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2015年8月30日 (日)

日本伝統信仰とその包容性  

 日本神道は原始信仰・低級信仰ではない。仏教国であった韓国そして儒教国であった支那もキリスト教に浸食されている。しかし、日本はそうではない。ここがいかに神道が高等宗教である証拠である。

 

 明治六年(一八七三)、キリスト教禁制の高札が撤廃されて以来、すでに百年余になる。特に昭和二十年以後には、すさまじいほどの布教努力を払っているキリスト教が、今日、日本で獲得した信者は一一六万人、日本の総人口比一%に過ぎないのである。日本人が無宗教であるならば、あるいは程度の低い宗教を信じているならば、キリスト教のような程度の高い宗教はまたたくまに広まるはずである。ところが日本におけるキリスト教の布教は、世界のキリスト教界でも問題になっているほど進まない。それはなぜであろうか。日本伝統宗教が高等宗教世界宗教によって抹殺されなかった不思議さをよくよく考えなければならない。

 

 一神教のキリスト教世界では、古代の神々をすべて否定した。そこには仏教の寛容さなど望むこともできないほどの苛烈さがあった。しかし、その中でも原始信仰として表現された三つ子の魂は、形を変えながら生き続けている。民族の固有の宗教は、異宗教との接触によって容易に消滅するものではなく、原始の魂として深く民族の底にひそみ、形を変えて共存する。

 

 わが日本の神道は形も変えずほぼ原始のままに継承され生き続けている。キリスト教を排除したからかもしれないが、驚くべき事実である。

 

 民族の三つ子の魂とは何時の時代を指すのかというと、大雑把な言い方になるが、“その民族が異文化との交流を持つ以前の時代”という程度に考えておきたい。これは折口信夫氏の神代の定義と同じである。

 

 五、六世紀以前でも、日本民族の異文化交流の事実は相当多数にのぼるであろう。そして、その影響もあったであろう。しかし、それらが民族の三つ子の魂の表現をも変えてしまうとまではいかなかったであろう。

 

 日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記伝』には次のように書かれている。「迦微(カミ)と申す名義(ナノココロ) は未ダ 思ヒ 得ず、さて凡て迦微とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御霊(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり、【すぐれタルトは、尊(タフト) きこと、功(イサヲ) しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云ふなり、さて人の中の神は、先ヅ かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐ス こと、申すもさらなり、…】抑迦微は如此(カクノゴト) く種々(クサグサ)にて、貴(タフト) きもあり賤(イヤシ) きもあり、強(ツヨ)きもあり弱(ヨワ)きもあり、善() きもあり悪(アシ)きもありて、心も行(シワザ) もそのさまざまに随(シタガ) ひて、とりどりにしあれば」と。

 

悪神も肯定している。西洋の神観念とは全く異なる。「人」と「神」との違いとは何か。「尋常」(ヨノツネ)の人即ち普通の人の共通項は注)エゴイズムであった。まさしく普通の人とは、自分が何よりもかわいい人たちなのである。とすれば、宣長のいう「尋常ならず」といわれる人は、自己に背いて他のために働く人ということになろう。事実、日本人は昔から、己れの命を捨てて、世のために、他のために尽くした人びとを神として祀ってきた。宣長がいう「一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし」に相当する神々である。

 

 天皇が現人神であるということはまさに無私の御存在であるからである。宣長のいう神の理解の中で、もう一つ大切なことは「可畏(カシコ) き物」という感情である。

 

 あらゆるものに神を認めようとする日本人の心情を「可畏き物」という感情によって把握しようとしたのである。

 

 「可畏し」という言葉には恐ろしい、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であろうが、それらを総合したような感情において神を考えるということであろう。まさに天皇に対しては「かしこし」という表現をしてきた。

 

 なぜ仏教はインドで滅びてしまったのであろうか。仏教はヒンズー教社会に根をおろすことができなかったのである。というよりも、あのどろどろしたヒンズー教の中に呑みこまれてしまった。

 

 原始宗教のような程度の低い宗教は別として、少なくともある程度洗練された宗教間の接触においては、すでに一つの宗教が民衆の中に確立され、その宗教を中心とした文化統合が行われているところでは、他の一方の宗教は容易に布教することはできない。ヒンズー教という、少なくとも神話をもち、哲学をもった宗教が、民衆の中に定着してしまった社会には、たとえ、仏教やイスラム教やキリスト教という世界宗教といえども入り込むことはできないということなのである。日本における仏教と神道の関係もこうであろう。

 

 仏教伝来は本来大事件であるはずのものである。なぜならば、一つの民族が、全く異なった宗教を受容するか否かということは、時により民族によっては宗教戦争にまで発展する可能性を含んでいるからである。しかし、『日本書紀』に記されていることは、蘇我・物部両氏の新たな仲違いという程度のもので、およそ宗教戦争などとは程遠いものである。国際派の蘇我氏と、民族派の物部氏とは、今までも事ごとに反目し合ってきた。そこにまた新しい政争の火種が舞い降りてきたために、両者はまたそれをめぐって対立したという程度であって、宗教をめぐっての真剣な論争になっていない。

 

 蘇我稲目の答えなど、外国が拝んでいるから日本も拝んだらよいであろう、というのであるから、宗教を何か流行物と同一に考えているようである。物部尾輿の奉答は、蕃神を礼拝したら国神が怒るであろう、というのであるから、まだ宗教的奉答の体をなしているといえるが、そこには政治的配慮がみえみえであって少しも信仰的ではない。最後の解決もすこぶる政治的解決であって、結局誰もが異宗教の受容という大事を別段の緊張もなく受け取っているのである。

 

 今の日本人の祖先たちのやりそうなことと思われておかしくもあるが、ここに「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ) きもの」を神とする日本人の神観念がはたらき、たとえそれが異国の蕃神であっても、よのつねのものではない力があるというならば、受け容れて拝んでもよいではないか、というものが基本的に存在していたと言ってよいであろう。良く言えば円融無礙であり、悪く言えばまことにルーズと言わなくてはならない。ここに日本の受容力・包容力がある。これが日本発展の基である。これを否定するのが創価学会である。

 

 日本に受け容れられる仏教のほうも、融通無礙であって、絶対神に対し信、不信の二者択一を迫るような教えではなかった。それは人間の制止についての深い思索の体系であったからであろう。両者には基本的に反発し合わなければならないものがなかったとも言える。

 

 仏教の日本への正式受容は、聖徳太子が摂政にお立ちになられた翌推古天皇二年二年(五九四)、「三宝興隆の詔」が発せられた時である。これはすなわち、仏教興隆の詔である。五三八年の仏教公伝は、公伝とはいえ、その後の取扱いにみられたように、私的であり、国家の方針というようなものではなかった。

 

 これに対し、この「詔」は日本国が正式に仏教を受容することにを定めたものであって、その意義はまことに大きい。この年、太子は父用明天皇のために法隆寺の建立に着手し、翌推古三年(五九五)、高句麗の僧慧慈の来日により仏教を学び、内に対しては、冠位十二階を定め、名憲法十七条を作成し、仏典を講じて『三経義疏』を著し、最後に『天皇記』『国記』を録して、推古天皇三十年(六二二)四十九歳をもって薨ぜられた。

 

 このご生涯の中で、太子が、伝来の仏教の中から何を求め、何をお捨てになられたかを学ばなければならない。

 

 仏教伝来と受容史を学ぶには聖徳太子の御事績を知らねばならない。また十七条には「篤く三宝を敬え」とあるし、詔は「三宝興隆」である。仏教を信仰するということは三宝一体に尊敬しなければならない。僧をおとしめ迫害するのは仏教の根本に反する。創価学会の日蓮正宗攻撃は、仏教の基本に反する行為である。

 

 『勝鬘経』に、「正法を摂受せんがために、三種の分を捨つ。…謂はく身と命(みょう) と財なり」とある。『玉虫厨子』には捨身飼虎の図がある。これは釈迦が前世で飢えに苦しむ母虎の餌になった物語を描いた図であり、施身聞偈(せしんもんげ)の図もある。これは釈迦が前世で真理を聞くために自分の身を帝釈天に捧げた物語の図である。どちらも捨身無我の図である。

 

 捨の心は『勝鬘経』の説く大切なところである。太子はその箇所を的確に把握され、それを観念としてではなく、現実生活における実践行として把握された。

 

 日本神観念の尋常ならずとは己の執着を捨てるということである。己れに執着し、己れを偏愛するものが、世のつねの姿であるこうした人を日本人は神とは称さない。「尋常ならずすぐれたる徳のありてかしこきもの」が神なのである。それは具体的に言えば、己れを捨てて、他に尽くす人である。

 

 『勝鬘経』が、身命財の三種の分を捨てることが、正しい仏法を身に付けることであると説き、その人を菩薩と称し、仏と称すると述べていることは、太子における日本人の伝統的神観念と一致するわけである。このようにして、日本人の神観念は、聖徳太子という人格を通して、異宗教である仏教を、その深奥において、何の抵抗もなく受け容れてきたと考えることができる。

 

 『十七条憲法』に「人みな党(たむら) あり、…」「人みな心あり。心おのおの執あり」「郡卿百寮、嫉妬あることなかれ」「およそ人私あれば必ず恨みあり」などとある。これらはみな無私・無我・捨身を説いている。これこそ日本の神観念の基であり、倫理感覚の基本なのであろう。これが仏教の無我の教え、捨身の教えに合致した。

 

 “日本人の信仰”の一本の流れとして、日本人の宗教観には、現実世界を重視する心というものがあると思う。生きている間に全力を尽くそうとする心、あるいは、人の世のほかに死後の世界というものをほとんど重く見ないという心と言ってもよい。この現実重視の心が日本人の信仰を形成する大きな一本の線である。

 

 『古事記』を見ても、死後の世界である黄泉国(よもつくに) のことに関しては、伊耶那岐命の黄泉国行きのことしか書いていない。聖徳太子が仏教を受容するに当たって、すべてのものは救われなければならない、しかもそれはいま生活しているこの場においててあるとした考え方は、民族の三つ子の魂としての日本人の宗教意識そのものではなかったかと言いたい。三宝興隆の詔は両刃の剣である。太子は仏教渡来による一層の日本文化興隆か外来文化による日本の基盤喪失かの、巌頭に立って、よく採るべきものは採り、捨てるべきものは捨て、これを日本伝来の文化と総合され、それ以後今日まで千四百年にわたる日本文化の基礎を確立されたのである。日本人の包容性と仏教受容における聖徳太子の役割は重大である。外来文化受容包摂における皇室は重要な役割を果たされたのである。

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千駄木庵日乗八月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、春日の文京シビックセンターにて、『第五十四回日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「『教育勅語』を拝し奉りて」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆など。

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この頃詠みし歌

大空に浮かぶ白雲爽やかな心となりて仰ぐ朝かな

 

戦争法案謝罪談話といふ言葉汚らわしき響きとなりて満ちゐる

 

祓給へ浄め給へと祈るなり醜の醜草繁りゐる世を

 

原稿を書き終へし後 酷使せし眼をいたはりてしばし閉じゐる

 

亡国野党偏向メディアをなぎ倒し安倍晋三は正道を行け

 

七十年を経ても侵略国家なりと罵られゐることの悔しさ

 

友愛などと安易に唱へ土下座して自己満足する人の愚かさ

 

外つ國へ行きて土下座する元総理あきれ果てたるその愚かさよ

 

坂道をのぼれぱ高きクレーン車が動きゐるなり我を押しつぶす如く

 

まろき顔の和やかな人と挨拶し心のどかになりにけるかも

 

御霊鎮めのみまつりの庭に蝉しぐれ響きて止まぬ晩夏の夕べ、(尊攘義軍殉皇十二烈士女七十年祭)

 

のぼり来し愛宕の山の蝉しぐれ遠き日のままに今日も響けり()

 

久しぶりに愛宕の山にのぼり来て蝉しぐれ聴くみまつりの夕べ()

 

涼しき日々となりたることを喜びて部屋の掃除を丹念にする

 

老夫婦の営む蕎麦屋に一人来てそば焼酎を呑みてたらへり

 

高きピルに囲まれ鎮まるみやしろに手を合はせ立つ湯島天神

 

久しぶりに湯島天神に参り来て足かばひつつ男坂くだる

 

夕暮の湯島天神に若き男女が祈り捧げる姿好もし

 

合格祈願の絵馬を眺めて若き人らが生きる姿を尊しと思ふ

 

松の緑美しく映える皇居前 わが日の本は永久に栄えむ

 

遠き所に住みゐる人を恋ほしみて面影偲べど空しかりけり

 

はじめて来し駅の周りを眺めれば何処(いづこ)にもあるチェーン店ばかり

 

急な道を息切らしのぼる夕つ方 母のゐませる施設に行かむと

 

「戦友」といふ悲しき歌をわが母は歌ひたまへり静かなる声で

 

母が歌ふ「時計ばかりがコチコチと」といふ歌詞聞けば胸迫るなり

 

たらちねの母は食欲旺盛にお菓子を頂戴と言ひたまふなり

 

わが母はテラスのひまわり眺めつつきれいだねと我につぶやきたまふ

 

この施設のこの部屋がわが母の終の棲家と思へば悲し

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2015年8月29日 (土)

千駄木庵日乗八月二十九日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明日の「日本の心を学ぶ会」における講演の準備、『政治文化情報』原稿執筆。

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水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

 徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与えた人物である。自ら先頭にたって藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求めつつげた。ために、六十三歳でその生涯を終えるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

 弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救うための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもこうした教育振興策が講じられた。

 

 弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べている。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

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千駄木庵日乗八月二十八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。明後日行われる『日本の心を学ぶ会』における講演の準備など。

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2015年8月27日 (木)

日本國及び日本國民は天皇の神聖なる權威によって護られて来た

蒙古の侵略・大東亜戦争をはじめとして、わが日本は建國以来さまざまに國難に遭遇した。しかし、如何なる困難に直面してもわが國家・民族が滅亡することがなかったのは、日本國及び日本國民が、國家の安泰と國民の幸福を常に神に祈られる天皇にお護り頂いて来たことによるのである。天皇がいましてこそ、今までの、そして今日の、さらに将来の日本國及び日本國民があるのである。

 

日本天皇は、日本國及び日本國民を武力や權力によって護って来られたのではない。その神聖なる權威によって護って来られたのである。そしてその神聖權威は、天皇が常に日本の神を祭り神に祈られる祭祀主であらせられるところから発する。蒙古襲来の時も大東亜戦争の時も、天皇は御一身を神に捧げられる御心で神に祈られた。

 

何故、天皇は神聖なる御存在であるのか、それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はないのである。このことをまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはないのである。

 

「神話の精神」と言うと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がいる。しかし、神話は荒唐無稽な伝承ではない。神話において語られているのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実なのである。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られているのである。そして「日本神話の精神」は、は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持っている。

 

しかも日本民族の「神話の精神」はただ単に『古事記』『日本書紀』といった文献だけでなく、「天皇の祭祀」という「生きた行事」によって今日まで継承され語られているのである。 

 

神話には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の伝統的思想精神の結晶である神話への回帰こそがほとんど絶望的と言われている現代の混迷を打開する方途である。

 

 

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千駄木庵日乗八月二十七日

午前は、諸雑務。

午後一時半より、目黒にて、佐々淳行氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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世界でも類を見ないわが國独自の現象=神佛習合

 日本人は模倣が上手だとか言われるが、外國の文化や文明を模倣のみによって日本文化・文明・思想は成立しているのではない。外来思想の輸入は、必ず日本本来の思想精神を契機にしている。強靱なる伝統精神が厳然存在していたからこそ、日本民族は外國の文化・思想・宗教・技術を幅広く寛大に輸入し、さらに発展させ自己のものとしたのである。

 

 佛教が日本に受容されたのは、佛教と日本伝統信仰の根底にある自然観が、非常に共通するものがあったからである。日本人は、天地に遍満する自然神を八百万の神として仰いだ。佛教も、天地自然を佛の命として拝んだ。自然と日本の神と佛の三つは一つのものとして把握されたのである。。神佛習合(日本の神道と外来の佛教とを結びつける信仰思想)は日本の麗しい自然環境が生んだ。

 

 自然だけではない。人間自身も神佛と分かちがたい存在として信じられた。日本伝統信仰における『人間観』は、人は神から生まれた存在であり、人は神の分霊(わけみたま)であるという信仰である。人はすぐに神になるし神もまたすぐ人間となる。天照大神やその弟神であられる須佐之男命をはじめとした日本の多くの神々は、人間と隔絶した存在ではない。太陽神である天照大神もまた弟神の須佐之男命もほとんど人と同じように悩まれ、戦われる。それでいて、人と國土を守り、万物を育み給い導く神である。

 

 神佛習合は、世界でも類を見ないわが國独自の現象である。大陸から盛んに文化を輸入していた時期である七~八世紀にすでに神佛習合の素地は形成された。大陸文化の摂取がいかに盛んであっても、日本の独自の精神文化が、常に摂取した外来文化を日本化してした。これは日本の伝統文化が豊かな包容力を持っていると共に強靱さを持っていることを証明する。

 

 だから日本では外國では考えられないようなことが行われている。即ち、神社という日本神道の聖所に、本来全く別の宗教であり外来宗教である佛教の聖所であるお寺が建てられ、あるいはその逆にお寺の中に、神社が建てられていても、また佛教の信仰の対象であるおマンダラに、日本の神の名が書かれても、何の不思議も感じないという事実である。

 

 平安時代になって大陸文化の直接的な影響が希薄になり、文化の國風化現象が起こった。和歌・物語・随筆・日記文学において、建築・絵画・書道・彫刻などにおいて、そして宗教において、日本独自の文化が発達してきた。そして宗教においてはますます神佛習合が促進された。

 

 佛教と日本の伝統信仰とが、融合する形で現れたのが天台本覚論である。天台本覚論とは、平安後期に始まり、中世に盛行した現実を肯定的にとらえる佛教理論で、「本覚」とは人間に本来的にそなわっている悟りの心のことである。天台本覚論は、人間および天地自然は佛の命そのものであると説く。天台本覚論には「一切衆生悉有佛性」(天地一切の生きとし生けるものはすべて佛性を持っている)「草木國土悉皆成佛」(草木も國土もみな成佛している)という言葉がある。これは日本伝統信仰の自然の神を見る精神と同じである。

