人間を創造し支配するといふユダヤ神話と全く異なる。

 

この神話物語は、日本国においては、君主と国民と国とは対立関係にあるのではなく、同じ神から生まれた「はらから」の関係にあることを示してゐる。

村岡典嗣氏は、「(国家の神的起源思想の特色として・註)国家成立の三要素たる国土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百万神はもとより、大八洲の国土そのものまでも、同じ諾册二神から生れでたはらからであるとの考へである。吾人は太古の国家主義が実に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即国家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が国土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の国家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである。」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。

国家成立の三要素たる国土・君主・国民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある。天皇と国民と国土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを「君民一体の国柄」といふ。

 

神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。また、神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。わが国は、信仰的・祭祀的統一によって形成された国家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられるのである。

 

祭祀国家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本国の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。わが國體が万邦無比と言われる所以もここにある。

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千駄木庵日乗九月二十九日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。意見交換。

午後四時より、赤坂の日本財団ビルにて、笹川平和財団主催『日本の安全保障のジレンマー日本の進むべき道は何か?』開催。茶野順子笹川平和財団常務理事が挨拶。インド政策研究センター教授・プラーマ・チェラニーが講演。活発な質疑応答が行われた。後日報告します。

午後六時より、赤坂の ANAインターコンチネンタルホテル東京にて、「平沢勝栄 政経文化セミナー」開催。石原伸晃・高市早苗・二階俊博・上田清司・衛藤征四郎・望月義雄・茂木敏充・遠藤敏明 の各氏などが祝辞。平沢勝栄氏が挨拶。金田正一氏の音頭で乾杯を行い、盛宴に移った。

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挨拶する平沢勝栄衆院議員

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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2015年9月29日 (火)

MOA美術館参観記

本日参観した『平松礼二・森口邦彦展』は「MOA美術館では、日本美術の伝統を継承しながら鋭敏な感覚で時代性を捉えた作品を創り出し、海外に発信する二人の作家の展覧会を開催します。平松礼二は、印象派の画家クロード・モネに触発されながら日本画の伝統美を意識した鮮やかな装飾的世界を切り開き、独自の画風を確立しました。近年は、国内はもとより、ジヴェルニー、ベルリンなどの海外で展覧会を開催し高い評価を得ています。森口邦彦は、友禅に受け継がれた高度な技法と幾何学文様を用いた現代的なデザインを融合させた友禅を創造し、2007年重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けました。海外では、ローザンヌ、コペンハーゲン、オックスフォードで展覧会を開催するほか多くの海外展にも出品し、フランス政府よりレジョン・ドヌール芸術文芸シュヴァリエ章を受章しています。本展では、世界から高く評価される現代日本アーティスト二人の作品をご紹介致します」(案内文)との趣旨で開催された。

 

平松礼二氏の絵画作品「モネの池 四季彩夢」「モネの池 春彩」「モネの池 秋彩」「日本の祈り花は咲く」を参観。統べと今年制作されたもの。駄洒落になるが、モネのマネということになるかもしれないが、モネの作品よりも色彩が激しく、琳派の傳統を継承してゐるように思える。美術の専門用語ではオマージュを込めた作品ということになる。と言ふよりも独自の美的世界を創造してゐると言へる。「日本の祈り花は咲く」はモネのオマージュではなく、富士山を描いた絢爛たる作品。山上の冠雪が花として得かがれている。

 

森口邦彦氏の友禅染の作品「千花」(昭和44年)「黄唐茶格子文」(平成5)「位相重ね鱗花文」(平成24年)などを参観。幾何学模様で一つのモチーフが表現されている。展示されて作品を見つつ、実際に女性が着用したらどういう感じなるかを想像する。

 

続いて「平常展」を参観。「色絵藤花文茶壺」(野々村仁清・江戸時代)「色絵金銀菱文重茶碗」(野々村仁清・江戸時代)「正親町天皇宸翰 日課詠草」(桃山時代)「花唐草七曜卍花クルス文螺鈿箱」(漆工芸 桃山時代)「南蛮人渡来図屏風」(江戸時代)「染付草花文瓶 伊万里」「色絵桃花文皿 鍋島」などを鑑賞。江戸時代・桃山時代の作品だが、古色蒼然といふ感じは全くしない。生き生きとしたものを感じる。だからこそ、名品として今日も大切にされてゐるのであらう。

 

「能楽堂」、豊臣秀吉の「黄金の茶室」(復元)、日本庭園、尾形光琳の屋敷を復元した「光琳屋敷「唐門」「片桐門」などを見学。モア美術館は、熱海で「日本を糺す会」が開催される度に、参観してゐる。メインロビーからの相模湾の眺めは絶景である。

 

この美術館の創設者は、世界救世教教祖・岡田茂吉氏である。戦争直後の混乱期に、多くの華族が生活のためにその家に伝来してゐた美術作品を売りに出したのを、岡田氏が収集し、海外への流出を防いだといはれてゐる。特別室に、岡田茂吉氏の「書作品」、肖像画などが展示されてゐる。この肖像画は嵐知重といふ画家が描いたもの。嵐知重氏の御子息である嵐康一郎氏は宗教法人世界救世教責任役員をしておられたが、今年三月逝去された。小生とは昭和五十年代前半からの知己であった。

 

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相模湾の眺め

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「片桐門」(悲劇の武将片桐且元の屋敷にあった門)

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「唐門」

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2015年9月28日 (月)

千駄木庵日乗九月二十八日

朝、宿舎を出発。桃山町のMOA美術館参観。

午後、新幹線で帰京。

施設に赴き、母に付き添う。介護士の方と母の歯の治療について相談。

帰宅後は、原稿執筆など。

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千駄木庵日乗九月二十七日

午前は、諸雑務。

午後、新幹線にて熱海へ。

午後六時より、東海岸町の古屋にて、『日本を糺す会』開催。杉山清一氏が司会。荒井清壽弁護士が主催者挨拶。山口申氏がスピーチ。この後、全員で内外の諸情勢について意見発表・討論。タイから出席された方、明日パラオを訪問される方など多くの同志が参加した。

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2015年9月27日 (日)

この頃詠みし歌

命長らへ九十四まで生きて来し母をしみじみいとしと思ふ

 

よくもまあこれほど雨が降るものと思ひつつ歩く土砂降りの道

 

實朝の歌を思へり決壊せし川水が人家を襲ふを見つつ

 

川水が津波の如く押し寄せて人と家とを流しつくせり

 

水の禍未だおさまらぬ朝にして東京の空は晴れわたりゐる

 

人の名前忘れることが多くなり咄嗟に出て来ぬことの悲しさ

 

靴磨き屋が少なくなりし不便さを靴磨き屋さんと語り合ひたり

 

屋台ラーメン路傍の靴磨きが無くなりて街も次第に変はり行くなり

 

平和平和と叫ぶ輩は共産支那の暴虐のことは何も語らず

 

この国の守りを堅くすることに抗がふ輩は敵の手先ぞ

 

似非憲法似非平和主義を祓ひ清め日の本の國を守り行くべし

 

肩をいからし部屋に入り来し人物は護憲を叫ぶ弁護士先生

 

宇治橋を渡り行く時真向ひの大空に日輪が照り輝きぬ

 

伊勢の宮神路の山に日章旗翻りゐる爽やかさかな

 

坂の上の施設の部屋で今日もまた母と眺める夕暮の空

 

生きたままの白魚を食べる夢を見し何と食いしん坊の我にしあるか

 

見たる夢に出で来し人の記憶無し 恵比寿様のやうな顔をせし人

 

秋雨に濡れつつ一人静かなる湯島聖堂の森にたたずむ

 

両関といふ酒うまし今宵またおでんを食しつつその酒を呑む

 

白滝か糸こんにゃくかはどちらでもよしとわが好物を食しつつ思ふ

 

雨水が瀧の如くに流れ落ちる湯島男坂を下り行くなり

 

仏前に供へたる花の水を替へ新しき日の始まりとする

 

神前の榊の緑瑞々し 有難きかな日本の神

 

筆の音さらさらとなる静か夜は心鎮めて歌を詠むなり

 

今日もまた原稿を書き本を読み静かなる一日(ひとひ)を過ごしたるかな

 

二十年前の美術館の入場券を見つつ二十年後の我を思へり

 

二十年経てばわれも八十八 米寿となりて生きゐるらんか

 

住職に挨拶をして先祖の墓に花供へれば心清々し

 

彼岸の日に菩提寺に参れば花園の如くに供花が咲き満ちてゐる

 

晴れやかな心となりぬ 晴れわたる青空の下で墓清めれば

 

シルエットの如く伽藍が浮かびゐる日の暮れ方の谷中寺町

 

久しぶりの友の電話の声高し健やかなれば我も嬉しき

 

ペリー来航櫻田事件の絵を眺め百有余年前の国難を偲ぶ(東洋文庫「幕末展」参観)

 

軍事力なくして国の独立を守りがたきは今も同じぞ()

 

愚かしき憲法守りて國滅ぶを望む輩を祓はざらめや

 

今秋は陰祭とて神輿も山車も街に出でぬはさみしかりけり

 

根津の社のみまつりなれど わが町は神輿も山車も出でぬさみしさ

 

静かなる夜の公園闇深しベランダに坐る二人の人影

 

威勢良き寿司屋の若い衆は今日もまた明るく楽しげに寿司握りゐる

 

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2015年9月26日 (土)

千駄木庵日乗九月二十六日

午前は、諸雑務。

午後二時より、ホテルグランドヒル市ヶ谷にて、『井尻千男さんを偲ぶ会』開催。渡辺利夫・呉善花・門田隆将・藤岡信勝・黄文雄の各氏らがスピーチ。懇談。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆、資料の整理など。

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2015年9月25日 (金)

伊勢の皇大神宮について

伊勢の皇大神宮は、日本伝統信仰の最尊最貴の聖地である。伊勢の神宮に来て神を拝ろがめば、日本伝統精神が現実のものとして顕現してゐることを実感する。理論理屈は要らない。日本伝統信仰が自然に伊勢の神宮といふ聖地と聖なる神殿・神域を生んだのである。それは太陽神への無上の信仰であり、皇室への限りなき尊崇の思ひであり、稲への限りない感謝の心である。

 

天武天皇は、壬申の乱の時、朝明郡迹太川(とほかわ)で伊勢の神宮を遥拝された。柿本人麻呂の高市皇子への挽歌では、伊勢の神風を称へてゐる。

 

西行(平安末期・鎌倉初期の歌人、僧)は、治承四年(一一八〇)六十三歳のときに三十年ほど過ごした高野山から伊勢に移り住み、

 

「何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるゝ」

と詠んだ。これは、伊勢の神宮に参拝する万人に共通する思ひを詠んでゐる。

 

伴林光平は、

 

「度會(わたらひ)の 宮路(みやぢ)に立てる 五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは 神代なりけり」

 

と詠んだ。伊勢参宮の時の実感を詠んだ歌である。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりまします故に伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思はれ、自分自身も神代の人のやうに思はれる」といふ意である。

 

光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴へてゐる。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 

光平は「神代を恋ふる歌」を詠み、さうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。同年八月十三日、孝明天皇におかせられては、攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕らへられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。  

 

光平の歌でもっとも人口に膾炙してゐる歌は、

 

「君が代は いはほと共に 動かねば くだけてかへれ 沖つしら浪」

 

である。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と伝へられる。死への恐怖などといふものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は少ない。

 

「君が代はいはほと共に動かぬ」といふ信念は光平の「神代即今」「今即神代」といふ深い信仰が基盤になってゐる。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となった。まさに明治維新の先駆である。

 

「今即神代」が日本伝統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思ひを抱く。近代歌人もさうした思ひを歌に詠んでゐる。若き日に社会主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において、

 

「おのづから 神にかよへる いにしへの 人の心を まのあたり見む」

 

と詠んでゐる。

 

窪田空穂は、

 

「遠き世に ありける我の 今ここに ありしと思ふ 宮路を行けば」

 

と詠んだ。

 

今を神代へ帰したいといふ祈り即ち「いにしゑを恋ふる心」がそのまま現状への変革を志向する。

 

伊勢の聖地に伝はる清浄なる精神こそ世界平和の根幹になると確信する

 

昭和四十二年の秋、イギリスの歴史学者、アーノルド・J・トインビーが夫人と共に参宮した時、内宮神楽殿の休憩室で「芳名録」に記帳し、

 

「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底をなすものを感じます」

 

と書いた。

人類は様々の宗教を信じてゐる。そしてそれらの宗教はそれぞれ特色があり、人類に救ひと安穏をもたらしてゐる。しかし半面、人類の歴史は宗教戦争の歴史であったともいへる。それは今日に至るまで続いてゐる。神を拝み、神を信じる人々同士による凄惨なる殺しあひが行はれて来た。

 

しかし、宗教の根底にあるものは、天地自然の中の生きたまふ大いなるものへの畏敬の心であらう。わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。

 

わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿ると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きてゐると信じてきた。秀麗の山河に神が天降り、神の霊が宿ってゐると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至ってゐる。

 

さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが、わたつみ(海神)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

 

わが國傳統信仰即ち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」と言ふ。

 

その典型が、天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽の神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来た。

 

伊勢の神宮はまさに、最も純粋に最も簡素にその大いなるものをお祭りしてゐる聖地なのである。伊勢の聖地に伝はる清浄なる精神こそが今後の世界平和の根幹になると確信する。

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千駄木庵日乗九月二十五日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理、

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吉野文雄拓殖大学国際学部教授による「A.S.E.A.N.共同体・理念と現実」と題する講演内容

六月六日に開催された『アジア問題懇話会』における吉野文雄拓殖大学国際学部教授による「A.S.E.A.N.共同体・理念と現実」と題する講演内容は次の通り。

「日本ではアセアンは過大評価されている。二〇一二年の中国の反日デモ・暴動・打ちこわしがあって、日本企業が中国から引き揚げたほうがいいいう判断をすることとなり、消去法で出て来たのが南アジア・アセアン。

アセアン諸国も次第に力がついて来た。一九六七年に、バンコックでアセアンの地域協力機構が出来た。しかし、協定や条約は結ばれていない。アセアン諸国はお互いに縛られるのが嫌というのが大前提。『何かやります』と言うが『何かをやりました』という事はなかった。アセアンその繰り返し。毎年のように計画をぶち上げるが結果は出ない。 アジア通貨危機でアセアンは目覚めた。二〇〇三年前後から『統合』という言葉を使うようになった。『統合』という言葉を使えば盛り上がったように見える。今のところは『災害救助統合』という言葉を使っている。

『デモクラシーという言葉を使ってはいけなかったが、二〇〇〇年代に入って使われるようになった。『人権』という言葉も使われるようになった。『二〇三〇年を目指してアセアン共同体が出来る』と政治家は言っている。アセアンの将来を見て議論する人は、期待価で話している。

二〇〇八年に、『アセアン憲章』をEUの真似をして作った。この『憲章』の注目点は内政不干渉原則。『アセアン賢人会議』は内政不干渉原則を撤廃すべしと主張したが、首脳会議で認められなかった。二〇一四年のタイのクーデターによって成立した陸軍総司令官のプラユット・チャンオチャ政権を対しても内政不干渉原則で批判しない。地域外からも干渉させない。

中国に対してはアセアンはまとまって対抗しして行こうということに表向きにはなった。二〇〇〇年あたりから中国との貿易が拡大。中国との貿易自由化の影響は大きかった。 インドネシアは領海侵犯されている。南シナ海では色々な国の船が出ている。内陸国のモンゴル・ミャンマーの船まである。これはインドネシアにとって外交上のストレス。他の国がインドネシアに対し『東南アジア最大の国、アセアンの盟主』として敬意をはらわないのはどういうわけかという思いが、インドネシアにはある。これは中国と似ている。『インドネシアの資源を盗む外国船は沈める』とインドネシアは言い出した。

ジャカルタは漁港。日本のODAでつくった。その漁港の一部が中國船に占拠された。中国は罰金や係留料を取られるのが嫌で船を取りに来なかった。 アメリカはタイのクーデター政権を嫌っているので、タイは中国に接近している。東中アジアは、デモクラシーは似合わない。強権政治が似合っている。

