« 千駄木庵日乗八月五日 | トップページ | 溝口佐知子さんの正論 »

2015年8月 6日 (木)

徳川幕府瓦解の原因は「征夷大将軍」の職責を全うできなくなったことにある

徳川家康が、政治的・軍事的覇者となり、徳川宗家が征夷大将軍職を世襲することとなり得たのは、徳川氏が他の武家勢力を軍事的に圧倒したからである。つまり強い者勝ちの覇道政権である。そもそも武家政権は軍事政権であり、幕府といふ名称は幕で覆った簡略な指揮所・司令部を意味し、幕府の職制機構も、戦時体制に応じた軍事政権の形を取ってゐる。

 

「征夷大将軍」とは、「夷狄を征伐する大将軍」といふ意味である。坂上田村麻呂が最初の征夷大将軍である。その後、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任ぜられて以来、兵馬の実権を握る者を表す呼称となった。徳川家康は天下を統一して、朝廷よりこの地位に任命された。以来、徳川氏がこの地位を独占する。

 

ところが、ペリー来航などまさに「夷狄」がわが国に対して圧迫を加える事態になった時、徳川幕府は、これに対して毅然とした対処をすることができなかった。つまり幕末の動乱期に入って、徳川幕府は、対外関係を自主的に解決する力を喪失したのである。日本侵略支配の意図のもとに開国・通商を迫る西欧諸国に対して国家防衛の方策を幕府自身によって打ち立て、それを実行する力がなかった。

 

嘉永六年(一八五三)、アメリカ東インド艦隊がペリー提督に率いられて浦賀に来航し開国を迫った。幕府はこの事態に対して、それまで国政に関して幕府が専断してゐたにも関はらず、外様大名を含めて、全ての大名に意見を求めた。さらに、時の主席老中・阿部正弘は、アメリカの国書を受領したことを、朝廷に報告した。「大政関東御委任」といふ鉄則を幕府自らが放棄したのである。

 

それ以前にも、幕府は、文化四年(一八〇七)に、蝦夷地におけるロシアとの紛争の状況を朝廷に報告してゐる。これを先例とした朝廷は、弘化三年(一八四六)に幕府に対して海岸防備の強化を命じ、対外情勢の報告を求めた。

 

徳川氏は、その肝心要の「夷狄を征伐する」といふ「征夷大将軍」の職責・使命を全うできなくなったのである。夷狄を征伐する力を喪失したのである。 徳川幕藩体制の瓦解の根本原因は実にここにあったのである。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。今日の外患の危機も、日本国民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛国心を持つことによって打開できると確信する。

|

« 千駄木庵日乗八月五日 | トップページ | 溝口佐知子さんの正論 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/62026909

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川幕府瓦解の原因は「征夷大将軍」の職責を全うできなくなったことにある:

« 千駄木庵日乗八月五日 | トップページ | 溝口佐知子さんの正論 »