 

 日本において、自然も人間も佛と分かちがたい存在であるとする天台本覚論が生まれたのは、現実世界をそのまま神の生きる國であるとする現世肯定的な日本の伝統信仰があったからである。本覚思想が佛教の融合を促進した理論であったと共に、本覚思想を生んだのも日本伝統信仰だったのである。

 

 また、念佛を唱えれば救われる、題目を唱えれば救われると説く、浄土真宗や日蓮宗が生まれ広まったのは、神の道に随順して生きるのが人の道であるとする神道の根本思想と共通するものがあったからである。

 

 天台本覚思想の影響を受けた親鸞や日蓮の宗教も神道が形を変えたものと言ってもいいし、日本の伝統信仰に回帰した佛教であると言ってもいいのである。そして、そうした日本の佛教によって日本人の伝統的な信仰精神はより深化されたのである。

 

 寛容にして包容力豊かな日本伝統信仰があったからこそ、日本において佛教が広まったのである。日本伝統信仰には、佛教やキリスト教のような教義体系は無い。しかし、教義・教条を超越した大きな信仰精神があるのである。それが大きくそして強靱な土壌として存在しているからこそ、佛教のみならず多くの外来思想や文化を摂取したのである。

 

 日本の佛教受容(神佛習合思想)の形成において本覚思想と共に重要な役目を果たしたのが、本地垂迹(ほんちじすいじゃく)思想である。「本地」とは物の本源、本来の姿をいい、佛や菩薩が一切衆生を救済するために時と場所に応じて仮の姿を現すという考え方である。日本の神々は、本地である佛や菩薩が日本において仮の姿を現した存在であるとする。

 

 この思想によれば神と佛は全く対立する存在ではなくなる。神佛は一つのものの両面に過ぎない関係であって、その両面を本地と垂迹という言葉で表現したということになる。天地の奥に実体として久遠に流れる生命そのものを、あるいは神あるいは佛という名称を付けて崇敬する精神である。

 

 そもそも日本の神は、他界から来臨する。邇邇藝命のように天上から降られる神もいれば、塩椎の神のように海の彼方から来られる神もいる。ゆえにインドの佛が日本にやって来て神として姿を現すという信仰も生まれやすかったのである。

 

 こうした信仰を、後西天皇は、

 

「神のめぐみ佛のをしへふたつ無くたゞ國はこの道ぞかし」

 

と詠まれ、

 

崇徳天皇は、

 

「道のべのちりにひかりをやはらげて神も佛のなのりなりけり」

 

と詠まれている。 

 

 天台本覚論や本地垂迹説の根底には、日本人の篤い敬神思想があった。だから、信仰共同体日本の相互連帯の根幹にあった神への信仰が、佛への信仰よりも先行している。これは今日の町村という共同体における生活の実態を見ても、その共同体の相互連帯の中心は、お寺よりも神社であるのが一般的である。東京においては、山王日枝神社・神田明神・浅草神社・根津神社・富岡八幡宮などの祭りが、それぞれの地域の共同意識・連帯感の中核になっている。

 

 日本が佛教國といわれるまでに全國津々浦々に寺院があり、日本國民の殆どが何処かのお寺の檀家になっているのは、徳川時代初期に宗門改め(徳川幕府がキリシタン禁圧のために設けた制度で、各家・各人ごとに佛教の宗旨を調べ、寺に信者であることを証明させた)によるものである。これにより日本國民の殆どがいずれかの寺の管轄に属さざるを得なかった。つまり、日本國が佛教國と言われるようになったのは、権力の強制によるものと言っても過言ではない。

 

 これに反して、神社への崇拝は何ら権力の強制ではない。法事以外ではお寺の付き合いのない家や個人も、神社参りやお祭りへの参加は自由にそして盛んに行われてきた。神事が優位に立ち、佛事は副次的であった。

 

 本地垂迹説は、平安末期より鎌倉時代にかけて神が本地であって佛は神の仮の現れであるという、神本佛迹説へと発展していくのである。特に元の来襲による神國思想の高まりがそれを促進した。元の軍隊は神風によって滅びたと信じた日本人は、天照大神を中心とした日本の神々が日本國を守り給うという信仰が強まれば強まるほど、神國思想が強固になっていったからである。

 

 こういう傾向が、鎌倉時代には両部神道(伊勢神道に真言宗を習合したもの・天照大神の本地は大日如来とする説)の次のような説を生む。両部神道の代表的な著作『中臣祓訓解』には「神は即ち諸佛の魂、佛は則ち諸神の性なり…是れより東の方、八十億恒河沙の世界を過ぎて、一佛國土有り。名づけて大日本國と云ふ。神聖(かみ)其の中に座(いま)せり。名づけて大日霊貴(おほひるめむち)と曰(もう)す。当に知るべし、生を此の國に受けたる衆生は、佛威神力を承けて、諸佛と共に其の園に遊ぶ。」と書かれている。大日霊貴とは天照大神の御事である。佛教の立場に立ちながらも、日本國を天照大神のいます佛國土と讃えている。これは神國思想そのものである。

 

 さらに室町時代末期に吉田神道を生む。吉田神道は、吉田兼倶という人が大成した神道の一派で、神道・儒教・佛教・道教・陰陽道の関係を説き、神道を万法の根本とし、神主佛従の立場に立ち神本佛迹を説いた。

 

 吉田兼倶の著書『唯一神道名法要集』の典拠になったのは、慈遍(南北朝時代の天台宗の僧侶・徒然草の吉田兼好の兄で後醍醐天皇の信任が厚かった)『旧事本紀玄義』の巻五で、それには「抑も和國は三界の根にして、余州を尋ぬれば此國の末なり。…その効用を論ずれば本は神國にあり。唐は枝葉を掌り、梵(インド)は果実を得、花は落ちて根に帰す。果は流れを受くるのみ」(日本國は世界の根であって、他の國は日本の末である。根本は神國日本であり、支那やインドは枝葉や果実である、というほどの意)という日本中心思想が説かれている。

 

 また、天武天皇の御代以降、國家的祈願を行う時は、神事(祭祀によって神に祈願する)・佛事(法要によって佛に祈願する)の両様が用いられたが、やはり数において神事が優位に立っているという。また神事によるものは地域的範囲が広く、佛事によるものは京都や近畿地方内に限られていたという。そして神事と佛事が同時に行われる場合は、神事を先にしたという。つまり國家的祈願は、神事によるものが優位に立ち、佛事によるものは副次的であったということである。 

 

 日本神道は元来教義・教条を持たなかったが、佛教との融合によって日本神道の中に教義を持つものが生まれた。両部神道(真言宗の立場からの神道解釈に基づく神佛習合思想)伊勢神道(伊勢の外宮の神官度会氏が唱えた神道説で、儒教や佛教の説を取り入れている)山王神道(天台宗の教義と習合した佛教的神道)などの発生がそれである。これらは佛教の強い影響を受けた教義を持っているが、こうした佛教や儒教の教義と融合した神道教義の出現が、その反動として後に、神道の純粋性・優越性を主張する立場を生んだ。これが近世國学思想である。

 

 日本人は、佛教に帰依することによって日本伝統信仰を捨てさることはしなかった。神佛を同時に崇めることに矛盾を感じなかった。外来の佛教は日本伝統信仰と融合することなくして日本に定着することはできなかったのである。日本民族は何百年という歴史の流れの間に佛教を日本化し自家薬籠中のものとして信じたのである。

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千駄木庵日乗八月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時半より、丸の内の東京国際フォーラムで開催された『第四回東京国際コンサート プラシド・ドミンゴと、深見東州となかまたち」鑑賞。盛会であった。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2015年8月26日 (水)

辞世の歌に学ぶ

 この世を去るに臨み、自己の感懐を三十一文字に託して表白することは、日本古来の風儀である。これを辞世の歌という。「人の将に死せんとする、その言や善し」といわれて来た通り、人は死に臨んだ時こそ、その真心を訴え・魂の心底からの叫びを発するのである。死に望んだはそしてそれは多くの人々の共感を呼ぶ。

 

日本武尊の辞世

 

 本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

 嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや

 

 命は東征の帰路、能煩野(のぼの・今日の三重県山中)に至って病が重くなりたまい、この歌を詠まれてお隠れになった。「乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ」というほどの意。英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた命の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌われている。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

大津皇子の辞世

 

 萬葉集に収められた辞世の歌でもっとも有名なのは、大津皇子の次の御歌である。

 

 百伝(ももづたふ)磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

 天武天皇の第三皇子であられた大津皇子が、天武天皇崩御直後の朱鳥元年(六八六)、謀反の罪に問われ、死を賜った時の御歌である。「(百伝ふは枕詞)磐余の池に鳴く鴨を今日を見納めとして自分は死んで行くことであろう」というほどの意である。死に臨んでの再び見ることのできない光景に自らの全生命を集約させた歌いぶりで、詠むものに大きな感動を与える。「雲隠り」と詠んだところに、肉体は滅びても生命は永遠であるという日本人の伝統的な信仰が表れている。この信仰が「七生報国」の精神につながるのである。

楠木正行の辞世

 

 かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる

 

 これは、南朝の忠臣楠木正行が足利高氏の大軍を河内の四条畷に迎え撃ち、壮烈な戦死を遂げる直前、同志と共に、後醍醐天皇の吉野の御陵に参拝し、そのふもとにある如意輪堂の壁板に矢立硯で書き留めた辞世の一首で、再び生還しないという悲壮なる決定(けつじょう)を詠んだ歌である。この時正行は鬢の髪を少し切って仏殿に投げ入れ敵陣に向かったという。湊川楠公戦死の場面と、この正行最後の参内の場面とは、『太平記』の中でも最も人の心を動かし、涙をさそう段である。

 四條畷の戦いは、正平三年(一三四八)正月五日の早朝開始され、楠木勢は北進し、高師直の軍に肉迫し、師直もあわやと思われたのであったが、遂に楠木勢は力尽き、正行と舎弟正時とは立ちながら刺し違えて、同じ枕に臥したという。

 

吉田松陰の辞世

 

 幕末勤皇の志士の辞世の歌は数多い。その代表的な歌が、吉田松陰の次の歌であろう。 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 

 安政の大獄によって幕府に捕らえられた松陰は死罪の判決を受け、安政六年(一八五九)十月二十七日、従容として斬首の刑を受けたのである。松陰先生時に歳三十。先生は獄中において「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん」「呼び出しの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな」という歌も詠まれている。さらに松陰は、

 

 吾今国ノ為ニ死ス 死シテ君親ニ背ズ 悠々タリ天地ノ事 鑑賞明神ニアリ

 

という詩も遺した。門下生は師・松陰の死に奮い立ち、その意志を継ぐべく、覚悟も新たに激動の時代を・維新回天の聖業に邁進するのである。

 

乃木大将御夫妻の辞世

 

 明治四十五年七月三十日暁、明治天皇は、御歳六十一歳をもって崩御あそばされた。後に軍神と仰がれた乃木希典大将は、大正元年九月十二日の御大葬当日、次のような遺言を書いて殉死をとげた。「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ、自殺候段恐入候儀、其罪ハ不軽存候、然ル処、明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ、其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ズ。皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覚悟相定候事ニ候」と。乃木大将は今もって西南戦争の際の軍旗喪失の責任を感じ、皇恩の厚きに感謝している。そして、次のような辞世を遺された。

 

 うつし世を神さりましし大君のみあとしたひてわれはゆくなり

 

 神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにおろがみまつる

 

 さらに静子夫人も、

 

 いでましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢うふぞかなしき

 

 との辞世を遺して大将と行を共にされた。時に大将六十四歳、夫人は五十四歳であった。日本殉死史上最後の人といわれる。

 平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬で、小生は二重橋前にて、轜車をお見送り申し上げたのであるが、その時乃木静子夫人の辞世の歌が思い出され、涙が溢れて止どまらなかった。轜車の御出発はまさしく「かへります日」の無い御幸の御出発であったのである。        

 

三島由紀夫・森田必勝両烈士の辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

 昭和四十五年十一月二十五日午前十一時、楯の会隊長三島由紀夫氏と、隊員森田必勝氏、小賀正義氏、小川正洋氏、古賀浩靖氏の計六名は、東京市谷の自衛隊において、東部方面総監の身柄を拘束し、「自衛隊国軍化」「憲法改正」「道義建設」などを自衛隊員に訴えた。そしてその後、三島・森田両氏は壮烈な自決を遂げた。この二首はその時の三島氏の辞世の歌である。

 さらに、森田必勝氏は、

 

 今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

 

 という辞世を詠んだ。戦後の自決事件でこれほど大きな衝撃をもたらしたものはない。三島氏は「散るをいとふ世にも人にもさきがけて」と詠んでおられる。戦後日本は、経済至上主義・営利至上主義の道をひたすら歩み続け、欺瞞的な平和主義にとっぷりとつかってきた。肉体生命以上の価値を認めず、誤れる「生命尊重」を標榜し、無上の価値即ち国のため・大君のため・大義のために潔く散る精神精神を忘却してしまったのである。かかる状況に耐えかねた三島・森田両氏等は「今こそ生命尊重以上の価値を諸君の目に見せてやる」(檄文)と訴えたのである。

 

 日本武尊・大津皇子・楠木正行・吉田松陰・乃木御夫妻・三島森田両烈士の自決の精神こそ「生命尊重以上の価値」であった。「物で栄えて心で滅びる」といった状況を呈しつつある今日こそ、そうした精神に回帰すべきである。

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千駄木庵日乗八月二十五日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、明後日行うインタビューの準備など。

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2015年8月24日 (月)

大国主命のご神名について

 大国主命はまた、数多くの別名を持っておられる。『古事記』では、大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ)葦原色許男神(あしはらしこをのかみ) 八千矛神(やちほこのかみ)宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)、さらに『日本書紀』では、大物主神(おほものぬしのかみ)大己貴命(おほなむちのかみ) 大国玉神(おほくにたまのかみ)顕国玉神(うつしくにたまのかみ)という別名が記されている。

 

 これらの御神名は、大国主命の様々なお働き・権能の構成要素を示しているのである。ただし、書紀の本文は大己貴神で一貫している。さらに、『出雲國風土記』『萬葉集』『古語拾遺』『出雲國造賀詞』などに様々な御神名が記されている。

 

 高崎正秀氏は「(大國主神注)に御名が八つ、御子神の数が百八十一柱といふのは、その神格の幅の広さ、出雲びとのこの大神に結んだ憧憬の深さ強さを見せるもので…それは一方から云へば、出雲的世界の枢軸をしめくくる自然神、人文神、英雄神の統合体であり、綜合的神格でもあった訣であらう…地域的に横に見て、幾多の別個の人格の活動の跡を、すべてこの大國主神の御名に包摂して来てゐる点も認めねばならない」(『神剣考』)と述べておられる。

 

 一即多、多即一として把握するのが、日本のものの考え方の特質であるが、大国主命の様々な神名もまた、神のお働きの多様性を表示しているということである。

 

 そこで、それぞれの別名の意義について考えてみたい。まず、大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ) とは、「オホ」は美称であり、「アナ」とは土地のことであり、「ムチ」とは貴の意であるという。つまり、貴くも大いなる大地の神という意であり、大地主神・土地の守護神・国土の開拓神である。なお、「アナ」とは文字通り穴であり、洞窟の神とする説もある。また、この神は各地を巡遊して、前出した『小学唱歌』にも歌われているように、兎の火傷を癒すという医療神の性格も持つ。

 

 次に、須佐之男命から色々な厳しい試練を受けられた時の御名が、葦原色許男命(あしはらしこおのみこと) である。「シコ」とは「強い」とか「頑丈」という意である。ゆえに、葦原色許男とは、地上の世界(葦原)の頑丈で強い男の神という意味である。日本武尊(日本の武の神)と相似の名である。日本武尊も父君・景行天皇により様々な試練を課せられた神である。

 

 八千矛神(やちほこのかみ)とは、八(や)とは数多くのという意であり、千(ち)は霊のことであり、矛(ほこ)は武器の意である。即ち、数多くの霊的な武器を神格化した神である。この場合の武器とは、神霊の憑代(よりしろ・神霊のかかってくるもの) である。この八千矛神は、『古事記』においては、妻神と恋歌を交換する神である。

 

 このように大国主命は、神話の色々な場面で、自在に名を変えられる神なのである。そして色々なお働きをされ国づくり、国民の幸福のために尽くされる神であらせられるのである。

 

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千駄木庵日乗八月二十四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。三十日に開催される『日本の心を学ぶ会』における講演の準備、など。

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四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十七年九月号のお知らせ

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。
 

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

 

購読料
年間 12000
半年 6000

 

平成二十七年七月号(平成二十六年六月二十日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

天皇・朝廷と徳川幕府

徳川家康を神格化した「東照大権現信仰」は信仰面で朝廷を規制する方策

 

幕府は天照大神を東照大権現に置き換へ江戸を京都に模することによって徳川将軍家が日本を支配することを正当化した

 

江戸時代の天皇は、「てのひらほどの大宮所」に厳しい経済状況で軟禁状態に置かれてゐた

 

高山彦九郎・蒲生君平の、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」

 

江戸時代においても尊皇思想の道統は脈々と受け継がれてゐた

 

現御神日本天皇を唯一の君主と仰ぐ國家の回復が尊皇倒幕即ち明治維新であった

 

千駄木庵日乗

王明理台湾獨立建國聯盟日本本部委員長「若者たちは一党独裁の中國に台湾を売り渡してはならないと考えた。ひまわり学生運動に外省人・台湾人の区別はない」

 

澁谷司拓殖大学教授「中國が武力統一をしようとしたらアメリカが出てくる。プラスワンの日本はどう台湾を助けることができるのか。安倍政権が続く限り台湾は少し安心」

 

池田維元交流協會台北事務所代表が「集団的自衛権容認の意味を台湾海峡有事にも適用。台湾海峡・東支那海で武力衝突が起こったら米軍を側面的に支持する」

 

永江太郎日本学協會常務理事「明治維新で薩摩が大きな力を発揮したのは、島津斉彬の指導力とそれを継承した西郷隆盛による」

 

この頃詠みし歌

 

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「第五十四回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

『教育勅語』を学ぶ。

 