中国は南シナ海での行動規範を作成しないといけない。アメリカ軍はフィリッピンに戻って来たが、アメリカは東南アジアでは経済的には大きく後退した。 安倍首相昨年二月、ミャンマーを訪問。五千億円の負債を帳消しにした。国民一人当たり四千円。日本国民は文句を言わなかった。

十年前のスマトラ大地震の時、中国は現地にいる同胞を救いに来たという名目で軍艦を派遣した。そのあたりから雲行きが変わった。中国は華人・華僑を資産と思うようになった。しかし華人・華僑は必ずしもそうではない。無用な団結はしない。東南アジアには三千万人の華人がいる。昆明に東南アジア向け放送局があったが、改革開放で止めた。

華人・華僑には反日がいる。マニラの中国人墓地には『抗日烈士』の碑がある。『抗日記念館』もある。看板の字は銭其琛が書いた。日本はぼんやりしていると危ない。『抗日烈士の碑』はアジア各地にある。 タイでは華人以外は中国が嫌い。ベトナムは完全に支那嫌い。『中国はベトナムに攻めて来た。中国は男が余っている。嫁さん不足。ベトナム女性は美人だからそれを狙ってまた攻めて来るかもしれない』、と、ベトナムではまともな人がまともなところでそんなことを言う。

東南アジアの人たちの意識改革は難しい。マレイシアに行った日本の猛烈社員が『一生懸命働けば老後のんびりできる』と言ったら、『働かなくてもすでにのんびりしているから働かなくして良い』と言われた。衣食住が働かなくても手に入る。日本・中國・韓国・台湾人とは意識が違う。独裁者は首都に国産車が走っているのが夢。マレイシアは国産車を作った。三菱のミラージュの焼き直し」。

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千駄木庵日乗九月二十四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆・資料の整理など。

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2015年9月24日 (木)

支那を「中国」と呼ぶことは『中華帝国主義』に屈服することになる

今日、中華帝国主義が猖獗を極めようとしてゐる。日本民族及び日本国家の尊厳そして国益を守らねばならない。

 

「中華思想」を簡単に定義すれば、「支那は天下の中心・世界の真ん中にあって文化が華のやうに咲き誇ってゐる國」といふ思想である。支那は世界帝國であり、支那の皇帝に朝貢(皇帝に貢物を差し上げること)する属國の形式でしか外國の存在を認めず、支那以外の世界各地域は支那に朝貢しなければならないといふ思想が「中華思想」である。

 

世界各地の支配者は支那の皇帝の冊封(天子の命で官・位を授ける書きつけである『冊』により諸侯に封禄・爵位を授けること)によってその地位と権力を認められるとする。「中華思想」には対等な外交関係はあり得ない。支那以外の國は支那の従属し属国になるしかない。

 

それだけではなく、「中華思想」は、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と、獣や虫けらのやうに呼んでこれを蔑視し侮った。「東夷」とは弓を射るのがうまい民族・東方の野蛮人のことで、日本・満州・朝鮮などの民族を指す。「西戎」とは槍術のうまい民族・西方の野蛮人のことで、チベットやトルコ系の諸民族を指す。「南蛮」とは蛮は虫扁がつく南方の野蛮人のことで、インドシナなど南海諸地方の民族を指す。「北狄」とは犬扁のつく北方の野蛮人のことで、匈奴(きょうど)・ウイグル・韃靼(だつたん)等の遊牧民族を指す。いずれも人間以下の禽獣に等しい野蛮な民族といふことである。

 

周辺諸民族は、野蛮人なのだから、逆らったり、言ふことを聞かなければそれこそ虫けらの扱っても構はないといふ思想である。テレビの記録映像で共産支那の警察官が笑ひながらチベットの僧侶を蹴飛ばしてゐるのを見たが、さうした残虐さはかかる観念が大きく影響してゐると思ふ。

 

「中華思想」に基づくアジア支配思想を「華夷秩序」「華夷の弁」と言ふ。「文化的優越性を持つ漢民族は中華であり、民族性が低劣である他の民族は夷狄である。故に、中華民族は世界の中心にゐて支配者になり、夷狄は被統治者である」といふとてつもない差別思想である。

 

これほどの他民族差別思想・侵略思想・大國主義はない。支那はこの論理によってこれ迄の長い歴史において周辺諸國を侵略して来た。秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝・唐太宗のやうに内乱の後に大統一帝國が成立させた後に、強力な國外侵略を行ってゐる。「中華人民共和國」といふ名の大帝国が出現した今日、その歴史が繰り返されやうとしてゐる。

 

渡辺利夫氏は、「中華人民共和国が継承したものが中国史上最大規模の版図を構築した清の版図だ」「清の時代であれば『分治』の対象として包容的にその存在を許されていた異民族は、中国が主権国家観念を導入したことによって、暴力的な抑圧の対象になってしまった」「中華人民共和国が国内異民族はもとより、周辺国をも含む新しい中華帝国として出現しつつある」「国力と軍事力の増強、それにともなうナショナリズム昂揚の現在の中国において、伝統的な王朝の『遺伝子』が再び覚醒しつつある」(「帝国を志向する中国」・『正論』平成二十年三月号)と論じてゐる。

 

黄文雄氏は、「大中華民族主義は、決して近代国民国家の樹立を目指す民族主義ではなく、諸民族を次から次へと統合、同化していくアンチ・ナショナリズムである。漢民族を中心にチベット人やモンゴル人など少数民族を統合、同化していく侵略主義にほかならない。…中華民族主義とは清帝国の遺産を継承し、中華帝国の再建をもくろむ侵略思想である。まさしく異民族支配を正当化する覇権主義の別形態である」(『中国人の偽善台湾人の怨念』)と論じてゐる。

 

国境の観念がなくどんどん支配地域を広げても構はないといふ「中華思想」が、実際の強大なる軍事力を保持する権力国家=「中華人民共和国」の基本思想になったといふことである。周辺諸国に脅威をもたらす「中華帝国主義国家」が誕生し膨張しつつあるのである。

 

現実に共産支那は、内モンゴル・満州・チベット・東トルキスタンを侵略支配してゐる。そして近年は海洋に進出してゐる。台湾も沖縄も支配下に置かうとしてゐる。

 

我々は何としても中華思想に打ち勝たねばならない。それは決して不可能ではない。不可能どころかわが国の歴史は、中華思想に打ち勝ってきた歴史である。

まづ第一に、支那を「中国」と呼ぶことを止めなければならない。私は、出来る限り、支那のことを「中国」とは書かず「支那」と書くことにしてゐる。支那を「中国」と呼んでしまふと、「支那は天下の中心・世界の真ん中にあって、天下を支配する國」といふ中華思想を肯定することになる。

 

石原慎太郎東京都知事が、平成二十年三月二十一日の首都大学東京の卒業終了式で、卒業生らに向けて「言っとくけど、諸君ね、中国の事を『シナ』って言はなきゃだめだよ」と発言したことに対して、『朝日新聞』などの偏向新聞が愚図愚図文句を言った。

 

支那といふ国名はあるが、「中國」といふ名称の國家は地上に存在しないし歴史的にもこれまで存在したことはない。「中國」とか「中華」は、正式な國名でも民族名でも地名でもなく、漢民族が抱いてゐる文化概念である。

 

また、「支那」とは、秦帝国(始皇帝が周および六国を滅ぼして天下を統一した王朝)の「秦(シン)」の音変化に由来し、サンスクリット語の仏典を漢訳した時から漢字では支那と書くようになったといふ。以来、支那人自身が用いてきた言葉である。だから諸外国も支那と呼称するやうになり、英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語などでも支那と呼んでゐる。英語ではChina(チャイナ)と呼称した。支那は歴史的名称であり、わが国も支那と呼称するやうになった。わが国が、支那を支那と呼ぶことは決して支那及び支那人を侮蔑することにはならない。

 

わが国は古代より「日本」が国号である。ところが、支那は「五千年の伝統」と言ふが、革命が繰り返されて、一つの王朝が継続して来なかった。従って一つの国号が続かなかった。すぐ思い浮かぶだけでも隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国と実に多く国名が変はった。支那だけが「中国」であるのではない。

 

わが日本も「中国」である。わが国には「葦原中国(あしはらなかつくに)」といふ国号がある。つまり、わが日本国も「中国」なのである。わが国の文化も中華文化である。従って、わが国民が支那のことを「中国」と呼ぶべきではないのである。

 

支那大陸に存在する国家のみに「中國」とか「中華」を名乗る資格があるのでは断じてない。「中国」といふ言葉は本来固有名詞ではない。そもそも支那だけが「中国」ではないし、漢民族だけが中華文化の民族なのでもない。

 

「中国といふ言葉はすでに定着してゐるのだから、中国を刺激してまで無理に支那と呼称することはない」といふ意見があるが間違ひである。これはわが国の尊厳性・文化の独自性の保持、突き詰めればわが国の独立に関はる問題である。

 

世界の先進国で支那を「中国」と呼んでゐる国は日本以外にない。どこの国も「支那(英語ではChina)」と呼んでゐる。わが国が支那のことを「中国」などと呼称する自体、「日本は中国の属国であり冊封国だ」と認めることになり、わが国にとってこれほどの屈辱はない。

 

さらに、わが国がとてつもない差別思想である「中華思想」を容認することとなり、「中華帝国主義」に侵略され併呑される原因となる。わが国及びわが国民が支那を「中国」と呼ぶことは、極論すればわが国及びわが国民が支那の支配下に日本が入ることを容認することになる。

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千駄木庵日乗九月二十三日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆の準備。

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2015年9月23日 (水)

『政治文化情報』平成二十七年十月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十七年十月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

 

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

 

購読料
年間 12000
半年 6000

 

平成二十七年十月号(平成二十六年九月二十日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

 

日本の伝統的倫理精神と儒教思想

 

 

明治天皇のご憂慮と『教育に関する勅語』の渙発

 

 

「君に忠・親に孝」の精神が日本人の倫理観の基本

絶對尊皇精神と一体の倫理観たる「清明心」

 

『教育に関する勅語』の基本精神は外来儒教思想ではない

 

共産支那においては、「君子」「士大夫」とは共産党員であり、「小人」とは一般人民である

 

 

「中國」の権力者は國家さへ私物化した

 

支那における女性蔑視と畸形文化

 

わが國は外来文化を柔軟に摂取し包摂してきたが、日本の独自性を喪失することはなかった

 

千駄木庵日乗

福島香織さん「習近平政権の文化ソフトパワー戦略の一環で中華文化が浸透。この結果、香港、台湾でアイデンティティの見直しが起こり、それが民主化運動に発展した」

 

佐々木良昭氏「日本人がどんどん小さくなってきている。内田良平・大川周明のような人物がいない。思想家・活動家がいない。内々で固まっている。世界を見る目無し」

 

この頃詠みし歌

 

 

 

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萬葉古代史研究会のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 十月十四日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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2015年9月22日 (火)

東洋文庫で開催されている『幕末展』参観記

今日参観した東洋文庫で開催されている『幕末展』は、「日本が大きな変革をとげようとしていた「幕末」。激動の時代のなか、国を想い奔走した人々の姿は、今なお私たちを魅了します。本展では、アヘン戦争、黒船来航、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟など、誰もが知る出来事や人物ゆかりの史料をとおして、幕末史をわかりやすくご了解いたします。歴史小説や時代劇でお馴染みの人たちは、どのような情報源から世界を知ったのでしょうか。現存する史料を目の前にすることで、きっと新たな楽しさや親しみが発見できるでしょう」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『アヘン戦争図』(E.ダンカン画 1843)、『南京条約図』(ジョン・ブラネット画 1846年ロンドン刊)、『ペリー久里浜上陸図』(嘉永六年1853年頃) 『安政の五カ国条約』(安政六年1859年刊)、『桜田門外襲撃之図』(月岡芳年画 明治七年1874)、『和英通韻伊呂波便覧』(明治元年1868年:坂本龍馬の志を受け継いだ海援隊出版の英語教本)、『海国兵談』(林子平著 寛政三年1791)、『甲子兵燹(せん)図』(前川五嶺著 明治二六年1893 禁門の変について記録した書物)、『靖献遺言』(浅見絅斎著 寛延元年1748年刊 諸葛孔明をはじめ支那の忠臣のことを記した書物。吉田松陰などに大きな影響を与えた)、『日本外史』(頼山陽著 嘉永元年1848刊 歴史書 本書ほど維新の志士を鼓舞した書物はないと言われる)、『言志四録』(佐藤一斎著 文化十年~嘉永六年人生の教訓書。西郷隆盛が流刑地・沖永良部島で愛読した本)等が展示されていた。

 

これらの本の中で小生が讀んだ本は恥ずかしながら『日本外史』のみである。『靖献遺言』『言志四録』は所蔵しているので是非読みたいと思う。

 

当時の第一次史料によって西欧列強による東亜侵略の歴史そしてわが国の外圧の危機の実態がよく認識できた。また、当時の國を憂える先覚者たちが如何なる書物を読み、何を学んだかも知ることが出来た。

 

また東洋文庫に所蔵されている文物の中から、『新井白石自筆文書』『イエズス会士通信日本年報』『甲骨卜辞片』『重要文化財・論語集解』『国宝・文選』『後陽成天皇勅版・日本書紀』『御成敗式目』『駿河版・群書治要』などが展示されていた。

 

 東洋文庫は東洋学の研究図書館で、三菱第三代当主岩崎久彌氏が大正十三年(1924)に設立した、東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つに数えられているという。その蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊であり、内訳は、漢籍40%、洋書30%、和書20%。アジアの歴史・文化研究に関するこれほどまとまったコレクションは、日本のみならず世界有数の存在という。

 

小生の住んでいる千駄木の隣町の本駒込にある。幼少の頃から都電や都バスでよくその前を通った。平成二十一年に建て替えられ、ミュージアムが出来、一般の人も資料を参観できるようになった。また閲覧室もある。奥は芝生になっており、レストランもある。

 

 

「幕末展」で展示されていた絵画です。

 

四宮 正貴さんの写真

四宮 正貴さんの写真

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千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、本駒込の東洋文庫参観。

帰宅後は、原稿執筆。

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『世界の若い議員と語り合うグローバル・オピニオン・サミット』における登壇者の発言

五月三十日に開催された『世界の若い議員と語り合うグローバル・オピニオン・サミット』における登壇者の発言は次の通り。

 

城内実外務副大臣(基調講演)「開発協力は安倍内閣の外交政策にとって重要。去年は、ODA六十周年。先人たちは、国際貢献は正しいとして始めた。日本はかつて最大の援助国。残念ながら今は第五位である。開発援助の国際環境は変化している。六十年間の日本の開発援助の特徴は自助努力の促進。日本人は勤勉。旺盛な経済成長を遂げて来た。物や金だけではなく、経験や知識を援助し、自助努力を助けている。ケニヤでの開発援助は教育の促進に貢献。格差を縮めて経済安定を目指す。世界中でインフラ援助を進めていく。アジア開発銀行とも協力。日本は災害が多い。同時に色々な教訓を学んだ。より強い地域として再生する。人間一人一人に眼を向けなければならない。教育レベルの向上を図る。安倍総理は女性の輝く社会を推進している。日本はG7議長国を来年引き継ぐ。教育環境問題克服のために協力していきたい。若い世代の多くが内向きになっているのが残念。出生率が下がり老齢者が増えている。アベノミックスの効果は上がっている」。

 

スリン・ピッスワン前ASEAN事務総長「人間の行動は歴史の側面を持ち、将来への目もある。開発経済協力をどうやったらいいか話し合って来た。一九五四年は、日本はまだ途上国だった。沢山の人が貧しかった。その時、人として色々なことが分かち合われて来た。日本は何時も是正しつつ世界で動いて来た。ルワンダで多くの人々が殺された。人道的介入ということが言われた。余計なお世話という気持ちになることもあるが、ヒューマンセキュリティの面で入って行った。援助が必要な難民が増えている。迫害から逃れてきた人々である。人が中心でなくてはいけない。人々が互いに助け合って生きなければならない」。

 

半田晴久氏(司会兼モデレーター・世界開発協力機構(WSD)総裁)「ODAは病気の手当てをしている。病気にならない国づくりは若者の力によって実現する。それが若者たちが担っている使命。アフリカの発展に最も大切なのは教育。日本近代の発展は江戸時代の教育が基礎となった。国力を強め、明治三十八年に日露戦争に勝利した、日本人の日常生活は常に研究し学ぶことを喜びとしてきた。これに発展の基。教育のレベルを整えることが重要」。

