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2015年8月30日 (日)

日本伝統信仰とその包容性  

 日本神道は原始信仰・低級信仰ではない。仏教国であった韓国そして儒教国であった支那もキリスト教に浸食されている。しかし、日本はそうではない。ここがいかに神道が高等宗教である証拠である。

 

 明治六年(一八七三)、キリスト教禁制の高札が撤廃されて以来、すでに百年余になる。特に昭和二十年以後には、すさまじいほどの布教努力を払っているキリスト教が、今日、日本で獲得した信者は一一六万人、日本の総人口比一%に過ぎないのである。日本人が無宗教であるならば、あるいは程度の低い宗教を信じているならば、キリスト教のような程度の高い宗教はまたたくまに広まるはずである。ところが日本におけるキリスト教の布教は、世界のキリスト教界でも問題になっているほど進まない。それはなぜであろうか。日本伝統宗教が高等宗教世界宗教によって抹殺されなかった不思議さをよくよく考えなければならない。

 

 一神教のキリスト教世界では、古代の神々をすべて否定した。そこには仏教の寛容さなど望むこともできないほどの苛烈さがあった。しかし、その中でも原始信仰として表現された三つ子の魂は、形を変えながら生き続けている。民族の固有の宗教は、異宗教との接触によって容易に消滅するものではなく、原始の魂として深く民族の底にひそみ、形を変えて共存する。

 

 わが日本の神道は形も変えずほぼ原始のままに継承され生き続けている。キリスト教を排除したからかもしれないが、驚くべき事実である。

 

 民族の三つ子の魂とは何時の時代を指すのかというと、大雑把な言い方になるが、“その民族が異文化との交流を持つ以前の時代”という程度に考えておきたい。これは折口信夫氏の神代の定義と同じである。

 

 五、六世紀以前でも、日本民族の異文化交流の事実は相当多数にのぼるであろう。そして、その影響もあったであろう。しかし、それらが民族の三つ子の魂の表現をも変えてしまうとまではいかなかったであろう。

 

 日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記伝』には次のように書かれている。「迦微(カミ)と申す名義(ナノココロ) は未ダ 思ヒ 得ず、さて凡て迦微とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御霊(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり、【すぐれタルトは、尊(タフト) きこと、功(イサヲ) しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云ふなり、さて人の中の神は、先ヅ かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐ス こと、申すもさらなり、…】抑迦微は如此(カクノゴト) く種々(クサグサ)にて、貴(タフト) きもあり賤(イヤシ) きもあり、強(ツヨ)きもあり弱(ヨワ)きもあり、善() きもあり悪(アシ)きもありて、心も行(シワザ) もそのさまざまに随(シタガ) ひて、とりどりにしあれば」と。

 

悪神も肯定している。西洋の神観念とは全く異なる。「人」と「神」との違いとは何か。「尋常」(ヨノツネ)の人即ち普通の人の共通項は注)エゴイズムであった。まさしく普通の人とは、自分が何よりもかわいい人たちなのである。とすれば、宣長のいう「尋常ならず」といわれる人は、自己に背いて他のために働く人ということになろう。事実、日本人は昔から、己れの命を捨てて、世のために、他のために尽くした人びとを神として祀ってきた。宣長がいう「一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし」に相当する神々である。

 

 天皇が現人神であるということはまさに無私の御存在であるからである。宣長のいう神の理解の中で、もう一つ大切なことは「可畏(カシコ) き物」という感情である。

 

 あらゆるものに神を認めようとする日本人の心情を「可畏き物」という感情によって把握しようとしたのである。

 

 「可畏し」という言葉には恐ろしい、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であろうが、それらを総合したような感情において神を考えるということであろう。まさに天皇に対しては「かしこし」という表現をしてきた。

 

 なぜ仏教はインドで滅びてしまったのであろうか。仏教はヒンズー教社会に根をおろすことができなかったのである。というよりも、あのどろどろしたヒンズー教の中に呑みこまれてしまった。

 

 原始宗教のような程度の低い宗教は別として、少なくともある程度洗練された宗教間の接触においては、すでに一つの宗教が民衆の中に確立され、その宗教を中心とした文化統合が行われているところでは、他の一方の宗教は容易に布教することはできない。ヒンズー教という、少なくとも神話をもち、哲学をもった宗教が、民衆の中に定着してしまった社会には、たとえ、仏教やイスラム教やキリスト教という世界宗教といえども入り込むことはできないということなのである。日本における仏教と神道の関係もこうであろう。

 

 仏教伝来は本来大事件であるはずのものである。なぜならば、一つの民族が、全く異なった宗教を受容するか否かということは、時により民族によっては宗教戦争にまで発展する可能性を含んでいるからである。しかし、『日本書紀』に記されていることは、蘇我・物部両氏の新たな仲違いという程度のもので、およそ宗教戦争などとは程遠いものである。国際派の蘇我氏と、民族派の物部氏とは、今までも事ごとに反目し合ってきた。そこにまた新しい政争の火種が舞い降りてきたために、両者はまたそれをめぐって対立したという程度であって、宗教をめぐっての真剣な論争になっていない。

 