今年は戦後七十年になります。

各種のメディアで「戦後七十年」が特集されており、そのなかで日本の過去をふりかえることが多くなっております。

GHQの占領政策そして戦前の日本を全否定するいわゆる自虐史観・東京裁判史観もまだ根強くその影響を残しております。

昭和23年に占領軍民政局は「教育勅語の無効化する措置」を国会に要求し、これを受けた衆参両院の「排除失効決議」をもって「教育勅語」は公教育の場において教えられることはなくなりました。

そもそも、「教育勅語」とは明治時代の日本が近代化をすすめるあまり、伝統的な精神や国民の道徳が忘れ去られるという教育の混乱をただすため、明治天皇が「勅語」という形で示された実践道徳規範です。

「教育勅語」そのものは315字と大変に短いものですが、国民教育や国民道徳の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割をはたすこととなりました。

そして「教育勅語」の精神は現在にいたるまで心ある人々によって継承されてきております。

そこで今回の勉強会では「教育勅語」を拝誦し、明治天皇の大御心を学びたく思います。

 

みなさんお誘い合わせの上ご参加をお待ちしております。

 

【日 時】平成27830日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室C

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

『教育勅語』を拝し奉りて 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

 せと弘幸先生は調整中です

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395 

           ◎

このお知らせは主催者が作成したものです。

 

 

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海へのロマンの歌

海の彼方への憧れ

 

 まだ見たこともなく、行ったこともない世界を憧れるのは人間の自然な心である。日本人は古くから、この世とは別の世界即ち「他界」への憧れ・ロマンを強く持っていた。日本人の他界へのロマン精神は、神話の世界からのものであり、日本人の生活と宗教の根本にあるものなのである。

 とくに海の彼方への憧れは、昔から日本人が抱き続けたロマン精神であった。日本民族の主神であり皇室の祖先神である天照大神は、伊耶那岐命が海辺での禊で右目を洗われた時に生まれられた神であるという神話がある。これは日本人が海を神聖なる世界として憧れていたことを証明する。

 萬葉集には海を歌った傑作が多い。

 

 ともし火の明石大門(おほと) に入らむ日やこぎ別れなむ家のあたり見ず

 

 天(あま)ざかる夷(ひな) の長道(ながぢ)ゆ戀ひ来れば明石の門() より大和島見ゆ

 

 二首とも、柿本人麿が瀬戸内海の明石海峡あたりを航行した時に詠んだ歌である。前者は瀬戸内海を西に下る時、後者は西から上る時の歌。海に慣れない大和人たる人麿が、海の彼方の大和への憧憬と、航海の驚きと感激、そして勇猛の精神を、けれんもなく堂々と詠んでいる。

 近代において海へのロマンを歌った代表的な歌は、

 

 海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(をとめ )となりし父母の家

 

である。

 これは与謝野晶子が、明治三十七年雑誌『明星』に発表した歌で、「海が恋しい。潮の遠鳴りを聞きながら、父母の家で少女として成長したのだから」という意である。泉州堺の晶子の生家からは海が近く、彼女にとって望郷の思いは即ち海への憧憬でありロマンであった。晶子には他に、「ふるさとの潮の遠音(とほね) のわが胸にひびくをおぼゆ初夏(はつなつ)の雲」という歌もある。

 我々日本人は幼い頃から海を愛し、海に憧れた。海を主題にした唱歌は多い。

 

 ウミハ ヒロイナ

 大キイナ、

 ツキガ ノボルシ

 日ガ シズム。

 

 ウミニ オフネヲ

 ウカバシテ、

 イッテ ミタイナ、

 ヨソノ クニ。

 

 文部省唱歌『ウミ』(林柳波作詞、井上武士作曲)である。海辺に住む子供たちは勿論都会の子供たちも、臨海学校などでこの歌を歌った。文部省唱歌には、このほかにも『われは海の子』(我は海の子白波の)、『海』(松原遠く消ゆるところ)などがある。

 四方を海に囲まれている島国に生きる日本人にとって、海は実に身近な存在である。我々日本人が海の彼方へ憧れを抱いたのは自然である。それは海そのものへの憧れであると共に、海の彼方の「他界」への憧れでもあった。日本民族が太古に遥か海の彼方からこの日本列島に渡って来たらしい事が原因なのかも知れない。

 

  海の彼方の常世(とこよ)

 

 名も知らぬ遠き島より

 流れ寄る椰子の実一つ

 

 故郷の岸を離れて

 汝はそも波に幾月

 (中略)

 実をとりて胸にあつれば

 新(あらた)なり流離の憂(うれひ)

 

 海の日の沈むを見れば

 激(たぎ)り落つ異郷の涙

 

 思ひやる八重の汐々

 いづれの日にか国に帰らむ

 

 明治三十三年雑誌「新小説」に発表された島崎藤村の詩である。のち、大中寅二によって曲が付けられ、今日も多くの人々に愛唱されている。柳田国男が明治三十一年夏に愛知県の伊良湖に旅した時、椰子の実が流れ寄って来たのを見た体験を、藤村が聞き、詩にしたものという。椰子の実に託して、海の彼方の南の国へのロマン・望郷の思い、そして「流離の憂い」を表白した詩である。たとえ南国に故郷の無い人間でもこの詩を読むと、何となく望郷の念にかられる。それは、日本人が、古来、「常世」(とこよ・この世の彼方即ち他界にある永遠の世界・理想の世界)への憧れを抱いていたからではあるまいか。

 「常世」とも「妣(はは) の国」とも言われる所は、海の彼方の憧れの国なのである。そこは、太平洋岸では日の昇る水平線の彼方であり、日本海岸では日の沈む水平線の彼方である。そこに、永遠の国・浦島太郎が老いなかった竜宮城があると信じたのである。

 

 昔々浦島は

 助けた亀に連れられて

 竜宮城へ来てみれば、

 絵にもかけない美しさ。

 

 文部省唱歌『浦島太郎』の一節である。海の彼方に不老不死の国があるという信仰が「浦島伝説」を生んだ。

 

海の清らかさを好む日本人の心

 

 日本文学の起源と言われている「祝詞」にこの海への憧れが高らかに歌われている。

 

 「天下四方(あめのしたよも)の國には、罪と云ふ 罪は在らじと、…大海原に押し放つ事の如 く、遺(のこ)る罪は在らじと祓ひ給ひ清め給ふ事を、…瀬織津比(せおりつひめ)と云ふ神、大 海原に持ち出でなむ。如此(かく)持ち出で往() なば、荒鹽(あらしほ)の鹽の八百道(やほぢ) の、 八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百會(やほあひ)に座() す、速開都比(はやあきつひめ) と云ふ神、持ち可 可(かか)(のみ)てむ…」(大祓詞)

 

 日本人の持っている「陸地の穢れたものはすべて海に流せば淨まってしまう」という信仰が『大祓詞』に歌われている。また、日本人はお淨めに塩を用いる。塩は海から取れる。海が清らかなところと信ずるがゆえである。清らかさ・明るさを好む日本人のロマン精神は「海」への憧れと一体であったのである。

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千駄木庵日乗八月二十三日

午前は、諸雑務。

この後、『政治文化情報』発送完了。購読者の皆様には明日お届けできると存じます。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『大吼』連載の「萬葉集」解釈原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理。

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2015年8月23日 (日)

日本人の倫理・道徳の根本は「清明心」「正直」「誠」

わが國においては、私心をなくして天皇にお仕えすることが日本人の理想の姿として傳えられてきた。天皇に私心なくお仕え申し上げる心を汚れのない「きよらけき心」、暗いところのない「あきらけき心」、別の言葉で言えば、「心の清さ・いさぎよさ」が尊ばれた。それを「清明心」という。

 

日本人は「あいつは悪人だ」といわれるよりも、「あいつは汚い奴だ」と言われることを嫌がる。

 

「清明心」は記紀の神代の巻特に天照大神と須佐之男命が会見されるところに多く出てくる。

 

天照大神は須佐之男命にその心の正しく清らかなことを知りたいとおぼし召されて、「然(し)からば汝(みまし)の心の清明(あか)きことは何以(いか)にして知らまし」と仰せになられた。

 

清明心の体現者が須佐之男命であらせられ日本武尊であらせられる。「清明心」は、記紀の世界では須佐之男命の御精神であり日本武尊の御精神である。

 

日本人の倫理・道徳の根本は、「清明心」「正直」「誠」にある。「私」を去り「我」を没することを大切にしている。

 

清明心即ち「あかき心」「清き心」は仏教や儒教が輸入される以前からわが民族のあるべき心とされてきた。その無私の精神・清明心を体現されるお方が天皇であらせられる。それは長い歴史の流れの中で自然につちかわれてきた傳統なのである。天皇が地上における神の御代理即ち現御神であらせられるということは、天皇が無私・無我となって神を祭られる祭祀主であらせられるということである。

 

この日本民族の傳統的倫理観念の精髄たる「清明心」は、古代においては『宣命』(宣命体で書かれた詔勅)における「明き浄き直き心」、中古においては「もののあはれ」、中世においては「正直」、近世においては「やまとたましひ」として受け継がれてきた。これは別の言葉で言えば、「捨心無我」であり、岡潔氏の言った「日本的情緒」である。

 

「大君の命(みこと)かしこみ磯に觸(ふ)り海原を渡る父母を置きて」

 

これは『萬葉集』の防人・助丁丈部造人麻呂(すけのよぼろせつかべのみやつこひとまろ)の歌である。「大君の御命令を謹み体しまして、任務を果たすために、危険な荒磯の間をぬって海原を渡っていきます」といふほどの意である。

 

天皇への忠義の心と親を思う心を深く切に歌っている。この忠孝精神即ち「君に忠・親に孝」の精神こそが日本人の倫理観の基本である。忠孝精神とは、天皇と親に対し真心を尽くしてお仕え申し上げるということである。

 

神話時代・萬葉時代からの道統である忠孝精神は、幕末において強く発現し開花した。そして明治維新の原動力になった。

 

水戸藩士にして幕末勤皇論に大きな影響を与えた會澤正志斎は、その著『新論』において、「君臣之義、父子之親」という二つの徳目を重大視し、あらゆる人間の道はこの二つの徳目の上に立つと論じた。そして肇國以来の皇國の道は忠孝の道にほかない、天祖の神勅も、祭政一致の傳統も、忠孝の道を説いていると述べ、「忠孝ヲ以テ國ヲ建ツ」と論じた。會澤正志斎は「忠孝」を國體の精神の根本としたのである。

 

江戸後期の尊皇思想は、儒教の大義名分論の影響もあったが、その根本は神代以来のわが國の傳統を継承したものであった。わが國の傳統精神は外来の仏教思想や儒教思想を包容摂取してわが國の國體精神・傳統信仰と融合せしめたのである。     

 

さらに明治の御代になると、明治天皇は、欧化の風、知育偏重の教育を憂いたまい、日本の教育精神・倫理の根本は「忠孝精神にある」との大御心によって『教育勅語』を渙発あそばされた。

 

『教育勅語』には、「…我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」と示されている。

 

親の恩愛を感ずる者が、天皇をお慕いする勤皇のまごころを持つ。親は、子に生命を与えてくださった方である。そしてその生命は溯っては祖先、くだっては子孫へと続いている。生命の連続とは単に肉体と血液の連続ということではない。慈愛の継承であり、心のつながりである。

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千駄木庵日乗八月二十二日

午前は、諸雑務。『政治文化情報』発送準備。

午後二時半より、靖国神社靖国会館にて、日本郷友連盟東京都郷友会主催『歴史・防衛講座』開催。青山学院大学大学院教授福井義高氏が「歴史における意図と結果~チャンドラ・ボースと汪兆銘の場合~」と題して講演。質疑応答。

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靖国神社

午後五時より、芝の愛宕神社にて、『尊攘義軍殉皇十二烈士女七十年祭』執行。国歌斉唱・祝詞奏上・玉串奉奠などが行われた。そして、犬塚博英氏が世話人代表として挨拶した。

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尊攘義軍殉皇十二烈士女慰霊碑

帰途、同志と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年8月22日 (土)

神武建國の精神と現代の変革

 「紀元」とは、歴史上の年数を数える時の基準になる最初の年を言う。神武天皇が大和橿原(かしはら)の地において、天皇中心の日本國を高い理想を掲げて建國され御即位された年(西暦紀元前660年)を以て元年として起算し、わが國の紀元とするのである。このような伝統ある國がわが祖國日本である。

 

神代以来そして神武天皇御即位以来、第百二十五代・今上天皇までの祖國日本の光輝ある歴史と伝統を正しく認識し把握することが現代日本を変革するために最も大切であると信じる。

 

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 

 慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

 明治天皇は、さらに、

 

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

 と詠ませられている。    

 

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

 ただし、明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、時計の針を昔に戻すということではなかった。「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。そして、明治維新の大事業の一環として紀元節が制定された。

 

近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

 

 今日の日本も、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある。この「天津日繼ぎの高御座」」(天津日嗣とも書く)とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所のことである。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」ということである。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるのである。

 

 平野孝國氏は「このツギの思想は、元来個人の肉体を超えて繼承される系譜と見てよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、『宮廷のツギは日を修飾して、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義で、口だてによって風誦せられたものである』という折口信夫説(古代研究・國文学篇)が、本義に近いものである」(大嘗祭の構造)と論じておられる。つまり、皇位の繼承は肉体的な血統のみによるのではなく、日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 さらに「高御座」について折口信夫氏は、「高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。…御即位式に昇られる高御座は、…天が下の神聖な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝(みかど)といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。…高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる」(大嘗祭の本義)と論じておられる。

 

 天皇が高御座に昇られることによって、天皇は天上の神と一体になられ、地上の國がそのまま天上の國となるのである。別の言葉でいえば、今が神代になり神代が今になるのである。日本伝統信仰においては、天と地とが隔絶した存在とはとらえていないのである。高天原を地上に持ち来たし、日本國を高天原のように清らかにして神聖なる理想國にすることが天皇の御使命である。

 

 今上天皇におかせられても、神代以来の伝統を繼承され、御即位の大礼において天津日繼ぎの高御座にお立ちになった。これは天の神の御代理(現御神)の御地位にお立ちになったということを意味するのである。「御即位の大礼」は、天照大神が皇孫邇邇藝命を天津日繼の高御座に即け給い、神器を授け給ひ、神勅を下し給ひしことを、新たに繰り返す行事である。

 

 このように、天皇の國家御統治の御精神は、常に、新たなる國家の生命の甦り、言い換えると國家の新生・再生を常に希求されているのである。しかもこの新生・再生は、それまでの伝統を断絶して行われるのではない。無限の過去から無限の未来にわたるまで、天皇による日本國の新生・再生、命の甦りは繰り返されるのである。ここに日本天皇の國家と統治そして日本國體の特質がある。

 

 我が國國民は毎年毎年同じように春から始まって冬に終わる周期的な生活を営んでいる。四季の移り変わりが規則正しく周期的であるので、お祭りも、農漁業などのなりわいも、周期的に繰り返される行事が多い。春夏秋冬の一年の暦の一巡りで、冬が終わり元の春に戻り新たな出発が行われるのである。

 

 そして、我が國民は、暦の移り変わる時、即ち新たなる年を迎えた時に、生活も万物も全て再び新生するという感覚を持つのである。

 

 日本民族は物事は周期的に新生を繰り返すという生活感覚を自然に持っていた。御歴代の天皇が、神武創業の精神=物事の初め・國家統治の理想(すなわち)に回帰することによって革新を断行するという維新の精神は、ここから発生してきた。

 

 だからこそ、維新は「復古即革新」といわれて来たのである。「復古」とは決して反動ではないし、前に述べたように、時計の針を過去に戻すことではないし、回顧主義でもない。古きがゆえに良いというのではない。「復古即革新」とは、いにしえの理想の復興によって現在を新たならしめることである。 

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千駄木庵日乗八月二十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『季刊大吼』連載の「萬葉集」解釈原稿執筆など。

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2015年8月20日 (木)

一神教の対立と日本伝統信仰

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三大一神教の対立と闘争の歴史は、人類の歴史に計り知れない惨禍と殺戮をもたらした。

 

 欧米社会で行われ来たユダヤ人差別と迫害は、キリスト教のドグマによる。キリスト教国で反ユダヤ感情の無い国は無いと言っていい。それはキリストを神の一人子として受け入れないユダヤ人に対するイエス・キリストの「あなたがたは……悪魔から出てきた者であってその父の欲望どおりを行おうと思っている。彼らははじめから人殺しであって、真理に立つ者ではない。」(『聖書・ヨハネ伝』八章四四節)という宣告に基づくのである。『聖書』こそが反ユダヤ思想の基礎文献なのだ。

 

 イスラム教のユダヤ教及びキリスト教に対する排撃思想は、イスラム教の聖典『コーラン』(マホメットが唯一神アラーから受けた啓示を集録したもの)に次のように記されている。「信ずる人々よ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を友としてはならない。彼らはお互い同士だけが友である。お前たちの中で彼らを友とする者がいれば、その者は彼らの同類である。神が無法の民を導きたもうことはない」。さらにコーランには、「命には命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、受けた傷は同じ仕返しを」と書かれている。

             

 ユダヤ教は、紀元前四世紀頃から発達し、ユダヤ(イスラエル)の砂漠で遊牧民の間に信じられたエホバ神(ヤーヴェ)が、多くの苦難を経て、モーゼという預言者によって「唯一最高絶対の神」とされた宗教であり、ユダヤ人を神に選ばれた選民と自覚する。

 

 キリスト教は、ユダヤ教の「唯一最高絶対の神」を信じ、さらにイエス・キリストを「神の一人子」=救世主と仰ぎ、エホバ神をユダヤの民族神から世界的な普遍神にまで高め、さらにギリシャを経てローマに入り、ゲルマンの狩猟民に信じられ、今日の天地の創造主・世界人類の唯一絶対神たるゴッドの地位を確立したといわれる。

 

 イスラム教もまた、「唯一最高絶対の神たるアラー」を信じる一神教である。西暦六一〇年にマホメットによって創唱された。マホメットこそが唯一絶対神のもっとも偉大に使徒であり預言者と仰ぐ。言うまでもなく、ユダヤ教の教師を否定し、イエス・キリストを「神の一人子」とは認めない。

 つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、砂漠の遊牧民に信じられた「唯一絶対神」を信じるということでは全く共通している。しかし、お互いに異端・異教徒として排撃し反目して来たのがこれまでの長い歴史であった。

 

 砂漠の宗教たる一神教は、「血」による贖い(罪滅ぼし)を求める。「血を流すこと無しには罪の許しはあり得ない」とする。ユダヤ教もイスラム教も神の祭壇に羊を供える。ユダヤ教の祭司たちは動物を裂き、その血を流して「罪」をあがなってきた。

 

 イエス・キリストも自分の血を流すことによって人類の罪の許しを神に乞うた。だからイエスキリストは「神の子羊」といわれるのだ。キリスト教徒が神に捧げるパンと葡萄酒はイエスキリストの肉と血の象徴である。

 

 キリスト教国であるアメリカでは十七世紀に、マサチューセッツ州で清教徒による専制政治が行われ、「異端者」(非キリスト教)を絞首刑にしたり、「魔女」(民間信仰のシャーマン)を火炙り(焚刑・ふんけい)にした。

 

中川剛氏は、「近代アメリカは最も基本的に民主主義の制度は正にこの清教徒の専制政治の歴史的派生物であることをもし認識できないとすれば、それは歴史をひどく歪めることになるであろう。」(『憲法を読む』)と論じている。キリスト教に限らず、一神教とはこのように排他独善的にして残虐な側面をもつ宗教なのである。

 

 一神教の神は、その意志に反する者を、全能の力を以て処罰し抑圧し征服する。そして、その神を信じ救いを求める者のみを救済する。この排他性によってお互いに攻撃し合っている。

 

この三つの宗教の中で、キリスト教を信じた欧米社会が、高度な文明を築き上げ、地球上の他民族を征服して、植民地として隷属させた。その歴史の過程において様々な侵略や戦争が繰り広げられた。

 

 一神教同士の対立と抗争がどれだけ多くの人々を殺し、人類に生き地獄の苦しみに落とし込んだか。宗教とは人々に安心立命・真の幸福とやすらぎを与えるものであるはずなのだが、一神教の歴史は逆に人類に不幸と殺戮を与えていると言える。

 

 今日も、三つ大きな一神教の大戦争が今行われていると言える。一神教国家ではなく多神教の国である日本の使命として、精神的宗教的に何を為し得るかを考えるべきであろう。

 

わが国の伝統信仰たる神道は、太陽の神であられる天照大神を最尊・最貴の神と仰ぎ、皇室の御祖先神として崇めている。

                    

 日本神話を拝すれば明らかなように、天照大神は、唯一絶対・全知全能を誇る神ではない。八百万の神といわれる日本の神々の使命・性格を生かし高める神である。一神教の神のような裁きの神、妬みの神、復讐の神でもない。

 

 日本神話では天地自然や人間は唯一絶対神によって造られた存在ではない。人も国土も君主も伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在である。

 

 さらに神の御命令によって地上に天降られた邇邇藝命の最大の御使命は、地上を瑞穂の国すなわちみずみずしい稲の穂が稔る国にするというきわめて平和的な信仰である。邇邇藝命という御名には、稲穂のにぎにぎしさを讃え稲穂に籠る霊への信仰が内包されている。

 

 生命の永遠の循環と共同体の相互扶助を身を以て体験する稲作生活から生まれた規範を大切にする日本民族の祭祀に、言葉の真の意味における平和の姿を見出すことができる。

 

 それは日本神話の言葉を以て言えば、「高天原を地上に実現する」ということである。この精神を発展させて、全世界を農作の栄える国とするという使命を日本が果たすべき時が来たといえる。お互いの神を排斥合うのではなく、同じ天地の神として尊重し合う精神を持たなければ宗教戦争は終焉を迎えない。否、終焉を迎えないどころか人類を滅亡に追いやる危険さえ含んでいる。日本伝統信仰の自然崇拝の精神こそが、一神教同士の闘争による滅亡の危機を救う原基となると信ずる。 

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千駄木庵日乗八月二十日

午前は、諸雑務。『伝統と革新』編集の仕事。

午後は、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。母は元気で大きな声で歌を歌っていた。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年8月19日 (水)

大原康男国学院大学名誉教授による「靖國祭祀の原型としての楠公祭」と題する講演の内容

 

五月二十五日に執行された『楠公祭』における大原康男国学院大学名誉教授による「靖國祭祀の原型としての楠公祭」と題する講演の内容は次の通り。

 

「『楠公祭』は大楠公を景仰する人々によって続けられ、日本國體信仰の一つの表れ。幕末の尊皇思想は、崎門学(注・近世前期の儒学者山崎闇斎学派の思想)・水戸学・国学によって培われてきた。ペリー来航などの国家的危機に直面して激烈な攘夷思想と結びつき、それが統治能力を失った幕藩体制を超えて、天皇の傳統的権威のもとで新しい国家体制をめざす精神的エネルギーとなった。その根底にあるのが楠公精神。

 

大楠公景仰には二つの面がある。一つは室町から戦国時代においては楠公を戦略・平方・軍掠・智謀の人として尊崇した。もう一つは、道徳的に完成した英傑、大義のために命を懸けて一族で忠誠の一念を捧げた人として楠公崇拝。以上の二面がある。

 

楠公は『仮にも大君を怨み奉る心が起らば、天照大神の御名を唱うべし』と言った。その精神を一身に背負った人が松陰。松陰は『天照の神勅に「日嗣之隆(あまつひつぎのさかえまさんこと)、与天壌無窮(あめつちときはまりなかるべし)」と之有り候。神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正氣重ねて発生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり』と書いている。

 

足利尊氏が幕府を開いた室町時代から一貫して楠公に対する尊崇の念が継承された。とりわけ大きな政治的力となったのが幕末明治維新の時。

 

国家の功労のあった忠節烈士を祭祀する風習を復興すべしと主張した先駆者が會澤正志斎。真木和泉は、文久二年に有馬新七などへの祭祀を斎行。毛利敬親元治元年、楠公祭に従祀して吉田松陰ら安政の大獄で亡くなった人に対する祭典斎行。尾張藩主・徳川慶勝は、慶応三年に捧呈した『楠公社造立の建議』で摂社として『近古以来国事の為に身を亡ぼし、未収恤を不蒙者』を祀ることを提言。徳川慶勝は高須藩主の子。松平容保の兄。御三家筆頭。

 

王政復古の際、『神武創業の始』に戻すとして、新しい国づくりを行った。建武の中興、大化の改新を理想とするよりも神武創業を理想とした。

 

明治元年に『癸丑以来、殉難者の霊を京都東山に祭祀する件』との『太政官布告』が出された。明治二年、東京招魂社創建。鳥羽伏見から函館戦争までの戦没者を祀る。明治二十三年に靖国神社と社名を改める。明治五年、湊川神社創建。祭神は楠公。楠木正行は明治二十二に、四条畷神社に祀られる。全国の神社は内務省、靖國神社は陸海軍省が管理。敗戦後の占領初期に出された『神道指令』によってやむなく民間の宗教法人となった。

 

昭和十五年、情報戦士養成を目的として陸軍中野学校創立。構内に楠公社を立てて精神教育を行った。國體学演習では現地に学び楠公の戦績を偲んだ。昭和十九年、二俣分校が設立されて残置諜者・後方攪乱要員を育成。小野田寛郎氏はその一人。神風特別攻撃隊、回天特別攻撃隊の隊名に大楠公ゆかりのもの多し。楠公景仰の心から、靖國神社ら祀られている英霊を顕彰して、悲しくも雄々しい精神を我々も背負って行かねばならない」。

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千駄木庵日乗八月十九日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事(執筆依頼など)、資料の整理、原稿執筆。

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やまと歌と維新

 

 かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

 

 吉田松陰の安政元年、二十五歳の時の歌である。江戸獄中より郷里の兄杉梅太郎に宛てた手紙に記されていたという。同年三月、伊豆下田にてアメリカ艦船に乗り込まんとして果たせず、江戸へ護送される途中、四月十五日高輪泉岳寺前を通過した時詠んだ歌である。赤穂義士は吉良上野之介義央を討てば死を賜ることとなるのは分かっていても、やむにやまれぬ心で主君の仇を討った。松陰自身もまさしくやむにやまれぬ心で米艦に乗ろうとした。ゆえに赤穂義士に共感したのである。幕末志士の歌で結句を「大和魂」にした歌は多いが、この歌が最も多くの人々の心を打つ。あふれるばかりの思いとはりつめた精神が五・七・五・七・七という定型に凝縮されている。かかる思いは和歌によってしか表現され得ないであろうと思う。

 

 片岡啓治氏は「詩的精神、いわば自己自身であろうとし、もっとも固有な心情そのものであろうとする心のあり方が自らを語ろうとするとき、日本にもっとも固有な詩の形式を借りたのは当然であろう。そこには、自己自身であり、日本に同一化することがそのまま詩でありうるという、文学と現実の幸福な一致がある」(『維新幻想』)と論じている。

 

日本固有の文学形式によって自己の真情が吐露できるということは、日本人が神から与えられたまさに最高の幸福である。

 

 明治維新において神武建国への回帰が新しい日本建設の基本理念になった如く、現代維新も復古即革新が基本である。日本の大いなる道と大いなる命にいかに目覚めるかが、今日の変革の基本である。その意味において、現代において維新を目指す者は、明治維新を目指して戦った志士たちの悲しい志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切なのである。そのためにも志士たちの詠んだ詩歌を学ぶべきであるし、自己自身も歌心をもつべきである。言うまでもなく明治維新は革命ではなかった。革命とは歴史と道統を否定した変革である。近代においては共産主義革命思想がそれである。革命運動からは「やまと歌」は生まれない。

 

 維新とは「復古即革新」である。「復古」とは単に時計の針を逆に戻すこと即ち時間的過去に戻る事ではない。永遠に新しい命を持つところの「天地開闢」「神武建国」の精神への回帰であり、「先人の道」を踏み行うことである。「復古即革新」は永遠の日本的変革の原理である。そしてそれは「やまと歌」によって継承されていくのである。

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千駄木庵日乗八月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後は、資料の整理、書状執筆。

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2015年8月18日 (火)

内憂外患交々来るといった状況にある今こそ、尊皇攘夷の精神が必要な時である

 現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となっている。現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行うようになった文明のことであるが、それは、産業革命以来機械技術の発達と資本主義そしてそれに反発するものとしての共産主義の発展を促し、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。

 

 そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかっている。現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本傳統文化へと回帰しなければならない。

 

 自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で體験する民族たる日本民族の信仰精神が、世界の真の平和を作り出すであろう。

 

 日本傳統信仰は、大自然を尊ぶ。それは、大自然から、人生を学び、生き方を学び、國の平和と人の幸福の道を学ぶ心である。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」なのである。一人一人が「日子(ひこ・日の神の御子)」であり「日女(日の神の姫御子)」なのである。

 

 日本人は、森羅萬象ことごとく神の霊が宿っていると信じた。人も國土も神から生まれた、神が生みたもうたと信じる日本民族の信仰は、神が人間と自然を造ったと考える西洋一神教の創造説とは異なる。神と人間と自然とは対立し矛盾した存在ではなく、調和し、融和し、一體の存在であると考える。こうした精神は排他独善の精神ではない。あらゆるものから学ぶべきものは学ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

 闘争戦争と自然破壊を繰り返す現代世界においてこそこの日本の伝統精神が大きな役割を果たすと考える。一切の自然や人に神が宿るという大らかにして健全なる信仰精神たる日本傳統精神が、世界を救い、統合し融和して調和するのである。

 

 西洋精神は、キリスト教もイスラム教もマルクスレーニン主義も、一人の教祖の説いた教義・一つの書物に書かれた教義を絶対的なものと信ずる。一神教的ものの考え方が、いかに世界に闘争を持ち来たしたかは、ロシアや支那や朝鮮やカンボジアなどにおける共産主義思想による殺戮、中東や東ヨーロッパなどにおける宗教戦争など見れば明らかである。

 

 自由自在にして大らかなる日本傳統精神は、教条的で固定的な西洋思想・文化・文明に訂正と活性化を与える。

 

 日本という國家には日本の長き歴史の中から生まれてきた立國の精神というものがある。真に日本を変革するためには、今こそ、天皇を中核する「維新」即ち日本傳統精神・國體精神を勃興せしめ、それに基づく変革が断行されなければならない。

 

現代維新は「尊皇攘夷」の精神を根底に置いて戦われなければならない。大東亜戦争後、日本傳統精神が衰微し、今日の日本も、國民精神の面でも政治體制の面でも、日本國の本来の姿が失われ、現代の日本人は、天皇に対する尊崇の念が薄れており、天皇を中心とする國體精神に立脚する変革などといっても無理だと言う人がいる。

 

 しかし、鎌倉・室町・戦国・江戸という武家専横の時代において、大半の日本人は、天皇のお声を聞くことも、お姿を拝することも全くといって良いほど無かった。にもかかわらず、天皇及び皇室の御存在が上におわしましたからこそ、武家同士の凄惨な内戦が行われても日本を分裂國家にならず、また、武家による民に対する支配の苛酷さを抑制することができたのである。そして蒙古襲来・幕末の危機・大東亜戦争の敗北などの様々な國難を乗り切ることができたのである。

 

 天皇及び御皇室は、興亡常なき日本國の根幹にいまして不変の國家的民族的核心であった。このことは現代においても全く変わりはない。事ある時に、日本民族の尊皇精神は勃興する。

 

 今日の日本において、「政治改革」「教育改革」「行政改革」というように、「改革」ということがうるさいくらいに言われている。しかし、如何なる理念・精神を根本に置いて「改革」を行うかが問題なのである。

 

 明治維新が「尊皇攘夷」を基本理念にして戦われたように、現代維新においても、「尊皇攘夷」の精神を根底に置いて戦われなければならない。「尊皇」とは萬世一系の天皇を中核とする國民的統一・道義心の高揚を図る事であり、「攘夷」とは國家民族の自主独立を回復することである。内憂外患交々来るといった状況にある今こそ、尊皇攘夷の精神が必要な時であると言える。

 

 民族の傳統への誇りを忘却した民族には未来はない。上に天皇おわします限り、民族の命は必ず新生し甦る。そして、民族の歴史の流れ、民族の道統に立脚した変革が行われる。日本國體精神こそが永遠の維新の原理である。

 

 天地自然に神の命が生きているという信仰が日本の傳統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同體が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する方途である。

 

 我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければならない。 

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千駄木庵日乗八月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、看護師、ケアマネージャー、整体師の方々と、母の今後の介護について相談。そして母に付き添う。

夕刻、谷中にて地元の先輩と懇談。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理。

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2015年8月16日 (日)

「萬邦無比の國體」と現代維新

神代以来今日までの祖國日本の光輝ある歴史と傳統を正しく認識し把握することが現代日本を変革するために最も大切であると信じる。

 

現代日本は文字通り内憂外患交々来るといった状況である。同じようなことは過去にもあった。幕末期すなわち明治維新前夜である。大きな外圧が幕末に起こった。そしてそういう危機的状況を打開し祖國を救った大変革が明治維新であった。

 

江戸時代は、徳川将軍家が政治の実権を握っていた。そして皇室は京都に押し込められていた形になっており、天皇中心の日本國體が隠蔽されていた。

 

嘉永六年、浦賀にペリーがやって来て開國を迫った。さらに同じ年、長崎にはロシアのプチャーチンがやって来た。そしてあわよくば日本を植民地にしようとして武力を以て圧迫して来た。

 

徳川家が独占してきた役職である征夷大将軍とは「夷」(えびす・えみし=日本に仇なすもの)を征討する大将軍という意味である。ところが幕府はペリーがやって来たら慌てふためいて、何もできない。そして天皇陛下のお許しを得ないでアメリカと屈辱的な國交を結んでしまった。そこで、徳川氏は征夷大将軍の役目を果たすことができないということが明らかとなり、徳川幕府を倒して、天皇中心の國家を再生せしめた大変革が、明治維新である。

 

わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

ただし、明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、「神武創業の精神」に基づいて旧體制(幕藩體制)を根本的に変革し、封建體制を解體し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 

日本國家の存立の精神的中核は、天神地祇を尊崇し稲穂を大切にする信仰精神であり、日本という國家は<天皇を祭祀主とする信仰共同體>なのである。ゆえに日本國は天皇國といわれるのである。

 

天皇が現御神であられるということは、天皇は「今生きておられる神」「この地上に実在する神」「人にして同時に神なる方」「天神地祇・稲穂の神靈の體現者」ということである。

 

そしてわが國には太古以来の信仰が、祭祀という行事と共に今もわが國民の日常生活に生きている。また、天皇の祭祀は今日唯今も生きた姿で傳承されている。

 

つまり、日本傳統精神は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなおその生命を傳えられているのみならず、現実に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたもう御精神と御行動、そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食い止める大きな力となっている。

 

伊勢の皇大神宮の神殿は、二十年目ごとに必ずくり返される式年遷宮によって永遠に新しい姿に復元し生まれ変わる。古代の神殿が永遠に新鮮な姿で我々の眼前に立っている。

 

このように、日本民族は古代信仰を今日唯今も生活の中に生かしているのである。そして古代信仰の祭祀主を今日の日本国の君主として仰いでいるのである。これが日本國の素晴らしさである。

 

今上天皇は、初代の神武天皇から数えて第百二十五代の御子孫であらせられると共に、現御神として邇邇藝命・神武天皇そして御歴代の天皇と全く同じご資格で國家を御統治されている。萬世一系の皇統は、高天原より地上へと、天照大御神・邇邇藝命・神武天皇から今上天皇へと、時間を超えて一貫して連綿として傳えられている。つまり神武建国以来、一系の天子が國家の君主であられるのである。これは世界史の奇跡であり、他の國家・民族には見られない事実である。まさに「萬邦無比の國體」である。「萬邦無比の國體」の開顕が即ち維新である。

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千駄木庵日乗八月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。施設長・ケアマネージャーと相談。

帰宅後は、資料の整理。

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オピニオン雑誌『伝統と革新』第二十号 

オピニオン雑誌『伝統と革新』第二十号 

たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)