 

セイバー・チョードリーIPU(列国議会同盟)議長「すべてが人のためである」。

 

平沢勝栄衆議院議員(元外務委員長)「ODAはこれからも増やしていきたい。その国の将来の発展のためにやりたい。その国の国民が望んでいることをやる。内戦が起こっているところへは派遣しない。停戦した所へは国連の要請があれば派遣し支援する。井戸を掘るのに百五十万円出したら現地の人々はどれだけ助かるか分からない。警察の鑑識技術・交通取締り技術を外国に供与する。警察運営のノウハウ・交番をODAで輸出。『交番』が世界の言葉になっている。交番が地域犯罪を防止する。これが地域の治安維持の原点。メキシコ・アメリカの一部・シンガポールに輸出した。シンガポールの犯罪が低下した」。

 

原口一博民主党副代表「人間の安全保障のために様々な国に教育をはじめとする支援をしていく。民族・宗教・国家の立場を超えて心の平和を確立していく」。

 

イアン・ケネディ氏(元駐日ニュージーランド大使)「活力を吹き込むのが民間。人と人との接触があればあるほど良い。みんな平和と繁栄が好き。日本の教育体制は強い。人と人とのコンタクトが大事」。

 

マニー・フン氏(カンボジア国会議員)「ODAは様々なタイプがある。アジアとラテンアメリカとでは違った形になる。日本の皆様の支援なくしてカンボジアはここまで歩いてくることは出来なかった。将来は若い人にかかっている。若い国会議員の役割は重い。民主主義と平和は一緒に語られねばならない」。

 

グレイフォード・モンド氏(ザンビア国会議員)「ODAの戦略的プログラムが必要。若い人の十%して農業を選ばない。農業にはエネルギーのある人が従事すべし」。

 

舛添要一東京都知事「人づくりが一番大切。日本は何故こんなに豊かに国になったのか。教育が良かったからしっかり仕事ができる人がいる。江戸時代の農業水準・教育水準がきわめて高かった。欧州よりもはるかに識字率が高かった。都市と都市との助け合いも大切。東京都はソウル・北京・パリ・ニューヨーク・ベルリン・カイロ・ローマと姉妹都市。これまでの都知事は姉妹都市を訪問していない。都市と都市との交流のドアを開けて、安倍総理と習近平主席との会談の扉を開く役割が出来た。韓国に道路陥没防止技術の供与を行った。中国には空気をきれいにする技術を供与。色々な技術も知恵も東京都にはある」。

 

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千駄木庵日乗九月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。施設に暮らしている人々がピアノの伴奏で「故郷」「荒城の月」「仰げば尊し」「お手てつないで」「里の秋」「紅葉」「みかんの花咲く頃」を歌った。私も参加した。「故郷」を母と一緒に歌うといつも胸が迫る。ある女性の方は、「私の故郷は川が流れていたが、今は高速道路になってしまった」と言われた。「故郷はどちらですか」と尋ねると、「築地です」と言われた。新橋演舞場の近くに生まれたという。東京育ちの人は東京の街が故郷なのである。小生もまさに、今住んでいる千駄木が故郷である。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事、そして原稿執筆。

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2015年9月21日 (月)

「現行占領憲法」の「天皇条項」は日本の國柄を隠蔽し、天皇の御本質を正しく表現していない

 何故、天皇は神聖なる御存在であるのか、それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はないのである。このことをまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはないのである。

 

 したがって『現行占領憲法』第一章の「天皇の地位は日本國民の総意に基づく」という条項は天皇の御本質を正しく表現していない。

 

 「神話の精神」と言うと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がいる。しかし、神話は荒唐無稽な伝承ではない。「神話」において語られているのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実なのである。「神話」には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られているのである。それは、天地自然・生きとし生けるもの一切の中に、神の命を見るという信仰精神である。

 

 そうした「日本神話の精神」は、は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持っている。

 

 しかも日本民族の「神話の精神」はただ単に『古事記』『日本書紀』といった文献だけでなく、「天皇の祭祀」という「生きた行事」によって今日まで継承され語られているのである。「神話」には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の伝統的思想精神の結晶である「神話」への回帰こそが、現代の混迷を打開する方途である。

 

 日本國體とは、<天皇を祭祀主とする精神的信仰的生命的共同体>のことである。決して単なる「國家の体制」のことではない。「体制」とは、ものの組み立てられた状態という意であり、単に組織、機構、機関、組織、システムのことである。したがって、「國家の体制」とは、無機的な権力機構としての國家組織のあり方即ち統治権力の運用する仕方に関する形式のことである。これは「政体」と表現すべきであって、伝統的な日本國體を「國家の体制」と表現する間は誤りである。

 

 國體とは、日本國の國柄・國の本質のことを言う。三潴信吾氏は、「國體とは、各國家の國柄、品格のことをいふのであって、その國の成立事情によって定まる。」「我が國にあっては、皇祖を日の神(天照大神)と仰ぎ、その和魂を継承されつつ、一切の天神地祇、八百萬神々を祭り、これといよいよ一心同体たらせ給ふ天皇が、御代々を通じて御一人(一系)として天下を治ろしめすといふ國體を保有してきた」「政体とは、政治権力の組織制度のことを云ふ。」(『國體と政体について』)と述べられている。

 

 小森義峯氏は、「國體とは、平たくいえば、『くにがら』という意味である。その國をその國たらしめている、その國の根本的性格をいう。」「皇祖天照大神と霊肉共に『萬世一系の天皇』を日本國の最高の権威(権力ではない)の座に頂き、君民一体の姿で民族の歴史を展開してきた、という点に日本の國柄の最大の特質がある。」(『正統憲法復元改正への道標』)と述べておられる。

 

 「國體とは戦前の天皇主権の國家体制を表す言葉で、治安維持法のキーワードだった」という主張があるが、全く間違っている。『帝國憲法』の何処にも「天皇に主権がある」などとは書かれていない。そもそも國家の意思を最終的に決定する権力という意味での「主権」という「概念」と「言葉」は、天皇中心の神の國である日本には全くそぐわないのである。 

 

 日本天皇と日本國民は相対立する権力関係にあるのではない。天皇と國民とは、天皇が民の平安と五穀の豊饒そして世界の平和を祈って行われる祭祀を基とした信仰的一体関係にある。

 

 「天皇制と民主主義は矛盾する。歴史の進歩にしたがって天皇制はなくなるし、なくすべきだ」と考える人がいる。こうした考え方は、悠久の歴史を有する日本國を否定し破壊する邪悪なる思想である。そして、こうした思想に妥協して、いわゆる「民主主義」といわゆる「天皇制」を何とか矛盾なく結合させようとする考え方がある。「現行占領憲法」の「天皇条項」はそうした考え方によって書かれていると言えるのかもしれない。

 

 日本天皇の国家統治は、決して独裁政治ではない。日本神話に記されている須佐之男命に関する記事を拝して明らかな通り、何事につけても決して専断で決めたのではない。天の安河原にぞくぞくと八百萬の神々が集まられて相談して物事を決めたのである。

 聖徳太子の『十七条憲法』にも「独り断(さだ)むべからず」「必ず衆とともに論(あげつ)らふべし」とあり、『大化の改新』の「詔勅」にも「独り制(おさ)むべからず、かならず臣の翼(たすけ)をまつ」とある。このように天皇のまつりごとは、きわめてデモクラチックであって独裁を排撃したものである。國民は、天皇及び皇室に対し奉り、畏敬はしたが恐怖することはなかったのである。

 

 「占領憲法」の「戦後民主主義」(欧米民主主義思想と言い換えてもよい)なるものが如何に日本國を堕落させ破壊したかは、今日の日本の現状を見れば火を見るよりも明らかである。

 

 我々は日本を亡國の淵から救い、立て直すために、「戦後民主主義」を根底から否定しなければならない。そして、「戦後民主主義」の否定は、日本の伝統的國家観・政治思想の復興によって行われるのである。

 

 わが日本は建國以来、民が「主」の國ではない。天皇が「主」の國である。これが萬古不易のわが日本國體である。ゆえに、日本國は決して占領軍や共産主義勢力が目指した「民主國家」になってはならない。日本國は天皇國である。「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)は決して善でも正義でも真理でもない。日本にとって百害あって一利無き亡國思想である。それは「戦後民主主義」に支配され七十年を閲したわが日本の現状を見れば明らかである。

 

 従って「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)と「天皇制」との結合などということは全く必要のないことであるし、また不可能なことなのである。

 

 西洋法思想・欧米國家観に貫かれた『現行占領憲法』の「(天皇の地位は注)國民の総意に基づく」という条項は、日本天皇の御本質及び日本國體の本質を正しく表現していない。そればかりではない。この規定は天皇及び皇室の尊厳性・神聖性を冒し隠蔽する元凶となっている。

 

 わが國日本及び日本國民は神聖君主・日本天皇にお護り頂いているのである。ゆえに憲法において、天皇は日本國の統治者であらせられ、神聖不可侵の御存在であられることを明確に規定すべきである。『大日本帝國憲法』の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文の精神は全く正しいのである。

            

 「現行占領憲法」の「天皇条項」が、日本の國柄を隠蔽し天皇の御本質を正しく表現していないから、今日の日本は安定を欠いているのである。日本とは國の成り立ち・歴史伝統が全く異なる欧米の國家論に基づく「國民主權論」「契約國家論」は、日本國體とは絶対に相容れない。現行憲法の「天皇条項」は根本的に是正されなければならない。

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千駄木庵日乗九月二十日

午前は、諸雑務。

午後は、北区にある菩提寺に参詣。四宮家の墓所を掃苔。ご先祖の御霊に拝礼、ご冥福とご加護を祈る。

帰途、谷中の理髪店に寄る。谷中の街を散策して帰宅。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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2015年9月20日 (日)

中國共産党による一党独裁政治は、古代支那以来の専制政治の継承である

「儒教」の徹底した身分差別思想がわが國體とは相容れないことは、儒教思想に出てくる「君子」「小人」といふ言葉を、日本人が全く読み替へてしまったことによっても明白である。

 

日本の儒教では「君子」とは、正しい人・徳の高い人といふ意味として来た。しかし、支那における「君子」の原義は、朝廷の會議に参列できる貴族たちの総称であり、「身分の高い人」「支配者」「官僚」「貴族」のことである。その原義が延長して「貴族にふさはしい教養・品位」のことをさすようになったといふ。一方、「君子」の対義語である「小人」とは、日本儒教では、教養や道徳心に欠ける人間を意味する。しかし、支那における「小人」の原義は、単に身分の低い人間・被支配者のことである。

 

今日の共産支那においては、「君子」「士大夫」とは共産党員であり、「小人」とは一般人民である。共産党員が権力者・支配者として人民の上に立つことが当たり前のこととされるのは、儒教と共産主義独裁思想が相似であるからである。

 

支那の『共産革命』は為政者が変はっただけである。國民党政権を打倒した毛沢東といふ「共産支那」初代皇帝及びその配下の官僚による独裁専制政治体制が現出しただけである。二代目の皇帝が鄧小平であり、今日の皇帝は習近平である。

 

「中國共産党による一党独裁政治」は、古代支那以来の専制政治の継承である。中國共産党員による行政機構・企業幹部の独占は、支那古代以来の「士大夫」「君子」による「小人」=一般人民支配の継承である。「共産革命」によって全人民が平等になったわけで決してない。「改革開放」によって豊かになったと言っても、「中國人民」全体が豊かになったのではなく、現代における「君子」「士大夫」=「中國共産党員」だけが豊かになったのである。

 

今年五月に開催されたある講演会で講演した共産支那の学者は、「中國人が最も望んだのは平等な価値観。國内での平等を求めた。平等主義と自由主義の二つの価値観で、平等主義が自由主義を圧倒した。しかし、社会主義中國は平等を実現しなかった。紅五類・黒五類という差別があった。全人口の一〇%の人々が三〇年前より生活は良くなったが、格差の縮小ではない。だから奪われたという意識が広がる。貧富の差が広がり、若者は希望を持てない。未来がない。農村地方の戸籍であるだけで既に負けている。金持ちを憎んでいる。…中國はハード面では先進國になった。ソフト面ではそうではない。村山富市元首相が引退後何の特権もない生活をしているのに驚いた。不平等は内部の分裂をもたらす。日本は元首相も停年になればただの人。中國は不平等が深刻。怨恨・怨み・妬みが蔓延している。社会的公正・正義は重要。怨恨・嫉妬を、正義を求めるエネルギーにすべし。『党は法より上か、法より下かと』という議論が中國にはある。日本は天皇も法に従う」と語った。

 

そして、質疑応答の時に、支那人留学生から「日本より中國の方が軍國主義。日本より中國の方が格差社会」との意見が出された。

 

支那は易姓革命が繰り返された國である。日本のように建國以来一系の天子が國を統治してきた國ではない。しかも支那における「革命」とは、西欧の「革命」とは全くその性格を異にする。体制の根本的変革ではなく、王朝が交代しただけである。だから、何回革命を行なっても、革命前の体制に戻ってしまふ。といふよりも基本的に何も変はらないのである。

 

そして支那は、今日に至るまで「國政選挙」「國民の代表者を國民全体が自由選挙によって選ぶ」といふ事を経験したことがない。

 

邱永漢氏は、「中國國家の本質は、秦の始皇帝以来、何千年にもわたる官僚専制國家というところにある」と言ってゐたといふ。

 

近代になって孫文が主導した辛亥革命、毛沢東が主導した共産革命が行はれたが、結局革命後何年か経つと元の木阿弥になってしまった。権力者は腐敗堕落を極め圧倒的多数の國民は貧困に喘ぎ、政治的自由を獲得することはできない。そして、混乱と闘争が繰り返される。

 

共産革命や文化大革命は、萬人平等の世の中にするといふ事が目的だったはずだか、そんなことはどこかへ吹っ飛んでしまってゐる。そして一部の権力者・官僚による権力にものを言はせた不正蓄財が行はれてゐる。彼らは汚職と私腹を肥やすことに何の罪の意識を感じない。

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千駄木庵日乗九月十九日

午前は、諸雑務、『政治文化情報』発送作業。

午後は、作業完了。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2015年9月19日 (土)

「安保法制」に反対する輩は、その意図はどうあれ、結果的に日本を共産支那の属国にしようとしているのだ

最近お会いしたある有識者の方か聞いた話を記します。

 

「中華帝国主義は海に進出してきている。日本は史上最大の危機に直面している『安保法制』は日本国民が一体となって推進しなければならない。それなのに民主党は反対している。日本国を亡ぼそうとしているとしか思えない。

 

専守防衛では駄目。集団的自衛権を行使すべし。アメリカとの連携をより強化すべし。近代になって栄光の地位から転落した中国は、中華帝国を再建しようとしている。

 

共産中国は、チベット・朝鮮を侵略し、ベトナム、ソ連、インドと戦争した。しかし領土拡大には失敗した。鄧小平は、経済を成長させて軍事力を強化した。西側から資金と技術をかすめ取った。一番騙されたのは日本。中国は第二の経済大国になり、軍事大国になった。日本のお蔭で経済発展したのに、日本に侵略の牙を向けて来た。天安門事件以来の、国民の共産党独裁体制への批判をかわすために、反日を煽った。

 

軍事面では、大陸志向から海洋進出に切り替えた。習近平政権は海洋進出の集大成を行おうとしている。これは華夷秩序の海洋版である。こうしたことに日本はどう対処するのか。このままでは日本は中国の属国になる。日本はアメリカとの軍事同盟を強化し、中国の侵略の危機をさらされている東南アジア諸国と手を結んで、中国の野望を粉砕すべきである。

 

北朝鮮と共産中国の体質は同じである。権力闘争に負けると、銃殺か終身刑。

 

中国経済はおかしくなっている。中国は内部崩壊する可能性はあるが、その前に海外に向かって暴発する危険が高い。ロシアは本心では中国を嫌っている。ロシアの収入源であるエネルギーの価格がどんどん落ちている」。

 