 蘇我稲目の答えなど、外国が拝んでいるから日本も拝んだらよいであろう、というのであるから、宗教を何か流行物と同一に考えているようである。物部尾輿の奉答は、蕃神を礼拝したら国神が怒るであろう、というのであるから、まだ宗教的奉答の体をなしているといえるが、そこには政治的配慮がみえみえであって少しも信仰的ではない。最後の解決もすこぶる政治的解決であって、結局誰もが異宗教の受容という大事を別段の緊張もなく受け取っているのである。

 

 今の日本人の祖先たちのやりそうなことと思われておかしくもあるが、ここに「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ) きもの」を神とする日本人の神観念がはたらき、たとえそれが異国の蕃神であっても、よのつねのものではない力があるというならば、受け容れて拝んでもよいではないか、というものが基本的に存在していたと言ってよいであろう。良く言えば円融無礙であり、悪く言えばまことにルーズと言わなくてはならない。ここに日本の受容力・包容力がある。これが日本発展の基である。これを否定するのが創価学会である。

 

 日本に受け容れられる仏教のほうも、融通無礙であって、絶対神に対し信、不信の二者択一を迫るような教えではなかった。それは人間の制止についての深い思索の体系であったからであろう。両者には基本的に反発し合わなければならないものがなかったとも言える。

 

 仏教の日本への正式受容は、聖徳太子が摂政にお立ちになられた翌推古天皇二年二年(五九四)、「三宝興隆の詔」が発せられた時である。これはすなわち、仏教興隆の詔である。五三八年の仏教公伝は、公伝とはいえ、その後の取扱いにみられたように、私的であり、国家の方針というようなものではなかった。

 

 これに対し、この「詔」は日本国が正式に仏教を受容することにを定めたものであって、その意義はまことに大きい。この年、太子は父用明天皇のために法隆寺の建立に着手し、翌推古三年(五九五)、高句麗の僧慧慈の来日により仏教を学び、内に対しては、冠位十二階を定め、名憲法十七条を作成し、仏典を講じて『三経義疏』を著し、最後に『天皇記』『国記』を録して、推古天皇三十年(六二二)四十九歳をもって薨ぜられた。

 

 このご生涯の中で、太子が、伝来の仏教の中から何を求め、何をお捨てになられたかを学ばなければならない。

 

 仏教伝来と受容史を学ぶには聖徳太子の御事績を知らねばならない。また十七条には「篤く三宝を敬え」とあるし、詔は「三宝興隆」である。仏教を信仰するということは三宝一体に尊敬しなければならない。僧をおとしめ迫害するのは仏教の根本に反する。創価学会の日蓮正宗攻撃は、仏教の基本に反する行為である。

 

 『勝鬘経』に、「正法を摂受せんがために、三種の分を捨つ。…謂はく身と命(みょう) と財なり」とある。『玉虫厨子』には捨身飼虎の図がある。これは釈迦が前世で飢えに苦しむ母虎の餌になった物語を描いた図であり、施身聞偈(せしんもんげ)の図もある。これは釈迦が前世で真理を聞くために自分の身を帝釈天に捧げた物語の図である。どちらも捨身無我の図である。

 

 捨の心は『勝鬘経』の説く大切なところである。太子はその箇所を的確に把握され、それを観念としてではなく、現実生活における実践行として把握された。

 

 日本神観念の尋常ならずとは己の執着を捨てるということである。己れに執着し、己れを偏愛するものが、世のつねの姿であるこうした人を日本人は神とは称さない。「尋常ならずすぐれたる徳のありてかしこきもの」が神なのである。それは具体的に言えば、己れを捨てて、他に尽くす人である。

 

 『勝鬘経』が、身命財の三種の分を捨てることが、正しい仏法を身に付けることであると説き、その人を菩薩と称し、仏と称すると述べていることは、太子における日本人の伝統的神観念と一致するわけである。このようにして、日本人の神観念は、聖徳太子という人格を通して、異宗教である仏教を、その深奥において、何の抵抗もなく受け容れてきたと考えることができる。

 

 『十七条憲法』に「人みな党(たむら) あり、…」「人みな心あり。心おのおの執あり」「郡卿百寮、嫉妬あることなかれ」「およそ人私あれば必ず恨みあり」などとある。これらはみな無私・無我・捨身を説いている。これこそ日本の神観念の基であり、倫理感覚の基本なのであろう。これが仏教の無我の教え、捨身の教えに合致した。

 

 “日本人の信仰”の一本の流れとして、日本人の宗教観には、現実世界を重視する心というものがあると思う。生きている間に全力を尽くそうとする心、あるいは、人の世のほかに死後の世界というものをほとんど重く見ないという心と言ってもよい。この現実重視の心が日本人の信仰を形成する大きな一本の線である。

 

 『古事記』を見ても、死後の世界である黄泉国(よもつくに) のことに関しては、伊耶那岐命の黄泉国行きのことしか書いていない。聖徳太子が仏教を受容するに当たって、すべてのものは救われなければならない、しかもそれはいま生活しているこの場においててあるとした考え方は、民族の三つ子の魂としての日本人の宗教意識そのものではなかったかと言いたい。三宝興隆の詔は両刃の剣である。太子は仏教渡来による一層の日本文化興隆か外来文化による日本の基盤喪失かの、巌頭に立って、よく採るべきものは採り、捨てるべきものは捨て、これを日本伝来の文化と総合され、それ以後今日まで千四百年にわたる日本文化の基礎を確立されたのである。日本人の包容性と仏教受容における聖徳太子の役割は重大である。外来文化受容包摂における皇室は重要な役割を果たされたのである。

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