二十号記念特集 現代における尊皇攘夷―...
―「伝統と革新」の原理と國家の自立―

巻頭言 復古即革新・尊皇攘夷が日本的変革の原理       四宮正貴

「インタビュー」
日本を不当に貶める 歴史論争に打ち勝つ知識と常識を持とう  渡部昇一
時代の先見性をもって、日本の國難に対処する         前原誠司
「憲法改正」は、今このときをおいてほかにない        深谷隆司

「聞き書き」                      
日韓関係の真實、その本質を世界の人に知ってほしい      呉善花

「論文」
日本的革新とは、根源的なものに回帰することによって果たされる 
                                                                                                               西村眞悟
尊皇攘夷は古いのか? その今日的な意義と政治の使命について 原口一博
國難のときに顕現する思想                  富岡幸一郎
復古的革新と保守思想―その決定的な差異について       中島岳志
尊皇攘夷論の現代的意義                   永江太郎
いま明らかになった大東亜戦争の真相              稲村公望
“現代の攘夷”は、あの時代の“攘夷の精神”を失ったのか           山村明義
六十五年目を迎えた「殉國七士廟」墓前祭           阿羅健一
フィリピン・シブヤン海に沈む戦艦武蔵発見―七十年の眠りに与える波紋 
                                                                                                          岡村 青

「提言・直言」
今日的意味を持つ尊皇攘夷の精神                松木謙公
択一できない課題に立ち向かう                 松崎哲久 
今こそ、変化で目覚める日本のDNA              長尾 敬
政治の最大の事業は、我が國の「志」を現代に復活しつつ、國民のものとすること                                                                                                       北神圭朗
現代の「尊皇攘夷」を“日本再新”と呼びたい           城井 崇
「尊皇攘夷」という民族復元機能を守る責任と義務      木村三浩

「連載」
「やまと歌の心」                   千駄木庵主人
「石垣島便り」                     中尾秀一
第十九回 我が体験的維新運動史             犬塚博英

編集後記                               

 定価 本體価格1000円+税。 168頁
〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル
 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 
四宮 正貴さんの写真

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 九月九日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区南大塚地域文化創造館

東京都豊島区南大塚二-三六-一 ☎〇三-三九四六-四三〇一 「東京メトロ 丸ノ内線 新大塚駅」一番出口より徒歩八分。JR山手線 大塚駅」(南口)より徒歩五分。「都電荒川線 大塚駅前駅」より徒歩五分。都バス「大塚駅」停留所より徒歩五分 (都〇二、上六〇)

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』。

 

初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。

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2015年8月15日 (土)

日本敗戦と蒋介石

国民党政権は台湾での強権政治を行い、台湾人に対して凄惨なる弾圧・殺戮を行った。台湾人とりわけ独立運動を行い処刑されたり投獄されたりした人及びその家族の人々にとって、蒋介石・経国父子及び国民党は不倶戴天の仇敵である。しかし、蒋介石は日本との関係について、次のようなことが伝えられている。

 

① いわゆる「南京事件」についての蒋介石の見解

 

 昭和四十一年九月、岸信介元総理の名代として五名の日本人台湾使節団が訪台し、蒋介石総統と面談している。その五名の中の一人である田中正明氏が、蒋介石総統との面会の様子を次のように記している。

 

 「最後に私は、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後『私は総統閣下にお目にかかったことがございます』と申し上げました。

 すると『いつ?どこで?・・・・』とたずねられた。

 『昭和十一(一九三六)年二月に、松井石根閣下と二人で、南京でお目にかかりました』

 その時『松井石根』という名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。

 目を真っ赤にし、涙ぐんで『松井閣下には誠に申し訳ないことをしました』手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。

 『南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・・』といいながら涙しつつ私の手を二度三度握り締めるのです。私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。

  

 周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で二十万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。

 

   あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ『南京虐殺』の冤罪で刑死せしめた悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。」(『興亜観音第十号』・『興亜観音第十五号』)

 

 

② 大東亜戦争末期における蒋介石の対日姿勢

 

(注・一九四三年十一月二十三日、カイロに於いてルーズヴェルト米大統領と会談した蒋介石総統は)戦後日本の軍事占領に関しては、中国にそのような重責を担うだけの用意が充分にはないから、アメリカが指導力を以て占領し、中国はそれをサポートする立場で責任を果たすことが適当と思うと述べている。」

 

 「注・(張桂芳著『蒋総統与天皇制』は)『マッカーサー元帥による日本占領の初期、日本管理機関のソ連代表デレヴィヤンコ(中将)は、日本を三つの占領区に分け、北海道をソ連に、本州をアメリカに、九州を中華民国に占領させることを提案した。この時、張岳軍は?総統の特使として日本に渡り、マッカーサーを訪ね、ソ連軍が北海道を占領することを拒絶すると同時に、中国軍の九州占領を辞退したということを伝達した。このことによって、マッカーサーはソ連の提案を拒絶することが出来たのである。もしソ連軍による北海道進駐の計画が実行されていたならば、日本は南北朝鮮や東西ドイツのように国土が分裂され、思想は混乱に陥り、政局は不安定となり、経済的復興が遅れ、南北朝鮮、東西両ドイツの世紀的悲劇を演ずることになっていたであろう。蒋総統は自己の権利すら放棄して、北海道を占領しようとするソ連を阻止し、分裂と混乱という脅威から日本を救ったのである。この事実は多くの日本人に知られていないがゆえに、ここでとくにこの問題を持ち出して説明する。』と述べている」

 

 「日本の皇室の地位に関する問題に関しては、ルーズヴェルトは、戦後、日本の天皇制は廃止されるべきかどうかにつき、蒋介石総統の意見を求めた。蒋介石は、これは、日本の政府の形態(組織)に関する問題を含んでおり、将来、国際関係に千載的遺恨を残すような誤りを犯さないために、戦後、日本国民自身の意志決定に任せるべきことだと述べている。蒋介石をはじめ、国民政府要人たちは、『日本の国体は戦後日本国民自身の意志で決定するべきだ』という蒋介石総統のこの時の主張がその後の連合国の規準となり、ポツダム宣言にも採択されたと解してきたようである。」

 

 「(張桂芳著『蒋総統与天皇制』は)一九四五年一月、アメリカのヴァージニア州ホットスプリングスで開催された『太平洋問題調査会』の第九回会議において、中国代表として出席した邵毓麟が天皇制廃止論者のオーエン・ラティモアらと対立し、戦後、日本の天皇、および、その政治形態は日本国民自身の意志によって決定すべきだと、蒋介石総統の意見を代表して述べ、天皇制打倒論に立ち人々の激烈な反対を受けたこと、および、アメリカ国内で『天皇制存続』論を主張していたグルー元駐日大使の最も有力な援軍になったということなどを記録している。」(武田清子氏著『天皇観の相剋』)

 

  そして武田清子氏は、「さらに、本書(張桂芳著『蒋総統与天皇制』)は、日本が無条件降伏した時『以徳報怨』をもって、中国当局が、数百万人の日本軍の将兵の帰還を進めたこと、戦時中、中国のこうむった莫大な損失にもかかわらず、対日賠償の要求を放棄したこと等を、敗戦国日本への寛大な態度として強調している。」と書いている。

 

  アメリカとりわけマッカーサーは、ソ連に北海道を占領させる意思は全くなかったし、所謂「天皇制の存続」は日本占領の基本方針であった。しかし、蒋介石の対日姿勢がアメリカとりわけマッカーサーの占領方針をやりやすくさせたことは事実であろう。

 

 

 

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千駄木庵日乗八月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、谷中の酒房にて、民俗学者の方と懇談。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事。

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武士道とは

 「武士道」とは、字義的には武士が守るべき道を意味する。中世以後発生した武士階級の間に発達した道徳律のことである。つまり道徳的原理の規範である。規範ではあるが、聖書やコーランや論語のように特定の人物によって書かれた教義書があるわけではない。

 

 武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。その内容を詳しく言えば、(一)、忠孝を第一とし、(二)、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)を重んじ、(三)、義勇に励み、(四)、狂暴を挫いて孤弱を扶け、(五)、自己の責務を果たすということという。一言にして言えば、何に臨んで死を畏れず、一命を賭して君に仕えることである。

 

 和辻哲郎氏は、武士道の内容について、「(注・武士の)献身の道徳の中核とは…利己主義の克服、無我の実現である。…享楽を欲する自我の没却、主君への残りなき献身、それが武士たちにとっての三昧境であり、従ってそれ自身に絶対的価値を持つものであった。…『武者の習い』の確信が無我の実現にある。」(『日本倫理思想史』)と論じている。

 

 無我の心とは大和魂・そのままの心・もののあはれを感じる心と通じる。合理的な思考や判断以前の素直なる心が武士道の奥底にある。武士道とは本来すめらみことに対する無我の献身であった。しかし、中世に至って力の強い者が弱い者を倒して獲得する地位である武士団の棟梁に対する忠誠という「私的」なものになってしまった。そこから覇道が生まれる。

 

 したがって、肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論或いは仏教思想という外来思想とは全く縁のないエモーショナル(感情的)なものによっていた。「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。

 

 武士道は中世に起こったものではない。また、儒教や仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。古事記・萬葉の歌々を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。

 

 倉前盛通氏は、「肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論とは全く縁のないエモーショナルなものによっていた。“もののあはれ”というか“日本的死生観”というか、混沌の中からもえいでて結ばれいのちを得たものが、解(ほど)けてふたたび混沌の中に隠れていくという生死の見定めは、儒教でも仏教でもなかった。」「武士の生死の覚悟は禅によって定まるものではない。もちろん、論理の虚構を排する禅の哲学は、『さかしらに言挙げせず』の伝統的自然観に結びつきやすかったこともあろう。しかし『今はこれまで』の意志決定は、涅槃や達磨という形而上学的で普遍的な法概念によって把えられるものではなかったであろう。原始の混沌がいまに生きている日本の精神風土、古代の神々の息吹きが残っている風土であるからこそ、論理の枠組みから外れた情動の激しい発露として、武士の死に方が生じてきたのである。…武士道が仏教から生じたものものならば、なぜ禅の盛んであった宋に武士道が生じなかったのであろうか。」(『艶の発想』)と論じている。

 

 大和魂・もののあはれ・日本的死生観が日本武士道の根底にあったのである。故に、日本の武士の祖は、須佐之男命であり倭建命であらせられる。

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千駄木庵日乗八月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、施設長・看護師・介護士の方々と今後のことについて相談。母は、いと健やかなり。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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2015年8月14日 (金)

オピニオン雑誌『伝統と革新』第二十号 

オピニオン雑誌『伝統と革新』第二十号 

たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)

二十号記念特集 現代における尊皇攘夷―

―「伝統と革新」の原理と國家の自立―

巻頭言 復古即革新・尊皇攘夷が日本的変革の原理 四宮正貴

「インタビュー」

日本を不当に貶める 歴史論争に打ち勝つ知識と常識を持とう

                                                渡部昇一

時代の先見性をもって、日本の國難に対処する    前原誠司

「憲法改正」は、今このときをおいてほかにない   深谷隆司

「聞き書き」                      

日韓関係の真實、その本質を世界の人に知ってほしい 呉善花

「論文」

日本的革新とは、根源的なものに回帰することによって果たされる 

                        西村眞悟

尊皇攘夷は古いのか? その今日的な意義と政治の使命について

                        原口一博

國難のときに顕現する思想           富岡幸一郎

復古的革新と保守思想―その決定的な差異について 中島岳志

尊皇攘夷論の現代的意義             永江太郎

いま明らかになった大東亜戦争の真        稲村公望

“現代の攘夷”は、あの時代の“攘夷の精神”を失ったのか 山村明義

六十五年目を迎えた「殉國七士廟」墓前祭  阿羅健一

フィリピン・シブヤン海に沈む戦艦武蔵発見―七十年の眠りに与える波紋                     

                         岡村 青

「提言・直言」

今日的意味を持つ尊皇攘夷の精神        松木謙公

択一できない課題に立ち向かう          松崎哲久 

今こそ、変化で目覚める日本のDNA       長尾 敬

政治の最大の事業は、我が國の「志」を現代に復活しつつ、國民のものとすること                北神圭朗

現代の「尊皇攘夷」を“日本再新”と呼びたい   城井 崇

「尊皇攘夷」という民族復元機能を守る責任と義務 木村三浩

「連載」

「やまと歌の心」              千駄木庵主人

「石垣島便り」               中尾秀一

第十九回 我が体験的維新運動史       犬塚博英

編集後記                               

 定価 本體価格1000円+税。 168頁

〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

 

 

 

 

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2015年8月13日 (木)

わが國の傳統的な美感覚「もののあはれ」とは

 「あはれ」は、感動を表し、「あゝ」と「はれ」が結合した言葉。「あゝ」ともはれ」も感嘆した時に自然に発する言葉。「もののあはれ」は、のちにわが國の傳統的な美感覚となった。「もの」は、外界の事物。「あはれ」は、自分の感情。日本の文學精神の主流になった感性であり、自然・芸術・人生などに触発されて生ずるしみじみとした趣き・情感のことと定義される。「もののあはれ」といふ言葉が最初に登場したのは『土佐日記』の船出の悲しさを語ったところである。

 

 すぐれて見事なこと、めざましいことを見たりしたときに発する感動の言葉である「あっぱれ」は、「あはれ」の転であり、「あはれ」は悲しみの情感を表白するのみではない。悲哀に限らず嬉しいこと・楽しいことなど物事に感動した時に発する言葉が「あはれ」である。        

 

 藤原俊成(『新古今和歌集』の代表的歌人)は、

 

「恋せずば人は心もなかるべしもののあはれもこれよりぞ知る」(恋をしないのは人の心がないのと同じだ。もののあはれも恋をすることによって知る、といふ意)

 

と詠んだ。

 

 近世の國學者・本居宣長はこの歌を解説して、「大方歌の道はあはれの一言に帰す。さればこの道の極意を尋ぬるにまたあはれの一言よりほかになし。伊勢物語も源氏物語もあらゆる物語もその本意を尋ぬればあはれの一言にてこれをおほふべし」と論じてゐる。

 

 宣長は「もののあはれ」は日本文芸の一番大事な基本精神であると説いた。宣長は、「よきことにまれ、あしきことにまれ、心の動きてああはれと思はるることがもののあはれ」と説いた。また宣長は「ことしあればうれしたのしと時々に動くこころぞ人のまごころ」(『玉鉾百首』)と詠んだ。

 

 『古今和歌集』の序は、「鬼神をもあはれと思はせるものが和歌である」と説いてゐる。「もののあはれを知る心」とは、外界の事物に対する自分の心の態度のことであり、それは自然の心である。それが日本文芸の原点であるといふことになる。

 

 自然な心の動きが大事なのであるが、ただそれを表白すればいいといふのではなく、その心をやや客観的に見て美しい調べにして表現しなければ芸術としての歌にはならない。自分の情念を客観視して調べに乗せて表現し他者に美しく傳へ他者をも感動させなければならない。それが和歌である。

 

 文芸とは深遠なる哲理や理論・教条を説くものではない。「もののあはれ」を訴へるものである。人間が物事に感動した思ひといふものを和歌や物語の形式で美しく表現するのが文芸である。

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千駄木庵日乗八月十三日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・印刷所へ送付。資料の整理など。

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鳩山由紀夫がやったことは決して「友愛精神」ではない。祖国を辱める行為である

 

 

日本による朝鮮統治時代に、独立運動に対する規制が行われたのは当然のことである。その過程で行き過ぎもあったであろう。しかし、何千何萬何十万という人々を虐殺したわけではない。

 

アメリカ大統領が、奴隷として酷使した黒人の慰霊碑や広島や長崎の原爆慰霊碑の前で土下座しただろうか。ロシア・ソ連の国家元首が抑留され彼の地で死に至らしめられた日本人の慰霊ために日本に来て土下座しただろうか。満州樺太においてロシア兵に凌辱され殺された日本人を慰霊し謝罪するために土下座しただろうか。韓国大統領が、李承晩ラインを侵犯したとして射殺した日本漁民の墓の前で土下座しただろうか。してはいない。

 

鳩山由紀夫のやったことは決して「友愛精神」ではない。祖国を辱める行為である。

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「村山談話」について

 『村山総理談話』には、次のようなことが書かれている。「……私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。……わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」。

 

 これは、大東亜戦争に至るまでのわが国の国策を“誤りであった”と断罪しているのである。この『村山談話』はわが国政府による「謝罪意志」の表明である。これがその後、わが国の歴史教育の内容に対する他国からの内政干渉を誘発することとなり、また、日本の招来を担う子供たちをはじめ多くの国民に、誤った歴史を教え、いわれなき罪悪感・贖罪意識・他国への負い目を持たせ続けることになった。

 

 「遠くない過去の一時期」とは一体何時から何時までのことを指しているのか。「東京国際軍事裁判」という名称の勝者による敗者への復讐劇では、昭和三年から二十年までの十七年間のわが国について断罪されたが、「村山談話」の「一時期」とはこの時期を指す。「村山談話」は、いわゆる東京裁判史観に支配されているのである。

 

 「東京国際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。「平和と人道に対する罪=侵略戦争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」を新たに作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した。しかし、そもそもそのような概念は、戦争が開始された時にも、終戦時にも、裁判後にも定着しなかった。

 

 「東京国際軍事裁判」は、人類の法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪した。つまり、裁判とは名ばかりの非常の野蛮で公平性を全く喪失した戦勝国による一方的な復讐劇が「東京国際軍事裁判」であったのである。

 

 「村山談話」には「国策を誤り」などと書かれているが、昭和三年から二十年までの十七年間に、総理は十四人、内閣は十五も成立しては倒れという状況であるから、一貫した国策など立てられるわけがない。文民と軍、さらに陸軍と海軍の相剋も激しかった。したがって、共同謀議などということもあり得なかった。

 

 「植民地支配」とは、わが国の台湾及び朝鮮統治のことであろうが、わが国の統治によって「多大の損害と苦痛」を与えたという事実はない。むしろその逆に、わが国の統治によって台湾及び朝鮮は近代化を遂げ発展したのである。西欧列強によるアジア・アフリカ・中東への植民地支配とは全く異なる。

 

 明治維新を断行したわが国は、まず李氏朝鮮を援けて清国の侵略を排除した。また朝鮮半島を保護下に置こうとしたロシアを撃破した。この二つの戦いが日清・日露両戦争である。