同感である。孫文は、大正十三年(一九二四)十一月二十八日、神戸高等女学校において神戸商業会議所外五団体に対して「大亜細亜問題」と題して行った講演で、「貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」と語った。


 しかし、今日アジアで覇道精神を実践し、軍事的拡張と侵略を行ってゐるのは共産支那である。さらに、五族共和どころか各民族を抑圧してゐるのは漢民族である。今日の共産支那には東洋王道精神もないし、仁義も道徳もない。

 

今日、東アジアにおける最大の覇道国家・侵略国家は支那である。清帝国は、東トルキスタン(新疆ウイグル)、チベットなど周辺諸民族を侵略、征服、蹂躙した。「中華人民共和国」=共産支那は、清帝国が侵略によって獲得した領土をそのまま継承するのみならず、さらに領土拡大とアジア支配を目論んでいる。共産支那建国以来、「朝鮮戦争」・「ベトナム戦争」・「中印戦争」・「チベット侵略」・「中ソ国境紛争」・「中越戦争」など十七回も対外戦争あるいは武力行使を行った。チベット・ウイグル・内モンゴルを植民地支配してゐる。

 

今日、支那を武力攻撃しようとしている国などは存在しないのに、共産支那は軍拡を続けている。日本及び台湾そしてアジア全域への侵略・覇権確立を目論んでいるからである。

 

共産支那帝国は一九九二年、「中華人民共和国領海法及び接続水域法」を制定し、東シナ海の尖閣諸島から南シナ海の島々まですべて支那の領海だと勝手に決めてしまった。日本、韓国、台湾、アセアン諸国と係争中の東シナ海、南シナ海の大陸棚、西沙諸島、南沙諸島の領有を、一方的に宣言した。とりわけ許し難いのは、わが国固有の領土たる尖閣諸島の領有をも一方的に宣言したことだ。

 

かつて共産支那は理不尽にも、「ベトナムは小覇権主義国家だから懲罰する」とか言って、武力侵攻を行った。それと同じように、状況が整えば、「台湾を取り戻す」「解放する」と言って台湾に、「尖閣及び琉球を解放する」と言ってわが国に、軍事侵攻を行う危険性がある。

 

「安保法制」に反対する輩は、その意図はどうあれ、結果的に日本を共産支那の属国にしようとしているのだ。

 

わが国は今日、中華帝國主義による侵略の危機、ロシアによる北方領土=南樺太全千島不当占拠、北朝鮮によるミサイル攻撃の危機とわが國民の拉致、韓國による竹島不当占拠、という多くの外圧に見舞われている。わが日本は「元寇」「白村江の戦」以来の未曽有の国難にある。今こそわが國民全体が、先人たちの愛国精神を正しく継承し、大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。我が国は軍事力をもっと強化すべきである。それが日本と東アジアの平和を築く唯一の道である。

 

 

 

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千駄木庵日乗九月十八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備、資料の整理、原稿執筆など。

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2015年9月18日 (金)

昨日の強行採決とデモについて

偏向メディアは、国会前のデモのことを大仰に報道していますが、大したことはないと思います。

 

私は第一次安保の時は中学二年生でした。デモ隊は国会に乱入した。学校の先生は、授業の時を声を嗄らしていました。「昨日デモに行って嗄れてしまった」と言っていました。国会の正門を乗り越えようとしている学生に警察が放水をしていました。私は子供心に「早く落ちろと」叫んでいました。その頃から左翼は嫌いだったのです。デモ隊が実際に国会の乱入し、死者まで出たのです。

 

当時、警備にあたっていた警察官だった方に後年お話を伺ったことがあります。その人は、「あの時は、国会の面会所の地下室で仮眠をとったが、ここが襲われたらどうしよう、という不安があった」と言っていました。

 

国会乱闘でも然りです。第一次安保の時の清瀬一郎衆院議長は本会議での採決を阻止しようとする野党議員によって首を絞められまた。また足を骨折するという怪我を負いました。その時、昨日の佐藤氏のように必死に清瀬議長を守っていたのが金丸信氏と長谷川峻氏でした。今回のように、野党筆頭理事の北澤元防衛相と鴻池委員長が背中を叩き合うなどということはあり得ませんでした。北沢氏は元自民党です。羽田孜氏が離党したのでついていっただけです。

 

昭和四十四年の「10.21国際反戦デー闘争」では、左翼が騒乱を起こし、新宿を中心に各地で機動隊と衝突し、逮捕者は1594人に上りました。

 

第一次安保、第二次安保共に、終電になったら帰ってしまうという今回のデモとは全く異なります。

 

今回の一連のことで、国賊・売国奴があぶり出されました。デモに参加し演説した芸能人・学者・文化人と言われる輩、『赤旗日曜版』にまで登場した元自民党幹部。こういう連中に対しては今後厳しく糾弾して行かねばならないと思います。

 

ともかく「九条を守れ」とか「戦争法案」などと言っている輩こそ、侵略戦争を誘発し、国を亡ぼす輩なのであります。国会前のデモの人数と世論調査の結果で法案の是非を決めるのなら、衆参両院は要りません。それこそ議会制民主主義の否定であり、左翼が良く言う『憲法違反』です。『憲法違反だ』『憲法を守れ』と言うのは『国を滅ぼせ』『日本は支那の属国になれ』というのと同義語であります。

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國家の危機の時にこそ尊皇思想が興起し神國思想が勃興する

大化改新と明治維新は共通する面が多い。この二つの変革で行はれたのは、外圧の排除であり、政治體制・法體制の整備であり、外國文明・文化の輸入である。大化改新後の律令國家體制は明治維新後の明治憲法體制と相似である。

 

中村元氏は次のごとくに論じてゐる。「國家至上主義(ultra nationalism)は決して明治維新以後のある時期になって突然あらわれたものではない。その萌芽はきわめて古い時代から存する。…『大日本』という語は、傳教大師がしばしば用いているが、おそらく『大日本』という語の用いられた最初であろう。…日本の國土がシナに比してはるかに狭小であり、物質的な財力もシナよりはるかに劣っていることを、かれは熟知していた。シナに留學していたかれは、この事実を当時の何人よりも痛感していたはずである。それにもかかわらず、なお『大日本』と称したわけで、かれが日本を大乗相応の地と信じていたからである。」「日本が神國であるということは、謡曲においても自明のこととして考えられている。日蓮はこのような見解をはっきりと採用している。『日本國は神國なり』(『月水御書』)『夫れ此國は神國なり。神は非礼を稟(う)けたまはず』(『与北条時宗書』)などという。」「日蓮によれば、宗教そのものは國家に奉仕すべきものである。『日本國一萬三千三十七の寺、並に三千一百三十二の神は、國家安穏の為に崇められて候』(『諌暁八幡抄』)…日蓮が問題としていたのは、どこまでも日本の問題であった。」(『日本人の思惟方法』)と。

 

神國思想は、内憂外患交々来たるといふ時代であった中世において謳歌されたが、その淵源は、日本神話の天地生成神話にあることは言ふまでもない。

 

「神國」という語が文献にあらはれたのは、『日本書紀』の「神功皇后の巻」に新羅の王が日本軍を迎へて「吾聞東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。其國神兵也。」と述べたと書かれてゐるのが最初である。

 

『平家物語』(鎌倉前期の軍記物語)には、「さすが我朝は辺地粟散の地の境(註・辺鄙な所にある粟を散らしたやうな小國といふ意)とは申しながら天照大神の御子孫、國の主とし…猥(みだのがは)しく法皇を傾け参らせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非礼を受け給はず。」と書かれてゐる。

 

日本國が天照大御神の御子孫が統治される神國であるといふ思想は、武家政権が確立した鎌倉時代においても変る事なく継承されてゐるのである。『平家物語』は琵琶法師によって広く世間に広められた物語であり、天皇を君主と仰ぐ神國思想は、当時の國民の共通の認識であったと考へられる。

 

鎌倉時代中期以後の民衆の意識が反映されているといふ「謡曲」には、天皇を君主と仰ぐ日本國の理想と傳統が濃厚に示されてゐる。『弓八幡』といふ作品では「君が代は千代に八千代にさざれ石の、巖となりて苔のむす、…君安全に民敦く、関の戸ざしもささざりき」とあり、天皇が統治する日本國の平和と開放性を称へてゐる。

 

和辻哲郎氏は、「関の戸を閉ざさないということは、天皇の統治のもとに全國が統一され、どこにも武力による対立がないことを指し示す」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。この時代において、天皇を中心とする統一國家意識が正しく確立されてゐたのである。

 

そして、蒙古襲来により日本國民はナショナリズムを燃え立たせ神國意識を益々強固ものとした。

 

「西の海寄せくる波も心せよ神の守れるやまと島根ぞ」(春日若宮社の神職・中臣祐春の歌。『異國のこと聞こえ侍るに神國たのもしくて』との詞書がある。日本國が神國であるとの信念を吐露した歌)

 

「勅として祈るしるしの神風に寄せ来る浪ぞかつくだけつる」(藤原定家の孫・藤原為氏が亀山上皇の勅使として蒙古撃退・敵國降伏を祈願するために伊勢にお参りした時の歌)

 

といふ歌が生まれた。

 

禅宗の僧侶・宏覚も蒙古襲来といふ國難の時期にあって六十三日間蒙古撃退の祈願を行ひその祈願文の最後には、

 

「末の世の末の末まで我國はよろづの國にすぐれたる國」

といふ歌を記した。

 

かうしたナショナリズムの勃興がやがて建武中興へとつながっていく。このやうに日本民族は古代から・中古・中世・近世へと脈々と神國思想及びそれと一體のものとしての尊皇心を継承して来たのである。

 

『神皇正統記』(南北朝時代の史論。北畠親房著。延元四年成立)の冒頭には、「大日本者神國(おほやまとはかみのくに)也、天祖(あまつみおや)ハジメテ基(もとゐ)ヲヒラキ、日神(ひのかみ)ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝(いてう)ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云(いふ)也。」とある。

この文章に「わが國は、神が護り給ふ國であるだけでなく、天照大御神の生みの御子が統治し給ふ國である」といふわが國の傳統的國家観・天皇観が端的に示されてゐる。國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し、國難の時にこそ神國思想が勃興するのである。今日のおいてもさうであるし、さうであらねばならない。

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千駄木庵日乗九月十七日

朝、諸雑務。

午前十一時より、新宿にて、石平氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

この後、湯島天満宮に参拝。宝物殿にて開催中の「利休を超えた織部とはー?」展参観。

帰宅後は、『政治文化情報』発送の準備など。

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2015年9月16日 (水)

『五箇条のご誓文』について

「天地の公道」とはわが國古来より継承して来た一君萬民の理想政治の道

 

『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐるのは、封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものであるといふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

 

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。議會政治・公議を竭す政治は、「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統である。

 

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

 

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

 

「旧来の陋習」とは何か

 

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは身分差別である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

 

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

 

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

 

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

 

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

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千駄木庵日乗九月十六日

午前は、諸雑務。

午後二時半より開かれた「大行社幹部会」にて、顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、明日のインタビューの準備、原稿執筆の準備など。

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『大東亜共同宣言』に謳はれた日本の戦争理念

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合國軍を撃ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド國民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも、日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。

 

 日本の指導者の中には、戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いて置く方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため、日本は昭和十八年、ビルマ、フィリピンを独立させ、また、自由インド仮政府を承認した。

 

 日本はアジア諸國家に大東亜戦争への協力を求め、あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸國代表(日本・中華民國・満州國・タイ・フィリピン・ビルマの六カ國および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜會議」を開催した。

 

會議では、各國の自主独立、各國の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたふ『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各國代表は、大日本帝國の東條英機総理、満州國の張景恵総理、中華民國南京政府の汪精衛行政院長、タイ國のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合國の『大西洋憲章』に對抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各國が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス」

 

大東亜戦争によって、東南アジアの國々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸國が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに對し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。

 

 インドでは,日本軍と協力したインド國民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに對して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

 

かうした事實は、大東亜戦争においてわが國が戦争目的としたことが實現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。

 

深田佑介氏は、「極東國際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義對ファシズム』という對立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜會議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した國はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に對して範を示してやったりした諸國民そのものから日本ほど誤解を受けている國はない』(『ビルマの夜明け』)と述べる。この誤解している諸國民の中に『日本國民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に與えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く傳えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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2015年9月15日 (火)

千駄木庵日乗九月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日のスピーチの準備、原稿執筆の準備など。

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武士道精神は櫻の心であり大和魂・大和心と一體である

日本人は、櫻に滅びの美しさを見た。櫻はすぐに散ってしまふから、人はなほさらその美しさを感ずるのである。櫻が咲いてゐる姿にすぐに散ってしまふ影を感じる。櫻は、「三日見ぬ間の櫻かな」といふ言葉があるやうに他の花々よりも咲いてゐる時間が非常に短い。また、雨や風に当たればすぐに散ってしまふ。

 

保田與重郎氏は「しきしまの大和心を人問はばと歌はれたやうに、花の美のいのちは、朝日のさしそめる瞬間に、その永遠に豊かな瞬間に、終はるものといふ。日本の心をそれに例へたのは、さすがに千古の名歌を、永く國民のすべてに吟唱される所以であった」(昭和十四年・『河原操子』)と論じておられる。

 

 日本人は、未練がましく現世の命に戀々としないといふ精神を本来的に持ってゐる。この心は、「七生報國」の楠公精神そして神風特別攻撃隊の「散華の精神」に継承されてきた。

 

 日本人が最も美しいと感じる窮極的なものは、花そのものや花の命と共に、花の命が開き且つ散る「時」なのである。

 

 日本人は、花とは見事に咲き潔く散って行くべきであると考へた。人間もまたさうあらねばならないとした。この世に戀々として生き延びるのはそれ自體が汚れた行為であり、潔くないし、醜いと考へた。

 

 しかし、櫻の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまへば、それで消滅してしまふのではない。櫻の花は散ってしまふが、来年の春になると必ずまた美しく咲く。つまり、花が散るといふのは花の命が消滅したのではなく、また来年の春に甦る。花の命は永遠なのである。人間の肉體も櫻の花と同じく一度滅びても人の命は永遠であり必ず甦る。ただ現世における命には限りがあるといふことなのである。

 

滅亡の奥に永遠の命がある。さう日本人は信じた。それが楠正成公の「七生報國」(七度生まれて國に報いる)の精神である。 

 

新渡戸稲造氏は、本居宣長の「しきしまの」の歌を引用して、武士道および大和魂について次のやうに論じてゐる。「大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野生の産である。それはわが國の土地に固有である。……その本質においてはあくまでもわが風土に固有なる自発的発生である。……櫻はその美の高雅優麗がわが國民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花も及ぶところではない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分かつことをえない。薔薇は櫻の単純さを欠いている。……薔薇が甘美の下に刺を隠せること、その生命に執着すること強靱にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽つるを選び、あたかも死を嫌い恐るるがごとくであること、その華美なる色彩、濃厚なる香気ーーすべてこれらは櫻と著しく異なる特質である。わが櫻はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何度なりとも生を棄て、その色は華美ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない。……美しくして散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂のタイプであるのか。」(『武士道』)。

 

 日本人は櫻を好む。西洋人は薔薇を好む。この嗜好の違ひは深い意味を持つ。薔薇は人々が丹精を込めて養育し咲かせ、薔薇の美しさは重厚である。少しでも長い時間咲かせておく花である。したがって薔薇の花はその寿命が一日でも長いことが願はれる。言ってみれば未練がましい花である。そして萎れた姿は醜い。

 

 一方、櫻は本来的には野性の花であり、櫻の美しさははかない。人間が毎日毎日手を加へ養分を与へることはしない。咲いてゐる時間も短い。櫻はぱっと咲いてぱっと散るところに特質がある。言ってみれば潔い花である。散華の美と言はれる如く散り行く姿も美しい。

 

 この違ひは欧米人の気質と日本人の気質の違ひと相似である。武士道精神はまさに櫻の心であり大和魂・大和心と一體である。

 

本居宣長は、朝日に映える山櫻花を理屈なしに美しいと感じた純粋な感受性を、神の生みたまひし大和國に生まれた日本人のみが持つ即ち心=「大和心」であると歌った。理屈なしに素直に國のため大君のために命を捨てるといふ純粋なる精神もまた「大和心」なのである。そしてそれが「花は櫻木、人は武士」と歌はれるやうに「日本武士道精神」なのである。かかる心は、近代によって発生し國民に教育されたのではない。神代の昔からわが國にある心である。

