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2015年8月19日 (水)

大原康男国学院大学名誉教授による「靖國祭祀の原型としての楠公祭」と題する講演の内容

 

五月二十五日に執行された『楠公祭』における大原康男国学院大学名誉教授による「靖國祭祀の原型としての楠公祭」と題する講演の内容は次の通り。

 

「『楠公祭』は大楠公を景仰する人々によって続けられ、日本國體信仰の一つの表れ。幕末の尊皇思想は、崎門学(注・近世前期の儒学者山崎闇斎学派の思想)・水戸学・国学によって培われてきた。ペリー来航などの国家的危機に直面して激烈な攘夷思想と結びつき、それが統治能力を失った幕藩体制を超えて、天皇の傳統的権威のもとで新しい国家体制をめざす精神的エネルギーとなった。その根底にあるのが楠公精神。

 

大楠公景仰には二つの面がある。一つは室町から戦国時代においては楠公を戦略・平方・軍掠・智謀の人として尊崇した。もう一つは、道徳的に完成した英傑、大義のために命を懸けて一族で忠誠の一念を捧げた人として楠公崇拝。以上の二面がある。

 

楠公は『仮にも大君を怨み奉る心が起らば、天照大神の御名を唱うべし』と言った。その精神を一身に背負った人が松陰。松陰は『天照の神勅に「日嗣之隆(あまつひつぎのさかえまさんこと)、与天壌無窮(あめつちときはまりなかるべし)」と之有り候。神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正氣重ねて発生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり』と書いている。

 

足利尊氏が幕府を開いた室町時代から一貫して楠公に対する尊崇の念が継承された。とりわけ大きな政治的力となったのが幕末明治維新の時。

 

国家の功労のあった忠節烈士を祭祀する風習を復興すべしと主張した先駆者が會澤正志斎。真木和泉は、文久二年に有馬新七などへの祭祀を斎行。毛利敬親元治元年、楠公祭に従祀して吉田松陰ら安政の大獄で亡くなった人に対する祭典斎行。尾張藩主・徳川慶勝は、慶応三年に捧呈した『楠公社造立の建議』で摂社として『近古以来国事の為に身を亡ぼし、未収恤を不蒙者』を祀ることを提言。徳川慶勝は高須藩主の子。松平容保の兄。御三家筆頭。

 

王政復古の際、『神武創業の始』に戻すとして、新しい国づくりを行った。建武の中興、大化の改新を理想とするよりも神武創業を理想とした。

 

明治元年に『癸丑以来、殉難者の霊を京都東山に祭祀する件』との『太政官布告』が出された。明治二年、東京招魂社創建。鳥羽伏見から函館戦争までの戦没者を祀る。明治二十三年に靖国神社と社名を改める。明治五年、湊川神社創建。祭神は楠公。楠木正行は明治二十二に、四条畷神社に祀られる。全国の神社は内務省、靖國神社は陸海軍省が管理。敗戦後の占領初期に出された『神道指令』によってやむなく民間の宗教法人となった。

 

昭和十五年、情報戦士養成を目的として陸軍中野学校創立。構内に楠公社を立てて精神教育を行った。國體学演習では現地に学び楠公の戦績を偲んだ。昭和十九年、二俣分校が設立されて残置諜者・後方攪乱要員を育成。小野田寛郎氏はその一人。神風特別攻撃隊、回天特別攻撃隊の隊名に大楠公ゆかりのもの多し。楠公景仰の心から、靖國神社ら祀られている英霊を顕彰して、悲しくも雄々しい精神を我々も背負って行かねばならない」。

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