 

 朝鮮併合は、当時の韓国が独立国家として自立していればわが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかったのである。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して事大主義(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本である。朝鮮併合はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。

 

併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。つまり、台湾及び朝鮮統治は西欧列強の植民地支配とは全く異なる性格のものである。 

 

 また他のアジア・アフリカ・中東各国・各民族も日本の進出による西欧列強の排除によって、独立を達成することができたのである。 

 

 世界の中で、政府及び国会が自国の近代史を「侵略の歴史」であったと表明した国はわが国のみである。「侵略」と言うのなら、英・仏・露・オランダなどは何百年もの間、侵略をくり返してきた。

 

我国の東南アジアへの軍事進出は植民地支配をしていた欧米列強を排除することが目的であった。政権・軍閥が並立していた支那大陸への軍事進出は、独立主権国家の領土を侵した行為ではない。

 

 「痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明」しなければならないような「多大の損害と苦痛を与え」た「戦争犯罪」をしでかした国は日本ではない。「戦争犯罪」の最たるものといえば、非戦闘員を大量に虐殺した広島、長崎の原爆投下であり、東京大空襲のである。また、旧ソ連=ロシアによる満州及び千島列島南樺太侵攻わが国民大量虐殺・シベリア抑留である。

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千駄木庵日乗八月十二日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿依頼の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2015年8月12日 (水)

今後、わが國は朝鮮半島に対して如何に向き合ひ、どう対処すべきか

今後、わが國は朝鮮半島に対して如何に向き合ひ、どう対処すべきかについて、葦津珍彦氏は次の如くに論じてゐる。

 

「日韓両民族が、一視同仁の聖天子の兄弟たるべき時代は消え去ってしまった。…仲のわるい隣邦の外國人にすぎなくなった。日本人の道義も失はれ、金権の外に考えない気風に汚染されている。韓國人は自ら國を亡ぼしてしまった歴史を、ことさらに抹殺して、日本をただ悪者にして、公正の歴史をゆがめて、対日請求のやくざ集団のような思想にとりつかれている。ここでは、はっきりと日韓は別國とわり切って、冷徹な國家対國家の國際公法の『理性』に立ち、相和すべき理があれば和するが、対決すべき理があれば同志を拒否し対決するとの原点に戻って、初めから、出直す外にあるまい。その対等対決の中から、自らにして兄弟の情のわき出るを切望するが、心にもない特殊、非情理な、拵え事のだらだら回想情操論は一旦打ち切った方がいい。今の條件で日本天皇と親しむ者には親しみ、敵対する者には敵対するがいい。異國人相手の交際からの出直しだ」(『朴鐡柱君悲痛の生涯』・「朴鐡柱大人を偲ぶ」所収)

 

全く同感である。日本と韓國とは近親でも身内でもない。異文化・異民族であることを正しく確認すべきだ。当たり前のことだが、日本と韓國とは別の國であり別の民族である。地理的には近隣でも文化的・民族的には決して近隣國家ではない。

 

また、アジア・東洋で一括りにすることはできない。アジア諸國家・諸民族には文化・歴史・宗教などに大きな違ひがある。それぞれ個性がある

 

近年、「東アジア共同体」といふ考へ方が唱へられてゐる。全世界の國家がさうであるやうに、東アジアにおいても大陸國家と半島國家・海洋國家とに分けられる。支那は大陸國家であり、朝鮮は半島國家であり、日本や東南アジア各國は海洋國家である。戦争が起こる確率が高いのは、半島國家であるといふ。大陸國家・半島國家・海洋國家が「共同体」を形成することはきはめて難しいといふか、不可能に近いと考へる。 

 

日本と支那が「共同体」を形成するといふことは、日本が大陸との関係を今日以上に深めるといふことである。白村江の戦・豊臣秀吉の朝鮮出兵・先の大戦というように、これまでの歴史で、日本が大陸に進出して成功したためしはない。今日言はれてゐる「東アジア共同体」に日本が積極的に関与するのは、きちんとした國家戦略を確立しないままに、無原則に支那大陸に深く進出して行った戦前のわが國の過ちを繰返すこととなると考へる。

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この頃詠みし歌

わが内の怒りの思ひが大音聲となりて響ける朝(あした)なるかも

 

スカイツリーの真上に朱色の満月が煌々と照る夏の夜かな

 

朱色なる満月煌々と冴えかへり大江戸の町の上渡り行く

 

大空襲の惨禍のことを思ひつつ今宵仰げる朱色の満月

 

逝きし人を懐かしみゐるこの夜は雨の降る音がかそけく聞こゆ

 

十津川の山の奥なる神やしろ 雨に濡れつつ参り行きたり(玉置神社参拝を思ひ出して)

 

神々のいきづきゐます山奥の霧の中なるやしろに立ちぬ()

 

炎天下都会の眞中の渓流で親と子供が水遊びする(王子・音無親水公園)

 

坂下町といふ名の町に生まれ育ちここが故郷と坂を見上げる

 

大給坂をのぼりて通ひし小学校中学校は昔のままに

 

母が生まれ育ちし町に我もまた生まれ育ちて今を生きゐる

 

友どちともつ鍋つつき語らひて夏の一夜を過ごしけるかな

 

暑ければわが内の穢れを流し出す如くに汗はとめどなきかな

 

友どちより贈られし甘き桃の実はわが食道をくだりゆきたり

 

懐かしきその面影を偲びつつ逝きませし人の歌讀みてをり

 

琴の音の聞こえ来る部屋で友どちが集ひて連句を楽しみにけり(ゆずり葉連句会)

 

命あるものの強さよ緑なる木の葉は灼熱の日に耀へり

 

酒と煙草やめたる友は七キロも太りて健やかになりけるかも

 

今は亡き歌手の歌声明るくも懐かしきかな『青い山脈』

 

炎天の真昼の郵便局は人少なし人々は家に籠りゐるらし

 

パソコンとテレビの画面と活字をば見続け過ごすわれの眼(まなこ)

 

またしても高きマンションが建てられる街に太陽がギラギラと照る

 

しみじみと良き母を持ちし幸せを思ひつつ過ごす施設の小部屋

 

何時までも健やかにおはせと祈りつつ母と語らふ夕暮の時

 

友どちが贈りくれたる饅頭を母は美味しと食べたまふなり

 

友どちが贈りたまひし胡麻豆腐ビールとともに食すうれしさ

 

ひむがしの方より昇りきたりける大日輪は眞輝きてをり

 

暑し暑しと言ひつつ仰ぐ大日輪 命さきはふ我にしありけり

 

暑けれど日本の兒は力強く生きてゆくべしこの正道(まさみち)

 

東方の日出づる國に生まれ来ていのちゆたかに生きゆかんかも

 

 

 

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2015年8月11日 (火)

千駄木庵日乗八月十一日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆・資料の整理など。

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第五十四回日本の心を学ぶ会

『教育勅語』を学ぶ。

 

今年は戦後七十年になります。

各種のメディアで「戦後七十年」が特集されており、そのなかで日本の過去をふりかえることが多くなっております。

GHQの占領政策そして戦前の日本を全否定するいわゆる自虐史観・東京裁判史観もまだ根強くその影響を残しております。

昭和23年に占領軍民政局は「教育勅語の無効化する措置」を国会に要求し、これを受けた衆参両院の「排除失効決議」をもって「教育勅語」は公教育の場において教えられることはなくなりました。

そもそも、「教育勅語」とは明治時代の日本が近代化をすすめるあまり、伝統的な精神や国民の道徳が忘れ去られるという教育の混乱をただすため、明治天皇が「勅語」という形で示された実践道徳規範です。

「教育勅語」そのものは315字と大変に短いものですが、国民教育や国民道徳の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割をはたすこととなりました。

そして「教育勅語」の精神は現在にいたるまで心ある人々によって継承されてきております。

そこで今回の勉強会では「教育勅語」を拝誦し、明治天皇の大御心を学びたく思います。

 

みなさんお誘い合わせの上ご参加をお待ちしております。

 

【日 時】平成27830日(日)午後600分より

 

【場 所】文京シビックセンター 三階 会議室C

 

東京都文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1

JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講 演】

『教育勅語』を拝し奉りて 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

 せと弘幸先生は調整中です

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395 

 

 

この案内文は主催者が作成しました。

 

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2015年8月10日 (月)

『大日本帝國憲法』は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、肇國以来の日本の傳統的國體精神の結晶であった

『大日本帝國憲法』の第一条から第三条までが國體法、第四条以下が政体法である。「國體法」は天皇國日本の國體の本義が書かれてゐる。「政体法」は國家の統治権を運用する具体的なあり方即ち政治の具体的形態が書かれてゐる。つまり、國體法は、永遠に変はることのない國家の基本が示されており、政体法は、時により改正されることがある政治のあり方が示されてゐる。

 

國體法とは「立國の基本たる法」と定義づけることができる。これに対して政体法とは、國體法の基礎の上に定められた「國家の統治組織や國家活動の原則や國民の権利義務などに関する基本的な定め」を総称する。

 

『大日本帝國憲法』は第一條の「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といふ条文は、祭祀國家・神がお生みになった國家としての日本を天皇が統治されることが書かれてゐる。第四條の「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」といふ條文は、政治権力機構即ち政体における天皇の権能について書かれてゐると解すべきであらう。

 

『大日本帝國憲法』第一條の「統治ス」とは、権力行為ではなく祭祀國家日本の祭祀主としての権能のことである。祭祀共同体としての國家は國體であり、権力機構としての國家は政体である。『大日本帝國憲法』は、國體と政体を正しく分けて、第一條から三條は「國體」が書かれ、第四條以下は「政体」が書かれてゐるまことに理想的な憲法である。

 

「近代成文憲法」以前の存在であるところの「天皇中心の日本國體」は成文憲法で規定する必要はなく、成文憲法には國の政治組織について規定するのみでよいといふ論議もある。言ひ換へれば成文憲法には國體については規定せず、政体についてのみ規定すればよいといふ主張である。

 

中川剛氏は「君主主権も不敬罪もヨーロッパ大陸の産物である。憲法を持つこと自体が、英米にはじまるものである。明治憲法はじつは極端なほど欧化政策の結果であった。明治憲法下の天皇制はむしろ傳統をねじ曲げるものだった。近代國家としての体裁を整えるための、たてまえとしての性格の強かった明治憲法であるから、憲法が制定されたからといってただちに、天皇が西欧の絶対君主なみの統治権を掌握したわけではなかった。天皇は制度とは別に、依然として國民的つながりの中心としての文化的存在でありつづけた。政治的天皇と文化的天皇の二重性をそこに認めることができる」(『憲法を読む』)と論じてゐる。

 

『大日本帝國憲法』は、ただ単に西洋立憲制度を模倣したのではなく、日本の傳統信仰の体現者として國家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものである。

 

葦津珍彦氏は「帝國憲法制定の歴史について、これを伊藤博文とか、井上毅等の官僚政治家が、西欧(とくにドイツ、プロシャ、バイエルンなど)の憲法をまねて起案し制定したもののように解釈する学者が多い。しかしそれは非常に浅い皮相の見解であって、全く日本國民の政治思想史を無視したものといわねばならない。この近代憲法ができるまでの歴史条件としては、少なくとも弘化・嘉永ころからの激しい政治思想の展開を見なければならない。黒船が日本に対して開國をせまって来たころから、徳川幕府がそれまでの独裁専決の政治原則に自信を失って、外交政策については『會議』によって國是を固めようとすることになってきた。この會議政治の思想が生じてきたことは、そののちの政治思想に決定的な波紋を生じた」(『近代民主主義の終末』)と論じてゐる。

 

『大日本帝國憲法』の起草に当たった井上毅は「御國の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御國の國家成立の原理は、君民の約束にあらずして一の君徳なり。國家の始は君徳に基づくといふ一句は日本國家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが國の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(『梧陰存稿』)と論じてゐる。

君主と民とは相対立しており國家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどといふ西洋法思想・國家観は、日本の國體観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いてゐるのである。

 

ただ、井上毅はここで「君徳」と言ってゐるが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」、日本傳統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって國家を統治したもうのである。「御稜威」とは天皇の有される神霊の威力と言ふべきものである。

 

折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(『神々と民俗』)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(『鳥の聲』)と論じてゐる。そしてその御稜威(天皇靈)は大嘗祭において新しき天皇のお体に入るとされる。

 

歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられようと歴聖一如の「御稜威」によって國家を統治したまふのである。今上天皇におかせられても、大嘗祭を執行されて現御神となられ御稜威を保持されてゐることは言ふまでもない。昭和天皇もしかりである。つまり『昭和二十一年元旦の詔書』において、天皇が神格を否定され「人間宣言」をされたなどといふことは、「みまつり」といふ厳粛なる事實によって否定されるのである。

 

ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の國體を根幹としつつ近代成文憲法を實に苦心して作りあげたのである。『大日本帝國憲法』は決してドイツから輸入した翻訳憲法ではなかった。『大日本帝國憲法』は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、肇國以来の日本の傳統的國體精神の結晶であった。

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深谷隆司氏の正論

敬愛する深谷隆司氏の主張を紹介します。

 

引退した元自民党政治家の中に、おかしなことを言う人がいる中で、深谷隆司氏は実にまともな発言をされています。

 

             〇

 

深谷隆司の言いたい放題第623

 

 「発言の重み」

 

 

5日の参議院平和安全法制特別委員会での白真勲参議院議員の発言を聞いて、日本の国会の動きに大きな不安を抱いた。

 

 彼は、「安保関連法案が通れば、自衛隊が米軍の核兵器を運搬できるようになる」と執拗に主張したが、「安保法案と核兵器を結びつけ、悪印象をつくりたい思惑」が見え見えであった。

 

 中谷防衛大臣は、法文上は可能だが、非核三原則や核拡散防止条約(NPT)などを挙げ「日本が運ぶことは全くあり得ない」と答えた。

 

 これに対して白氏は「要は何でもできるという事だ」と一方的にまくし立てた。核運搬論の非現実性を知りつつ、法案への国民の不安をあおる戦術であることは明らかなのだ。

 

 白氏は元朝鮮日報の日本支社長で、平成15年に日本国籍を取得、翌年、菅直人氏の抜擢で参議院比例区で当選した人物である。居丈高な態度と発言を聞いて、連舫女史にも共通する違和感を抱いたが、私だけの思いであろうか。

 

 

 民主党は同委員会で、学生デモをブログで批判した自民党の武藤貴也衆議員について、「とんでもない表現だ」と追求した。安全保障法案に反対してデモ活動をしている学生団体(シールズ)を「利己的な運動」と書いたのが「けしからん」と言うのだ。私はこれは正論だと思っているが、なんとマスコミ、テレビまでが取り上げて問題視していた。

 

名も無い一議員が自分のブログで書いたことにまで、いちいち文句をつける傾向があるが、これも一種の言論弾圧ではないか。

 

 しかも、後から分かったのだが、武藤氏の発言はなんと衆議院選挙に出馬する前の、自民党公認も得ていない平成24723日のものであった。

 

 首相補佐官の磯崎陽輔氏の発言を追及し、一定の成果を得たつもりかもしれないが、国家国民にとって最も大事な安全保障問題の最中、こんなお粗末な対応で終始している民主党にはあきれるしかない。

 

 

 日本の動画サイトのインタビューでの、韓国大統領の実妹の発言が大きな話題になっている。

 

朴槿令女史は、「日本の助けで韓国は自立経済の基礎ができた。日本には礼儀や相手に対する配慮など、韓国にないものがある。韓国も礼儀の国といわれたが今はない、日本から学んで礼儀正しい生活をして欲しい。隣人を責めるだけでなく慰安婦問題も韓国が国内でお世話しなければならない」等、日本を擁護する発言をしたのだ。

 

更に金浦空港に降り立った際、集まった記者に「仮に安倍総理が靖国神社を参拝しても、そこで他の戦争を計画すると考える人はおかしいと思う。内政干渉だ。天皇が謝罪したのに、何故首相が変わるたびに謝罪しろと言うのか」と語った。

 

被害者意識だけの一方的な反日路線に痛烈に苦言を呈したわけだが、国内で、これから様々な反撃を受けることは必定だ。余程の決意がなければ語れることではないと思い、感激であった。

 

韓国の友人達の中にも同じような気持ちの人は多い。1965年(昭和40年)国交正常化以来50年経つが、安倍政権以降日韓首脳会談が一度も行われていないのは異常なことだ。

 

こうした良識ある発言を機会に、日韓両国が真の友好を再びとり戻していかなければならないと強く思うのであった。

 

 

 

 深谷隆司の言いたい放題第622

 

 「脅威の事実を語れ」

 

 

 安全保障関連法案の審議の場が参議院に移った。衆議院での採決の後、安倍首相の支持が40%を切り一部マスコミは「わが意を得たり」とばかりに大騒ぎだ。  

 

しかし、かつて岸内閣が安保法案を通した後(昭和35年)、支持率は12%まで下がっている。それから見れば想定内の展開だと私は見ている。

 

一方、安保法案そのものについての国民の反対の声は大きく、この点は政府も深く考えて、国民の理解を求めるために全力を挙げなければならない。

 

国民の理解を得るために必要なことは、今、日本がどのような危機に直面しているかを、しっかり伝えることである。衆議院での答弁を見ると、このあたりが極めて不十分であった。

 

もっとも、危機を伝えるためには具体的に相手国を名指し、その根拠を詳細語らなければならない。外交上のことを考えると、これはなかなか難しいことで、そこに政府の逡巡、ジレンマがあったのではないか。

 

安倍総理はここに来て、危機のなんたるかを率直に話し始めた。すなわち最大の不安は中国であること、この27年の間に中国の軍事費が41倍と膨大に増大していること、更には東シナ海の日中中間線付近で中国がガス田開発施設を12基も新規に建設したこと(全体で16基か)などを写真つきで公表した。

 

はっきり言ってこの海域の石油埋蔵量は大したものではないといわれている。だとするなら、これは明らかな対日前線基地ではないか。ヘリコプターや無人機の拠点とすることも可能だし、レーダーを設置すれば沖縄、南西諸島全域の自衛隊や米軍の動をキャッチすることが可能になる。

 