 

日本人が櫻の花の潔さを好むことは、神話の世界にも記されてゐる。大山津見の神(山の神)は、天孫・邇邇藝命に、石長姫(いはながひめ・醜い女性を岩に譬へた。また、岩が長く変らずにある、すなはち長命を譬へた御名)と木花佐久夜姫(このはなさくやひめ・美しい女性を花に譬へた。また、木の花が咲きそして散ること、すなはち寿命には限りがあることに譬へた御名)といふ二人の姫を妃として献上しやうとした時、邇邇藝命は木花佐久夜姫を選ばれた。

 

 邇邇藝命が木花佐久夜姫を妃に選ばれたことにより、「天つ子(邇邇藝命の御事)の御壽(みいのち)は、木の花のあまひのみましまさむとす」(木の花のようにはかなくおられるでせう)」といふことになり、邇邇藝命だけでなく「天皇たちの御命長くまさざるなり」(御歴代の天皇の御命は長くゐらっしゃらないのである)と、『古事記』に記されてゐる。この神話は、山にある木の花と岩とになぞらへて、人の美醜と生命の長短とを美しく物語った神話である。日本人が、未練がましく現世の命に戀々としないといふ精神を尊ぶことを示してゐる。

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千駄木庵日乗九月十四日

午前は、諸雑務。『伝統と革新』編集の仕事。

午後からは、在宅して、書状執筆、資料の整理、原稿執筆の準備など。

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2015年9月14日 (月)

天照大御神はなにゆへ伊勢の地に祭られたのか

 天照大御神は、丹波・紀伊・吉備などの各地をお巡りになった後、第十一代・垂仁天皇二十六年の九月、皇女・倭姫命が御杖代となられ、伊勢の五十鈴川上の現在地に祭られるやうになった。

 

 宮中には、宮中用の御鏡が鋳造せられ、それを御神體として賢所・内侍所と称される神殿に奉斎され、今日に至る。

 

天照大御神はなにゆへ伊勢の地に祭られたのであらうか。それは、伊勢の地が、大和朝廷の都があった大和盆地の東方にあたり、「日出づる地」であったからであり、大和國の日の神信仰の聖地である笠縫邑から東方に直線で結ばれる地であるからあらう。

 

伊勢の地は、まさしく日の神を祭祀するにふさはしい地であった。事実、伊勢・志摩地方には古くから太陽神祭祀を行っていた形跡があるといふ。

 

『日本書紀』には、天照大御神御自ら、「是の神風の伊勢國は、常世(とこよ)の浪の重波(しきなみ)歸(よ)する國なり。傍國(かたくに)の可怜(うま)し國なり。是の國に居らむと欲(おも)ふ」(この神風の伊勢の國は、永遠の世からの波がしきりに打ち寄せる國である。大和の脇にある麗しい國である。この國に居りたいと思ふ)と宣言されたと記されてゐる。

 

東から太陽が昇る國であると共に、常世の國から波がしきりに打ち寄せる國である事を喜んでをられる。わが國古代人は、海の彼方への憧れが強かった。常世とは、海の彼方にある永遠の國のことで、龍宮傳説につながる。

 

日本人は太古から自分が今生きてゐる世界とは異なる世界すなはち異郷への憧れの心・「他界」へのロマン精神を持ってゐた。日本人は、遠くはるかな水平線の彼方に聖なる神々の世界があると信じた。その世界を「常世」「妣(はは)の國」といふ。そこは不老長寿の世界であり、創造の本源世界と信じられた。龍宮界傳説はその典型である。「海」は「生み」に通じるのである。

 

天照大御神の伊勢鎮座の傳承には、日本人が古来から持ってゐる「常世」「妣の國」=生命の本源への回帰・永遠の世界への憧れの思ひが自然に表白されてゐるのである。

 

伊勢の神宮は、日本傳統信仰の最尊最貴の聖地であり、日本傳統精神がそこに現実のものとして顕現している。日本傳統精神とはいかなるものかを実感するには、伊勢の神宮に来て神を拝ろがめば良いのである。理論理屈はいらない。日本傳統信仰が自然に伊勢の神宮といふ聖地と聖なる建物を生んだのである。それは太陽神への無上の信仰であり、皇室への限りなき尊崇の情であり、稲への限りない感謝の心である。

 

天武天皇は、壬申の乱の時、朝明郡迹太川(とほかわ)で伊勢の神宮を遥拝された。柿本人麻呂の高市皇子への挽歌では、伊勢の神風を称へてゐる。

 

西行(平安末期・鎌倉初期の歌人、僧)は、治承四年(一一八〇)六十三歳のときに三十年ほど過ごした高野山から伊勢に移り、伊勢の神宮で

「何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるゝ」

と詠んだ。

 

葦津珍彦氏は、「伊勢に鎮まります天照大御神の神宮は、荘厳にして高く貴い。しかもいささかの人工的な飾り気がなく、誠のおごそかさを感じさせるが威圧感もない。ただ清らかで貴い。この清らかさ貴さは、天照大御神を皇祖神として信奉される天皇の御信仰の気風の自らなる流露でもあるかと察せられてありがたい。」(『皇祖天照大御神』)と論じてゐる。

 

昭和四十二年の秋、イギリスの歴史學者、アーノルド・J・トインビーが夫人と共に参宮された時、内宮神楽殿の休憩室で「芳名録」に記帳し、

「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底をなすものを感じます」

と書いた。

 

人類は様々の宗教を信じてゐる。そしてそれらの宗教はそれぞれ特色があり、人類に救ひと安穏をもたらしてゐる。しかし半面、人類の歴史は宗教戦争の歴史であったともいへる。それは今日に至るまで続いてゐる。神を拝み神を信じる人々による凄惨なる殺しあひが行はれて来た。

 

 しかし、宗教の根底にあるものは同じなのである。それは、天地自然の中の生きたまふ「大いなるもの」への畏敬の心である。伊勢の神宮はまさに、最も純粋に最も簡素にその「大いなるもの」をお祭りしてゐる聖地なのである。

 

 吉川英治は、昭和二十五年十二月に参宮した時、

「ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅ごころ うたた童にかへるかな」

といふ歌を詠んだ。 

 

日本國民の伊勢の大神への崇敬の心は、教義教条に基づくのではない。日本人としてごく自然な「大いなるもの」への畏敬の心である。だからこそ、仏教徒もそして外國人も伊勢の神宮に来ると「大いなるもの」への畏敬の心に充たされ心清まる思ひがするのである。

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千駄木庵日乗九月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理など。

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2015年9月13日 (日)

 『萬葉集』と武と変革

 『萬葉集』の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてである。その時代は決して太平の世ではなかった。大化改新・壬申の乱といふ大変革・大建設の時代であり支那朝鮮からの武力侵攻の危機もあった。「やまとうた・和歌」をはじめとした優れた文藝はさうした時代に生まれる。変革・建設・戦ひと「和歌」とは切っても切れない関係にある。

 

 今日のわが國も萬葉時代とまったく同じ内憂外患交々来たるといった危機的状況にある。それは逆に変革の時代でありさらなる発展の時代であるともいへる。國家的危機を乗り越へ偉大なる変革を成し遂げた萬葉時代の日本民族精神に學び回帰すべきである。

 

 保田與重郎氏は、「わが國の歴史に於いてみても、國民思想の樹立の契機となる重大な問題は、壬申の亂を峠とする時代の國の人心と人倫の歸趨にある。…萬葉集に於ては、はるかに一般國民精神の動向を臣民に道に於てあまねくうつし、しかも最もよく國の倫理の大本を護持して、當時二百年前後にわたる海外文化の影響下の日本にあって、わが固有の文化の流れを傳へた歴史の精神が如何に己を持して動かなかったかを示す點で國の精神の重きを思はせて實に感謝に耐へないものがある」(『萬葉集の精神』)と論じてをられる。

 

『萬葉集』には大変革・大建設の時代の息吹きに満ち満ちた日本民族の精神が歌はれてゐる。『萬葉集』の中核精神は、國家の危急時に、わが國民が如何にして天皇を中心とする國體を守り、國民が神と天皇に仕へ奉ったかが表白されてゐる。歌の調べの美しさも、慟哭も、みなこの一点より解さねばならない。萬葉歌のみならず和歌を學ぶとは、和歌の道に傳はった日本傳統精神に回帰しそれを踏み行ふことなのである。

 

今日の日本において特に取り戻さなければならないのは萬葉時代以来の「武の心・もののふの心・ますらをぶり」である。

 

大東亜戦争敗北以後、「武の心・もののふの心・ますらをぶり」が否定され隠蔽され続けてきた。『現行占領憲法』の三原理のひとつに「平和主義」といふのがあるが、これは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。ゆへに、日本及び日本國民は今後一切いかなることがあっても、武力・戦力・國軍は持たない、武力の行使はしない、戦争はしないことを決意する」といふ思想である。それは戦勝國による日本弱体化思想以外の何ものでもない。

 

國家を守る精神こそ、國民の道義精神の要の一つである。國防と道義は不離一体の関係にある。「國民」は、運命共同体であるところの國家を、生命を賭けて守る使命感があってこそ、「國民」である。

 

崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さへよければ他人はどうなってもいいといふ考へ方に陥ってゐる現代の青少年によって、凶悪無比なる犯罪が繰返されてゐる。軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の平和も、眞の道義もなくなっているのである。 

 

平和の前提は、國家の独立・民族の自立である。國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し實現するために國防力・軍事力が不可欠である。そしてその根幹として、日本國民一人一人が「武の心・もののふの心・ますらをぶり」の回復がなければならない。 

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千駄木庵日乗九月十二日

午前は、諸雑務。

午後二時より、内幸町の日本プレンセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。田久保忠衛杏林大学名誉教授が「『安倍談話」を読み説く」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。終了後、田久保先生を囲んで懇談。

帰宅後は、資料の整理など。

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2015年9月11日 (金)

大東亜戦争は、自存自衛の戦ひであり、東亜解放の戦ひであった。

大東亜戦争の開戦は、侵略戦争の開始ではない。その目的においても實際の戦争においてもそして結果においても、自存自衛の戦ひであり、東亜解放の戦ひであった。

 

わが國は何故米英に宣戦を布告したのか。それは米英本國に日本が攻め入り、彼の國を占領支配せんとしたためではない。米英が百年来、東亜諸國諸民族を侵略支配してゐる状況を掃攘するために宣戦を布告したである。即ち、明治維新の攘夷の戦ひをアジア的規模で遂行せんとしたのである。

 

一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見し、一四九七年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を廻って以来、ヨーロッパ諸國=白色人種によるアジア侵略・植民地化は休みなく進み、十九世紀には、トルコから支那大陸に至るまで、アジアのほぼ全體が、欧米諸國の植民地支配下にあった。

 

十九世紀半ばになると、わが國にも、西からはアメリカ、北からはロシア、西からはイギリスといふやうに西欧列強の侵略の手はひしひしと迫ってゐた。日本もやがて植民地化の運命を辿ると思はれた。

 

しかし、われわれの父祖は、さうした外圧のさなかにあって、大変革を断行して國内體制を整へ、民族の独立を維持した。それが明治維新である。明治維新は、西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配といふ内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革であった。

 

わが國は、明治維新断行以後、憲法を公布し、議會を開設し、近代國家への道を歩んだ。「富國強兵・殖産興業」を合言葉にして、軍事面経済面でも大発展を遂げた。日露戦争の勝利は、米英をはじめとした西欧列強・白色人種に虐げられてゐたアジア・アフリカなどの有色人種に大きな希望をもたらした。アジアの中でよく独立を維持しさらに近代化を遂げ、発展した唯一の國である日本は、欧米列強の植民地支配からアジア諸國諸民族を守る大きな盾となったのである。

 

アメリカは日本の強大化を恐れ、日露戦争直後の明治三十七年に、對日戦争計画たる『オレンジ計画』を立てた。アメリカといふ國は、開拓精神に燃えた人々によって建國されたといはれてゐるが、この『開拓精神』とは他人の土地に入って行ってそこを占拠し自分たちのものにするといふことである。北米大陸そのものがもともと先住民族(いはゆるインディアン)のものだったのである。そしてハワイ・グァム・フィリッピンと西に進み、シナ大陸に入り込もうとした。ところが、その前に立ちはだかったのが日本だったのである。

 

さらに、日本を戦争へと追ひ込んだのはソ連である。名目上は世界の共産化、實際には自國の権益の拡大・領土拡張を目指し、さらには日露戦争の仇を討ちたいソ連は、日本を取り潰す策謀を展開した。曽野明氏(元外交官)は、「昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった…決議には…米英仏日独といった『帝國主義列強』を互いに對立させ、戦争に追い込め、という戦略指令であった。日本について言えば、①日本を米國との戦争へ追い込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、ということであった。ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透をはかり(当時の青年将校の思想は、いわば『天皇制共産主義であった』であった)、米國との對決路線に追い込み、また、マスコミにも、國粋主義、排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内では、排日機運の盛り上げが工作されていた。…『中立条約』の締結があったので、日本國民は『北辺の安寧』が保障されたと安心した。かくて、日本軍部の進路は米()との對決以外になくなったし、したがって日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである」と書いてゐる。

 

倉前盛通氏は、「尾崎秀實が對中國強硬論者の一人であったこと、對米開戦を最も叫んだ人間であったことは、戦後、故意にもみ消されて、あたかも平和の使者であったかのごとく、全く逆の宣傳が行われている。…日本が大陸にのめりこんで、國家の大方針を誤ったのは、①陸軍が、一九二〇年頃からドイツ型大陸地政學にかぶれ、大陸政策に深入りしたこと。②日本の目を大陸に向けさせ、海軍力の充實に回す予算を少なくさせようという米國の陰謀が裏にあったこと。この二つに大きな原因を見出すことができよう。…二・二六事件によって、『蒋介石と和解し、對ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々のほとんどが陸軍内部から排除され『シナ大陸への侵攻』を考えるグループによって陸軍の主導権が握られた…ここにも日中を戦わせようとする米ソ双方の巧妙きわまる陰謀工作が伏在していた」(『悪の論理』)と論じてゐる。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。

尾崎を側近にした近衛文麿氏は、社會主義に共感を覚えてゐた人であり、マルクス主義経済學者である河上肇を慕って東京帝大哲學科から京都帝大法科に移ったといふ経歴の持ち主である。近衛氏は、「防共反ソ」よりも「英米駆逐」に力を入れ南進論を主導した。わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。

 

かくて、日本の進路は米英との對決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。つまり、わが國は米英とソ連とによって挟撃される事態となった。わが國は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれたのである。

 

昭和天皇は、わが國が戦争に追ひ込まれて行った原因について、「原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列國の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本國民を憤慨させるに十分なものである。」「総理になった東條は、九月六日の御前會議の決定を白紙に還すべく、連日連絡會議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。…實に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、萬一の僥倖に期しても戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云はねばならぬ」(『昭和天皇独白録』)と仰せになってゐる。

 

鈴木貞一氏はテレビで、「資源が無いのに何故アメリカと戦争をしたのですか」との質問に對し「資源が無いから戦争をはじめたのだ」と答へてゐたと記憶する。

 

開戦前のアメリカによるわが國への圧迫は、①對日通商條約の一方的破棄(昭和十四年七月)②航空燃料の輸出禁止(昭和十五年七月)③屑鉄の輸出禁止(同年五月)④在米全日本資産の凍結(昭和十六年七月)⑤石油の全面禁輸(同年八月)といふものであり、まさに真綿で首を絞めるやうなことをして来たのである。

 

さらに、昭和十六年十一月二十六日、わが軍の仏印・支那大陸からの撤退、王精衛の南京國民政府及び満州國の否認、日独伊三國同盟の死文化を求める米國務長官コーデル・ハルの最後通牒=「ハル・ノート」を突き付けてきた。この「ハル・ノート」をについてパル判事は、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王國やルクセンブルグ大公國でさえも合衆國に對して戈をとって起ちあがったであろう」(『パル判決書』)と書いてゐる。

 

わが國は、まさに「開戦の詔勅」に示されてゐる通り「帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ頻セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」といふ状況に立たされたのである。

