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2015年8月 9日 (日)

成文法によって國體が隠蔽されたり変革されたりしてはならない

法律(成文法)は共同生活を営む人間同士の契約文書である。といふことは、人間同士が本当に信頼し合って生きていく世の中であれば成文法などは本来不必要だとも言へる。成文法律は人間性悪説に立脚してゐると言っても過言ではない。

 

西洋の成文憲法の淵源とされる『マグナカルタ』(一二一五年、イギリスの封建諸侯が國王ジョンに迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。國王の専制から國民の権利・自由を守るための典拠としてイギリスの立憲制の支柱とされる)は、『國王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ「法治主義」を確立したとされる。『マグナカルタ』は、専制君主と封建諸侯との間の不信感から発して作られた契約文書にほかならない。つまり西洋成文憲法は基本的に「君主権力に対する制限規範」である。

 

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであるから、國民が作った人工的な成文法によって制限され、規制されるご存在ではない。

 

伊藤博文は、明治十五年に書いたといふ岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦國の體裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に國憲を定め國會を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや」(『伊藤博文傳』中巻)と論じてゐる。さらに、伊藤博文は、『大日本帝國憲法義解』において、「恭て按するに天皇の宝祚は之を祖宗に承け之を子孫に傳ふ國家統治権の存する所なり而して憲法に殊に大権を掲けて之を条章に明記するは憲法に依て新設の義を表するに非すして固有の國體は憲法に由て益々鞏固なることを示すなり。」と論じてゐる。

 

政體が制度的・法的に確立した時期よりはるか以前、すなはち天孫降臨以来、天皇はわが國に君臨せられてゐたのである。

 

野口武彦氏は、「美濃部達吉は『帝國の國體と帝國憲法』(大正二年)といふ著書で、『國體』とは『國家の成立する基礎たる精神』、『國家団結の基づく所の民族精神』であり、従って『単純なる法律上の観念に非ず』といい、さらに『國體は憲法上の観念に非ずして主としては倫理上の観念なり。憲法は國の政治組織を定むと雖も國體を定むることなし』と明言してゐる。そして『政體』の概念については、『我が帝國の國體に基く憲法上の特色は萬世一系の皇統を君主として奉戴する君主政體なることに存す』とい命題が明確に述べているとおり、これを國家の政治組織と定義しているのである」(『王道と革命の間』)と述べてゐる。

 

國體と政體は明確に区別されなければならない。そして成文法によって國體が隠蔽されたり変革されたりしてはならない。

 

日本國の最高権威は天皇以外に存在しない。故に天皇の仰せ事は最高に権威のある「御言葉」である。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「仰せごと」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法(のり)」である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ないし、あってはならない。國體の上に成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。

 

「すめらみこと」の「すめら」は、濁りなく清らかで最も高く最も貴いの語根であり、「みこと」は「みこともち」(御言持ち)の事である。『祝詞』に、「皇親神漏岐(すめむつかむろぎ)神漏美(かむろみ)のみこともちて」とある。これは、「天皇が親しみ睦びたまふところの特に貴い皇祖神・男女二柱の神のお言葉を持ちて」といふ意である。つまり、「みこと」とは神の御言葉即ち神勅のことである。

 

「すめらみこと」とは、最高最貴の天津神のみ言葉・神勅を奉じされお方といふ意である。すなはち日本天皇は、天照大御神の神勅を體しこれを地上において實行される尊い御存在なのである。天津神の御命令を受けて、そのご意志をこの現實の中つ國において實現されるお方が天皇であらせられる。

 

わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の國柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣()べられた「のりごと」が最高の「法」である。これを「みことのり()」と申し上げる。「のり」は宣言するといふ意である。天皇が宣言せられた「み言葉」が最高の「のり()」なのである。わが國では「詔」「宣命」と「法」とはその本質において同一である。「詔勅」は天皇を通して発せられた神の御意志なのである。天皇の「おほみことのり」がわが国の最高最尊の「法」なのである。

 

天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家たる日本の「法」と、契約國家・権力國家の「法」とは根本的に異なるのである。日本においては天皇の御命令がそのまま絶対の法なのであるが、契約國家・権力國家における「法」はまさに権力者と國民との「契約条項」なのである。

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