現在、南シナ海では、サンゴ礁を埋め立て人工島の軍事施設を作ろうとし、フィリピン、ベトナム、マレーシアなどと激しく対決している。すでに3千メートル級の滑走路も整備され、大砲など武器も持ち込まれている。昨年5月にはベトナムと中国間でベトナムの漁船が沈められたという衝突事件も起こっている。

 

何度も中国の公船が日本の領海に侵入し、中国軍用機が領空に接近し、自衛隊機の緊急発進は昨年度で464回、2年連続の最多記録だ。

 

いつぶつかるか分からない危機が、いまそこにあるのだ。

 

テレビを見ていたら、「こうした話が急に今出たことはおかしい」などと、相変わらずのんきなアホ発言ばかりだ。

 

 参議院では、磯崎首相補佐官の発言問題をめぐってまた大騒ぎだ。安保法案をめぐって、法的安定性を軽視したのだから辞めさせろというのだ。必死で頑張る安倍首相の後ろから撃つような軽率な発言は情けないが、鬼の首でもとったような野党の動きもみっともない。

 

 国家国民の安全を守るためにどうすべきか、政府は勿論、野党も真摯な議論を展開してもらいたいものである。テレビのインタビューに、ほとんどの人が安保法案を知らないと答え、家庭でもそんな話は出ないと言っていた。これでは明らかな平和ボケではないか。自分の問題として国民も真剣に考えて欲しいものである。

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千駄木庵日乗八月十日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。ケアマネージャーと相談。

帰宅後も、原稿執筆。

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水戸学の尊皇攘夷精神について

 水戸藩の藩校・弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に藩主・徳川斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。水戸學は尊皇ではあるが、徳川家康そして幕府を否定する考えはなかった。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の次の一節が起源である。「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べている。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

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千駄木庵日乗八月九日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き根母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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2015年8月 9日 (日)

成文法によって國體が隠蔽されたり変革されたりしてはならない

法律(成文法)は共同生活を営む人間同士の契約文書である。といふことは、人間同士が本当に信頼し合って生きていく世の中であれば成文法などは本来不必要だとも言へる。成文法律は人間性悪説に立脚してゐると言っても過言ではない。

 

西洋の成文憲法の淵源とされる『マグナカルタ』(一二一五年、イギリスの封建諸侯が國王ジョンに迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。國王の専制から國民の権利・自由を守るための典拠としてイギリスの立憲制の支柱とされる)は、『國王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ「法治主義」を確立したとされる。『マグナカルタ』は、専制君主と封建諸侯との間の不信感から発して作られた契約文書にほかならない。つまり西洋成文憲法は基本的に「君主権力に対する制限規範」である。

 

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであるから、國民が作った人工的な成文法によって制限され、規制されるご存在ではない。

 

伊藤博文は、明治十五年に書いたといふ岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦國の體裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に國憲を定め國會を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや」(『伊藤博文傳』中巻)と論じてゐる。さらに、伊藤博文は、『大日本帝國憲法義解』において、「恭て按するに天皇の宝祚は之を祖宗に承け之を子孫に傳ふ國家統治権の存する所なり而して憲法に殊に大権を掲けて之を条章に明記するは憲法に依て新設の義を表するに非すして固有の國體は憲法に由て益々鞏固なることを示すなり。」と論じてゐる。

 

政體が制度的・法的に確立した時期よりはるか以前、すなはち天孫降臨以来、天皇はわが國に君臨せられてゐたのである。

 

野口武彦氏は、「美濃部達吉は『帝國の國體と帝國憲法』(大正二年)といふ著書で、『國體』とは『國家の成立する基礎たる精神』、『國家団結の基づく所の民族精神』であり、従って『単純なる法律上の観念に非ず』といい、さらに『國體は憲法上の観念に非ずして主としては倫理上の観念なり。憲法は國の政治組織を定むと雖も國體を定むることなし』と明言してゐる。そして『政體』の概念については、『我が帝國の國體に基く憲法上の特色は萬世一系の皇統を君主として奉戴する君主政體なることに存す』とい命題が明確に述べているとおり、これを國家の政治組織と定義しているのである」(『王道と革命の間』)と述べてゐる。

 

國體と政體は明確に区別されなければならない。そして成文法によって國體が隠蔽されたり変革されたりしてはならない。

 

日本國の最高権威は天皇以外に存在しない。故に天皇の仰せ事は最高に権威のある「御言葉」である。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「仰せごと」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法(のり)」である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ないし、あってはならない。國體の上に成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。

 

「すめらみこと」の「すめら」は、濁りなく清らかで最も高く最も貴いの語根であり、「みこと」は「みこともち」(御言持ち)の事である。『祝詞』に、「皇親神漏岐(すめむつかむろぎ)神漏美(かむろみ)のみこともちて」とある。これは、「天皇が親しみ睦びたまふところの特に貴い皇祖神・男女二柱の神のお言葉を持ちて」といふ意である。つまり、「みこと」とは神の御言葉即ち神勅のことである。

 

「すめらみこと」とは、最高最貴の天津神のみ言葉・神勅を奉じされお方といふ意である。すなはち日本天皇は、天照大御神の神勅を體しこれを地上において實行される尊い御存在なのである。天津神の御命令を受けて、そのご意志をこの現實の中つ國において實現されるお方が天皇であらせられる。

 

わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の國柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣()べられた「のりごと」が最高の「法」である。これを「みことのり()」と申し上げる。「のり」は宣言するといふ意である。天皇が宣言せられた「み言葉」が最高の「のり()」なのである。わが國では「詔」「宣命」と「法」とはその本質において同一である。「詔勅」は天皇を通して発せられた神の御意志なのである。天皇の「おほみことのり」がわが国の最高最尊の「法」なのである。

 

天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家たる日本の「法」と、契約國家・権力國家の「法」とは根本的に異なるのである。日本においては天皇の御命令がそのまま絶対の法なのであるが、契約國家・権力國家における「法」はまさに権力者と國民との「契約条項」なのである。

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千駄木庵日乗八月八日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、ケアマネージャー、看護師の方と相談。

午後六時より、新宿にて開催れた『暑気払い』に参加。多くの友人・同志と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2015年8月 8日 (土)

『現行占領憲法』の<三原理>批判

 『日本國憲法』と称する『現行占領憲法』の<三原理>とは、「國民主権主義」「平和主義」「基本的人権の尊重」である。

 

 嘘と欺瞞に満ちた『現行憲法』の「前文」には「日本國民は、正当に選挙された代表者を通じて行動し、……ここに主権が國民にあることを宣言し…そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであって、その権威は國民に由来し、その権力は國民のこれを代表者が行使し、その福利は國民がこれを享受する」と書かれている。

 

 いくら世の中が建て前と本音の使い分け、と言ってもこの文章はあまりにも非現実的である。「國民の厳粛な信託」などというものが一体何処にあるのであろうか。「主権在民」と言うが、最近の全ての選挙における投票率の異常な低下を何と見るか。戦後七十年にして現行憲法に書かれている民主主義制度はついに破産しつつある言っていい。

 

 投票率に際限のない低下は、日本國民の過半数が「主権など要りません」と言っていることの証明である。「前文」が嘘と欺瞞を言っているのだから、憲法全体も嘘と欺瞞で塗り固められているのである。國家の基本法たる憲法が嘘と欺瞞で塗り固められているのだから、日本國そのものも嘘と欺瞞の國に成り下がってしまったのだ。それが現下日本の実態なのだ。

 

 『現行憲法』でいう「國民主権主義」の「主権」とは、「國家意思を最終的に決定する権限」を言う。主權在民論・契約國家思想・權力國家思想に要約される西洋法思想に基づく規定である。西洋法思想における「主權」とは「領土や國民を支配する國家の權力」「國家として持つ最高獨立性」のことであり、憲法上最も重要な意味は「國家の意思を最終的に決定する權力」であるとされている(伊藤正己著『注釈憲法』)。

 

 『現行占領憲法』の「國民主権主義」は、「戦前の我が國は天皇主権の國であり、天皇制権力のもとに軍國主義國家となり國民の権利は奪われ戦争に駆り立てられた」という思想に基づくものである。しかしこれは全く誤れる思想である。我が國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行っていたなどということは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれていない。

 

 我が國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体である。西洋國家論で言うところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一体の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪い合ったという歴史は全くない。「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同体國家日本には全くそぐわない。天皇を中心とした信仰共同體である日本國は、権力支配組織ではない。だからわが國においては西洋的主権論は排除すべきである。

 

 西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定すること自體、大きな誤りであり國體を隠蔽し破壊につながる。

 

 今日の多くの憲法学者やマスコミは相変わらず「國民主権」の「國民」を「君主と対立する人民」の意義にとって、「國民主権論」をわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口としようと躍起になっている。それが一般國民の常識となって浸透していることは実に以て國家存立の基礎を揺るがす凶事である。現行占領憲法は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体國家日本の成文憲法に「國民主権」を記してはならない。

 

 『現行憲法』の「平和主義」とは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。今後は武力戦力國軍は持たないし武力の行使はしないし戦争はしない」という思想である。

 

 『現行憲法』の「前文」には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…」「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの生存と安全を保持しようと決意した」と書かれている。これは「東条内閣の行為によって行われた侵略戦争は二度と致しません。日本國および日本國民が安全を守るのも生存していくのもアメリカ様・ソ連様・中國様というような公正と信義のある國に一切委ねます」という意味であり、戦勝國に対する「詫び証文」である。

 

 つまり、『現行占領憲法』は、日本國および日本國民は戦勝國に手向かった悪者であり、戦勝國は公正の信義の國であるという文字通りの嘘八百を基本精神にしているのだ。わが國固有の領土南樺太・全千島を五十年間も占拠したままのロシア、そしてチベットを侵略支配し台湾及び尖閣諸島などのわが國固有の領土・領海を侵略せんとしている共産支那のどこに「公正と信義」という立派なものがあるというのか。

 

 「我が國は政府の行為によって侵略戦争を行った」というのは歴史的事実に反する。満洲事変から対日米英大東亜戦争までの大東亜戦争は、我が國の一方的な侵略戦争では全くない。止むを得ざる自存自衛のための戦いであり、アジア民族解放戦争であった。

 

 『現行憲法』の「平和主義」とは、有り体に言えば日本の軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからないという観念が根底にある。そしてわが國以外の國はすべて公正と信義を持っているのだから、日本を侵略しようなどという國は何処にも存在しないという虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防という基本國策が立てられているのだ。

 

 「日本の軍隊はかつて侵略戦争を行い、アジアの人々や日本國民を塗炭の苦しみに陥らせた。だから軍隊は平和の敵である」というという誤れる考え方が蔓延してきた原因は、『現行憲法』の欺瞞的な平和主義にある。これを根本的に排除しなければならない。

 

 現行憲法の「基本的人権の尊重」の「基本的人権」とは、人間として生活するために当然に認められなければならない基本的権利のことである。その権利は國家に先立って人間が生まれながらにして持っているとされる。これを天賦人権という。そして「基本的人権」は、普遍性・不可侵性・永久性・固有性という根本的性格を持つものとされる。ゆえに、基本的人権はなにものにも優先されなければならないとされる。

 

 こうした思想は、絶対君主が人民の権利を奪い抑圧した西洋の歴史から生まれた「國家と個人は対立する存在である」という理論に基づく。これは國家を信仰共同体として把握する日本の國體精神とは無縁の思想である。

 

 近代西洋憲法は、人民と國家を対立するものととらえ、さらに國家権力の干渉を排除し、個人の自由を確保することを目指している。たしかに権力によって個人の自由や権利が理不尽に抑圧され蹂躙されることはあってはならない。しかし、日本國の國家観・君民一体の國體を西洋の絶対君主支配下の体制と同様なものとしてこれを排除し否定してはならない。

 

 ところが、『現行占領憲法』の立法意思は、まさに戦前の日本というよりも建國以来の日本の伝統を否定するところにあった。これは、「戦前の我が國は國民の自由が侵害され基本的人権が蹂躙された暗黒國家であった」という思想に基づいている。そして國家と個人とは相対立するものという思想に基づいて「基本的人権の尊重」を<憲法三原理>の一つとしたのである。

 

 人権尊重・個の尊重を全てに優先させることはかえって人権を蹂躙し、個人をの尊厳性を奪うことになるのは、今日の我が國の現象を見れば明らかである。今日の日本の教育荒廃・家庭崩壊・凶悪犯罪の増加の根本原因は、「自分さえよければ他人はどうなっても構わない」という観念が蔓延しているところにある。これは「個の尊重」「人権尊重」を絶対視して、共同体・家族・家庭と個人との共生を軽視してきた結果である。

 

 また「個人の権利」のみを強調する『現行憲法』の規定によって、祖先を敬い親に孝行するという日本國民道徳の基本が踏み行うことが困難になってきつつある。

 

人は多くの人間との関係性・共同生活があってはじめて生存できる。「人」は、自分自身であるとともに他者でもありさらには共同生活を営む場の全体のことでもある。それは「人」という言葉は、「人を馬鹿にするな」と言う場合は自分自身のことであり、「人の物を取る」と言う場合は「他者」のことであり、「人聞きが悪い」と言う場合は世間のことであることによっても分かる。

 

 人間が人間として生活するためには、多くの人々によって成立する共同体が必要不可欠なのである。したがって共同体としての國家をいたずらに敵視したり、國家を破壊すれば人間が幸福になると考えるのは誤りである。

 

わが國は「基本的人権の尊重」という美名のもとに、自己の欲望と他者の欲望とのぶつかり合いの世の中となりつつある。人々は、快と不快だけで生き、目に見える至近の距離の世界のみで生きるようになる。「欲望こそ全て」と考える。そして教育荒廃・家庭崩壊が起こり、悪平等が花開き、凶悪犯罪が増加している。日本列島に住む人々は、動物の群れと同じにようになり、國家も人も滅び去ることとなるのである。基本的人権の土台に、正しい道義心すなわち言ってみれば「基本的人徳」がなければならない。

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千駄木庵日乗八月七日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆の準備など。

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2015年8月 7日 (金)

武藤貴也議員の主張は全く正しい

武藤貴也議員の主張は全く正しい。武藤氏の主張を圧殺せんとする勢力こそ、「言論の自由」を蹂躙している。

 

『現行憲法の三原理』とは「国民主権論、似非平和主義、基本的人権の尊重」である。これは根本的に否定しなければならない。それ無くして日本の真の再生はない。

 

西洋成文憲法というのは、専制支配者であったイギリスのジョン国王とそれに対立する貴族との間で結ばれた契約である『マグナカルタ』が起源である。また國民主権論は、専制国王ブルボン王朝を打倒したフランス革命から発した思想である。

 

日本天皇の御本質そして日本国の本質とは全く異なる西洋から発した思想を基本原理としているのが『現行憲法』なのである。「国民主権・主権在民論」は、祭祀主日本天皇を君主と仰ぐ君民一体のわが國體を隠蔽し破壊する規定である。

 

「似非平和主義」は、戦勝国に対する詫び証文であり、この原理がある限り外国からの侵略から祖国を守ることは出来ず、自衛隊違憲の状態が続き、日本国が法治国家たり得ない。

 

「基本的人権の尊重」と共に基本的人徳の涵養そして国家・家庭の尊重規定がなければ、家庭崩壊・教育荒廃・凶悪犯罪の続発を是正する事は出来ない。日本の伝統的国体観・君主観と相容れない原理で成り立っている『現行憲法』が続く限り現代の混迷を打開できない。

 

『現行憲法』の履き違えた平和論・誤れる人権思想が道徳の頽廃・人権侵害・人命軽視の元凶である。『現行占領憲法』の三原理の否定が大切である。武藤貴也議員を支持し応援しなければならない。

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日光東照宮について

゛神社は、日本伝統信仰の聖地である。日本国をお護り下さってゐる天神地祇が祀られてゐる神社に参拝し、感謝の誠を捧げ、一層の御加護をお願い申し上げることは、「敬神崇祖」といふ日本国民の伝統的倫理観念の実践である。

 

しかし、どうしても素直な心で参拝できない神社がある。それは、東照宮である。東照宮は日光ばかりでなく、全国各地にある。東京にも、私の知る限り、上野と芝にある。私が実際に行ったことがあるのは、和歌山と京都の東照宮である。

 

日光東照宮には、昭和四十年代後半に、「まひる野会」といふ窪田章一郎先生主宰の短歌結社の全国大会が日光で開催された時に、参加者の方々と共に参拝した。神殿は極彩色のさまざまの彫刻があり、文字通り豪華絢爛な建物であった。

 

日光東照宮は、元和三年(一六一七)、徳川家康の霊廟即ち霊を祀る所として創建された。現在の建物は、寛永十三年(一六三六)に江戸幕府三代将軍徳川家光が改築したものである。東照宮の建設記録『日光山東照宮造営帳』によると、工事費は五十六万八千両と銀百官、米千石。現代の金額に換算すれば五百億円に達するという。工事に参加した総人数は四五四万人。うち大工が九十五万人、彫物大工だけで三十九万人に上ったいふ。 (宮元健次氏著『日光東照宮に隠された真実』による)

 

宮元健次氏は「空前絶後の資金と人手を湯水のごとくつぎ込んで完成されたのである」と書いてゐる。まさに覇者の驕りである。家康の霊を慰めるためだけならこんなに豪華にする必要はない。勿論その資金も、人手も、当時の民衆から吸い上げたものである。

 

宮元健次氏はさらに「日光東照宮を構成する五十二棟の建築群のほとんどが高密度の彫刻と色鮮やかな装飾を身にまとい、周囲にひときわ威厳に満ちた輝きを放っている。普通の古社寺が自然の中にあって、長い年月の果てに古色を帯び、同化してその一部と化すのに対し、東照宮は創建されて四百年後の今もなお鮮烈な大自然に屈することなく圧倒的な存在感を以て対峙しているのだ」と論じてゐる。

 

わが国の伝統精神・道統は、自然と調和し、自然と対立することなく共に生きる精神である。わが国の皇祖神をお祀りする伊勢皇大神宮はまさにさういふ精神の結晶であり、参拝すると、自ずから清浄さに打たれ、心身共に浄められる思ひがする。

 

ところが日光東照宮は、宮本氏が言はれる通り、自然に同化せず、自然に屈することなく対峙する建物なのである。簡素さや清浄さは感じられない。明らかに日本の傳統信仰、傳統的感覚とは異質のものだ。