 

佐藤優氏は、「日本國民は当時の國家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。日本は当時の國際社會のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に追い込まれていったのである。あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護國、準植民地となる運命を免れなかったというのが實態ではないか」(『日米開戦の真實』)と論じてゐる。

 

對米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、米上院外交合同委員會で、一九五一年五月三日、「原料の供給を断ち切られたら、一千萬の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」と証言したことによっても明らかである。

 

東條英機元総理はその「遺言」において、「英米諸國人ニ告グ…諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理公道ノ勝利ニアラズ。…大東亜戦争ハ彼ヨリ挑発セラレタルモノニシテ、我ハ國家生存、國民自衛ノ為、已ムヲ得ズ起チタルノミ。コノ経緯ハ昭和十六年十二月八日宣戦ノ大詔ニ特筆大書セラレ、炳乎トシテ天日ノ如シ。故ニ若シ世界ノ公論ガ、戦争責任者ヲ追求セント欲セバ、其ノ責任者ハ我ニ在ラズシテ彼ニ在リ、乃チ彼國人中ニモ亦往々斯ク明言スルモノアリ。」と切言してゐる。

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千駄木庵日乗九月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理など。

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明治維新の基本精神と第二維新運動

明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主と仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐといふ精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるといふ「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといはれる所以である。鎌倉幕府以来の武家政治・強いもの勝ちの覇道政治を否定し天皇統治の皇道政治の回復を目指した変革が明治維新である。

 

かうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』に示されてゐる。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道學」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

この自由な発想の「生みの親」は、洋學者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國學者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ」。「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだった。しかし、明治維新後、日本は西欧列強と対峙日本の独立を守るために、近代化・西洋化・工業化を促進することが急務となった。そして、明治新政府は、「殖産興業富国強兵」「脱亜入欧」の国策の実現を目指し、「文明開化」の時代が現出した。かうした事は、当時の状況を考へると、全面否定することは出来ない。

 

岩倉具視の諮問に対して、王政復古の基礎を「諸事神武創業ノ始ニ原カム」すべしと答へた國學者・玉松操は、維新後堂上に列せられたが、明治新政府の欧化政策を批判し、「我不明にした奸雄の為め誤られたり」と嘆息し、明治三年、官を辞し閉居した。

 

幕末の動乱期に國學関係の多くの著書をあらはし、國學を講じてその振興に努めながら、京都を中心に王政復古運動に専念し、維新後は國家構想をまとめた意見書『献芹詹語』を岩倉具視を通じて明治政府へ提出し、政治の改革にも功績を残した國學者矢野玄道(やのはるみち)は、明治新政府の「文明開化」「欧化政策」を憂慮し、次のやうな歌を詠んだ。

 

「事により彼が善き事もちふともこゝろさへにはうちかたぶくな」

「其のわざを取り用ふれば自ら心もそれにうつる恐れあり」

「潔き神國の風けがさじとこゝろくだくか神國の人」

「橿原の宮に還ると思ひしはあらぬ夢にてありけるものを」

 

葦津珍彦氏は、「維新後、二、三年のわづかの間に、神道精神を国の基礎として固めようとする志をもって、政府を動かしたのは確たる事実である。しかし間もなく権力の主流の中には『神道的維新コースは、文明開化の妨げとなり、国際外交上も著しく不利となる』との思想が強大となる。仏教、とくに真宗のブレーンは(熱烈な愛国者であったが反神道の信があり)権力との結合を固めて、神道の無精神化、空洞化の政策を進める」「明治国家と神道との関係史で、初めに大きな役割を果たした玉松操、矢野玄道以下の多くの国学系主要人物のほとんどは、明治四年までに政府の開明派によって追放され…明治維新に際し『祭政一致』『神仏分離』『大教宣布』の国策決定に大きな働きを主要人物や活動家は、明治三年には…政府の中枢と対決を生じて、その後十年の激流時代に、ほぼ追放されたり、刑死したり戦没したりしてゐる」(『国家神道とは何だったのか』)と論じてゐる。

 

明治維新の後、「維新の理想未だ成らず」との思ひで展開された戦ひを明治第二維新運動といふ。明治新政府は、欧米列強のアジア侵略植民地化を目のあたりにして、わが國の独立を維持し発展せしめるべく、「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」の政策を推し進めた。さらに、大久保利通を中心とした一部の人々によるいわゆる「有司専制政治」が行はれた。しかし、維新日本において最も大切な事、即ち神代以来の日本の伝統への回帰・神武創業の精神の恢弘といふ大命題との大きな矛盾をもたらした。この矛盾を解決し、維新の理想をあくまでも貫徹せんとする運動が明治第二維新運動である。その具体的な動きが、西南戦争・佐賀の變・神風連の変をはじめとした各地の蜂起であった。

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千駄木庵日乗九月十日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時より、湯島にて、永年の同志お二方と懇談。

帰宅後も、原稿執筆、脱稿。印刷所に送付。

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2015年9月 9日 (水)

この頃詠みし歌

漲れる力振ひてわが道をただひたすらに生き行かんかな

 

理屈をこねる歌は止しませう自然なる心をこそ歌にしませう

 

このままに逢ふこともなくお互ひにあの世へ行くか遠き日の女(ひと)

 

牛乳配達の音聞こえ来る早暁に我一人部屋で歌詠みてゐる

 

老夫婦が老夫婦の営む店に来て楽しげに語らひ酒酌みてゐる

 

晴れれば暑し曇れば鬱陶しいと人間といふは勝手なことを言ふ

 

元総理といふのにろくな奴はゐないと思ひたくなるこの頃のニュース

 

軍事力を誇示して覇権をとらぬと言ふこの大嘘つきの習近平よ

 

わが国を射程に入れるミサイルを行進させて平和を言ふ馬鹿

 

北闕の天を望まんと仰せられし後醍醐天皇の御心を偲ぶ(『蔵王権現と修験の秘法』展参観)

 

後醍醐帝が祈りをこめし蔵王権現憤怒の形相のすさまじさかな()

 

悪を祓ひ罪を滅する大いなる力発する蔵王権現()

 

雨の中たどり着きたる酒房にて秋刀魚の刺身を食したりけり

 

何となく昔のことを思ひ出す後悔もあり懐かしさもあり

 

傘さして街歩み行くジャストウォーキングインザレインなどと口ずさみつつ

 

雨の日が続くこの頃母と眺めるビルの彼方の雲満つる空

 

やさしき言葉母にかけたる介護士に礼して施設を出でて来しなり

 

いつも笑顔で我に真向かふわが母は時にさみしき表情をする

 

家に帰ると言ひたまふ母を後にしてエレベーターで降る苦しさ

 

さみしげに座りゐる母を後にして家路につくは苦しかりけり

 

 

 

 

 

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千駄木庵日乗九月九日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が、大伴家持の挽歌を講義。質疑応答。

帰宅後も原稿執筆。

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三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提に論じて、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない。」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである。」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。士とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」といふ言葉を使った。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として自殺するのではなく、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここでいう「身分の高貴さ」とは、職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ている。

 

 三島氏の作品と人生における文化意志は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、文武両道の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える散華の美とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。               

 

 柿本人麿歌集の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)という歌も、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、大義のため、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」冒頭に書かれている通りだ。

 

 三島由紀夫氏は、戦後日本の救済のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の源泉の感情への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。          

                         

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。

 

 しかし、自決後四十五年を経過して、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。結果がこの混迷である。今日こそ、霊となった三島氏の復活が求められる。  

 

 

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千駄木庵日乗九月八日

午前は、諸雑務。

午後は、明日の『萬葉古代史研究会』における講義の準備。

午後五時半より、日本橋にて、台湾問題の研究者と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年9月 7日 (月)

千駄木庵日乗九月七日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も原稿執筆。

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「もののふ」と剣

もののふとは、武人・武士のことやまとことば(和語すなわち漢語や西洋などからの外来語に対し、日本固有の語)で言った言葉であり、雅語(上品な言葉。正しくてよい言葉。特に、和歌などに使う、平安時代風の言葉)的表現である。

 「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部」の音韻が変化した語が「もののふ」である。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だったという。

 

物部の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。古代日本では、霊的力即ち巫術(呪術 の一つ。超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧するものが「もののふ」(物部)であった。

 

 もののふのみち即ち武士道は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として表現せられた。

 

 物部氏は饒速日命の後裔で武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。これが後世武士の起こる濫觴とされている。用命天皇の崩御直後(用命二年・五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏の馬子と物部守屋が争い破れて物部氏は滅びた。大伴氏については後に述べる。

 

 なお、「もののふ」を漢語(漢字で組み立てて音(おん)で読む語。和語)では、「武士」(ぶし)というのは、折口信夫の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕える者であるからという。

 

 もののふの道(武士道)とは、日本においては、宮廷を守護すること即ち皇室に忠誠を尽くすという精神である。それが原義である。日本武尊の御生涯にそれは明らかである。

 

わが國の武士は太刀を「力と勇気と名誉と忠誠の表徴」として尊んだ。そればかりでなく太刀は神聖なものとして尊ばれた。太刀を御神体とする神社もある。日本武尊が「床の辺に 吾が置きし つるぎの大刀」と歌っておられるやうに、太刀は床の間に置かれた。太刀に対する侮辱はその太刀の持ち主に対する侮辱とされた。刀鍛冶は単なる工人ではなく、神聖なる職に従事するものであった。刀鍛冶は斎戒沐浴して工を始めた。太刀を作ることは神聖な宗教的行事とされた。

 

 太刀(タチ)の語源は、「断()ち」であり、「顕()ち・現()ち」である。罪穢を断つと共に、罪穢を断った後に善き事を顕現せしめるといふ言霊である。罪穢を祓い清めた後、神威を発動せしめる意である。太刀によって邪悪を滅ぼし、穢れを清め、本来の清らかさを顕現せしめるのである。

 

太刀は「幾振り」と数へられるやうに、魂ふり(人の魂をふるい立たせ活力を与へ霊力を増殖させる行事)のための呪具でもあった。日本の剣は人の命を絶つための道具ではなく、人の命を生かす道具なのである。まさに「活人剣」なのである。

 

  太刀・剣には魂が籠ってゐると信じられ、太刀を授受することは精神的・魂的な信頼関係が成立したことを意味する。敗者から勝者へ太刀・剣が奉られるのは、恭順の意を表する象徴的行事である。小野田寛郎氏がそれを行ったことは多くの人が記憶してゐるところである。小野田氏がルパング島で発見された後、当時のフィリッピンのマルコス大統領に軍刀を差し出した。軍人の魂であるところの軍刀を差し出すといふことは恭順の意を表するといふことである。小野田氏は昭和の御代において武人の伝統を継承した人物だったのである。

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千駄木庵日乗九月六日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2015年9月 6日 (日)

アジアにおいて最も好戦的・侵略的な国は共産支那

天安門広場の軍の行進を見て、戦後のアジアにおいて最も好戦的・最も侵略的な国は支那共産政府であることがすます明らかとなった。朝鮮戦争・中印戦争・中越戦争・チベット侵略・中ソ武力衝突など数々の戦争を起こし、国内においても国共内戦から大躍進運動、文化大革命、天安門事件まで武力行使が行われ、自国民六千万人(少なく見積もっての話。もっと多いことは確実)を殺戮している。そして今も、対外膨脹策を取り続け、台湾・尖閣諸島・沖縄・南シナなどへの武力侵攻を企てている。

 

 支那は「中華」を自称し、周辺諸国・諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と言って蔑視するのみならず、その支配下に置くことを目的として対外膨脹策を取ってきた。支那民族が、周囲の国・民族よりすぐれているという信念を持っている。そして周辺諸国を自国の属国とみなし、これに朝貢(外国人が来朝して朝廷にみつぎものを差し上げること)させて来た長い歴史がある。それが今日までの支那の歴史である。そうした悪しき伝統は共産主義政権になっても脈々と生きている。と言うよりもますます顕著になっている。だから周辺諸国の領土を掠め取るのは当たり前だし、気に入らない国に対しては武力で恫喝したり制裁を加えるのは当然という考え方があるのだ。

 

わが国のO対支那経済援助が、支那共産政府の軍事力の強化に貢献した。「日中友好」「同文同種」という言葉に象徴される節度なき対共産支那外交が今日の状況を生んだのだ。

 

 「日中友好」とは欺瞞的な言葉であった。支那共産政府の言う「友好」とは、「支那共産政府に対して政治的・外向的に屈伏し忠誠を誓う」ということである。

 

 アジアの平和と安定にとって最大の脅威が支那政府である。共産支那を押さえるためには、「強い日本」にならなければならない。「強い日本」とは何も軍事力のみではない。外交面・政治面・経済面でも強くならなければならない。

 

しかし外交的・政治的強さの背景には必ず軍事力が必要である。「弱い日本」だとアジアのバランスが崩れる。憲法を改正して核兵器を持った日本がアジアの平和に貢献できると考える。かつて「暴支膺懲」(暴虐なる支那をうちこらす)という言葉があったが、今日もまたそういう時ではないのか。

 

民族運動・愛国運動は、戦後一貫して共産支那批判を行って来た。そして共産支那に対する土下座外交・謝罪外交を糾弾してきた。愛国運動・民族運動の訴えて来たことがいかに正しかったかが、証明された。

 

わが国がこのまま支那に対して喩謝罪外交・土下座外交を続ければ、、共産支那は益々増長し、日本を馬鹿にし、属国扱いをするであろう。そして、わが国の独立・国民の安全は脅かされ、さらには、日本の領土・領海・領空・資源は支那に奪われるであろう。

 

今日世界最大の帝国主義国家、軍事大国、侵略国家は「中華人民共和国」である。内モンゴル・チベット・満州・東トルキスタンなど「中華人民共和国」の面積の三分の二は、漢民族が他の民族の居住地を侵略し収奪し併合したものである。そして、わが国領土領海の侵犯・尖閣諸島への侵略策謀などを展開している。

 

わが国の領海を侵犯し、わが国に不法入国し、凶悪な犯罪を起している支那人たちの心理には、反日教育によって植え付けられた「侵略国家日本」「自分たちの祖先を苦しめた日本人」に対する報復感情がある。

 

このままでいくと、日本と支那は軍事的対立に間で突き進む危険がある。わが日本および日本国民は相当の覚悟をもって臨まねばならない。

 

日本固有の領土尖閣諸島での共産支那の傍若無人な無法行為と圧力外交は許し難いものがある。日本だけではなく、共産支那は東南アジアの国々に侵略の牙を向けている。

 

共産支那に如何に対処し対峙するかが、わが日本の独立・安全を維持するために最大の課題である。そのためには、国民全体が『共産支那』『中華帝国主義』の本質について正しく認識する必要がある。

 

我々が、「中国脅威論」を論じ、共産支那への経済協力を批判すると、親支那派の人々は、「日本が対中協力をすることにより、中国が発展して豊かになれば、民主化が促進され、中国の脅威などは無くなる」などと反論していた。こうした論議が全く間違っていたことが、今日明白に証明された。

 

また、「日本は平和国家として出発したのだから、軍事力を強化してはならない。憲法違反の自衛隊は無くしてしまい、日米軍事同盟も破棄すべきだ。それが平和への道である」という論議がいかに間違っていたかも明らかになった。「間違っていた」どころではない。東アジアの平和と日本国の独立と安全を根底から脅かす論議である。

 

軍事力を軽視することは、侵略者・無法国家を増長させるだけである。わが國は、自主防衛体制確立すると共に、日米軍事同盟を堅持し強化する以外に、無法国家・侵略者から祖国を守る手立ては無い。共産支那の侵略を抑止するためにも「新安保法制」は必要である。

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2015年9月 5日 (土)

千駄木庵日乗九月五日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。高乗智之高岡法科大学教授が司会。田尾憲男氏が「憲法改正に向けて天皇条項はどうあるべきか」と題して報告。質疑応答・討論。

帰宅後は、原稿執筆。

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笹川平和財団・笹川日中友好基金主催講演会「中国の現状と課題」』における登壇者の発言