 

さらに、建物に施されてゐる無数の彫刻は、支那において古代より守護神とされてきた神獣である。その数五一七三体に上るといふ。言ってみれば横浜中華街の「関帝廟」を馬鹿でかくしたやうにものだ。要するに日本風ではなく支那風なのである。建設地も、支那伝来の陰陽五行説である陰陽道に基づいて決められたといふ。

 

日光東照宮は、まさに力によってその地位を獲得した覇王の神殿である。

 

ただそれだけならまだ良い。日光東照宮はもっと根本的に邪悪に思想によって建てられたのである。

 

宮元健次氏は次の如くに言ふ。「従来、日本の社会は天照大神という神を先祖に持つ皇族中心のものであった…家康は徳川幕府による武家中心の政権をめざした。首都を朝廷の御なれた京都から江戸に移したのもそのためである。また一六一五年(元和一)に発布された禁中並公家諸法度によって天皇と公家を政治から分離し学芸に専念するよう定めたのも、その一環である。それら皇族対策が一通り完了すると、最後に残るのが、天皇の権威への対抗であろう。すなわち徳川家は天皇に匹敵する権威、いわゆる王権を身につける必要があった。そこで…家康自身が神道を研究した結果、自ら神となって、子孫がその末裔となることを望んだ。家康の神号である『東照大権現』と言うのも、東の天照大神の意味であるといわれ、まさに天皇の王権に対する挑戦といえるだろう。ちなみに、天照大神を祀る伊勢神宮が二十年ごとの式年遷宮を行うのに対し、日光東照宮が鎮座二〇年目に大改築を行ったことも、こうしっを意識したものにほかならない」(『同書』)と論じてゐる。

 

徳川幕府は、天皇・朝廷に比肩する権威を身につけたいと画策し、徳川家康を神格化するために、天皇及び朝廷の神聖権威を利用したのである。「東照大権現」といふ神名も、前述したとおり、東から日本国を照らす神といふ意味であらう。皇祖・天照大御神を模した神であり、日光東照宮は、伊勢の皇大神宮を模した神宮である。

 

『禁中並びに公家諸法度』によって、法制的・政治的に朝廷を規制した。その上、信仰面でも、朝廷を規制する方策を打ち立てた。それが徳川家康を神格化した「東照大権現信仰」である。

 

権力の背景には必ず権威が必要である。徳川氏は、武力によって天下を征服・統一した。その体制を長く維持し、且つ、家康の子孫に「征夷大将軍」として天下を支配させるためには、徳川家康そして徳川幕府に宗教的権威を帯びさせることが必要だった。それが「東照大権現信仰」である。

 

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千駄木庵日乗八月六日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆など。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』編集会議開催。この後、出席者と暑気払い。談論風発。犬塚博英氏がきわめて元気なので安心した。

帰宅後は、原稿執筆。

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2015年8月 6日 (木)

溝口佐知子さんの正論

日本国憲法を憲法として有効だと強弁される方にお伺いいたします。つまり日本国憲法改憲論者の方も、改憲で日本国憲法に有効性を与へることですから護憲論者と同様です。では、ご回答いただきたくよろしくお願いします。

どうして日本国憲法は憲法として有効なのでせうか?

 

比較憲法学の世界的権威であるレーベンシュタイン教授は、日本国憲法について次のように指摘されておられます:-

 

 「日本国憲法は連合国最高司令官に指示され、指導され、強制され、議会が民主的に混声合唱のようにして採択したもの」。

 

また、私の手元にある啓正社出版の「日本国憲法講義」から引用しますと(P27~)

 

「軍事占領下の法構造は、次のようなものであった。天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に従属し、彼の権限は、最高である。日本管理は、日本政府を通じて行われる(間接統治)が、これは直接に行動する最高司令官の権利をなんら妨げるものではなく、必要があれば、実力の行使を含む措置によって、その発した命令を強制することができる。この権限は、契約的起訴の上に立っているのではなく、無条件降伏を起訴とするものであった。」

 

「マッカーサー元師による憲法改正の指示および草案の提示も、以上のような占領の法構造を前提としていた。」

 

・・・これの、どこが正式な改正でしょうか?

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徳川幕府瓦解の原因は「征夷大将軍」の職責を全うできなくなったことにある

徳川家康が、政治的・軍事的覇者となり、徳川宗家が征夷大将軍職を世襲することとなり得たのは、徳川氏が他の武家勢力を軍事的に圧倒したからである。つまり強い者勝ちの覇道政権である。そもそも武家政権は軍事政権であり、幕府といふ名称は幕で覆った簡略な指揮所・司令部を意味し、幕府の職制機構も、戦時体制に応じた軍事政権の形を取ってゐる。

 

「征夷大将軍」とは、「夷狄を征伐する大将軍」といふ意味である。坂上田村麻呂が最初の征夷大将軍である。その後、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任ぜられて以来、兵馬の実権を握る者を表す呼称となった。徳川家康は天下を統一して、朝廷よりこの地位に任命された。以来、徳川氏がこの地位を独占する。

 

ところが、ペリー来航などまさに「夷狄」がわが国に対して圧迫を加える事態になった時、徳川幕府は、これに対して毅然とした対処をすることができなかった。つまり幕末の動乱期に入って、徳川幕府は、対外関係を自主的に解決する力を喪失したのである。日本侵略支配の意図のもとに開国・通商を迫る西欧諸国に対して国家防衛の方策を幕府自身によって打ち立て、それを実行する力がなかった。

 

嘉永六年(一八五三)、アメリカ東インド艦隊がペリー提督に率いられて浦賀に来航し開国を迫った。幕府はこの事態に対して、それまで国政に関して幕府が専断してゐたにも関はらず、外様大名を含めて、全ての大名に意見を求めた。さらに、時の主席老中・阿部正弘は、アメリカの国書を受領したことを、朝廷に報告した。「大政関東御委任」といふ鉄則を幕府自らが放棄したのである。

 

それ以前にも、幕府は、文化四年(一八〇七)に、蝦夷地におけるロシアとの紛争の状況を朝廷に報告してゐる。これを先例とした朝廷は、弘化三年(一八四六)に幕府に対して海岸防備の強化を命じ、対外情勢の報告を求めた。

 

徳川氏は、その肝心要の「夷狄を征伐する」といふ「征夷大将軍」の職責・使命を全うできなくなったのである。夷狄を征伐する力を喪失したのである。 徳川幕藩体制の瓦解の根本原因は実にここにあったのである。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。今日の外患の危機も、日本国民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛国心を持つことによって打開できると確信する。

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千駄木庵日乗八月五日

朝は、諸雑務。

 

 

 

午前十一時半より、永田町の赤坂茶寮にて、『ゆずり葉連句会』開催。市村清彦氏が司会。頭山興助氏が主催者挨拶。藤井厳喜氏が捌き。

 

 

 

午後二時より、赤坂の日本財団ビルにて、『笹川平和財団 日米交流事業主催 講演会・中東湾岸地域の重要性と日米協力の可能性』開催。茶野順子笹川平和財団常務理事が挨拶。杉田弘毅氏(共同通信社編集委員室長)がモデレーター。ケント・E・カルダー博士(ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)、エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究所所長)が講演。質疑応答。後日報告します。

 

 

 

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆。

 

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2015年8月 5日 (水)

「言論の自由」を声高に叫ぶ連中が「言論の自由」を踏み潰している

自民党若手議員の正論をよってたかって踏み潰そうとしている。「言論の自由」を声高に叫ぶ連中が「言論の自由」を踏み潰しているのだ。許し難い。

 

フジテレビの「とくダネ」という番組もオグラとかいうキャスターも、正義の味方面して、得々としゃべっていた。とくに問題なのは、「現行占領憲法」の三原理を批判してはならない、という主張である。「基本的人権」の重要な一つが「言論の自由」である。これを蹂躙する発言である。まさに自己撞着だ。フジテレビの偏向メディアに仲間入りしたのか。

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2015年8月 4日 (火)

言霊の復活が世の乱れを正す大いなる方途である

日本人は神代以来、日本国は「言霊」によって護られる国であると信じて来た。言葉ほど大切なものはない。言葉は人間の心を表現する。言葉のない生活は考へられない。言葉は、共同体において生活する人と人とを結合させ、人と人との間をつなぎ相互に理解を成立させる。言葉は、人間生活そのものを体現し、共同体は基本的に言葉によって成立する。

 

「言葉の乱れは世の乱れ」といはれる。今の日本は乱れてゐる。乱世である。その原因は、言葉の乱れが重大な要素になってゐると考へる。

 

日本民族は古来、言葉を大切にし、言葉には不可思議にして靈的な力があると信じ、言葉を神聖視してきた。『萬葉集』の歌に「言霊」といふ言葉がある。「言霊」とは言語精霊、言葉に宿る霊力のことである。古代日本人は言葉に精霊が宿ってゐると信じ、言霊即ち言葉に内在する霊的力が人間生活に大きな影響を与へると信じた。

 

古代のみならず今日の日本人の多くは、言葉に宿る神秘的な力によって禍福が左右されると信じるのみならず、「言霊」によって護られ栄えゆく国が日本国であると信じてゐる。日本人は、言葉に霊が宿ると信じ、言葉を唱へることによってその霊の力が発揮されると信じてゐる。故に、日本人は言葉を慎み、畏敬する。

 

神道で「祝詞」を唱へ、仏教で経文・経典を読誦し題目や念仏を唱へるのは、それらの言葉に神秘的にして不可思議な力が宿ってゐると信ずるからである。

 

「祝詞」は人間が神への訴へかけた言葉であり、「歌」も人間の魂の他者への訴へである。「祝詞」にも「歌」にも魂が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが日本文藝の起源である。

 

折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳ってゐる言葉の持ってゐる霊力・魂といふものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

「言霊の幸はふ國」といはれるわが國においては、「祝詞」や「歌」は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。「やまとうた・和歌」は神聖な文藝であると考へられてゐた。

 

『萬葉集』に歌はれた「言霊の幸はふ國」とは、言葉の霊が栄える国、言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国といふ意である。「いふ言の恐(かしこ)き國」とは、言葉におそるべき力が宿る国であるといふ意である。「言擧せぬ國」とは、多弁を慎む國といふ意である。

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千駄木庵日乗八月四日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰途、谷中にて、友人と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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『天壌無窮の神勅』こそ、永遠に遵守されるべき最高最尊の成文憲法である

日本國體は、太陽神であり皇室の祖先神であらせられる天照大神が、地上に天降られる邇邇藝命に与へられた『天壤無窮の神勅』に端的に示されてゐる。

 

『天壤無窮の神勅』

「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(「豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る日本國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであらうことは、天地と共に永遠で窮まりないであらう」といふほどの意)

 

「吾が子孫(うみのこ)」とは、邇邇藝命をはじめ神武天皇から今上天皇に至るまでの歴代の天皇は、天照大神の「生みの子」であり、歴代の天皇は天照大神の御神靈と一體であり、同一神格であり、天照大神とのご関係は、邇邇藝命も神武天皇も御歴代の天皇も今上天皇も、同じであるといふことである。今上天皇は、天照大神・邇邇藝命・神武天皇と不二一體である。これを「現御神信仰」と言ふ。

 

日本國は現御神であらせられる天皇が永遠に統治する國であるといふ日本國體は、建國以来厳然と確立してゐる。これを法律的に言へば、不文法によって定まってゐるといふことである。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立國の基本)に反する規定をしてはならない。

 

しかるに、『現行占領憲法』では、前文には「主權が國民にあることを宣言し」と書かれ、第一条には「主權の存する日本國民の総意に基づく」といふ規定になってゐる。これを根拠にして「日本は君主制の國ではないと」する意見がある。これは日本國體を根本から否定する論議である。かかる議論が起こり得るところに『現行占領憲法』の重大欠陥がある。故に『現行占領憲法』は否定されなければならない。日本國の統治大権は建國以来、天皇にあることを憲法に明確に示すべきである。

 

天皇の統治は、祭祀と一體であり、天皇が神聖な信仰的権威によって統率し統一することである。日本國の素晴らしさは、太古に生成した「天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家」が今日に至るまで連綿として続いてゐるところにある。故に「萬世一系の天皇が日本を統治する」といふ表現が適切である。

 

わが日本國は崇高なる理想を持った「天皇を中心とした神の國」なのである。日本を立て直し、國家を正しく保つためには、祭祀主たる天皇の神聖権威を正しく回復しなければならない。

 

吉田松陰先生は、「安政の大獄」で処刑される直前、同囚の堀江克之助氏に与へた手紙の中で「天照の神勅に、『日嗣の隆えまさむこと、天壌と窮りなかるべし』と之あり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。唯今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と書かれた。

 

処刑の直前といふ絶望的状況にあっても、なほ、日本國體に対する絶対的信を保持せられた松陰先生に対し無上の尊敬の念を抱く。

 

今日、日本はまさに危機に瀕してゐる。しかし、神は必ず日本國と日本皇室を守り給ふ。『天壌無窮の神勅』に示されてゐるやうに、天照大御神の「生みの御子」であらせられる日本天皇が統治されるわが日本國は永遠に不滅である。されば、現御神日本天皇の大御心を体し、日本傳統精神に回帰することによって、いかなる危機もこれを乗り切り、神國日本の真姿が回復すると確信する。『天壌無窮の神勅』こそ、永遠に遵守されるべき最高最尊の成文憲法である。

 

 

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千駄木庵日乗八月三日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気で楽しそうにしていた。有り難し。

午後五時半より、湯島にて、永年の同志お二人と懇談。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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2015年8月 3日 (月)

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害された

徳川家康には基本的に尊皇心は非常に希薄であった。徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の伝統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事実上の軟禁状態に置いた。東照宮の建立がその典型である。

 

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加へた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。

 

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられたに後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の実相院だったと思ふが、拝観した。

 

後水尾天皇は、

「思うこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」

「葦原や しげらばげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」

といふ御製をのこされてゐる。

 

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のやうな天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられてゐる。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓が眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事実を以て証明されるのである。

 

江戸時代の禁裏御料はたったの三万石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一五千石を献上した後、家光が一万五升四合、家宣が一万一斗余を献上し、ようやく三万石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

 

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五万俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一国に十三万石を献上した。

 

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

 

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その実態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

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千駄木庵日乗八月二日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備、原稿執筆、書状執筆など。

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2015年8月 1日 (土)

『笹川平和財団主催・パネルディスカッションー原子力は持続可能か』における登壇者の発言

五月十四日に開催された『笹川平和財団主催・パネルディスカッションー原子力は持続可能か』における登壇者の発言は次の通り。

 

田中伸男笹川平和財団理事長「この三人は、経産省の出身。経済産業研究所設立時のスタッフ。青木昌彦先生(注・経済学者、数理経済学者。専門は比較制度分析)の弟子。意見は必ずしも一致しないが、昔の仲間が集まって勝手なことを話そうということ。原子力を安全に安心して使えるのか。ゴミの処理をどうしたらできるのか。原子力が持続可能かどうかは重要なテーマ。将来の原子力のビジョンを持つための議論が欠けている。安全と安心とは違う。安心はメンタルな話。安全と安心をごっちゃにして厳しくすればいいというのでは経済は進まない。原子力を続けるためにコストをどう見るか。デブリ(注・原子炉の事故で、炉心が過熱し、溶融した核燃料や被覆管および原子炉構造物などが、冷えて固まったもの)処理をどうするかの議論がない。処理の技術を福島第二で試したらどうか。一国平和主義では安全は保てない。ヨーロッパに学べ。原子力技術について他国と協力して安全を保つべし」。

 

 

泉田裕彦新潟県知事「新潟県は災害に何度も見舞われている。複合災害で原発を維持できるのか。避難所、救援、道路、水などをどうするのか。同時には出来ない。防災計画・複合災害になると、官邸、役所などバラバラ。日本は原子力をガヴァナンスできる能力を持っているのか。『止める、冷やす、閉じ込める』が原発の安全対策。冷やすことに失敗すると他の二つは出来ないので、大事故につながる。冷却出来るかどうかがポイント。冷却失敗は事故の最大原因。全冷却喪失は起らないということで基準が作られている。国内メディアはオブラートに包まれている。透明度は上がっていない。廃炉作業を国の事業としてやるべし。県民の生命財策の安全確保が第一」。

 

 

澤昭裕二一世紀政策研究所主幹「安全規制はどういう組織がやるのか、実行はどこがするのかがガヴァナンスの問題。百%の安全確保ができないということをどう理解してもらうか。ガヴァナンスの問題を政府の何処がやっているのかをきちんとしないといけない。住民も企業も『安全とは規制基準を決めて規制を守っていればいい』と思っていた。エネルギー政策も同じ。不確かな状況が起った時、電力会社がどう対応できるかのトレーニングをどうするかが大事。石油が三か月入って来なかったら日本はどう対応するかを議論すべし。原子力自由化はリスクとは背中合わせで巨額な投資をして人材をプールしている。火力発電とは違う。原子力利用の為に戦略的に備えておかないといけないことが山ほどある。技術を商業化するには誰がどうやるかである。商業化しないと意味がない。原子力会社にはその体力はない。国営会社を作らねばならない。安全規制を国民にきちんと説明することが大切。リスクとは何なのかを政府も規制委員会も統一すべし。エネルギー政策は国が決めるべし。温暖化問題が原子力への追い風になっていた。CO2問題解決の為に原子力が必要というのはちょっとおかしい。原子力とはセキュリティである。安保のために原子力は必要というロジックを立てるべし。メティアの記者は分かっていても制約がある。個別的断片的なニュースが積み上げられても本当の理解にはならない」。

              〇

小生のメモによる報告です。文責は小生にあります

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千駄木庵日乗八月一日

午前十時より、母が入居している老人ホームの「施設運営懇談会」開催。本社役員挨拶の後、施設長より、運営状況について説明。各担当職員より報告。そして質疑応答が行われた。

最大の問題は職員数の不足である。募集してもなかなか人材が集まらないとのことであった。小生は、一日おきに施設に行って一時間ほど母と過ごしているが、介護士、看護師は相当に忙しく働いている。人の命を預かっていると言ってい良い大変な仕事である。募集をかけても応募してくる人は少ないという。

帰宅後は、原稿執筆、資料の整理など。

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