五月二十九日に開催された笹川平和財団・笹川日中友好基金主催講演会「中国の現状と課題」』における登壇者の発言は次の通り。

施 展氏(北京外交学院世界政治研究センター主任)「世界の秩序の中で、米中日はどのように交流して行くのか。冷戦後、世界の秩序はアメリカが主導しているが、世界はアメリカのものではない。軍事も金融も全ての国が秩序を構築している。秩序はアメリカを超え、アメリカの上にある。アメリカは海洋国家ではない。全ての富は貿易から得ている。民族主義の価値観が、世界普遍的な公共財を提供するのか。一帯一路(注・201411月に中国で開催されたアジア太平洋経済協力首脳会議で、習近平中国国家主席が提唱した経済圏構想)。中国はこの地域にインフラを提供する。中国は民族主義か普遍主義かは、中国人の我々もはっきりと分からない。中国はアメリカに対抗すると思われている。改革開放後中国はアメリカの秩序に入った。世界秩序の中で中国は活動している。一つの国が実行機関を独占すると公共性がなくなる。これは世界に対してマイナス。全ての国を超える普遍的秩序をつくる執行機関を作るべし。普遍的価値を認めて、そのベースの下で利益を売る。お互いの駆け引きの中で新たなバランスオブパワーが出来上がってくる。短いスパンで見ると、日中は友好的ではない。長い目で見れば、バランスオブパワーが出来る過程で起きている問題。アメリカは形式的正義を主張しながら、実質的正義ではなくなっている。中国は国際公共財を提供する前提として民族主義を超える国際主義がなればならない。中国には百年間苛められてきたという被害意識がある。それが今後の中日関係にマイナスになっている。これをなくさないと中国は国際社会から尊敬されない」。

 

周 濂氏(中国人民大学哲学院副教授)「陳独秀が『新青年』という雑誌を創刊して今年で百年。『民主主義』『科学主義』を標榜した。しかし中国人が最も望んだのは平等な価値観。国内での平等を求めた。平等主義と自由主義の二つの価値観で、平等主義が自由主義を圧倒した。社会主義中国は平等を実現していなかった。紅五類・黒五類という差別があった。平等を実現しなかった。全人口の一〇%の人々が三〇年前より生活は良くなったが、格差の縮小ではない。だから奪われたという意識が広がる。貧富の差が広がり、若者は希望を持てない。未来がない。農村地方の戸籍であるだけで既に負けている。金持ちを憎んでいる。ソ連は平等を求めて失敗。平等主義は平均主義ではない。人は目的であり、手段ではない。全ての公民に対して同一の尊重を求めるべし。中国はハード面では先進国になった。ソフト面ではそうではない。村山富市元首相が引退後何の特権もない生活をしているのに驚いた。不平等は内部の分裂をもたらす。日本は元首相も停年になればただの人。中国は不平等が深刻。怨恨・怨み・妬みが蔓延している。社会的公正・正義は重要。怨恨・嫉妬を、正義を求めるエネルギーにすべし。『党は法より上か、法より下かと』という議論が中国にはある。日本は天皇も法に従う」。

輝華氏 (中国人民大学経済学院教授、中国人民大学国家発展及戦略研究院研究員)「今後の中国経済は予測困難。各省の活動報告のGDP成長率は水増しが出ている。どうして成長率が下がったのか。その理由の一つは反腐敗キャンペーン。逮捕される人が多ければ多いほど経済成長率が下がっている。これは相関関係。最低給与が高ければ経済成長率は低い。省エネが続くとGDP成長率も低くなる。一酸化炭素が減るとGDPにマイナス影響して成長率が低くなる。反腐敗キャンベーンは長期的に見れば経済に好影響。しかし腐敗がないと役人は仕事へのやる気がなくなる。非効率的規制で経済は停滞。東アジアの多くの国々では反腐敗と成長の間に良いバランスを見つけないといけない。反腐敗と共に制度の規制改革をしないと経済はおかしくなる。反腐敗は短期的には成長の足を引っ張っている。経済関係の法律をシンプルにしていくべし。官僚の裁量権が大きすぎる」。

この後、質疑応答が行われたが、中国人留学生から「日本より中国の方が軍国主義。日本より中国の方が格差社会」との意見が出された。

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千駄木庵日乗九月四日

午前は、諸雑務。

午後は、日本橋の三井記念美術館にて開催中の『特別展 蔵王権現と修験の秘宝』参観。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2015年9月 4日 (金)

共産支那こそアジア最大の侵略国家

 習近平は、本日、北京で行われた「抗日戦争勝利70年を記念する式典」で「70年前の今日、中国人民は14年の長きにわたる、想像を絶する艱難辛苦に満ちた闘争を経て、抗日戦争の偉大な勝利を手にした。世界の反ファシズム戦争の完全な勝利を宣言し、平和の陽光が再び大地をあまねく照らした」「平和のために、中国はずっと平和発展の道を歩んでいく。中華民族は一貫して平和を愛してきた。発展がどこまで至ろうとも、中国は永遠に覇権を唱えない。永遠に領土を拡張しようとはしない。永遠に自らがかつて経験した悲惨な境遇を他の民族に押しつけたりはしない」などと述べた。

 

嘘八百を並べ立てたこの演説には、空いた口がふさがらない。日本は支那に負けたのではない。アメリカに負けたのだ。アメリカが、日本を打ち負かしたから大陸の日本軍は戦闘をやめただけだ。

 

「平和のために、中国はずっと平和発展の道を歩んでいく。中華民族は一貫して平和を愛してきた」と言ったが、これほどの大嘘はない。平和発展の道を歩み、平和を愛するならなぜ軍事パレードなどをやったのか。共産支那は、チベット、ベトナム、東トルキスタン。内モンゴルを侵略し、支配している。さらに金日成軍と共に南朝鮮を侵略した。今日唯今も、尖閣・沖縄を侵略せんとし、さらに南シナ海で軍事的膨張、侵略を続けている。共産支那こそ、覇権を唱え続けるアジア最大の侵略国家であり軍国主義国家である。

 

朴正煕のバカ娘・朴槿恵は、自分の国を侵略した共産支那国の軍事パレードに出席し。何という愚か者であろうか。

 

 支那大陸にある政権は自らを「中国」あるいは「中華」と称している。それは古代から今日に至るまで変わらない。漢民族は、自国を天の真下、世界の中央にあって、文化が百花のように咲き誇っている国という意味で「中華」と呼び、四方の異民族を獣や虫けらのように、「東夷・西戎・北狄・南蛮」と呼んでこれを蔑視している。

 

 古来支那は外国との対等の関係を認めないどころか、外国そのものの存在を認めていない。世界の中心に天の代表者である支那の皇帝が君臨している。つまり支那とは天下そのものなのである。ゆえに支那にはもともと国境という観念がない。そして、支那は自らを「世界帝国」と見做し、世界は全て支那の領土と心得ている。そして、周辺諸国を侵略支配することが国家目的としているのだ。

 

 

 

毛沢東・鄧小平・江沢民が最近における「中国皇帝」を気取っていたことは言うまでもない。習近平による今日の軍事パレード閲兵は、新皇帝即位の儀式である。『鉄砲から政権が生まれる』というのが共産支那の国是である。習近平は軍を掌握したことを内外に誇示し、新皇帝に即位したのだ。共産支那は正真正銘の軍国主義国家であり、侵略国家である。

 

 

 

「中華」を名乗っている支那大陸の政権は、有史以来、帝国主義的侵略支配を意図する政権である。

 

 支那共産政府の現在の領土の六三%は一九四九年まで支那人以外の人々の領土だった。アジア最大の侵略国家は支那共産政府である。サッチャー元英国首相は「大英帝國も大日本帝國もなくなったが、中華帝國は残っている」と言った。その支那共産政府がわが国を侵略国家・軍国主義国家呼ばわりするのは、文字通り盗人猛々しいというほかはない。

 

 軍事パレードでは長距離弾道ミサイルが天安門広場を行進したという。支那共産政府のミサイルの照準はどこに合わせられているのか。言うまでもなくわが日本である。共産支那から核攻撃を受ける可能性が高いのは日本なのだ。

 

 アジアの平和と安定にとって最大の脅威が支那である。共産支那を押さえるためには、「強い日本」にならなければならない。

 

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千駄木庵日乗九月三日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『月刊日本』連載原稿執筆など。

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2015年9月 3日 (木)

領土問題について

 現在わが国は、ロシアとの北方領土、共産支那及び台湾との尖閣諸島、韓国との竹島問題を抱えている。このうちロシアは北方領土を七十年、韓国は竹島を六十年以上不法占拠している。尖閣諸島だけは辛うじてわが国が実効支配している状況にある。

 

 問題なのは、これらの領土に限らず、この後に、沖縄、対馬などへの領有権主張や排他的経済水域の線引き問題がひかえていることだ。それだけに、この時点で国家として領土に対する確固たる方針を確立し毅然として対処しなければ、不法に占拠されている領土は返ってこないし、次々と領土を侵食される恐れがある。

 

 わが国のような海洋国家にとって島嶼は国境線となる。この国境線を定めるのは民族の伝統的生活空間である。ということは、国境線は民族の盛衰(生活力・生命力の強弱)に比例して拡大、縮小するということだ。加えて国境は政治的、軍事的な力量によって大きく変動し、場合によっては他国から侵略され併合される危険もあるのである。したがって平和外交によって領土問題を解決するなどと呑気なことを言っていられなく場合が大いにあるのである。

 

 ある地政学者は「国境は前進する」と喝破したが、これは一面の真理であり、国境の向こう側即ち日本から見るとロシア・韓国・共産支那・台湾の国境線がわが国に向かって前進して来る危険があるということである。もちろん、他国の領域を侵犯し併合することは国連体制下では違法行為だ。

 

 しかし、領土侵犯に対して国連が有効な措置をとってくれるわけではない。共産支那のチベット侵略支配を見ればそれは明白である。

 

 排他的経済水域での不法行為も同じだ。要は自助による権利擁護・領土防衛が基本なのである。具体的な何の努力もしないでただ「何処何処は日本固有の領土だ」とわが国政府が権利を主張したところで、相手国の侵略によって権利そのものが消滅してしまう危険があるのだ。

 

 寸土をおろそかにすれば、それは他の領土の喪失につながる。相手の弱みの付け込み、足元を見て、次々に領土権主張を拡大してくるのが、国際社会の常識だ。ロシアや韓国や共産支那のこれまでのやり方はまさにそれだ。

 

 情勢が自国にとって不利な時は問題を先送りし、状況が有利になると一方的に自国の主張を押し通すのは、共産支那の外交の常套手段である。

 

 「日中平和条約」締結(昭和五十三年)当時は、旧ソ連の圧力を受け、またベトナムとの関係緊迫のために条約の早期成立を求めていた共産支那は、尖閣問題を先送りすると言明した。ところが、平成四年になって共産中国は「領海及び関連海域法」なるものを公布、一方的にその領有を宣言したという経緯がある。

 

 さらに注目すべきは、同法が「これら諸島嶼と大陸間の海域を中国の“内水”とする」と規定している点だ。もし、共産支那のこの主張を認めれば、東シナ海、南シナ海の大部分は共産中国の「内水」わが国対外貿易の命脈であるシーレーンは共産支那のコントロール下に置かれる。

 

南シナ海においても、共産支那は軍事力一方的な既成事実化を謀っている。わが国も死活的な国益を守るために尖閣諸島そして東シナ海において相応の決意を表明し実行すべきである。

 

 共産支那では古くから沖縄を自分の領土だとする主張が強い。韓国でも対馬の領有権主張が根強くある。全くうかうかしてはいられないのである。

 

 これらの領土問題で、わが国政府は古文書に基づく歴史を根拠として反論している。そして当面は相手国を刺激しないように“冷静”を旨としている。

 

 このような軟弱な姿勢が、実効支配の容認につながり、また強引で新たな実効支配を誘引する原因になっている。その上、不当な排他的経済水域の線引きをさせる結果にもなっている。

 

 それ故必要なのは、日本政府は第一に、これらの問題になっている島嶼の領有権擁護について国民に日本の主張の正当性を周知徹底せしめること。第二に日本政府と国民がこれらの問題になっている島嶼の領有権擁護について確固たる信念を示し、国際世論にそれを周知せしめること。第三に、領有権擁護のため経済制裁、自衛権発動を含む対応措置を策定することである。これによりはじめて領土の保全を確保し得るのである。

 

 「彼の強大さに萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親かえって破れ、ついに彼の制御を受けるに至らん」との西郷隆盛の遺訓は、現在でも外交の基本指針である。 

 

 わが国は一個の独立国家として、外国に屈従する事なく、不当な領土権主張に対して、勇気を持って対処すべきである。そのためには、「新安保法制」は必要不可欠である。

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千駄木庵日乗九月二日

午前は、諸雑務。

午後は、インタビューの準備。

午後三時半より永田町の衆議院議員第一議員会館にて、平沢勝栄衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、資料の整理。

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2015年9月 2日 (水)

 キリスト教と日本伝統信仰の決定的違い

 カトリック教会には必ずキリストの磔像がある。磔像は、芸術的美しさあるいは宗教的荘厳さはあるといえども、有り体に言えば他人に殺された人の死体である。これを礼拝の対象にするというのは日本人の感覚ではとても考えられない。日本伝統信仰が鏡を御神体として拝む清々しさとは全く異なる信仰精神である。仏教も涅槃像と言って釈尊の死体を拝む。しかしこの場合は老衰で亡くなった時の姿であって、磔という残虐な処刑方法で殺された姿ではない。キリスト教というか一神教の異質さを実感した。この像を拝む人々は、人類の罪を背負って殺されたというイエスへの崇敬の念を抱くと共に、殺した人々への怒り・恨み・報復の念を持つのではあるまいか。

 

 事実、イエスを死地に老いやったとされるユダに対するキリスト教徒の呪咀はすさまじい。キリスト教徒ではなくとも、「ユダ」という名前は裏切り者の代名詞として使っている。言語学的に見て、ユダ(Judaios)の名はユダヤ人全体を意味する。ユダは憎むべきユダヤ人の典型であると見られたのである。

 

 そして、キリスト教国で反ユダヤ感情の無いところは無いと言われている。特に社会的不満が鬱積すると反ユダヤ感情が激化する。

 

『新約聖書』の『ヨハネ伝』では、イエス・キリストはユダヤ人に、「汝ら(ユダヤ人)は己(おの)が父悪魔より出(い)でて、己が父の慾を行はんことを望む。彼は最初(はじめ)より人殺しなり、また眞(まこと)その中になき故に眞立たず、彼は虚偽(いつはり)を語る毎(ごと)に己より語る、彼は虚偽者(いつはりもの)にして虚偽の父なればなり」(第八章)と述べ、ユダヤ人は「悪魔の子」「人殺し」「嘘つき」であるとしている。『新約聖書』はユダヤ人を敵視しており、『新約聖書』は反ユダヤ思想の最も基礎的にして最も影響力の強い文献であったといわれている。しかし、『新約聖書』を記したのはユダヤ人自身なのである。ユダヤ人とは人種ではなく、ユダヤ教徒のことであるという。

 

 ただし、一九六三年六月三日、ローマ法王・ヨハネ二十三世はキリスト教徒のユダヤ迫害の許しを乞う祈りをした。

 

 『旧約聖書』の『創世記』によると、キリスト教の母体であるユダヤ教の神・エホバと、イスラエルの民の祖でありユダヤ教、キリスト教、イスラム教で模範的篤信者として崇められているアブラハムとが契約を結ぶ。これが『旧約聖書』の「旧約」である。その契約の儀式では、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、家鳩のひなを神の前に連れて来て、鳥以外の獣を二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた。これは契約を破ると身を二つに切り裂くぞという意味が込められているという。そして、その後も長い間エルサレムのユダヤ教の神殿において祭司たちが年々動物を裂き、その血を流して民の罪を贖なった。

 

 キリスト教もイエス・キリストが生けにえとなりその血によって人類の罪を赦してもらうというのである。『新約聖書』の『マタイ伝』によると、イエスは最後の晩餐の時、「…あなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である」と語った。『最後の晩餐』においてキリストが弟子たちにパンと葡萄酒を分け与えるというのは、アブラハムが動物の肉と血を神に捧げたことの再現であるという。聖書に『旧約』と『新約』とがあるのはここから来ている。

 

 だから、イエス・キリストは、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ伝一章二九節)といわれるのである。また人類の始祖とされるアダムとイブの子であるカインはエホバに農作物を捧げたが、エホバは血のない捧げものであったので拒否した。砂漠で生まれた宗教たるユダヤ教・キリスト教の神は「血を流すことなしには罪の許しはありえない」(ヘブル人への手紙)とするのである。ともかくユダヤ教・キリスト教の罪の赦しでは、人間や動物の血が流されなければならないという信仰精神なのである。

 

 

 神と人間が契約を結ばなければならないというのは、神と人間とが絶対的他者であるということである。日本伝統信仰は、日本の神と人と自然とは相対立し隔絶した関係ではなく、一体の存在である。まして神の怒りを解き、罪を許してもらい、神の報復を防ぐために、人間や動物を生けにえとして捧げるなどということもない。今年の豊作を感謝し来年の豊饒を祈念して農作物などを神に捧げ、お祭りをし、直会においてそれを神と共に食し、神と人とが合一するというのが、日本の伝統信仰である。

 

 神の怒りを解き罪を許してもらうために人や動物の肉や血を捧げるという残虐な信仰精神は日本伝統信仰にはないのである。これが、キリスト教と日本伝統信仰の決定的な違いである。『祭り』と『契約』の違いが日本神道と一神教違いと言っていいだろう。

 

 だから、日本民族は異質な信仰としてユダヤ教・キリスト教・回教という一神教を受け容れることはなかったのである。日本人のクリスチャンは人口一億二千万に中にわずか十五万人である。

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千駄木庵日乗九月一日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。(明日のインタビューの準備)

この後、施設に赴き、母に付き添う。食欲もあり元気なり。有り難し。

帰宅後は、資料の整理など。

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2015年9月 1日 (火)

深谷隆司氏の正論を紹介します。

 深谷隆司の言いたい放題第626

 

 「国連は無力、無責任」

 

 国連の事務総長が中国で行われる抗日戦争勝利記念の式典に出席し、なんと軍事パレードにも参加するという。 

  国連は常に中立性を維持しければならないことは言うまでもないし、平和構築の責任を果たすべき役割を持っている。事務総長のとろうとしている行為は、まさに自らその責任を放棄することで、断じて許されるものではない。

 

 中国は今、国内経済の混乱から世界的株価の暴落を招くなど、経済的大混乱を世界に与えている。のみならず南シナ海の岩礁を埋め立て、軍事拠点化を進めたり、日本の領土である尖閣諸島に頻繁に領海侵犯を繰り返し、東シナ海でのガス田開発など、明らかな海洋覇権拡大を続け、地域諸国の平和と安全の大きな脅威となっている。

 中国は、驚くほどの軍拡を進めており、今回の軍事パレードは、まさにその勢力を世界に誇示する舞台にほかならない。

 

 当然、日米欧は軒並み出席を見合わせたが、本来足並みをそろえるべき韓国は多くの慎重論を押し切って、朴大統領本人が出席するという。潘基文事務総長は韓国出身者、いわば韓国大統領と行動を共にするわけだ。

 

日本政府は勿論、数カ国が懸念の声を上げたが、「中立は侵さぬ」と公然と嘯いている。昨年も、欧米諸国がロシアの人権状況などを問題視し不参加を決めたソチ五輪の開会式に出席し、人権問題について明確なメッセージを出さなかった。これでは国連の事務総長たる資格は全くないと言わざるをえない。

 

私はかねてから、国連は期待にこたえられるほどの存在ではないと言い続けてきた。国連はそもそも主権国家の集まりである。いずれの国も自国の権益をどう守るかと常に考え、自国の権益を損ねるものには絶対に妥協しない。

 

しかも問題は、米、英、仏、露、中の五カ国からなる常任理事国の存在だ。いずれも第二次大戦の戦勝国代表で、拒否権まで与えて戦勝国の特権になっている。一国でも拒否権を行使したら何事も全く決まらないのだ。

 

発足から時を経ずして東西冷戦の時代が始まり、やがて米ソ代理戦争といわれる朝鮮戦争、ベトナム戦争などが続き、以来戦火の絶えたときはなかった。それらの解決について国連はほとんど無能であった。

 

戦後70年経っても戦勝国が特権を持ち続けているが、その五カ国はかつての国ではなくなっている。ソ連は崩壊してロシアとなり、中国も新しい国になった(中華民国が1971年中華人民共和国に)

 

国連分担金は過去4年間の国民総生産の平均値を基準にしているから、日本の負担はアメリカに次いで莫大なものであった。戦後、世界に貢献し続けて来た日本だから、当然、常任理事国に入るべきだが、その可能性はない。

 

国連は1945年誕生した。世界大戦で疲弊し、厭戦気分が高まり、平和志向によってつくられた。いまや設立当時の4倍の国が参加し、宗教の相違、人口や貧富の極端な差などがあって、その上の拒否権だから、一つの方向性を打ち出すことは難しいのだ。

 

日本では、国民もマスコミも過度に国連に期待するが、今回の例でもわかる通り、そんなに頼れるものではない。

 

結局のところ、平和と安全のためには自国の安全保障体制を確立させることと、アメリカなど友好国との協力関係を如何に構築するかにかかっている。

 

潘事務総長の軍事パレード参加は、現在国会で審議中の安保関連法案の是非についての判断材料の一つとなるのではないか。

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日本の伝統信仰と宗教的寛容性

 世界の歴史を見ると、異なる宗教の間で様々な對立と相克が見られた。それが戦争にまで発展した例も多い。それは歴史上のことではなく、唯今・今日においても熾烈に行われている。現代社會において本來人類を幸福にするはずの宗教が、逆に人類に不幸をもたらしているのである。

 

 日本民族の傳統的信仰精神は、大らかな宗教的寛容性を持っている。それは、日本固有の信仰と外來の佛教との融合という事實を見れば明らかである。こうした日本傳統信仰の寛容性が、今後の宗教對立や民族對立の解消即ち世界の平和に大きく貢献すると思う。  

 

 日本の宗教的寛容性の根本的な原因は何處にあるのか。言い換えれば日本民族の固有信仰は、何故、「宗教戦争」をする事なく、外來の佛教を受容したのか。それは、日本という國の麗しい自然環境(地形の美しさ・気候の規則正しさと穏やかさ・風土の優しさ・島國であること等々)が、温厚で包容力のある民族性・文化感覚を生み出したからである。砂漠でもなければ、暑すぎも寒すぎもしないという自然環境が、闘争的な宗教・排他的な宗教を生み出さなかったのである。これは日本人にとって實に有難いことである。ただし、戦後日本の精神的荒廃・自然の破壊は創価學會という排他的宗教教團の跳梁跋扈をもたらした。 

 

 古代日本の偉大な佛教美術即ち佛像と佛教建築は今日にのこされている。奈良の大佛や法隆寺・薬師寺などがそれである。佛の姿というものは、完全な人間、麗しき人間の姿の投影である。ゆえに佛像には日本人の描く理想的な像として作られる。それが白鳳時代の佛像である。外來宗教である佛教の礼拝の對象である佛像が日本的な麗しさを表現した姿に作られるのである。我が國の佛像とインド・支那・朝鮮の佛像とは明らかにその美しさに違いがある。

 

 こうした事實は、日本民族は外來の佛教を柔軟に受容はしたが、すぐにそれを日本の風土・傳統精神・文化感覚に適合させ、それに同化させていったことを証しする。日本民族は、柔軟に外來宗教・外來文化を包容したが、外來宗教・外來文化を日本の固有文化・宗教の適合するように造り替えてしまったのである。神佛習合思想であり垂迹思想などはそうしたことの理論的な営為である。そればかりでなく、日本の傳統文化・固有信仰とはどうしても相容れないものはそれを拒否した。キリスト教が日本において勢力を伸ばさなかった事實がそれである。そして、日本は外來宗教・外來文化の植民地にならず、しかも外來文化を摂取して日本人の宗教・文化・芸術が深みのある幅の広いものになったのである。

 

 寺院の境内に神が祀られている例は多い。寺院の建立にあたって境内に神を祀ることは、天台宗の開祖・最澄や真言宗の開祖・空海によって行われるようになったという。最澄は比叡山を開くと、日吉神社の神(比叡山の地主神)を祀ったし、空海が京都の清瀧に高雄寺を創立した時、清瀧権現を護法神として祀り、八幡神を地主神として祀った。

 

 神社の中にその神社に付属する寺院が建てられたのはもっと古い。和銅八年(七一五)には越前國気比神宮寺、天平勝宝年間(七四五~五六)には鹿島神宮寺、神護景雲元年(七六七)九月には八幡比売神宮寺が建立された。これは神が佛の供養を喜ばれるという考え方に基づいているという。つまり神に仕える寺院が神宮寺なのである。

 

 一般の日本國民の家庭においても、何處の家にもそれぞれに神棚と共に佛壇がある。この佛壇は佛を祀っているというよりは先祖の御霊を祀っているのであるが、何時頃から各家庭に佛壇を祀るようになったかというと、飛鳥時代の末の天武天皇の御代である。天武天皇は「家ごとに佛舎を作りて佛を礼拝供養せよ」との「詔」を発せられた。また、白鳳時代を代表する奈良の佛教建築物である薬師寺は天武天皇の発願によって建立されたのである。かくのごとく天武天皇は佛教を重んじられた。

 

 しかしその天武天皇は、我が國最初の日本傳統精神に基づく國家変革であり、佛教渡來を支持した蘇我氏を滅ぼした変革であるところの『大化改新』を、兄君・天智天皇と御協力あそばされて断行された天皇様であらせられる。また日本國生成の神話及び歴史が記された『古事記』の編纂を命じられた天皇様であらせられる。

 

 つまり、天武天皇は一方において外來宗教の受容を實践され、一方において日本民族の傳統精神の興隆に努力されたのである。こうした事實は、天武天皇は、日本民族信仰の寛容性及びそれと裏腹なものとしての強靱性の體現者であらせられるのである。

 

 純粋な日本傳統精神とは、外來宗教が入って來る前の精神ということである。それは埴輪(はにわ・古墳の外部に並べられた素焼きの土人形)や土偶(どぐう・縄文時代の遺跡から出土する土人形)に現れている純真で初々しい優しさの世界である。こうした世界を精神生活の奥底に日本民族は持ち続けて來ている。そしてそれは外來思想・宗教によっても決して破壊されることはなかった。

 

 そうした強靱性は、純粋なる日本傳統信仰を語っているところの神典『古事記』には、佛教傳來のことについて全然触れていないし、聖徳太子と蘇我氏を中心とする佛教受容の有様についても全く触れていないという事實にによく表れている。

 

 また『日本書紀』においても、佛事よりも神事を重視する姿勢が貫かれている。即ち、皇極天皇元年に旱魃が続いたので、大臣蘇我蝦夷が「寺々に大乗の経典を転讀(よ)みまつり、悔過(けか)すること佛の説きたまへるが如く、敬(つつ)しみて雨を祈(こ)ひまつるべし」と、大寺の庭に佛菩薩の像と四天王の像をまつり、僧を集めて「大雲経」を讀ましめ、自ら香を焼(や)いて雨を祈ったが、パラパラと降っただけで功を奏さなかった。そこで、皇極天皇が、飛鳥川の上流の南淵の川上にお出でになられて、「跪きて四方を拝み、天を仰ぎて祈ひたまひしに、すなはち雷なりて大雨降り……」、ついに五日間も雨が降り続け、天下が潤ったということが記されている。

 

 さらに、上御一人から下萬民にいるまでの魂の表白であるところの和歌が収録され、日本民族の中核的な思想精神がよく表現されている『萬葉集』には、佛教もしくは佛教思想に關係があると思われる歌はきわめて少ない。つまり外來の佛教思想は萬葉時代の日本の一般世人の思想精神を動かしていなかったということである。

 

 人の死を悼む歌である『挽歌』には、日本人の死生觀が最もよく表白されている。いうまでもなく人間の死生觀にはその人の宗教精神が最もよく表れる。しかるにその挽歌において全くと言っていいほど佛教思想の影響は見られず、日本民族獨自の死生觀が表白されている。神を讃え神に祈り神を祭る歌は實に多いが、佛に祈り佛を讃える歌は全くと言っていいほど『萬葉集』に収められていないのである。

 

 『萬葉集』の時代とは、佛教を篤く信仰した聖徳太子の時代から聖武天皇の御代にかけての時代である。換言すれば日本のおける佛教の第一次興隆期である。にもかかわらず佛教もしくは佛教思想に關係があると思われる歌はきわめて少ないということは、この時代には佛教思想が國民の思想精神に強い影響を及ぼさなかったということである。

 

 古代日本の一般國民は深遠な佛教理論を研究し學んで佛教を信じたのではない。極暑の風土において生活するインドで培われた原始の佛教思想は、一切の現象を實在ではないとし、現世を苦界とし、現世を脱して解脱を得ようという一種の厭世思想である。こういう思想が、麗しい自然環境の中で生活し現世を肯定する日本人に受け容れられず筈がない。日本佛教の僧侶も一応形の上では頭を丸めて出家するが決して現世から脱すること無い。古代日本人が佛教を受け容れたのは深遠にした厭世的な佛教思想に共感したのではない。有り體に言えば、不思議にして珍しく美しい佛像に驚嘆し、その佛像に祈れば願いが叶えられると思ったからなのである。

 

 また、神佛習合思想にしても本地垂迹論にしても、僧侶や神道學者という知識階級が論じたものであって、一般庶民はそんな理論には關係なく、ごく自然に神と佛を共に信仰した。日本人の生活の中に自然に行われるようになった神と佛への信仰を後から知識人が理論付けしたのである。日本民族の神佛への信仰は、天地自然への畏敬の念・先祖への感謝の思いがその根幹にあったのである。つまり佛様も神様と同様に祭りの對象であり祈りの對象なのである。

 

 一部の知識人や僧侶は別として、一般の民衆は、理論的に神とか佛とかを別けて考えることはあまりせず、一體のものとして考えていた。だから「神佛の御加護」という言葉も生まれたのである。全く異なった宗教の信仰の對象であるところの「神」と「佛」を一體に考えるなどということは、一神教の世界ではありえないことである。

 

 前述のごとく日本の多くの神社に神宮寺が建てられたりしたが、日本傳統信仰の中核的な聖地である伊勢の神宮は、神佛習合の影響を受けることは非常に少なかった。さらに、中世・近世を通じて佛教の影響を強く受けた皇室も、皇室の中心行事であり國家統治の基本である<天皇の祭祀>は、佛教の影響を強く拒否した。

 

 また佛教が日本において布教するに際して、皇室の権威に據るところが大きかった。寺院が多くの人々の崇敬を受ける場合、勅願寺という形式を得ることが必要だった。また僧侶の最高位は必ず皇室より賜った。真言宗は宗祖・空海は承和元年(八三四)真言院で「玉體安穏・國土安穏・五穀豊饒」を祈る密教の加持祈祷をして以來、真言宗各派管長は一年交代で東京に來たり、天皇の御衣を奉持して京都に戻り、御衣に祈を込めているという。天台宗は比叡山延暦寺の根本中堂で「玉體安穏・國家泰平」を祈する天台密教の修法を行っているという。これは毎年四月上旬、滋賀県知事が天皇の御衣を宮内庁から拝受し、これを奉持して根本中堂に安置して僧侶が加持祈を行い、祈が終わると宮内庁に返上するという。

 

 天皇は日本傳統信仰の祭主であらせられる。その神聖権威に據らずして佛教は日本國において布教し國民の信仰を受けることはできなかったのである。

 

 つまり、日本民族の外來宗教の融合・包摂は、日本民族の中核精神がきわめて強靱であったからこそ可能だったのである。欧米諸國はキリスト教を外來宗教とは呼んでいない。一神教であるキリスト教はその布教と共に布教した地の傳統信仰・民族信仰を滅ぼしてしまった。しかし、思想・文學・美術・建築など日本文化への佛教の影響は非常に大きいにもかかわらず、日本人は佛教をあくまでも外來宗教と呼んでいる。これは日本傳統信仰が滅ぼされることはなかったからである。

 

 日本における佛教は、既に千三百年の傳統を持っているが、日本傳統信仰に包容されつつ、日本において拡大再生産された宗教であると言っていいのである。

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千駄木庵日乗八月三十一日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理、『伝統と革新』編集の仕事など。

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